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苦痛に悶えながらも安楽死に反対――難病ALS患者が命を懸けた訴え、生きたいと思える社会を目指して

TBS NEWS DIG Powered by JNN 12/21(土) 18:04 配信

https://news.yahoo.co.jp/articles/3bb28b7c0b05680062c3d935532da3cd182d5c17

 

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ALS患者である岡部宏生さん(66)は、苦痛に耐えながらも安楽死に反対し、生きることの大切さを訴える活動を続けている。

ALSの患者にとっては呼吸器をつけて生きるか、つけずに死を迎えるかという究極の選択が迫られるが、岡部さんは呼吸器をつけ、生きる道を選んだ。

彼は障害者の権利向上を目指し活動し、「生きているだけで価値がある」と訴えている。

同じくALS患者の佐藤裕美さんも岡部さんから生きる力をもらい、共に活動するようになった。

ただし、岡部さんは安楽死の合法化には強く反対し、安易に死を選ぶ人々が増えることを危惧している。

(要約)

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岡部宏生さん 

 

「安楽死で死んでいけるような社会を目指すなら、希望をもてる社会ではありません」  

 

全身の筋肉が徐々に衰えていく難病のALS患者、岡部宏生さん(66)は、苦痛に悶えながらも、命を懸けて猛然と安楽死の反対を訴えている。 

 

岡部宏生さん 

 

イギリス議会で安楽死を認める法案が成立に向けて前進するなど、ヨーロッパでは安楽死を法制化する動きが相次いでいる。日本でも安楽死を認めてほしいという声は後を絶たない。 

 

同じ難病に苦しむ患者や、そうでない人々へも「生きること」を励まし続けてきた岡部さんは今年の夏に体調を崩し、現在、意思表示ができない状態にある。「生きたいと思える社会」を目指し、声を上げ続けた思いに迫る。 

(TBSテレビ 西村匡史) 

 

左から介助者、筆者、岡部さん 

 

「こ」「ん」「に」「ち」「は」。「よ」「う」「こ」「そ」「で」「す」。 

 

声を発することができない岡部さんは、わずかに動く眼球の動きで文字盤を追い、介助者に一文字ずつ読み取ってもらって自身の言葉を伝えている。 

 

2024年1月、私が都内にある岡部さんの自宅を訪ねると、岡部さんは「こんにちは、ようこそです」と迎えてくれた。 

 

ALS(筋萎縮性側索硬化症)は手足やのどなど全身を動かす筋肉が徐々に衰え、発症後、平均3年から5年で自力での呼吸ができなくなる難病だ。ただ、知覚障害や感覚障害は起こりにくく、見たり聞いたりすることはでき、痛みや冷たさなどを感じる感覚も最後まで残る。 

 

岡部さんは人工呼吸器をつけ、24時間体制での介護を必要としている。全身からエネルギーが漲るようなオーラを感じさせ、介助者を通じて発するメッセージは力強い。ユーモアも持ち合わせていて、なんとも魅力的な人柄である。 

 

「私はブラックジョークを言うのが好きなんです。見た目がインパクトありすぎなので、皆さんの緊張をほぐしたくて言っていますが、間違えて相手を泣かせてしまったこともあります」 

 

ALS発症後、呼吸器をつける前の岡部さん 

 

岡部さんは18年前の48歳の時にALSを発症した。大学卒業後、大手建設会社で猛烈サラリーマンとして20年間、働いた後、建築事業コンサルタントの事務所を立ち上げ、軌道に乗ったころのことだった。 

 

人生の絶頂期での難病の発症は、元来、楽天的だった岡部さんをも絶望の淵に追い込んだ。治る見込みはなく、近いうちに自分では何もできなくなる現実を知ることになる。生きがいだった仕事ができなくなること、そして妻に迷惑をかけてしまうことが頭をよぎり、「死んだ方がよい」と思ったという。 

 

「これまでに3回自殺を考えました。この家のベランダから飛び降りようと具体的に実行しようと思いました。しかし、柵を乗り越えられるほどの筋力が残っていませんでした」 

 

 

岡部さんの「戦友」たち 

 

病気の進行とともに自力での呼吸ができなくなるALS患者にとって、人工呼吸器をつけて生きるか、つけずに死を迎えるかの「究極の選択」を迫られるときがくる。 

 

7割の患者が呼吸器をつけずに亡くなるといい、患者同士の間では「ALS患者の自死」と表現することもあるという。岡部さんも当初、呼吸器をつけずに死ぬことを心の中で決めていた。「何もできなくなった自分に、生きる意味はないと思いました」 

 

そんな岡部さんを変えたのが「戦友」たちの存在だ。同じALSを患いながらも当事者団体の運営や政府への陳情など、障害者の権利向上を目指して活動してきた先輩たちがいたのである。 

 

岡部さんは「戦友」の背中を見ることで呼吸器をつけることを決断し、生きる道を選んだ。 

 

「こんなに辛い病気なのに、明るく生きて、頑張っている人たちがいることを知って驚きました。自分もあんなふうに生きてみたいなと思うようになりました」 

 

衆院厚生労働委員会に出席した岡部さん 2016年 

 

「先輩たちが大変な努力をしてくれたように、自分も障害者とその家族の役に立ちたい」 

 

生きる道を選んだ岡部さんは、自らも矢面に立って障害者の権利を守る活動に参加するようになる。重度障害者の介護者育成を進めるNPO法人「境を越えて」を設立した。 

 

また「障害に縁がない人にも、生きることについて考える機会を提供したい」と考え、全国を飛び回って講演活動を行うようになる。さらには病気に悩む患者たちの元を訪ねて、生きることの大切さを話し合う機会も積極的に作るようになった。 

 

新型コロナウイルスが流行する前は、毎月20回以上も外出し、「日本一外出するALS患者」と呼ばれるようになった。 

 

京都地裁の裁判を傍聴する岡部さん 2024年3月 

 

そんな岡部さんに衝撃を与える事件が起きた。2020年、安楽死を望んだALS患者を殺害したとして医師が逮捕された京都ALS患者嘱託殺人事件である。 

 

亡くなった女性は生前SNS上で、日本でも安楽死が認められるべきだと訴えていた。この訴えに同調する声がインターネットなどで次々に上がったのだ。  

 

しかし、岡部さんは安易に死を選択する人が相次ぐかもしれないと、安楽死が認められることに強い危機感を抱いている。 

 

「私も1日のうち4割の時間は死にたいと思うほど辛いです。そんな時に『死なせてあげよう』と言われたら、間違いなく『なら死なせて』と言ってしまうでしょう」 

 

介護していた妻がうつ病になり、その後、亡くなった際には自分を責めたという。 

 

「こんなに介護が大変ならば、家族の介護負担をなくすために安楽死しようという人が必ず出てくると思います」  

 

裁判では岡部さんら多くのALS患者が傍聴を続け、判決後の記者会見では「安楽死の合法化は、安易に死を選択することになりかねない」と全力で反対した。 

 

「安楽死がどんどん広がってしまうことが恐ろしいです。だから私は安楽死に強く反対します」 

 

 

岡部さんと佐藤裕美さん 

 

2024年2月、岡部さんは千葉県の高校で行なわれた特別授業「生きるって何だろう」で、ALSを患う佐藤裕美さん(53)とともに講師として教壇に立った。佐藤さんは岡部さんから生きる力をもらった1人だ。 

 

「安楽死を認めるべきだ」との声が上がる度に、その脅威を肌で感じ、生きづらさを感じていたという佐藤さん。 

 

「安楽に死ねる制度があるのに、あえて使わなかったのだから『使わなかったあなたは苦労して生きることを受け入れなさいよ』と思われてしまいそう。世の中が自分たちの死を願っているような気がするのを強く感じてしまいました」 

 

しかし、岡部さんに「生きているだけで価値がある」と励まされ、自身も前に出てその活動を手伝うようになった。生徒の前で自信をもって、こう語りかけた。 

 

