( 232206 ) 2024/11/10 17:02:40 0 00 ※写真はイメージです(写真: OrangeBook / PIXTA)
浪人という選択を取る人が20年前と比べて1/2になっている現在。「浪人してでもこういう大学に行きたい」という人が減っている中で、浪人はどう人を変えるのでしょうか? また、浪人したことによってどんなことが起こるのでしょうか? 自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した経験のある濱井正吾氏が、いろんな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張れた理由などを追求していきます。 今回は1浪で同志社大学商学部と、北海道教育大学教育学部札幌分校(現:札幌校)に合格し、北海道教育大学に進んだ後、現在秀明大学教授、童謡メンタルセラピストとして活動している山西敏博さんにお話を伺いました。
【写真】若かりし頃の山西さんと、現在の山西さん
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■60年の人生に大きく影響する浪人時代
今回お話を伺った山西敏博さんは秀明大学の教授として、言語社会学や英語教育学、認知心理学を教える傍ら、童謡メンタルセラピストとして、全国の被災地に足を運んでいます。
そんな山西さんには、浪人の経験がありました。
目標としていた北海道教育大学札幌分校に合格はしたものの、目指していた小学校教員にはならなかった山西さん。
当時の夢はかなわなかったものの、現在の考え方の根幹や取り組みには浪人時代の経験が役立っているそうです。
今年還暦を迎えた、山西さんの60年の人生には、1年の浪人期間がどのように影響しているのでしょうか。
山西さんは、1964年、北海道札幌市で自動車会社に勤務する父親と電電公社の電話交換手をしていた母親のもとに生まれました。
小学校2年生のときに稚内、中学校1年生の2学期に栗山町、中学3年生で札幌、というように、父親の転勤に合わせて北海道内を転々とする生活を送ります。
小学校時代の成績はよかったものの、教育熱心な母親と、仕事熱心な父親に支えられていた部分も大きかったようです。
「われわれの時代は塾に行くのはずるいという風潮があり、勉強は自分でやるものでした。私は長男で期待されていたこともあり、母親に勉強を教えてもらうこともありましたが、母親は100点をとって当たり前だと考えていたので、80点以下だと『何やってんの!』と怒られました。
父親は朝6時~夜12時まで働いていたのであまり勉強を教えてもらうことはなかったのですが、『さんずいのつく漢字10個書いてごらん?』というように、自分の頭で考えるように教えてもらっていたので、わからないときは辞書を開く癖がつき、漢字が得意になりました」
両親の教育指導の甲斐もあり、成績もよかった山西さんは、その勢いを維持したまま中学校に入ると100点を連発します。2学期に入って栗山町に転校してからは使用する教科書や授業の進度の違いから、「I am TV.」といった英文を書いてしまい、成績が下降するも、NHKラジオで基礎から英語を学び始めて挽回し、成績表の英語・国語の評価は5段階でずっと5、社会・数学・理科も4でした。
勉強に力を入れた結果、高校は進学校である北海道札幌開成高等学校(※現:札幌開成中等教育学校)に進学することができました。
■成績はよかったものの、高校入学時は振るわず
こうして高校に進んだ山西さんでしたが、入ったときの成績は振るわず、1学年450人の中で428番からのスタートでした。
ただ、熱心に勉強をした甲斐あってどんどん順位を上昇させ、高1の最後のほうにはクラスの中で3/45位まで上昇しました。
「1年生から硬式テニスをしていたので、練習が終わって、帰ってきてから勉強をしていました。夜の20時から23時まで毎日3時間、少ない日も確実に2時間はやっていたと思います。それもあって、成績は、12位、9位、6位と上がっていき、最後のテストでは3/45位になりました」
2年生に上がっても勉強時間をより確保し、順位は3位前後をキープ。最終的には学年で23/450番まで順位をあげることができました。
このころには小学校の先生になるという夢を抱いて、北海道教育大学教育学部札幌分校を第1志望にした山西さん。志望校も射程圏内に入ったかと思われましたが、高校3年生に入ってから状況が一変します。
■まさかのスランプに突入
「高3の6月から、大スランプに陥ってしまいました。ノートをきちんと作って勉強しても、頭に入らず抜け落ちてしまいました。当時はもう、大学受験どころか、卒業すら怪しいと思うほど勉強ができなくなりました。最後までそのスランプの原因がわからないまま、共通1次試験を受けたのですが、538/1000点しか取れませんでした」
