( 231884 ) 2024/11/09 17:36:00 1 00 日本は、生産性の向上に伴って賃金が上昇し、経済成長率が高まるというセオリーとは逆の状況にある。 |
( 231886 ) 2024/11/09 17:36:00 0 00 写真はイメージです Photo:PIXTA
生産性が上がって付加価値が増えれば、賃金が上昇して消費が増加し、結果として経済成長率が高くなるというのが本来のセオリーだが、日本はそのちょうど逆の状態に落ち込んでいる。日本労働組合総連合会の2024年第1回集計における平均賃上げ率は5%を超え、一見喜ばしいことのようにも思えるが、じつは決して無視できない“ある危険”をはらんでいるという――。本稿は、野口悠紀雄『アメリカはなぜ日本より豊かなのか?』(幻冬舎新書)の一部を抜粋・編集したものです。
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● 目の前の大幅な賃金上昇を 手放しでは喜べない
2024年の春闘で、高額回答が相次いだ。日本製鉄は、定昇込みで前年比14.2%の賃上げというきわめて高い回答だった。電機大手や自動車大手でも、満額回答が相次いだ。連合が3月15日に発表した第1回集計では、平均賃上げ率は5.28%になった。
連合の3月4日時点の集計によれば、要求平均は5.85%だった。実際の賃上げ率はここまで届かないにしても、2023年の3.6%を大きく上回る。全産業の賃上げ率見込みは、1月時点の民間予測平均で3.85%だったが、見通しは上方修正され、5%台になるとの見方もある。
このような高率の賃上げと値上げによって、賃金と物価の好循環が始まり、日本経済がこれまでの停滞状態から脱却するという見方が一般的になった。日銀は、賃金と物価の好循環が確認されるので、金融正常化に踏み出すとした。
2024年の春闘での連合の目標である「5%以上」の内訳は、定昇2%、ベアが3%以上だ。
仮にこれが実現でき、かつ消費者物価の上昇率が今後高まるようなことがなければ、少なくとも春闘参加企業については、実質賃金下落の状態から脱却できるだろう。
ただし、物価上昇率が低下するかどうかは分からない。
消費者物価指数の上昇率は、依然として高止まりしている。2024年3月の消費者物価指数(生鮮食品を除く総合)の対前年同月比は2.6%だ。これでは、経済全体の実質賃金が有意にプラスになるのは、難しい。
また、いま生じている賃金上昇を、手放しで喜ぶわけにはいかない。そこには大きな問題がある。それは、生産性上昇との関係だ。
● 賃上げを実施しているのは 販売価格に転嫁できる大企業だけ
本来、賃上げは、労働生産性の上昇によって実現するものだ。これは、資本蓄積や技術進歩によって実現する。
OECDのデータベースにある「労働時間当たり実質GDP(自国通貨建て)」は、労働生産性を表すと解釈できる。これについて、2020年から2022年の年成長率の平均値を見ると、日本の場合は0.5%程度となっている。
そこで、実質賃金上昇率として0.5%が可能であるとすれば、物価上昇率2%を前提として、ベア上昇率2.5%を定常的に維持できるとの見方が可能だ。定昇分は2%程度なので、春闘ベースで言えば、4.5%賃上げが可能だ。
この見方からすれば、5%を超える賃上げは過剰だ。もっとも、「これまでは、実質賃金が低下した。これは、生産された付加価値のうち、不当に大きな部分が企業利益に回された結果だ。それをいま賃金が挽回している」という解釈はありうる。
そのように考えてもなお残る問題は、賃金上昇が販売価格に転嫁されることだ。それは、取引の各段階で次々に販売価格を引き上げ、最終的には消費者物価を引き上げる。
ここには2つの問題がある。第一に、転嫁は企業間の力関係によって大きく左右される。大企業が中小零細企業に対して販売価格を引き上げるのは容易だが、中小零細企業が大企業に対して販売価格の引き上げを要求するのは、難しい。
製造業の場合、大企業の下請けが中小零細企業であるのは、ごく一般的だ。こうした場合に、下請けが賃上げ分を大企業に転嫁するのは、きわめて難しい。
● 賃上げと物価上昇のスパイラルが イギリス経済を破綻寸前に追い込んだ
したがって、中小零細企業における賃上げ率は、大企業に比べて低い水準になる可能性が高い。この問題は以前からあったものだが、賃上げ率が高くなった現状では、さらに大きな問題として浮かび上がる。