「誰もがその人らしく、無理やり変えられることのないまま、どこまでも幸せを求める世の中になってほしいなと思っています。あなたの生きる、ここにいる一人ひとりの生きるも、かけがえのないとても大事な一つの生きる形だと思います」 

 

岡部さん 

 

同じ難病に苦しむ患者や、そうでない人々へも「生きること」を励まし続けてきた岡部さん。  

 

「誰かに生きてほしいと思われていること、誰かに生きてほしいと思うことで私たちは生きる力や希望を持てるのだと思います。この気持ちを失ったら、この社会はもっと悲惨な出来事が増えるでしょう」  

 

「1日のうち4割の時間は死にたい」と思うことさえある岡部さんだが、「安楽死を選ぶのではなく、生きることを選んでほしい」と訴える。 

 

「私も安楽死を具体的に検討したこともあるし、つい去年も体の辛さで死にたいと思ったことがあります。私たちに限りませんが、人は死にたいなと思うこともあります。安楽死で死んでいけるような社会を目指すなら、希望をもてる社会ではありません」 

 

筆者と岡部さん 

 

2024年夏に体調を崩して入院した岡部さんは10月に退院し、自宅で療養を続けている。快方に向かっているが、現在、意思表示ができない状態にある。  

 

12月、私は岡部さんのもとを訪ねた。入院してから会うのは初めてだったが、元気そうな表情を見てホッとした。以前と変わらぬ圧倒的な存在感のままである。私はその手をとり、これまで通りに話しかけた。  

 

「岡部さん、ゆっくり休んでから、またいっぱいお話しましょうね。全国の皆さんが待ってますよ」  

 

岡部さんは今も、命を懸けて訴え続けている。 

 

 

TBSテレビ 西村匡史 

 

「自分のためにではなく、他人のために命を懸ける人」 

 

こう評すると本人に否定されるかもしれないが、岡部さんほど私心を捨てて、他人のために尽くして生きる人を私は知らない。 

 

その岡部さんに私は一度だけこっぴどく叱られたことがある。岡部さんが自身の活動を引き継いでほしいとバトンを託したALS患者の佐藤裕美さんに対し、私が「病気が進行した場合、呼吸器をつけますか」と質問したからだ。 

 

「あの聞き方は『あなたは生きますか?死を選びますか?』と言ったのと同じです。本当に大事にしなければならないことを大きく逸脱してしまっていると私は思います」。メールの文面からは激しい怒りが伝わってきた。 

 

私は恥ずかしながら、その憤りに触れることで、岡部さんのような弱い立場にある人たちが、安楽死が認められるような社会になることにどれほど脅威を感じているかを痛感した。そして、佐藤さんを傷つけてしまった自分の傲慢さを思い知り、深い自責の念に駆られた。 

 

そんな打ちひしがれている私に対し、岡部さんは数日後「お目にかかってお話したいです」と、救いの手を差し伸べるメールを送ってくれ、自宅での夕食会に招いてくれた。 

 

岡部さんの指示に従って介助者が用意してくれた食事を口にし、酒を酌み交わした。胃ろうから注入したビールでほろ酔いするまで付き合ってくれた気遣いが心に沁み、涙が出そうになった。 

 

岡部さんと筆者 12月11日 

 

岡部さんは仲間たちのために、批判を覚悟の上で安楽死に反対の声を上げた。安楽死を取り上げたTBSテレビ「報道特集」の放送後には「そこまでして生きる価値があるのか」などの批判も寄せられたという。だが、岡部さんは私を1度も責めることはなかった。 

 

私はこれからも安楽死を、そして生きることを考えてもらうための取材を続けていくつもりである。だからこそ岡部さんの存在が絶対に欠かせない。 

 

岡部さんが回復して、また語り合う日がくることを私は心待ちにしている。 

 

※この記事は、TBSテレビとYahoo!ニュースによる共同連携企画です 

 

TBS NEWS DIG Powered by JNN 

 

 

( 237445 )  2024/12/22 02:55:05  
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この文書では、安楽死に関する様々な意見や経験が述べられています。

一部の人は生きることを選択し、強い意志を示す一方、痛みや苦しみを選ぶ選択肢を望む声もあります。

個人の状況や信念、苦しさの度合いによって安楽死を選ぶ人もいれば、生きる道を選ぶ人もいます。

安楽死を認めるべきだと考える人もいれば、選択肢として提供することの重要性を指摘する声もあります。

また、医療関係者からは現実的なケースや認識が示され、安楽死に対する理解が深まる意見もありました。

 

 

個々の人の尊厳や自己決定権を尊重し、安楽死が一つの選択肢として存在することの重要性が強調されています。

一方で選択肢に対する社会的な認識や制度の整備についても論じられており、様々な視点からの意見が寄せられています。

 

 

(まとめ)

( 237447 )  2024/12/22 02:55:06  
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=+=+=+=+= 

 

生きたい人に安楽死を勧めるわけじゃない。 

回復の見込みがなく辛い人に選択の余地があれば良いと思おう。 

身動きできない状態で身体の介護をしてくれる人がいなかったら? 

希望を持てる機材に出会えなかったら? 

先の見えない事態に金銭面での先が見えてしまったら? 

個人をとりまく環境は人それぞれ。色々なパターンがある。 

一概に賛成だ!反対だ!という事ではないと思う。 

「選択できる」というのが大切だ。 

 

▲52425 ▼952 

 

=+=+=+=+= 

 

数年前に脳梗塞にて、右麻痺になりました。 

私は口からチューブや、人に食べさせて貰ったり、排泄に関してオムツ変えて貰わなくてはならなくなったら、死にたいを選ぶ。 

そうまでして、やって貰ってるお年寄り 

見て、こーはなりたくないと、素直に思った。 

ある程度、自分で出来ないなら 

人様にお世話になりっぱなしなら、、 

生きたくない 

 

▲50314 ▼1905 

 

=+=+=+=+= 

 

これは社会の問題ではなく治る見込も無く病気や事故で毎日を耐え難い痛みと苦しみや話す事も歩く事も出来ない状態から解放されたいと願う患者本人の 

選択の問題だと思います。 

痛み苦しみ不自由な身体でも強く生きたいと願う患者の方には患者の望む最善の治療を施してあげる。 

そんな状態の中で死を選択する患者の方には死を迎える時にはせめて安楽な死を迎えさせてあげて欲しいと思います。 

第三者や親族、本人以外の人が判断すべき問題ではないと思います。 

勿論、安楽死を実行する直前まで本人の厳格な意思確認は必要だと思いますが。 

 

▲2272 ▼55 

 

=+=+=+=+= 

 

私は健康な人間です。岡部さんの言った『世の中が死を望んでいる』というのは深く刺さりました。しかし、奥様は介護で鬱になり亡くなられた事も事実で、介護される側はする側を知ることは出来ないとも強く感じました。奥様の心情はわからないですが、介護は今社会問題レベルで深刻です。病気だから安楽死ではなく、ただただ選択肢としての安楽死が必要なんだと思います。そしてこの制度を詰めていくのも岡部さんのような反対の意見であり、死を望んだら与えられる制度が今後の日本には必要なんだと思います。 

 

▲427 ▼20 

 

=+=+=+=+= 

 

安楽死を選べることも大事だと思う。 

私の祖母はALSで亡くなりました。大変だと思います。子ども心にいろいろ考えました。生きる選択も死ぬ選択も両方出来たら良いと単純に思います。それと高性能介護ロボットが出来たらまた選択が増えていいかと。 

私は安楽死という選択はあっても良いと思う。 

 

▲16166 ▼292 

 

=+=+=+=+= 

 

自分は少なくとも 

自仮に自力で生きられなくなった自分の為に何も関係ない人が介護や介助が必要になるなんて 

それって犠牲以外の何物でもないじゃないって思うんです 

 

