( 233824 ) 2024/12/16 04:21:17 1 00 「伊勢湾口道路」は、伊勢湾を横断して渥美半島と志摩半島を繋ぐ架橋計画で、国土開発と地域振興を目指して提唱された。 |
( 233826 ) 2024/12/16 04:21:17 0 00 「伊勢湾口道路」構想のイメージ(画像:国土地理院)
もしも、ここに橋があったら……?
津軽海峡や豊予海峡など日本各地には、未完の架橋計画が数多くある。いずれの計画も新たな国土開発と地域振興のために熱望されながらも、実現には至っていない。そのなかのひとつに、伊勢湾口に長大な吊り橋を架ける「伊勢湾口道路」というものがある。
愛知県の渥美半島から伊勢湾を横断して三重県の志摩半島とを繋ぐ構想だ。未完の計画のなかでも、津軽海峡や豊予海峡に比べると、あまり注目されることのない計画。もしも、ここに橋があれば、いったいどんな未来が描かれるのか。まず、この架橋がどのような目論みで構想されたかを解説していこう。
伊勢湾口への架橋が最初に提唱されたのは、1964(昭和39)年に政府の要請で実施された国連調査団のアーネスト・ワイズマンによる、いわゆる「ワイズマン報告」である。この報告では
「伊勢湾を環状に走る交通容量の大きな道路が必要であり、そのために渥美半島と鳥羽を結ぶ道路」
が必要だと提唱している。
この構想は、伊勢湾口への架橋とともに、その周辺の陸上部分を環状道路で結ぶことを目指していた。それにより湾岸地域の移動を容易にし、中部地域全体の一体的かつ均衡ある発展を実現しようとしたのである。
太平洋新国土軸を形成する海峡横断プロジェクト(画像:太平洋新国土軸構想推進協議会)
しかし、1964年という早い段階でこの構想が提唱されたものの、その後の具体的な検討は遅々として進まなかった。転機が訪れたのは1987(昭和62)年である。
この年、政府は「第四次全国総合開発計画(四全総)」を策定。この計画では
「多極分散型国土」
という新たな国土開発のコンセプトが打ち出された。これは、東京一極集中という課題を解決するため、全国の主要都市圏を強固な交通ネットワークで結び、それぞれの地域が独自の発展を遂げることを目指すものであった。この四全総において、中部圏で整備すべき重要インフラとして、次の五つの事業が示された。
・中部新国際空港 ・東海環状道路 ・伊勢湾岸道路 ・東海北陸自動車道 ・名古屋環状二号線
また四全総では、人口10万人以上のすべての都市を30年以内に高規格道路で結ぶという具体的な目標も掲げられた。高規格道路とは、全国的な自動車交通網を形成する自動車専用道路を指す。しかし、このなかで伊勢湾口道路は、本州四国連絡橋(本四架橋)に続く国家的プロジェクトとして期待されていたにもかかわらず、実際の四全総では
「検討課題」
という位置づけに留められてしまったのである。
前述のとおり、四全総の最大の目標は、東京への一極集中を是正することであった。そのなかで、中部地方の開発方針は、名古屋市を中核都市として育成することに重点が置かれた。具体的には、名古屋市は
「世界的な産業技術の中枢圏域」
として位置づけられ、その機能強化のためにふたつの大規模プロジェクトが提示された。 ・中部新国際空港の建設 ・リニアモーターカーによる中央新幹線の整備
である。これらは、名古屋市の国際競争力を高めるための長期的な調査事業として計画された。さらに四全総では、
「東京圏の地域構造の改編を進めるとともに、関西圏、名古屋圏等において世界都市機能を分担する」
という方針が示された。
また、四全総では中部圏の地理的な範囲にも大きな変更があった。それまでの第三次全国総合開発計画(三全総)では、名古屋圏は愛知県と三重県の二県で構成されていた。しかし、四全総ではこれに岐阜県を加えた東海三県が名古屋圏として再定義された。
この再定義により、名古屋圏における
「三重県の位置づけ」
は大きく変化した。かつては愛知県と並ぶ名古屋圏の重要な構成要素だった三重県は、岐阜県が加わることで相対的な重要性が低下。さらに、開発の重点が名古屋都市圏の強化に置かれたことで、三重県南部の発展は優先度の低い課題となってしまったのである。