こうした状況を避けるために、下請けも含めた企業グループが、一体として賃上げ率を設定している場合もある。しかし、あらゆる中小零細企業が、こうしたネットワークによって救われるとは限らない。
その典型が介護だ。この分野は、以前から低賃金で、人手不足に悩まされている。2024年には介護報酬が引き上げられるが、改定率は1.59%に過ぎない。他業種との差は、いままでより拡大する。
賃上げが販売価格に転嫁されることの第二の問題は、賃上げが結局は消費者の負担になることだ。
それによって実質賃金が下落するので、生活水準を保つために、さらに賃上げが必要になる。こうして、賃金の上昇と物価の上昇の悪循環が生じる。
これは、きわめて恐ろしい病だ。1970年代初期の第1次オイルショックの際、多くの国がこのような状態に陥った。とくに顕著だったのがイギリスだ。労働組合の力が強く、原油価格高騰によって引き起こされた物価上昇が、賃金の上昇を加速して悪循環を引き起こし、イギリス経済は破綻の瀬戸際まで追い込まれた。
このとき、日本は賃上げを抑制することに成功した。それは、労働組合が企業別になっているため、「無理な賃上げを要請すれば、企業の経営が立ちゆかなくなり、労働者も企業とともに沈没してしまう」との考えに、労働組合が賛同したからだ。日本がオイルショックへの対応で世界の優等生になったのは、このためだ。
● 賃上げを価格転嫁するなら 労働生産性は向上しない
ところが、現在の日本では、賃上げが販売価格に転嫁されることが「デフレからの脱却」であるとして、望ましいと考えられている。
政府も価格転嫁が望ましいとし、それを進めるべきだとしている。本来あるべき姿とまるで逆なことが望ましいとされているのだ。
「物価が上昇しない経済では、さまざまな関係が固定化されてしまって、調整がうまくいかない。しかし、物価が全体として上昇していく中では、そうした調整が容易になるから望ましいのだ」と言われる。
しかし実際には、賃金上昇が物価を引き上げ、それがさらに賃金を引き上げるという悪循環に陥る可能性がある。他方で生産性は上昇しないので、経済が成長しない。
最近の日本経済は、実質GDP成長率がほぼゼロ、ないしはマイナスに近い状況になっている。そして物価が上昇しているのだから、これは文字どおりのスタグフレーションだ。つまり、「スタグネーション(不況)であるのに、インフレーションが収まらない」という最悪の事態だ。この状態がさらに悪化する危険がある。
「賃金を引き上げたのだから、リスキリングをして生産性を上げて欲しい」などという発言をする経営者がいるが、順序をまるで逆に捉えており、誠に心もとない。
繰り返すが、本来、賃上げは、生産性の向上によって実現すべきものだ。だから、「リスキリングで能力を高め、それによって生産性が上がれば、それに見合った賃上げをする」と考えなければならない。
● 生産性上昇を伴わない賃上げは スタグフレーションを加速させる
ただし、実際には、賃上げを販売価格に転嫁するなといっても、止めることはできない。その結果、物価はさらに上昇し、実質賃金が下落し、消費が抑制されて、経済成長率が低下するだろう。
こうした過程を抑えるためには、長期金利が上昇して円高が進み、輸入物価が下落し、消費者物価上昇を打ち消すというプロセスが必要だ。
円高になれば企業の利益も縮小するので、結局のところ、望ましいバランスが実現されることになる。この観点からも、金融の正常化を早急に進めることが必要だ。
以上で述べたことを繰り返せば、つぎのとおりだ。
中長期的には、生産性が上昇しないと、賃金は増えない。生産性が上昇して付加価値が増えれば、賃金が上昇して消費が増加し、その結果、経済成長率が高くなる。
日本は、そのちょうど逆の状態に落ち込んでいる。こうした事態をもたらす基本的原因は、付加価値が増加しないことだ。
賃金は、掛け声だけでは上昇しない。実質賃金の継続的な上昇は、生産性を高める地道な努力によってのみ実現する。ただし、これは中長期的な経済政策の課題であり、すぐに効果が現れるといった性質のものではない。
生産性上昇を伴わない賃金の上昇は、スタグフレーションを加速させる危険がある。その意味で、問題をはらむ政策だ。
実質賃金を維持するために短期的な経済政策として実行すべきことは、物価上昇を食い止めることだ。現在の日本での物価上昇は、基本的には円安による。したがって、為替レートを円高に導くことが必要だ。
野口悠紀雄
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