症状が改善し戻る見込みがあるならまだ頑張れるんですが改善の見込みが無い上自分の意思すら伝えられなくなってしまった場合どうにもならなくなってしまうこと方が辛すぎます 

 

自力生活が出来るまでが人生で自分は結構です。 

その尊重が出来る世の中になって欲しいと自分は切に願っています 

 

▲810 ▼41 

 

=+=+=+=+= 

 

身近な人がまだ話したり笑ったり食べたり出来ているんだけど身体的にだんだん弱っていくのを見るのは辛い。しかしこっちが暗い顔をしてもそんなの望んでないと思うので出来るだけ普通に明るく接するようにしてます。気丈に振る舞ってはいても怖いはず。それでも先々人工呼吸器をつけるかどうかは辛くとも本人が決めるしかないのでその選択の自由はあったほうがいいのかな。つけなかった場合でもだんだん意識が薄れていって最後は苦しさを感じることなくいければいいな。早く症状を改善させられる薬ができますように。 

 

▲1546 ▼65 

 

=+=+=+=+= 

 

当然だが、人にはそれぞれの環境に違いがある。 

そしてその違いにより、選択の違いが発生する。 

安楽死も、その選択の中の1つだ。 

安楽死を選ぶ人、拒否する人。 

それぞれで選択すれば良い。 

それは、この記事の中の呼吸器を付けるか否かと同じだ。 

大切なのは、この選択が可能かどうか、だ。 

もし仮に、呼吸器を付けるかどうかを患者が選択出来なかったとしたら? 

そしてそれが、呼吸器を付ける事を禁止する内容だったら? 

おそらく、この記事の登場人物である岡部さんは大反対するのだろう。 

安楽死も、患者が選択できるようになる。 

それは、岡部さんの呼吸器の話と同様、患者の権利になれば良いと思うのだが。 

 

▲10173 ▼296 

 

=+=+=+=+= 

 

何をもって安楽死がいけないのか? 

自分の命の終わりは自分で決めてはいけないのでしょうか? 

自害をするわけではなく、苦しみながら延命をするのを断つ一つの手段だと思います。 

家族が、死に間際の苦しみを見るよりは安らかに亡くなることを望むと思います。 

私は、弟2人即死と苦しんで亡くなるの経験してます。 

何が正しいのか…分からない場合は自分を尊重すべきだと、自分は生活の中で一つの人生だと思ってます。 

 

▲8387 ▼317 

 

=+=+=+=+= 

 

生きたいと思うことは素晴らしい。その望みを全うしたい人はそうしたらいいと思う。しかし、その自身の望みを全ての人に当てはめるのは、間違いだ。あなたの望みはあなたのもの。そして彼らの望みは彼らのものだ。自分の考えを優先させたいがために彼らから選択肢を奪うことは、正しいことではない。 

それぞれの人に選択肢があっていい。人の数だけそれぞれの思いがある。 

末期癌で亡くなる患者の中には、見るに堪えないほどの苦悶の表情を浮かべて亡くなる方もいる。最期の数週間の地獄の苦しみを回避したいと願う人の望みを、自らの考えで奪ってはいけない。 

「岡部さんは安易に死を選択する人が相次ぐかもしれないと、安楽死が認められることに強い危機感を抱いている。」とあるが、安易に死を選択するわけではない人のことこそ考えてあげてほしい。あなたがあなたの命を決めることは正しい。しかし、あなたが他人の命の選択肢まで奪うのは間違いだ。 

 

▲6513 ▼148 

 

 

=+=+=+=+= 

 

人にはそれぞれ考えがあり身体が動かなくて周りに全てをやってもらってでも生きたい考えもあればそうなった時にそれが耐えられない安楽死を望む考えもあります。 

どちらが正しいとか誤っているとかそんな白黒をつける事ではなく選択肢として選ぶことが出来ることが大事なのではと思う。私は後者であり全く意のままに動かなくなった器である身体を機械に繋がれて生かされることを選ぶことは出来ない。 

ただあくまで健康な今の考えであり実際そうなった時にどう考えるのかは分からないが選択としてあることが大事だと思う。 

 

▲5180 ▼92 

 

=+=+=+=+= 

 

47歳主婦です。夫、中3、中1の子供がいます。もし私がこの病気にかかったら? 

夫がメインに介護をする事になると思います。最初のうちは仕事を少しセーブして介護の時間を捻出するでしょうが、次第に付きっきりになると仕事はできなくなり辞めなければいけなくなります。でも、夫が辞めると収入が途絶えるので貧困まっしぐらになります。そうならない為には子供と分担して介護するしかありません。 

長男は高校受験を控えてるので1番自由に動けるのは中1の次男になります。 

つまり、私が治らない病にかかり24時間介護が必要になった時にほぼ間違いなく子供をヤングケアラーにしてしまうのです。治らない病気の為に。 

なので、私は間違いなく安楽死を選びます。 

安楽死に賛成・反対は自分の意志だけでなく個人の置かれてる状況によっても変わると思うので、選べる事が重要だと思います。 

 

▲5392 ▼157 

 

=+=+=+=+= 

 

岡部さんには強く生きることを選択してほしいと思います。 

ただ、完全に閉じ込めらてしまうと精神が崩壊する可能性もあります。 

時間の概念や上下感覚、自分と外の世界の境界、すべてが曖昧になり自分というものがどこに存在してるのかも分からなくなってしまうかもしれない。 

この恐怖を考えたとき私ならどういう決定をするかわかりません。 

選択肢は用意されていて良いのではないでしょうか。 

その上で生きる選択を選ばれることは大変尊厳ある素晴らしいことと思います。 

 

▲521 ▼34 

 

=+=+=+=+= 

 

「安易に死を選ぶことになりかねない」といっているけど、海外の現行の安楽死制度は安易に利用できない。本人の状態や意思確認など厳密な基準や厳しい審査がある。これまで制度を利用した人々のなかに安易に選んだ人はいないはず。自殺と安楽死を同一に捉えるのは違うと思う。 

不治の難病にかかったら、行く末は不安と恐怖しかない。もし安楽死制度があれば逆にギリギリまで精一杯生きようと思えるかもしれない。 

どうするかは個人の自由であるから選択肢として安楽死制度はあってほしいと個人的には思う。 

 

▲4060 ▼96 

 

=+=+=+=+= 

 

人それぞれで、考え方は変わると思います。生きたい人、それを望まない人。その人の状況(家族を含めて)によって、考え方が変わるのは仕方ないと思ってしまいます。 

確かに、生きる権利は大事で、その道を閉ざすことは許されません!しかしながら、現在の生活状況などを考慮した際に、今後家族に精神的・経済的に負担を掛けたくないと思うことで、安楽死できたらと考える人も一定数いると思います。 

難しい問題ですが、その人の気持ちを尊重できる世の中になってほしいと思います! 

