( 223729 ) 2024/10/18 17:32:19 1 00 学者が果たすべき役割について解説が行われた。 |
( 223731 ) 2024/10/18 17:32:19 0 00 学者が果たすべき役割について解説する(写真:bee/PIXTA)
学士会YELL主催によるミニプレゼン会にて、関西学院大学・加藤雅俊氏、立命館大学・中原翔氏、東京大学・舟津昌平氏3名による出版記念シンポジウムが行われた。
本記事では、『Z世代化する社会』の著者・舟津昌平氏による講演をベースに、学者が果たすべき役割について解説する。
■「世間知らず」という言葉の中身
「学者」という言葉に、どのようなイメージをお持ちだろうか。
そもそも学者という表現にはいくつかの意味が含まれる。「大学(研究機関)に勤めている人」を指すことが多かろうが、そういう人は多くの場合「研究者」でもあるし、「科学者」なこともあるし、あるいは「大学の先生」でもある。ミスリードな部分があるのを承知のうえで、とりあえず本稿では「学者」と呼んでおきたい(まったく余談だが、大学教員をすべて「教授」と呼ぶのは誤りである。会社員を部長と呼ぶようなものだ)。
さて、学者のイメージとして「世間知らず」を思いついた方もいらっしゃるのではないだろうか。学者は世間知らずなのだ、と。
本稿では、なぜ学者が「世間知らず」と評価されてしまうのかを、学者の立場からひもといていこうと思う。
まず、学者がそうした評価を受けてしまうのは、学者側も加担している部分がある。まったく同質的な人ばかりで構成されるアカデミアのコミュニティにこもりがちで、専門分野以外のことはまったく知らないし知る意味がないというスタンスをとっていても、学者として一定のポジションを築けてしまうことは否定できないからである。ダイバーシティが喧伝される現代において、学者の世界はいまだにホモソーシャルであることが多いのは否めない。
学者側が、その評価を得意に思っていることすらある。「象牙の塔」と言うように、俗世から隔絶された「特別な世界の住人」として振る舞うことをよしとしてきた人々も、過去にはいただろう。
そうした側面があるからか、拙著『Z世代化する社会』にも、こんなレビューが並ぶことがある。「世間知らずの学者が書いたもの」「ゆとり世代だから仕方ない」「東大の先生がこれでは世も末」……。ネットが氾濫する現代では、こういうお叱りを知らない方から受けることも珍しくはない。
ただ、これらに共通しているのは、私の著作の中身への批判というより属性攻撃だということである。属性攻撃は、ネガティブな感情を表現する方法としては「優れて」いる。本来、自らの抱いた感情を明確な言葉で表現し、かつ他者からの同意を得ることは、それなりの訓練を経ないとできない程度には、難しい。ただ、属性攻撃であれば、攻撃性を明確に表現できるうえ、同じように感じた人から同意を得ることも難しくはない。
学者が書いた本が気に食わなかったとき、その中身を丁寧に批判したり、何がおかしくてどうすべきだったのか自分の言葉で紡ぎ、そのうえ同意を得る、という手順をすっ飛ばして、「世間知らず」だの属性攻撃してしまえば、簡単に精神的優位に立てる(ように思い込む)し、一定の賛同も得やすいだろう。
だが属性攻撃の意味は、それだけと言えば、それだけである。「世間知らず」という批判は、ふわっとした悪意を表現できても、議論を発展させるような論点を示すことは決してできてはいない。
もっともネットで過激な発信を行う人々は、他者を傷つけることが目的化している可能性もあるので、目的は果たしているかもしれない。ただ、拙著にひきつけて言っておくと、「Z世代」はそんな構造に確実に触れている。つまり、何か発信をした人が、匿名の人々から属性攻撃を受けるという場面に日々接している。
そういう悲惨な光景をみた若者が、リスクを取って発信しようと思えるだろうか。何か述べればすぐ誰かが属性で叩きに来る社会で、安全圏で引きこもろうとするのは当然である。
「最近の若者は自分を出さない」という懸念をよく聞く。それはおそらく事実で、そして構造的な原因は、周囲の大人がつくっているかもしれない。そんな話が気になるようなら、ぜひ拙著をご一読いただきたい。
■学者は世間知らずに「見える」だけかもしれない
さて、話を戻すと、「学者は世間知らず」という批判が一定程度正しいとしても、学者に期待される役割ゆえに世間知らずに「見える」という側面もあるのではないだろうか。
学者の社会的な役割は、「宮廷道化師」に例えることができる。宮廷道化師という耳慣れない言葉について知りたければ、「TED」というプレゼン動画で解説されているので、詳しくはそちらを見てほしいが、簡潔に説明すると以下のとおりである。
中世ヨーロッパでは、王族がエンターテイナーとして道化師を雇うことがあった。たとえば、ヘンリー2世に仕えた宮廷道化師・ローランドは、王や権力者の前で、ジャンプをしながら口笛とおならを同時にするという(実にくだらない)パフォーマンスを行っていたという記録が残っている。
そして、そうした道化師らは、宮廷の大事な意思決定に影響を及ぼすこともあったそうだ。そんなふざけたやつを意思決定に参加させるのは非常識なようにも思えるが、実は理にかなっている部分もある。
つまり、当時の王様は絶対的な存在であったがゆえに、なかなか外から意見を言いづらい構造にあった。権威を保ち政権を安定させるためには、王様にそうそう恥をかかせてはいけない。そんな状況で、周りの人たちがわかっていても言えないことや今さら言えないことを、宮廷道化師は横槍を入れるように茶化しながらも本質をつく役割を求められていたのである。
ある意味で特権階級とも言えるがすべてが許されたわけではなく、言いすぎによってクビになったり、処刑されることもしばしばあったそうだ。
■批判があるとしても、発言し続ける
私としては、こうした宮廷道化師の存在が、(現代の)学者の存在と重なって見える。つまり、宮廷道化師と学者は、「①事実について深く洞察している」「②空気を読まない」「③身分をわきまえる」という点で共通しているといえるのだ。
学者は、「事実」についてより深く洞察し、解明する人々である。そして多くの人が疑問に思わないところで立ち止まって考察するがゆえに、時に愚鈍に見えるかもしれない。
また、利害関係や私利を無視してでも、意見を述べることが求められる。そして、周りが言えないことや黙っておけばいいのにと思うことに対して、空気を読まずに口に出すがゆえに、世間を知らないように見えるかもしれない。
そして、ここは意見が分かれるかもしれないが、学者はしょせん口を出すだけなのであって、実権も地位ももたない存在である。学者に与えられた地位は絶対的なものではなく、口が達者であるにすぎないことをわきまえていないといけない。でも現代では、そうしたつつましい人は、時に侮られてしかるべき存在に見えるかもしれない。
学者という存在は、そういうものなのである。何かを発信すれば心ないバッシングを受ける社会で、お互いに無関心であることが最適解になりつつある社会で、立場をわきまえつつも、空気を読まずに、本質を突くという役割を学者は果たさなければならない。
それが現代の主権者である国民に対して、学者ができる貢献のひとつの有力な在り方だと考えている。
舟津 昌平 :経営学者、東京大学大学院経済学研究科講師
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