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モンゴルで生まれ、中国で学んだ後日本に帰化した著者が、文化大革命前後の中国で経験したカルチャーショックについて語っている。

彼の父はモンゴル軍の騎馬兵で、「日本人のように正直に、公平に、規律正しく生きるべきだ」と言って育てた。

彼は文化大革命時代を経験し、モンゴル人も大きな苦しみを経験したと述べている。

彼は高校時代に日本語を学び、日本に関心を持つ家庭で育った。

文革の影響で大学入試が停止された時期も経験し、後に勉強して大学に進学した。

愛国華僑の先生たちや漢人の同級生との触れ合いにより、当時の中国の文化や政治について理解を深めたと述べている。

(要約)

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モンゴルで生まれ、日本に帰化した著者が、文化大革命前後の中国で目の当たりにしたカルチャーショックを赤裸々に綴る(写真:barks/PIXTA) 

 

世界の目から見ると、日本と中国は同じ文化と思われがちだ。しかし歴史をつぶさに見れば、両者のあいだには大きな隔たりがある。モンゴルで生まれて中国で学び、日本に帰化した著者が、文化大革命前後の中国で目の当たりにしたカルチャーショックを赤裸々に綴る。 

※本稿は、楊海英氏著『中国を見破る』を一部抜粋・編集したものです。 

 

■「日本人のように正直に、公平に、規律正しく」 

 

 私の名を初めて目にされる方は、「楊海英とは何者か?」と思われることだろう。 

 

 そこで、私がこれまで見聞きしてきたモンゴル人と中国人の対日感情を、年代を追って紹介することで、私・楊海英(モンゴル名はオーノス・チョクトで、日本名は大野旭)についても知ってもらえればと思う。私の人生を振り返ると、モンゴル、中国、日本の関係性が見えてくる。そう考えるからだ。 

 

 まず私が生まれ育った土地は今、内モンゴル自治区と呼ばれている。かつて蒙疆(もうきよう)やモンゴル自治邦と呼ばれた時代は、実質的には帝国日本の支配下にあった。 

 

 ただ、日本に虐げられているという感覚はなかった。というのも、モンゴル軍の騎馬兵だった父は、幼い私に「日本人のように正直に、公平に、規律正しく生きなければならない」とよく話してくれたからだ。 

 

 私は1964年生まれだが、2年後にあの悪名高き文化大革命がはじまった。中国全土を混乱に陥れたことでのちに「災難」とまで評されるこの文革は10年も続いたのだが、私が12歳のときにようやく終わった。中国と無関係なはずのモンゴル人も故郷が中国に占拠されたがゆえに、大量虐殺の対象とされた時代である。 

 

 高校生になった私が、日本語の勉強をはじめると、家族は皆、よろこんだ。わが家が特別なわけではなかった。南モンゴル(あえてそう呼ばせていただくことにする! )には知日家が多く、傀儡政権を置かれた植民地という意識は薄かったからである。 

 

 私が高校に入学した1980年は、あとで振り返ると特別な年だった。文革が終わって3年がたち、ようやく大学入試制度が再開された、その翌年だったのだ。 

 

 中国の大学は、文革期には入試がなかったと記憶している。大学の機能はほぼストップしていた。そうなると、共産党幹部の子弟だけが入学できることになる。 

 

 

 文革が終わった翌年から、大学は学生を受け入れたのだが、文革中はまともな教育が受けられなかったから、中学・高校で以前の学生ほどは勉強をしていない子供たちが、そのまま大学生になったわけである。 

 

 私は、小学5年のときに文革が終わったので、中学生になってからは猛烈に勉強した。そして、地元の南モンゴルにあるオルドスの高校に進学した。 

 

 高校の先生には、この南モンゴルの地に下放された、もとはフフホト市や北京、それに上海などで暮らしていた知識人たちがいた。下放とは、中国共産党幹部や知識人が農民の生活と仕事を体験することである。文革期には、大学教授などの知識人が農村地域に下放された。「反革命知識人」「反動分子」と糾弾され、紅衛兵や中国人(漢人)農民から暴力を受けた知的エリートたちもいた。 

 

■中国共産党が全人民を率いて、日本軍に勝利した 

 

 私が入学した高校では、元大学教授などが先生だった。中国人(漢人)の先生もいた。「知識青年」という用語があるが、こうした先生は、私からすると「下放知識人」と呼ぶのがしっくりくる。彼らの授業は、今思い出してもレベルが高くておもしろかった。 

 

 当時、歴史の教科書をひらくと〈中国共産党が全人民を率いて、日本軍に勝利した〉と書いてあったように記憶している。しかし先生は「これは全部ウソだよ。僕らは日本軍にいたけど、中国共産党と戦ったことは一度もない。蔣介石の国民党軍と戦っていたのだ。ただし、大学入試に出るから、ウソと承知で暗記しなさい」といっていた。戦争の現場にいた人の話だから、疑いようがない。 

 

 「日本軍は、教科書に書いてある通り、村を襲って殺人や放火、強姦を働いたんですか?」と尋ねると、先生は「そんなわけないよ!  日本軍は規律正しかった」と怒っていた。 

 