 

▲3685 ▼81 

 

=+=+=+=+= 

 

重たい病気に耐えている人が全員、強靭な精神力を持っている訳ではありません。また、重たい病気には色んな種類と症状があり、耐え難い痛みに四六時中晒されている人もいると聞きます。 

私にはそれらを一括りにして安楽死反対とは言えません。 

また、特に日本では高齢医療が国家財政を逼迫させていますし、氷河期世代が後期高齢者になった時には様々な社会問題によって現役世代の性格が大きく損なわれる可能性があります。孤独死による住宅の清掃も大きな負担です。 

安楽死には、そうした事を解決出来る有用な手段になる可能性があります。 

 

▲3922 ▼232 

 

=+=+=+=+= 

 

この人の場合には金銭的に何とかなる余裕があったので、それはそれで個人の考えとしては良いと思います。 

ただ自分の一方的な考えを他人に押し付けるのは間違いですね。金銭的な状況や、家族への負担など安楽死以外に選択肢が無い場合も多いと思います。その選択を奪ってしまえば・・・文字通り心中などの結末になってしまうかもしれません。安楽死はそれしか選択肢が無い人の最後の選択であり、金銭的やその他の状況でそうるすしか無い人も少なからず居る事から考えるべきじゃないかと。 

小さな子供が生まれたばかりで、育児もしながら旦那さんの介護もし、金銭的に医療費や子供に掛かる費用も捻出しなければならない。親が健在で裕福なら援助も頼めるが、必ずしもそうとは限らない。そう言う人に向かっても「安楽死は反対だ!最後まで看取れ!!」と詰め寄るのか。果たして世間はそれを見てどう思うかですよね。 

 

▲3753 ▼161 

 

=+=+=+=+= 

 

わたしなら、自分で動けなくなってしまったら考えるし、してほしいと思います。 

なぜなら介護する人の人生を奪ってしまうから。 

せめて、彼は奥様と離婚するべきでしたね、夫婦である以上面倒みなくてはならないし、見捨てれば捕まってしまうし。 

かれはいくらの収入を得ているのでしょうか。 

このような状態だと障害手当や難病手当がどれほど貰えるのでしょうか? 

 

▲4461 ▼468 

 

=+=+=+=+= 

 

重度の難病に陥って決して元の状態に戻ることはなく、息だけはしているがその他の行動や身体の世話も自らできず難病と言うだけで国の世話になり家族に迷惑をかけ社会に貢献することもできない身体になることが明白の場合は生前に本人の意志を遺し意思表示ができなくなった時点で死を選択できる制度があってもいいんじゃないか? 

 

▲3191 ▼125 

 

=+=+=+=+= 

 

安楽死制度には賛成の立場です。この方々の意見も大事ですが全てでは無い、日本には同調圧力が強くあり、どのような状態になろうとも死ぬまでは面倒を見るのが美徳とされていますがそれには小さくない経済的負担が伴います。それは悲しい結末を迎えるのも事実。そのような苦しんでる方々にも一つの選択肢を用意するのは決して悪い事ではないし、その結論に異議を唱える事もあってはならないと思います。 

 

▲3150 ▼150 

 

 

=+=+=+=+= 

 

ALS,筋ジス病棟で働いていたことがあります。私は家族に、呼吸器が必要な病気になったら絶対につけないでくれと伝えてあります。要するに自分の命の限界を自分で選ぶということです。ALSに限らず、在宅介護というのは自分以外の家族も巻き込むということです。簡単ではないです。現実をたくさん見てきたし、家族を守りたいので私は安楽死の制度は必要だと思っています。生きるのは義務でしょうか?命の現場に立つと毎日思います。 

 

▲1537 ▼44 

 

=+=+=+=+= 

 

今までに二度、鬱病から自殺未遂したことがあります。 

今は比較的落ち着いていますが、鬱は数年に一度再発するので次もあるだろうし、その時は生き残れないかもしれないと覚悟しています。 

死にたくない人はそれでいいけど、「生きるのが苦痛で仕方ない。死んで楽になりたい」という時や人も否定しないでほしい。 

苦痛と恐怖の自死より、痛みのない安楽死を選びたい。 

自殺者のニュースを見るたび、せめてもっと痛みのない方法を取らせてあげたかったし、自分もそうでありたいと思う。 

すでに「生きるほうが死ぬより素晴らしい」という同調圧力で、それに耐えられない人たちは自分で死んでるんですよ。 

それを無視して「安楽死は良くない」なんて安易な結論をしないでほしい。 

 

▲1605 ▼99 

 

=+=+=+=+= 

 

この方のように生きたい希望があればそれで良いと思う。 

しかしながら妻のお母さんがガンで病院に入ってましたが、精神的なものや肉体的な苦痛が命果てるまで続き、意識がある時には懇願するように「もう楽になりたい」と当時50代でベッドから涙を流しているのを覚えています。 

丁度2歳になる孫を動けない体、声も出せない状況で目だけ大きく見開いて目に焼き付けている姿も印象的でした。 

安楽死も個人の尊厳としてあっても良いのではと私個人は考えます。 

 

▲1166 ▼28 

 

=+=+=+=+= 

 

安楽死を巡る議論は難しい問題だけど、「生きたい」と願いながら苦しむ人々の存在を忘れてはならないね。岡部さんのように限界を超えて生きる力を示す人がいる一方で、同じ病を抱えながら「安楽死」を求める人もいる。このどちらも否定せず、社会全体で議論を深めることが大切だと思う。 

 

ただ、現実には耐え難い苦痛を抱える人がいて、その選択肢として安楽死を導入すべきだという意見も理解できる。誰もが自分の命の終わり方を選べる社会であるべきだし、そうした選択を支える倫理的なルールや適切な制度設計が欠かせない。 

 

安楽死が「希望のない社会」とならないためには、同時に苦しむ人が希望を持てる支援も整備すべきだよね。それが安楽死の導入と共存できるかどうかが、今後の大きな課題になると思う。 

 

▲1226 ▼73 

 

=+=+=+=+= 

 

考え方は普通の人も病人も同じくいろいろ異なる。例えこの患者さんが安楽死を拒否、否定してもそれが正論とは言えない。私は最低限の個人の意思による死は認められるべきだと思う。社会の良し悪しと患者さんの死や痛みとの戦いは関連はないと思うし、社会の成り立ちや考え方が患者にとって良いものになっても、患者は痛みとの戦いや苦しさとの戦いは並大抵のものではないとおもう。だからこそ患者さん本人が望む最低限の希望、死は認められるべきだと思う。 

 

▲988 ▼37 

 

=+=+=+=+= 

 

社会の問題というより、不治の病で、正気を失うほど苦しみながら死ぬくらいなら、穏やかに死にたいと思う方も一定数いらっしゃると思います。命を終わらせるという究極の選択ではありますが、そういった方々に、新たな選択肢を与えることがあってもよいのではないでしょうか? 安楽死というより、尊厳死という表現の方が適切だと私は思います。自殺や、他者による死への誘導や追い込みなどを防ぐ手立ても対策を講じれば防げると思います。 

 

▲781 ▼19 

 

=+=+=+=+= 

 

難病の方の安楽死反対を訴えるメッセージをピックアップして何がしたいの? 

難病でも負けずに生きているところを見せて考えを改めてほしいの? 

まず、私の見解として難病の方の訴えだから感動して考えが変わるなんてことはない。 

安楽死については、受ける側と実行する側がいるわけで、単純に安楽死したいという考えだけで実行すべきではないと考えている。 

ただ、苦痛に耐えられない、回復の見込みがないないなど一定の条件が揃えば、本人に意思を尊重すべきだと思う。 

その場合、安楽死させる医師が命を奪うと考えた場合、簡単に安楽死を認めるのもどうかと思う。 

結果的に難しい問題だと思う。 

 

▲1501 ▼200 

 

=+=+=+=+= 

 

現役の内科医です。ALSの診療経験もあります。>病気の進行とともに自力での呼吸ができなくなるALS患者にとって、 

> 人工呼吸器をつけて生きるか、つけずに死を迎えるかの「究極の選択」を 

> 迫られるときがくる。 

事実ですし、私ならば間違いなく後者を選択します。体がかゆくても手足が動かせず、医療者の対応を待つのは無理です。しかしながら投稿者の意見も一理ありますので、これは尊重いたします。筋萎縮性側索硬化症(ALS)が特殊な疾患ですから、一概に安楽死の議論に広めないことが重要です。今後の議論に期待いたします。 

 

▲587 ▼28 

 

=+=+=+=+= 

 

難しい問題ですが、個人的には安楽死の選択肢は有って欲しいと思います。 

症状の改善の見込みが無く、寝たきりでただ延命処置を受ける状態になったとしたら、治療と呼べるものではなく、本人にとって痛みだけの拷問に近い状態がずっと続くことになる。それよりは自分で終わり方を決められる方がマシだと思います。 

