( 230711 ) 2024/11/06 16:16:09 0 00 カフェが混みすぎていて、なかなか座れない街・渋谷。「座るにも金が要る街」になりつつある背景には、様々な理由が複雑に絡み合っていると筆者は指摘します(筆者撮影)
渋谷を歩いている時、「疲れたな」と感じてちょっと一休みできるところを探した。でも、カフェはどこも混んでいてすぐには入れないし、街中にベンチも少ない。あっても、なんだか座りにくい。パルコへ向かう渋谷公園通りには不思議な形状のベンチがあるけれど、ガードレールみたいで座りにくい。実際、そこに腰掛けているのはインバウンド観光客ばかりで……。
【画像9枚】渋谷近辺で約20軒もあるスタバと、排除アートやいじわるベンチの様子
これは筆者の体験だが、似た経験をした人は少なくないだろう。そう、今の渋谷は、気軽に座れるところが少ないのだ。
そんな「疲れる街」に渋谷がなっているのは、都市の構造から見た理由がある。
■渋谷が座りづらい街になったのはなぜ?
結論から言うと、渋谷が座りづらい街になったのには、次の3点があげられるだろう。
① 再開発の進展 ② 防犯意識の高まり ③ 日本人の意識の変化 順に説明していこう。
【画像9枚】「カフェが混みすぎて座れない」「いじわるベンチを使うのは訪日客ばかり」…東京に「座るにも金が要る街」が増えた本質的な理由とは?
① 再開発の進展
渋谷の変化でもっとも顕著なのが、現在進行している「100年に1度」といわれる大規模再開発。東急グループが中心となり渋谷駅周辺を整理し、さまざまな商業施設やビルを建設している。「渋谷っていつ行っても工事してる」と思う人も多いだろうが、それはこの再開発ゆえでもある。
渋谷はもともと若い人々の流行の発信地として有名で、「若者の街」だった。そのこともあって、特にIT分野を中心とするベンチャー企業なども集まってくる。それと共に、外国人観光客にとっても魅力的なエリアになってくる。
今回の再開発では、そうした渋谷に集まるオフィスワーカーやインバウンド観光客のために街が再編されている。新しくできたビルのほとんどにはオフィスが入っているし、インバウンド向けのホテルも建設中だ。
そしてオフィスワーカーやインバウンド観光客は、若者よりも相対的にお金を持っている。だから、彼らをターゲットにして街にすると、必然的に街全体の商品やサービスの値段が上がってくる。現にそこに生まれる商業施設などのテナントの多くは、少しお高めだ。
■ジェントリフィケーションが「座れない」街を作る?
こうした都市の高級化を、ジェントリフィケーションという。元は、1960年代にイギリスの社会学者であるルース・グラスが提唱した言葉だが、現在では日本に限らず、世界の各都市で問題となっている現象だ。
このジェントリフィケーションの結果、渋谷では「気軽に座れる場所」が減少していると、筆者は考えている。それはなぜか?