 満蒙という用語は聞いたことがあるだろう。中国東北部の満洲と、内蒙古(内モンゴル)を指す。その地に1932年、満洲国が成立するが、満洲国の軍隊には、日本人部隊、モンゴル人部隊、高麗人部隊があって、先生はモンゴル人部隊に所属していた。 

 

 先生は、南京事件の記述も「デタラメだ」と語っていたように思う。教科書を否定する知識人の反骨精神は、10代の私たちには刺激的だった。 

 

 

■漢人にも親日派が 

 

 「日本人はどんな人たちだった?」と尋ねたとき、先生が「礼儀正しく、清潔だった」と答えたことは強く印象に残った。父の言葉は噓ではなかったのだなと子供ながらに確信した。ちなみにこの清潔というのは、衛生的な意味もあるが、洗練されていたという意味でもある。 

 

 私が日本語を教わった朱先生は、仙台の東北帝大(同大の医学専門部の前身が仙台医学専門学校)に留学したというから、のちの「文豪」魯迅の後輩だった。戦時中は満洲国の役人だったそうだ。真夏でもシャツのボタンを首もとの一番上までかけていた。いつも始業の5分前に教室へきて、授業を終えるとさっと帰っていく。パーフェクトな日本語で、父や先生から聞いた日本人のイメージそのままだった。 

 

 私の家族だけでなく、モンゴル人には知日家が多いとは思っていたが、漢人にも親日派がいることは意外だった。先生たちは知識人だから、文革期に紅衛兵と漢人農民などから暴力を受けたようだった。障害が残って足を引きずっている先生もいた。 

 

 下放知識人に教わった私の学年は、40人ほどいて、そのうち1人が浪人しただけで、全員が難関大学に合格した。紅衛兵の暴力で後遺症がある校長先生は、共産党から「全国労働模範」として表彰されていた。当時の中国全土の大学進学率は4%程度だった。 

 

 私たちが卒業した年、知識人の先生たちはみんな大学へ戻ってしまい、大学合格率は翌年から従来のレベルに下がったそうだ。奇跡的なめぐり合わせで、難関大学へ進んだ同級生たちは、現在も各界の要職で活躍している。 

 

 私は日本語を勉強するため、北京第二外国語学院(大学)に進学した。この大学(以下、第二外大と略す)は、政府の外交部(日本でいえば外務省)とつながりが強く、外交官をめざす学生が多かった。周恩来が初代名誉学長で、今の王毅外相は私の6年先輩にあたる。 

 

 第二外大に漢人以外から入学したのは、どうも私が最初だったようだ。入学したての頃は「草原からきた奴って、どいつだ」と先輩たちが、学生寮へ見物にきた。 

 

 アジア・アフリカ語学部で日本語学科の教授は、ほとんどが旧満洲国の知識人か愛国華僑だった。愛国華僑というのは、日本に住んでいた華僑の人たちで、政府の「祖国が新中国になったよ。すごく発展している。あなたたちの力が必要だよ」という誘いに乗って中国に渡った人たちだ。各国語に愛国華僑の先生たちがいたが、2世・3世なので中国語があまりできない人もいた。 

 

 

 旧満洲出身の日本事情を教える先生がいて、講義のたびに「満洲国は素晴らしかった」という話が出た。何がよかったかといえば、白米のご飯が毎日食べられたというのだ。 

 

■「きれいな字を書いてはいけません」 

 

 愛国華僑の先生たちは「自分たちは騙されて中国へきた」とよく話していた。共産党のキャンペーンに乗せられ、新中国をめざしてきたのに文革がはじまったというのだ。「あなたたちはようやく育った知識人なのだから、ちゃんと勉強しなさい。礼儀作法やマナーも身につけなさい」と繰り返し言われた。 

 

 共産党政権になってから、上流階級の礼儀作法は封建社会の文化だと否定されたからだ。むしろ、粗野であることはプロレタリアートの美徳であり、正しい生き方だと教えられた。 

 

 たとえば、毛筆できれいな字を書くことはブルジョアジーの悪い趣味で、汚い字を書くことこそ正しいと習った(耳を疑うかもしれないが、本当のことだ! )。 

 

 私の父は達筆だったから、私は、物心がついた頃から、父に字を習っていた。ところが小学校に入ると、先生から「きれいな字を書いてはいけません」と言われ、私の字がどんどん下手になることを父は嘆いていた。 

 

 第二外大の先生たちもたいてい達筆で、学生たちの字が汚いと嘆いていた。愛国華僑の先生は、女子学生に「下着が見えるような座り方はよしなさい」とよく叱っていた。女性の振る舞いも、すっかり粗野になっていたからだ。粗野こそが労働人民の素朴な美徳だ、と奨励されていた時代だ(ちなみに日本の進歩的知識人たちも、中国人の粗野な行動をもろ手で賛美していた! )。 

 

 南モンゴルの高校で、蒙疆政権を知る先生や、留学経験がある朱先生に教わっていた私は、そうしたことに違和感はなかった。しかし漢人の同級生たちは、これまでと真逆のことを言われたのか、カルチャーショックを受けたようで、礼儀作法やきれいな字を書くことに苦労していた。彼らのほとんどが共産党の高級幹部の子弟なのに、北の草原からきた私のほうが洗練されていたわけだ。 

 

楊 海英 :静岡大学教授 

 

 

 
 

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