命の扱いは勿論、財産や保険等も絡む問題になるので、遺言書以上に厳格な手続きや認定条件が必要でしょうが、本人の意識が明確な段階でその意思表示を行える選択肢は欲しいと思います。 

自分も全身麻酔による手術を受けた経験はありますが、手術後の痛みがあっても治る見込みがあるからまだ頑張れるのであって、治療の見込みが無く、痛みだけで体の自由も無くなるなら厳しいと思うし、それだったらまだ麻酔後のように眠るように亡くなる方が自分にとって救いになると思います。 

 

▲390 ▼13 

 

=+=+=+=+= 

 

医療従事者として多くの人は命を救うことが何より最優先と教えられたわけですが、個人的には終末期の苦しんでる姿を見ていると、選択肢はあるべきだと思います。緩和ケアも随分進んではいますが、結局メディアなんかだときれいな部分しか映すことが出来ない。認知症末期の人もそう。とてもじゃないけどありのまま映して周知させることなど到底無理。家族にも見せられなかったりする。現場の人間だけがその壮絶なシーンを何度も見る。本当にこれで良かったのか?とつくづく思う。少しでも生き永らえたいと思う気持ちは勿論大事だし、そういう世の中であって欲しいと思うんですが、現実問題それで苦しむ人や家族がいるのも事実。だから近年安楽死を認める国が増えてます。勿論、安易に出来てしまうと自殺幇助が増えたり、命を軽んじる人も出てくる可能性は百も承知です。希望を失った人の為の希望を叶えるのも大事だと思うんです。 

 

▲364 ▼7 

 

 

=+=+=+=+= 

 

私は痒みが強い肌の病気を持っています。私の人生の80%は痒い、の感情です。今は飲み薬で抑えてますが、それでも叫びたいほど痒い日もあります。もしも急性の脳や心臓の病気で意思疎通が出来ない状態で身動きも取れなくなって痒みだけ残ったら、と思うと怖くて仕方ありません。子供達には意思疎通が取れなくなった時点で延命措置を止めて欲しいと話してありますがその時点で安楽死を選べればどんなに安心かと思います。自分の意思で健康な時点から生かして欲しい、楽にして欲しいと選べることは未来に希望を持てることだと思います。 

 

▲316 ▼10 

 

=+=+=+=+= 

 

安楽死それ自体が良い悪いではなくて個々に選択肢がある事が重要なんだと思う。生きたいと思う人は素晴らしいし支援すべきだが、一方でそうでない人もいるわけで、綺麗事で済まないのが現実だと思う。 

ただ安楽死のある国ではそうするようにプレッシャーを掛けられることもあるそうで、そういう意味においても自由な意思・自由な選択と言うのは絶対的に担保されなければいけないとは思う。 

 

▲484 ▼15 

 

=+=+=+=+= 

 

本当に想像絶する辛さの中、頑張って見える姿素晴らしいと思います。 

私も持病があって本当にとても辛かった時、私は弱い人間なので、もし安楽死の選択肢があったら、気持ち的に少し楽だったかなと言う思いはあります。 

どんなに拷問のように、苦しい日々を送っても、絶対死ぬことが許されないと思うと、本当に日々死ぬ事だけ考え辛くなりますが、でももし本当に辛ければ楽になれる方法があるなら、それだけで、頑張れるだけは頑張ろうと前向きになれるきもします。 

 

私は、選択肢がある事は大事だと思っています。 

 

▲300 ▼12 

 

=+=+=+=+= 

 

安楽死を全面禁止しているのが選択の自由を奪っている。苦しんで生きろと強制することなど、許されてはいけない。 

 

同じくらい、他者が安楽死を強制することも、あってはならない。 

 

本人が自由に選べることが必須。 

 

例えば、本人が、こういう状態になったら安楽死を希望すると宣言する。それはマイナンバーカードなどで、厳格に紐づけて国家が意思を管理する。 

 

宣言から10年移行経ったのち、かつ本人の意思が変わらないようなら、安楽死を認める、などで良いと思う。 

 

▲327 ▼15 

 

=+=+=+=+= 

 

ALSになって呼吸器を付ける選択をして生きた場合、意思疎通ができる頃まではいいけど、手足も動かなくなって目も閉じてしまうと体の中に意識が閉じ込められる状態になってしまう。筋肉が動かないから話したりできないし、目の動きや瞬きで文字盤を使って意思表示ができないけど、聴覚や肌の感覚は機能している。そうなるとちょっと体がかゆくなっても自分で体をかけないし、介助してくれる人に「背中がかゆい」と伝えることすらできない。何十分もかゆみが自然と収まるまで耐えるしかない。私は乾燥肌なのでとてもじゃないけど、ちょっとしたかゆみでも耐えられない。また、皆がみんな献身的に介助してくれる家族や恋人がいるとか、入院費や介護費用を賄えるほど経済的に余裕があるわけではない。記事のALSの方たちが「最後まで頑張って生きたい」と思うことは素晴らしいけど、安楽死を選択する他人の権利まで奪わないでほしい。 

 

▲290 ▼8 

 

=+=+=+=+= 

 

私の父は大腸と肝臓の末期がんで亡くなりました。亡くなる1か月前から、誤嚥すると命にかかわるからと食べ物を与えられずに「腹が減った」と呻きながら最期を迎えました。遺体はガリガリで、私はがんではなく餓死だったと思っています。 

本人の意思は確認していないので、父が安楽死を望んだかどうかはわかりませんが、私が同じ状況になったら安楽死が選べる世の中になっていてい欲しいと思います。 

 

▲273 ▼5 

 

=+=+=+=+= 

 

私も最近この安楽死について考えてしまう事があって、数ヶ月後明らかに死が迫っていたり、重度な介護を要する立場になった時、自分の意思で選択出来る権利はあってもいいのではと思っています。 

安楽死がどこか自死的な見方になりがちなんだろうけど、少しでも苦しまないうちに身内と最後の時間を過ごしたり、そして覚悟の元安らかに眠る様に亡くなっていく、いずれ別れが来るのであればその様な選択もあっていいのではと。 

あまり軽率な言葉は発せられないかもしれないけど、あくまでも選択肢はあっていいのではと率直に思いますね。 

 

▲297 ▼14 

 

=+=+=+=+= 

 

賛成する人、反対する人、両方いて当然の話だと思います。 

もし私が、治る見込みがない病気になったり、認知症を発症したら、私は安楽死を望みます。膨大な医療費を使ったり、家族にトイレのお世話になってまで生きたいと思わないので。 

なので、選べる選択肢として、政府には早く認めて欲しいと思います。 

 

▲368 ▼15 

 

=+=+=+=+= 

 

6年前に心筋梗塞で緊急手術をしました。 

その際、術中覚醒を起し人工呼吸器のまま自発呼吸は出来ず、痛みは感じるが身体は全く動かない声も出せない、手術室の準備の音は聞こえるが医療スタッフに伝える術も無い体験をしました。半開きのまま閉じない瞼の隙間から四角いLEDのライトをぼんやり見つめながら、生きたまま身体にメスを入れられる恐怖を味わいました。看護師さんの一人が偶然覚醒に気が付き事無きを得ましたが、あの状態が死ぬまで継続する病と向き合う精神力は、私にはありません。二度と体験したくありませんし、体験すると考え方が変わると思います。 

 

▲133 ▼3 

 

=+=+=+=+= 

 

安楽死に関しては、選択肢の一つとして日本にもあって欲しいと思う。考え方は人それぞれだと思うが、私は自分で自分の事が出来なくなり誰かがいないと生きていけないのであれば、そうなる前に死にたいと思う。私の母が脳出血で倒れ、左半身が麻痺していて、今は歩けなくなってきている。電話が来る度に死にたい死にたいと言っているのを聞くとこっちも辛い。 

だから、安楽死を推奨するのではなく、選択肢の一つに加えて欲しいと思う。 

 

▲173 ▼11 

 