国立大学も私立大学も、どこを受験しても合格が難しい状態であったため、志望校より少し入りやすい北海道教育大学教育学部釧路分校(現:釧路校)を受けたものの、結局1次試験の点数が尾を引いて落ちてしまいました。
「(遠方で)合格発表を見にいくことができないので、電報を頼んだのですが、『クシロシツゲンニ、ナミタカシ。ゴメンネ。』と書かれて届きました。不合格の通知だったのです」
こうして山西さんは、原因不明のスランプに陥ったまま、現役の受験を終えました。
浪人を決断した山西さんは、札幌予備学院(現・河合塾札幌校)に通って浪人生活を決意します。その理由を聞くと、「大学には絶対行きたかったから」と答えてくれました。
「小学校教員の資格をとりたかったので、大学には行きたいと思っていました。宅浪という選択もあったのですが、自分だけで勉強をするのは(ノウハウがなくて)きつく、予備校に頼ったのです。
札幌予備学院の授業料は当時33万円でした。当時は1年間の国立大学の入学金と、授業料を合わせると36万円くらいの時代だったので、大金です。親にお願いして、銀行を2つ回って自分でお金を下ろし、予備校に通わせてもらいました」
「1万円札の聖徳太子33人を2時間じっくりかけて見て、このお金を無駄にできないと思った」と語る山西さん。親が払ってくれた「大金」の重みを自覚したこともあり、この1年は勉強に打ち込みます。
「辞書で『浪人』ということばを引くと、『何もしないでフラフラしてる者』と載っていました。だからこの1年は、勉強しかしないつもりで、趣味を聞かれたら『勉強です!』と答えられるくらい勉強に打ち込もうと思いました。風呂上がりにドライヤーをしている暇もないと思ったので、3月にはスポーツ刈りにして、予備校にテキストを貰いに行ってからすぐ勉強を開始しました」
4月の北海道大学の入学式の日には、稚内の小学校の同級生で同大学に合格した友人と偶然再会したこともあり、その同級生をライバル視して勉強に打ち込んだ山西さん。
北大では小学校の教員免許は取れないというジレンマはあったものの、そうした「仮想ライバル」もいたために憧れていた北海道大学を第1志望に設定し、札幌予備学院の北大文系科コースに入って1日平均12時間、夏休みには最大14時間の勉強に励みます。
成績は次第に向上し、特に日本史の偏差値は75まで到達。腕試しで受けた10月の全統私大模試では早稲田大学教育学部でC判定、慶応義塾大学の法学部ではなんとA判定を取ることができました。
■同志社大学を併願として考えるように
「私はマーク試験が苦手で、記述が得意でした。日本史と小論文がよくできたので、記述式が多い慶応でいい判定が取れたのだと思います。北海道の人間は北大がトップで、MARCH(明治大、青山学院大、立教大、中央大、法政大)といった難関私立大学群を知っている人はあまりいませんでした。
早慶には漠然とした憧れがあったのですが、慶応は小学校教員になりたい私と学部のミスマッチがあったことと、受験のためだけに片道2万5000円の航空運賃と宿代を使うのは難しいと思い断念しました。
そう残念に思っていたところに、併願として浮かび上がってきたのが同志社大学です。札幌で受験ができましたし、体育の授業で京都御所の周りを使っているという話を聞いて、歴史的な場所を授業で使えるなんて、なんて素晴らしい大学なんだろうと思いました」
しかし、慶応でA判定が取れるほどの成績だった山西さんが、なぜ現役時代、「スランプ」に陥り受験を失敗したのでしょうか。その理由を聞いたところ、「理解がおろそかになったこと」と、「文系物理で沼にはまったこと」を挙げてくれました。
「現役のときは教科書を写しながら、シャープペンシルと赤・青の鉛筆で綺麗にノートを取ることに意識しすぎていました。見やすいのですが、綺麗に書くことに集中してしまい、理解するまでにはいかなかったのです。
また、3年の初めに授業で文系物理を選択したのですが、それがまったくわからなくなって、到底受験で使えるレベルではなくなりました。10月にどうしても無理だと思って、受験科目を生物に変えたのですが、学校で受ける授業自体は変えられなかったので効率が悪かったです」
そうしてスランプを乗り越えた山西さんは、この年の共通1次試験では前年度より170点上昇し、708/1000点を記録。
直前まで北海道大学を受けたいという気持ちはあったものの、昔からの自身の夢を優先して北海道教育大学教育学部札幌分校、同志社大学の商学部、北海学園大学の法学部を受験し、見事、すべての大学に合格しました。
しかし、合格はしたものの、希望したコースには進めなかったそうです。
■同志社と北海道教育大で悩んだ末に…
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