このように、四全総の開発方針は名古屋市の機能強化に重点を置き、その周辺部の開発は二次的な課題として位置づけられた。特に三重県南部を含む伊勢湾沿岸地域の均衡ある発展を目指した伊勢湾口道路の構想は、名古屋市の国際競争力強化という新たな方針の前に、優先順位が下がり、実現への道が閉ざされることとなったのである。
「21世紀国土交通のグランドデザイン」の策定(画像:国土交通省)
伊勢湾口道路がようやく日の目をみたのは、それから約10年後のことである。
1998(平成10)年に策定された「21世紀の国土のグランドデザイン」では「多軸型国土構造」を目指すという方針が示されている。なお、開発中心の国土計画からの変化を示すために、五全総という呼称はあまり用いられなかった。
新たな構想では、日本が太平洋ベルトという一極一軸に集中した結果、そこから外れている地域では地域固有の文化や交流の歴史、豊かな自然が生かされていないこと。一方でベルト内部では居住環境の悪化や交通渋滞の問題などが絶えないこと指摘し、こう記している。
「国民意識及び時代の潮流の大きな転換を踏まえ、21世紀の文明にふさわしい国土づくりを進めていくためには、国土構造形成の流れを太平洋ベルト地帯への一軸集中から東京一極集中へとつながってきたこれまでの方向から明確に転換する必要がある」
「21世紀の国土のグランドデザイン」では、伊勢湾口道路について、より具体的な検討の方向性を示している。
「伊勢湾口道路の構想については、長大橋等に係る技術開発、地域の交流、連携に向けた取組等を踏まえ調査を進めることとし、その進展に応じ、周辺環境への影響、費用対効果、費用負担のあり方等を検討することにより、構想を進める」
これを契機として、伊勢湾口道路は、紀淡海峡・豊予海峡と並ぶ海峡横断プロジェクトとして浮上することになる。新たな構想では、
「三遠伊勢連絡道路」
として、静岡県西遠地域から愛知県渥美半島・伊勢湾口部を経て、三重県志摩半島まで約90kmを結ぶことが検討された。
1999年に発表された書籍『21世紀の国土のグランドデザイン: 地域の自立の促進と美しい国土の創造』(画像:時事通信社)
この新しい「三遠伊勢連絡道路」構想は、従来の計画とは本質的に異なる意義を持つものとなった。
かつての計画は名古屋市を中心とした求心的な発展を目指すものだった。しかし新構想は、静岡・愛知・三重という各地域が持つ固有の文化や自然を活かしながら、それぞれが独自の発展を遂げることを目指している。つまり、名古屋という大都市への一極集中から、
「地域の多様性を活かした分散型の発展」
へと、その理念は大きく転換したのである。この地域を重視した構想への転換により、架橋実現への期待は高まった。「21世紀の国土のグランドデザイン」の決定を前に建設省による調査が予定されていた1995(平成7)年の『中日新聞』では
「伊勢神宮の次の式年遷宮(2013年=平成25年)までの開通が目標という「夢の架け橋」は、実現に向けてゆっくりと動き出す」
とまで記しており、実現に向けた期待値が極めて高かったことを示している。また、この記事では、こんな記述もある。
「伊勢湾口道路は、愛知県が表に出がちな中部地方の大規模プロジェクトの中では珍しく、三重県主導と言っていい。三重県は、故田川亮三前知事が今春の引退前に行った機構改革で、スタッフ五人の「伊勢湾口道路建設推進室」を発足させた。専門の部署設置は、もちろん同県がトップを切ってのこと」
ここには、単なる道路建設という以上の、三重県の地域としての切実な思いが込められていた。それまで三重県は、愛知県、とりわけ名古屋市という圧倒的な中心の影に埋もれ、中部圏の周縁的な立場を余儀なくされてきた。しかし、この伊勢湾口道路は、三重県が
「紀伊半島の玄関口」
として独自の発展を遂げるための起爆剤となる可能性を秘めていた。つまりこの計画は、インフラ整備という枠を超えて、三重県が名古屋圏の「周辺部」という立場から脱却し、独自の
「地域アイデンティティ」
を確立するための象徴的なプロジェクトとしての意味を持っていたのである。
この新しい構想は、ちょうど中部圏全体が大きな発展の機運に包まれていた時期と重なっていた。中部国際空港の建設や2005年の愛知万博を控え、東海三県が経済的な好調さを見せるなか、伊勢湾口への架橋の夢も、より現実味を帯びて広がっていったのである。