 

=+=+=+=+= 

 

人それぞれの思いや意見があります。 

今はこう思っても、実際に自分が 

当事者になった時、周りに意見されるより 

自身で選択できる社会になって欲しいです。 

 

生きることを選択すれば、周りの方の 

助けは必要不可欠です。 

それは決して当たり前ではなく、考えるべきこともたくさんあります 

 

死を選択すれば、家族などの悲しみも 

考えたり、自分自身のメンタルも計り知れない 

 

生きたいと思える社会と言う、人任せなことではなく、自分で自分の人生を決めたいなと 

それができる社会を目指したいです。 

 

▲122 ▼7 

 

=+=+=+=+= 

 

身内のことを経験として思うことは、1年かけても根治に臨みなく余命に限りあるなかで痛みに耐え続けるだけなら、本人が希望する期日に世を去ることは周囲で見守るものが認めてやってもいいのではないか。ただ患者が認知症や意識がなく、意思の確認ができないなら、従来からある慣習通りでいいと思う。痛みと苦しみを終わらせてほしいと伝えることができずに耐え続けている人もいるでしょうし。法は寛容であって欲しい、それに異を唱える人に私は異を唱えたい。 

 

▲136 ▼5 

 

=+=+=+=+= 

 

難しい問いです。 

命の尊厳、尊さを考えると安楽死は、否定せざるを得ない。ただ、苦しんで死を待つだけの患者に対しても上記のことがいえるかと聞かれたら‥ 

回復の見込みがなく、苦しんで死をむかえるなら安楽死は認めてもよいと個人的には考えます。 

ただ、最終的な決定は、本人の意思。死後の臓器提供のように生前に意思を表明しておく制度も整備しておく必要があります。苦しんででも生に固執するか、回復する見込みがないのなら、安らかに逝くかは本人に任せればよいのかなと。 

ただ、未成年の場合にどうするのかという問題もでてきてしまいますので、慎重に議論をしなくてはいけない事項ですね。 

 

▲90 ▼5 

 

=+=+=+=+= 

 

この状態でいきたくないと思う。わたしはたくさんのALSの患者さんを見てきました。自分がこの病気の診断がついたら自死すると決めてました。 

父がALSになり、オピオイドを使い苦しむことなくいきました。父は寝たきりでいきたくないと言ってました。家族も否定はせず楽にいけるように祈ってました。眠るようになくなりました。 

いまだに生きてたらたくさん話せたのにと思うこともありますが、生きてから生きてたできっと家族が大変だった。正解はわからないけど、こんな酷い病気選択肢があってもいいと思う。 

生きることが全てではない。いくらお金がかからず、介護はしてもらえるとしてもわたしはこの状態ではいきたくない。自分自身の問題です。 

 

▲139 ▼6 

 

=+=+=+=+= 

 

生きたい人は生きればいいと思います。 

本人やその家族も覚悟を決めたなら。 

 

ただ、胃ろうや人工呼吸器をつけ常に機械に生かされているのを、「生きている」と思えない人もいるということ。 

まして、痛みがあるのでは、生きること自体が苦行。 

 

ただ家族としては、すぐ人工呼吸器をつけず死なれてしまうと立ち直れない人もいる。本人も、数年頑張ってやっぱりもういい…となる時が来た時、その人たちに「選択」のひとつとして、制度があればと思った。選択のための猶予も欲しい。 

生きるも死ぬも自分次第、時間をかけて人生の最後を自分で選びたい人もいるのだから。 

 

▲63 ▼3 

 

=+=+=+=+= 

 

自分は拡張型心筋症で人工心臓を付けて約8年間生活をしました。今は移植の道が閉ざされたので、人工心臓を外して生活をしてますが、正直病気が発覚した時は日に日に衰える自分の心臓にこんなに辛いのなら手術なんかうけないで死んだ方が楽だなと思いました。当時は子供も小さかったので人工心臓を付けて頑張ろうと思いましたが、今は色々ありまして移植への道も閉ざされたので残りの人生どう楽しく過ごすかだけ考えて生活してます。 

 

▲105 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

周到に検討された幾つかの条件付きで、安楽死は認められるべきではないかと思いますが、同時に反対だという人がいるのもなるほどと思います。 

 ALSが進行しつつある人が、あくまでも生きることを選ぶのは、非常に大きな勇気が必要で、絶望と背中合わせだろうと思います。それでもこの人はそういう人生を引き受け、その中で何か自分にできることを成し遂げようとしている。勇者です。 

 アウシュヴィッツから生還し新たな心理療法を提唱した精神科医、ヴィクトール・フランクルの言葉、「それでも人生には意味がある」をまさに実践しているようです。また脊椎カリエスで阿鼻叫喚の闘病生活を送りながら、日本の俳句と短歌に革命を起こした正岡子規の奮闘も思わせます。 

 

▲232 ▼56 

 

=+=+=+=+= 

 

人それぞれ思いがあるから、自分の思う通りに生きる事が出来る社会が良いのでは? 

自分は機械に繋がれ、生かせられる状態でいる事は耐えられない。自然のままが一番の理想。でも、この意見に反対の人も多いと思う。その人は生き続ければ良いでしょう。選択出来る事が大切で、それを認め合う事が出来る社会でありたいですね。 

 

▲54 ▼6 

 

=+=+=+=+= 

 

むやみに勧めるものではないけれど、耐え難い苦しみや痛みがあり回復が見込めないのであれば、自分が自分でいられる内に旅立ちたいと願う気持ちは分かる。もちろん回復するのが一番だが現代医療の叡智を以てしても直せない病がある以上、苦肉の策ではあるけれど自分が自分らしくいる為の1つの生き方できっとネガティブなものじゃないと私は思います。 

 

▲77 ▼3 

 

=+=+=+=+= 

 

生死感って人によって異なるから私は安楽死を選択できる方が良いと思う。 

ALSの方を何人かお世話して来ましたが、 

頑なに最後まで呼吸器をつけない選択をした人もいれば、最後の最後でやっぱり呼吸器つけて生きたいと言われた方もいます。 

どちらもありなんです。一つ言えるのは精神科の介入などがあった方がチョイスした後もメンタル面を支えていける足がかりにはなると思います、、。呼吸器つけてからが地獄だったと文字盤で伝えられた時、精神ケアが必要なんだと 

心から思いました。 

 

▲44 ▼2 

 

 

=+=+=+=+= 

 

もしがんになった場合、待ち受けるのは厳しい抗がん剤治療やがん性疼痛で、それは肉体的に非常に大きな痛みを伴うため。果たして自分はそれに耐えられるかどうか全く自信がない。治る見込みもなく、余命何か月というのであれば、もうこれ以上痛い思いはしたくないので、安楽死させて欲しい。自分の意志で生まれたの訳ではないので、死ぬときは自分の意志で決めることができる選択肢を設けて欲しい。 

 

▲0 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

死生観は人それぞれだし、年齢や体験、経験値によって波のように変化すると思います。 

生きる力を失う理由が身体的か精神的なものかで捉え方も様々だと思うけど、命の時間が見えた時に、自由に選択する未来があってもいいのではと考えます。この方は生きる自由を選択されてるだけでそれが間違いでも何でもないようにそれぞれのものだと思う。 

健康だとしても年齢を重ねて、もう見送る人も周りにいなくなるぐらい生きたら生きる意味は私にはなくなるかもなぁ。 

 

▲59 ▼4 

 

=+=+=+=+= 

 

生き方の多様性が注目され尊重される時代になりました。生きていれば人間いつか死がやってきます。個人的な意見としては「生き方の多様性」が認められるならば「生きてきた最期の多様性」が認められても良いのではないかと思います。物事の捉え方や感じ方は人それぞれですし、どんなことが起きても「生きる」ことだけしか選択肢にないのが現状です。「死」の捉え方も人それぞれのはずですし、何が悪いなど他人が言えることではないと思います。「安楽死」も選択肢のひとつとして認めてほしいです。 