先ほども書いたが、基本的に渋谷に近年誕生しているビルには、ちょっとお高めのテナントが入っていることも多く、少し休もう、と思ってもそう気軽に入れないことも多い。また、そもそも高層階はオフィスやホテルになっていることも多く、「座る」以前に、金を払わなければ外部の人間は立ち入れないところも多いのである。
ちなみにジェントリフィケーションは、「新しい建物を作るときに発生するジェントリフィケーション」「商業施設を作るときのジェントリフィケーション」「観光地化するときのジェントリフィケーション」の3つに分かれるといわれている(黄幸「ジェントリフィケーション研究の変化と地域的拡大」/2017年)。
渋谷の場合は、この3つのすべてに当てはまっている。再開発により新しい建物が建ち、商業施設ができ、観光地化している。まさにジェントリフィケーションの最前線だといえる。
こうした変化と「座れないこと」は直接に関係するわけではない。しかし、実際に現地でフィールドワークを重ねていると、都市の高級化に伴って、より階層の高いターゲットに向けられた場所が増え、自由に立ち入ることができたり、座ってたむろしたりできる場所が少なくなる現象が、渋谷の各所で発生していることがわかるのだ。
② 防犯意識の高まり
次に、防犯意識の高まりについて。これは、何も悪いことではない。しかし、それに伴って起きている事態が、結果的に私たちを苦しめている。排除アートの問題だ。
渋谷には、いわゆる排除アートやいじわるベンチと呼ばれるものが数多くある。これは、本来なら人が集まる広場に置かれた奇妙なオブジェや、ベンチに付けられた謎の突起物を総称してそう呼ぶ。「アート」と呼ばれてはいるが、実態としては広場に人をたむろさせなかったり、ホームレスがベンチで寝ることを防ぐ役割を持っていて、そこから「排除」という言葉が付けられている。
排除アートについて精力的に発言をしている建築史家の五十嵐太郎は、こうした排除アートの代表例として、渋谷マークシティの東館と西館の間にある「ウェーヴの広場」を挙げている。さらには、本文冒頭で私が見た、渋谷公園通りにある座りにくいベンチもこの1つだろう。これらは若者やホームレスがそこに滞留するのを避けるためのオブジェである。
五十嵐によれば、こうしたオブジェは1990年代後半から街で見られるようになったという。その理由を五十嵐は次のようにまとめる。
1990年代後半から、オウム真理教による地下鉄サリン事件を契機に、日本では他者への不寛容とセキュリティ意識が増大し、監視カメラが普及するのと並行しながら、こうした排除形のアートやベンチが出現した。(『誰のための排除アート? 不寛容と自己責任論』p.21/2022年・岩波書店)
排除アートは、街の治安向上や、人々の防犯意識の高まりを反映しているのだ。
■誰のための排除アートなのか?
特に渋谷に限っていえば、もともと1990年代あたりの渋谷は「ジベタリアン」の聖地ともいわれる街だった。もはや死語だが、ジベタリアンとは「地べたに座る人々」のことで、センター街を中心にそこらじゅうに若者が座ってたむろしていた。
この光景が変わり始めるのが、2003年あたり。当時の石原都政化で、新宿歌舞伎町を中心とした「浄化作戦」が行われ、クリーンな街並みが目指されていく。まさに人々の防犯意識の高まりを反映した政策だった。そして、それと連動する形で排除アートが増えてきた。
もちろん、この流れを否定するわけではない。治安や防犯の観点から考えれば当然の流れだろう。実際、チーマーが街を闊歩し、ジベタリアンが街を占拠し、公園には多くのホームレスがいたかつての渋谷に、治安の悪さを感じていた人は多いはずだ。
しかし問題は、その結果として、本来ベンチや広場が持っていた「座れる場所」「休める場所」の機能が著しく低下してしまっていることである。治安向上の目的が先走りすぎ、そもそも、疲れた時に気軽にベンチに座ったり、広場でたむろすることができなくなっているのだ。
五十嵐は、こうした排除アートの存在について「誰かを排除するベンチではなく、まさに誰もが座りにくいベンチ。そのことを問題にすべきだ」と指摘する(2024年4月10日「SNSで広がった「意地悪ベンチ」論争 排除の対象はホームレス? 酔っぱらい? それとも…」/東京新聞)。
③ 日本人の意識の変化
もう1つの理由は、都市そのものというより私たちの意識の問題だ。日本の街が「座りにくい」のは、日本人の「周りからの目」を気にする性質もあるかもしれない。
今、渋谷の街にあるベンチに座るのは多くがインバウンド観光客だし、彼らはパルコ前にある階段、ガードレールかのような物体などにも腰掛けていて、貪欲に座るところを見つけている。彼らを見ていると、渋谷は決して座る場所がないわけではない。「いじわる」に、鈍感になることができれば、座ることはできるのだ。
ただ、こうした行為は日本人からは不評で、しばしばインバウンドに対する批判として上がるポイントでもある。
公共空間づくりについて語る際によく言われるのは、日本の都市には「広場」と言われるものがなく、広場慣れしていない、ということだ。確かに外国にあるように街の中心地の広場で休む、みたいなことを日本で想像するのは難しい。日本の駅前広場は往々にして閑散としている。その点、外国人のほうが、街中のスペースを使うことに躊躇がない感じがするのは確かだろう。
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