地方の祭りイメージ(画像:写真AC)
しかし、こうした期待と熱意も、結果として実を結ぶことはなかった。
1998年に「伊勢湾口道路建設促進東海四県議会議員協議会」が結成され、一時は実現に向けた機運が高まったかに見えた。だが、この協議会も2005(平成17)年には活動を停止。2010年に再び活動再開を試みたものの、長くは続かなかった。
「21世紀の国土のグランドデザイン」で国家的プロジェクトとして言及されながら、実際に行われたのは
・地元での協議会設立 ・祭りでの実現を願う飾り付け ・催し物の開催
といった、大規模インフラ計画でよく見られる表面的な盛り上がりだけであった。結局のところ、この壮大な構想は、多くの未完の地域開発計画と同じ道を辿ることとなったのである。
伊勢湾口道路が実現しなかった表面的な理由としては、1990年代以降の日本経済の長期低迷や、三重県・紀伊半島地域への架橋がもたらす具体的な経済効果が見えにくかったことなどが挙げられる。しかし、最大の理由は、この計画の基盤となった「国土軸」という概念自体が、
「国民の理解や共感を得られなかった」
ことにある。1990年代、日本の国土開発は大きな転換点を迎えていた。それまでの東京~名古屋~大阪を結ぶ太平洋ベルト地帯への一極集中が、地域間格差を生み出してきたという反省があったのである。この反省から生まれたのが「国土軸」という考え方だ。
これは、気候や文化が似通った地域同士を交通網で結び、新たな発展の可能性を作り出そうというものだった。具体的には、
・西日本国土軸(関西から九州) ・北東国土軸(東北から北海道) ・日本海国土軸(新潟から九州) ・太平洋新国土軸(伊勢湾口道路を含む)
という4つの発展軸を作り、日本全体を均衡ある発展に導こうとした。しかし、この構想は国民の理解を得られなかった。なぜなら、「軸を作れば地域が発展する」という考え方があまりに漠然としており、人々は自分たちの暮らしがどうよくなるのか、具体的にイメージできなかったからである。
さらに皮肉なことに、この時期、グローバル化の進展により企業の本社機能や情報産業が東京に集中。国土軸で地方分散を図ろうとした理想とは逆に、東京一極集中はますます強まっていったのである。
分断のイメージ(画像:写真AC)
さらに、1998年の「21世紀の国土のグランドデザイン」は、華々しいスローガンを掲げながらも、具体的な実施戦略を示すことができなかった。予算の裏付けもなく、実現に向けたロードマップも描けないまま、単なる行政的な構想に終わってしまったのである。
実際、この構想の空虚さは、その検討段階から既に表れていた。1991(平成3)年1月17日付朝刊の『朝日新聞』は、「第2国土軸」の位置づけを巡る東西の対立を報じている。西日本と東日本の自治体が、それぞれ自分たちの地域こそが「第2国土軸」にふさわしいと主張し、予算獲得を目指して争っていたのである。 特に興味深いのは、東北地方の事例だ。
「北海道・東北地方知事会議でも、「第2国土軸を東北に」という総論ではまとまったものの、各論になると各県知事の意見には食い違いがみられた。「なんとしても新幹線を函館まで通す」(北村正哉・青森県知事)。「北関東との一体的な開発整備を目指す」(佐藤栄佐久・福島県知事)。「遠野-釜石間への宇宙産業基地誘致にも力を入れたい」(中村直・岩手県知事)。「東北が3つ、4つに分かれてはいけない」(佐々木喜久治・秋田県知事)。宮城県以外は「仙台だけが結局はいい目をみるのでは」という思いもあって何を目指すのか焦点を絞りきれないでいる」
このように、国土軸構想は皮肉な結果を生んだ。本来は地域を結びつけるはずのこの構想が、かえって
「地域間の分断」
を鮮明にしたのである。東北の事例が示すように、表向きは連携を掲げながら、実際には各県が自らの利害を優先し、対立を深める結果となった。
結局のところ、国土軸は国家レベルの抽象的な構想に留まり、具体的な地域振興の青写真を描くことができなかった。それは各地域にとって、予算獲得のための方便でしかなかったのである。伊勢湾口道路の構想は、一時的にこのあいまいな国土軸という言葉とともに、踊ったに過ぎなかったのである。
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