 

▲22 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

難しい問題だと思います。その上で、わたしの意見をのべるならば、わたしも安楽死は反対です。 

人それぞれのケースがあるという意見がありますが、安楽死を認める事は自殺を認めるという事です。わたしは、2人の友人を自殺で失いました。とても耐え難い経験です。命の問題は、たとえ自分の命だとしても自分で決断してなくしていいものではないと思うのです。最後の瞬間まで全力で生きられる世界を。それをサポート出来る世界を。そういう決断を良かったと思える生き方を尊いと思います。 

 

▲1 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

この記事の中では、鬱病発症後に自殺された奥様の事が1番ショックでした。 

どれ程苦しみ、その行為に至ったのか。 

もし、自身が死に向かうしかない状態、しかもいずれは24時間介護が必須なら、死の準備を整えられる安楽死は凄く有難い制度に感じるかも知れない。 

より近しい家族の協力は尊いが、何年何十年も続く介護の日々に疲れて壊れてしまうのは辛過ぎる。 

生きる選択も安楽死の選択もどちらも同じように尊重され、受け入れられる世界になって欲しいと切実に願います。 

 

▲52 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

意思疎通ができないから安楽死を望んでる訳では無いと思います。 

激しい痛みがあれば強い薬で和らげなくてはならなくて、そうすると副作用で倦怠感があったりして結局は思うように動けなかったり、そもそも薬が効かない人もいる。 

そこから解放されたくて安楽死を望む人も居ると思います。 

反対ではなくて、選択肢として制度をつくるのもありだと思います。 

 

▲26 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

肉体的に生きる力がある人に対しては自殺ほう助でしかないから認められるべきでなく、生きたいと思う力を取り戻す為のサポートの方が大事と思います。 

意識はあるけど寝たきりになってしまったなら、経済力や将来的な回復の見込み等の諸状況に条件を付した上で、本人が選択できる様になって欲しい。 

意識がなくなって戻る見込みがないなら、意識のあった時の選択を残せる(例えば臓器提供カードみたいな)様にしてそれを尊重して欲しい。意識が戻らないなら、自分にとって生きてる意味はないのだから。 

 

▲30 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

安楽死は希望する人が対象であって無理強いではないはずです。 

難病患者さんご自身が判断する事ですからそれを完全否定するのもどうかと思います。 

私自身、完治の見込みがなく余命宣告され、一人っ子の子供の負担になるなら安楽死を望むかもしれません。自分の世話のために子供の生活を一変させる事は親として耐えがたいですから。 

安楽死ではなく、看護して貰える環境(お金や人の手など)が整う事が一番だとは思いますが、今のご時世では税収確保も難しいでしょうし、働いても働いても税金ばかり取られる状態では子供に負担がかかる事は目に見えていますから。。。 

 

▲105 ▼8 

 

=+=+=+=+= 

 

素晴らしい価値観だとは思います。 

しかし人間は十人十色、多様性の中に安楽死は必要だと私は思います。 

実際私は自分の病気で何人もの人が治療中断を選び亡くなっていったのをみてる。 

苦痛からの解放、尊厳、人格の維持は考慮されるべき。 

私は記憶を無くして、誰が誰か分からなくなり、排泄も食事も出来ず、生きてるだけの状態なら、安楽死をさせて欲しい。 

もちろん生に縋り、千年でも生きたいと言う方も居るだろう。だからこそ多様性の許容は必要だと思う 

 

▲55 ▼9 

 

=+=+=+=+= 

 

全身麻酔をしたことがあり、つらい痛みの手術がその間に終わっていて、「こんな気持ちの良いねむったまま死ねたらいいのに」と思ったことがある。 

また、知人が死の淵を彷徨ったが、人工呼吸器をつけてる間、気持ちが良かった…と。 

親が末期がんで苦しんでるから、私は生きてほしいが、あまり苦しまずに死ねる方法があり、本人が強く希望するなら安楽死をえらべるというのも、必要な人もいるかと思う。 

 

▲29 ▼2 

 

 

=+=+=+=+= 

 

飛び降り自殺や電車への投身自殺等で他人に迷惑をかけるくらいなら、安楽死が選択肢の一つとしてあったらいいのにとは思います。 

それこそ今年、飛び降り自殺に巻き込まれて亡くなった、何の罪もない若者がいたりしましたよね。 

 

頭ごなしに駄目だと言うのではなく、そういう選択を望む声があるということを受け止めるべきではと思います。 

 

▲63 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

これは目を逸らさず、議論すべき問題だと思います。 

この方は反対かもしれませんが、それを望んでいる人も多いのでは無いかと思います。 

 

しかし、奥さんが介護のためにうつ病になり亡くなられたみたいですが、この現実を見てるのになぜその考えになるのが理解できないです。 

死にたくない人は死にたくないを貫けばよいし、生を終えたい人は終えられるよう選択肢があるほうが良いと思います。 

 

▲129 ▼6 

 

=+=+=+=+= 

 

今、安楽死が選択出来るのであればしたい 

と願うのは今はその必要が無い人が大半だと思う 

私ももし家族の負担になり回復が見込まれずただただ死に近づいてくのを待ってるだけなら選択したいと今は思う 

だけどその時になったら目だけでも見えるのであれば子供の成長を見たい 

耳だけでも聞こえるのであれば子供の声を聞きたい 

と願うかも知れない 

 

その時に心強く生きたいと言える社会整備や介護者の負担にならないようなサポート体制の充実、介護職のAI化、介護職の給与面、作業面での負担軽減等が必要だと思う 

 

もちろん安楽死の選択の自由には賛成の立場です 

要介護になった自分の幸せを考えた時に家族の幸せとイコールになるような社会が望ましい 

 

▲25 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

安楽死そのものの是非よりも、選択肢があるということが大切だと思う。知人が治らない病気になって苦痛にもだえる日々にこれ以上はたえられないと、自殺しました。家族ととても苦しんでいました。安楽死があれば違った結果があったかもしれない。選択肢がある事が大切だと思う。安楽死制度は肯定したいです、是非とも一刻も早い法整備を願いたい。でも日本では難しそうですね。 

 

▲85 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

安楽死という方法もありますよということ。 

苦しくてもこのまま一生快癒することなくても生きながらえたい人はそれでいいし、治る見込みもなくこのまま苦しんで最後を迎えるなら早く楽になりたいひともいる。 

自ら選択すればいい。 

ただし意思疎通ができないならと思うならその時の選択肢を残しておいてもいいと思う。 

植物状態でも麻酔を施してから安らかにを基本としてほしい。 

脳にインプットされてもアウトプットできないかもしれない。 

 

苦しんで最後を迎えたのであれば「楽になったね」と言ってあげたい。 

個人的気持ちとして、尿管結石でのたうち回ることがある、やがて石はおちるからいいけどこの状態が一生続くならば僕は痛みから逃れたい。 

 

▲25 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

介護していた妻がうつ病になり、その後、亡くなった 

 

自分なら絶対にそんな目に遭わせたくない。 

うちには中学生の娘が2人います。 

もし、今私が「24時間介護が必要」な状況で妻がそんな亡くなり方をしたとしたら、娘の人生まで潰してしまうことになります。 

それなら、自分の意志で、自分のタイミングで、できるだけ苦しまずに逝かせてもらう選択肢がない現状の方がよっぽど患者や家族の人権を奪っていることになると思います。 

自分が大病を患う前に早く法整備をして選択肢を増やして欲しい、そう願っています。 

 

▲96 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

生きたいからこそ安楽死という選択肢も有る、と個人的には思う。 

例え、全身が病に冒され、常に痛みがあり、薬で誤魔化しながら何年も生きたいか?と聞かれたら、周りの手を借りつつ、辛そうで見ていられない、と思われるよりなら、自身もラクになりたい。周りに掛かる迷惑は最低限で済ませたい。だから、出来る事なら、安楽死を選択すると思う。 

辛い日々を送るより、自身が元気だった頃の笑顔や声を、良い思い出として、周りの人間の記憶の中で生きていたい。 

元気な今、こんな事を言っても綺麗事かもしれないが、どーせ必ず終わりが来るなら、綺麗な思い出として、綺麗なままでスッキリ終わらせたい。カッコ悪い姿を見せたくないとも言えるかな。 

それも、生きると言う選択の一つだと思う。 

 

▲22 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

安易に認められるべきだとは思わないので、しっかり条件を定めるべきだとは思う。ですが健常者であれ障がい者であれ、安楽死を希望するかどうかは人それぞれだと思います。「自分は最期まで生きたい」と思うならそうすれば良いですが、他人に強制することではない。個人が自分の死に際を自分で決められるようになるのも、権利の一つだと思います。 

 

▲11 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

人の誕生には中絶という選択肢が親となる人にあり、子供がこの世に存在しないこともありえる。 

その選択は日本では法律で認められている。 

「産む、産まない」の選択はできるのに、この世から去る時の選択はできないというのはなぜなのかと思う。 

どちらも人の命にかかわることであり、安楽死がダメならば、中絶だってダメなはず。 

しかし中絶が認められているというのは当然それなりの理由があるのだろう。 

中絶と同様に条件付きで安楽死の選択も可能にするべきではないだろうか。 

個別の事情を重く考えて議論を発展させてほしい。 

 

▲45 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

個人の意思を尊重出来る法整備が必要って事です。 

生きたい人は自信を持って生きられ、命を終えたい人は安らかに終えられる法整備が必要ってことだと思う。何方かに偏った考え方は良くない。 

今後、人口減少、少子高齢化が驚くほど加速するし、介護が必要な高齢者も爆発的に増える。現役世代の負担はとんでもないことになり、最早日本には介護する人か、される人しか居ないんじゃないか?みたいな社会も想像出来る。確り相談しその選択が出来る社会が望ましいと思います。 

 

▲11 ▼2 

 

 

=+=+=+=+= 

 

介護していた奥さんがうつ病を発症し亡くなったとある。 

家族の介護をしたことがない人には介護の大変さ辛さは分からないだろう。 

安楽死を望む人は、自分ではどうすることもできない状況で、家族に負担を強いることを一番心配していると思う。 

岡部さんのように自分で生きがいを見つけた人は、介護人に面倒を見てもらえる財力のある人は、生きればいい。 

そうではない人が、言いようのない苦しみから逃れる自由を得られることに反対すべきではないと思う。 

 

▲64 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

自分も、もし自力で呼吸ができなくなったり食事が取れなくなっても、なんらかの生きがいや目標を持てるなら、医学の力を借りながらでも寿命を全うしたい。でも日々襲ってくる心身の耐え難い苦痛があり何かを楽しむような心の余裕も持てなければ、そして回復の望みもなくいつ終わるのかも分からない状態だったら、きっと尊厳ある死を望むだろう。とても難しい問題だけど、何より重要なことは、そういった病に見舞われた方であっても生きようと思えるような世界を目指し医学や社会保障などあらゆる面で社会が発展していくことではないだろうか。そしてそれでも尊厳死を望む場合は厳格な要件を設けた上で、本人の自己決定が尊重されることも必要だと個人的には思う。 

 

▲55 ▼6 

 

=+=+=+=+= 

 

立派な方ですね。生きる望み。わかります。 

私も難病の子供が自分にいたとしたら、自分のすべてを使って延命させると思う。 

この方の難病も多くの親族が人生のすべてを使って延命させているので、この方も生きる力を失わないのでしょう。 

尊厳死の議論は、そこではなくご本人の生きる意思が意思疎通出来ないことや、周りの人が殺人罪に問われる事です。特に65歳以上の人は世界的に見て尊厳死の対象になってきています。 

今、脳梗塞で10年以上の植物人間状態の人がたくさんいて、国の医療負担で見舞いにも誰も来ずに、殺人を避ける為だけに放置されている状態です。 

尊厳死は、このような状態を解決すると期待されてます。 

 

▲71 ▼16 

 

=+=+=+=+= 

 

必死で支えてくれる優しい人たちに囲まれてればいいですが、その望みがないなら、安楽死も選択肢としてあってもいいように思います。 

 

ただ、理想は「どれだけの苦労があっても、喜んで難病患者をサポートする体制を整える」ということです。 

 

そして、生きたいという人に「早く安楽死すればいいのに」と考えないような教育を徹底することだと思います。 

 

▲4 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

私は安楽死には賛成の立場です。家族を二人看取りましたが結局医師から延命措置をするかどうか聞かれて生前の意思もあり断りました。私も家族には延命措置不要と伝えています。逆に本当に近い将来確実に死が迫っていて耐えがたい苦痛があれば、私は延命より安楽死を選びたいと思います。結局家族に延命の有無を確認する、そして不要と答えるならもっと早く自分自身で結果を出したいと思います。 

 

▲16 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

確かに、安楽死は生きたい人は生きていいという制度ではありますが、日本のように、忖度や気を遣うことが多い社会の場合、家族に迷惑をかけたくないと思ってしまうことも考えられます。 

お年寄りからもそういう言葉を聞くことがあります。 

まずは、生きていても家族に迷惑がかかると心配しなくていいような状況の整備が必要、ということなのでしょうね。 

 

▲758 ▼213 

 

=+=+=+=+= 

 

物凄く難しい問題だとは思う。 

もし、毎日毎日一生治ることのない激痛に悩まされたらどうだろうか?耐えられないような激痛を経験していない人が簡単に語れる事ではない。 

私は一度死にかけだ事があり、自分の治療法、自分の生死についてとことん考えた事がある。 

正直、誰でも安楽死を選べるようにとは思わないが、ある程度の基準を元に選択肢はあっても良いと思う。 

 

いつ死ぬか、どのように死ぬか、死を自分で選択する程の病状となるかもしれないが、死に方よりも大事なのは毎日を悔いのない生き方をしていく事だと思う。 

 

▲16 ▼3 

 

=+=+=+=+= 

 

そう思える人は強い人だし、幸せな家庭がある人だと思う。私は沢山の患者さんをみたけれど、この方のようには思えなかったな。動かしたいのに動けないけない部分を、伝えられないけれど懸命に伝えようとして、医療者は懸命に聞こうとするけれど、なかなか本人の思うようにはいかず辛そうでした。ちょっとした角度の違いだったりするので、体の違和感や苦痛が大きいのだと思う。頭だけしっかりしてできないことが増えていく恐怖はあまりにも大きいし、自分なら耐えられないように思う。できたら選択肢がある方が良いと感じます。 

 

▲7 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

ふと死について考えた時に、安楽死を選択できない未来が怖いと思いました。 

人生において様々な決定権が自分にある現代人は「思い通りにならない死」や「苦しみながら生かされる恐怖」があるのではと感じました。 

一昔前の人だと、病気になったら呆気なく亡くなったり、流れに身を任せる人生が当たり前だったり、家族が後はどうにかしてくれるみたいな考えがあったと思いますが、今は全然違うから、安楽死という考え方も出てくるなと。 

 

とにかく何でも「選択できる」というのがこれからの世代の安心感に繋がるのだろうなと感じます。 

 

▲12 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

私も安楽死なんて認めちゃいけないと初めは思ってましたが、歳をとるに連れ、一定の条件では認めてもいいんじゃないかなと思いました。 

難病を患っても、周りのサポートを受けれる人がばかりではない。いつ死ぬか分からず不安なまま生きるよりも、人生を逆算して生きる方法もあるのでは?と思っている派です。 

 

正しい、間違っているはないんでしょうが、 

死ぬと向き合うということは生きると向き合うと言う事と理解しています。 

 

▲12 ▼0 

 

 

=+=+=+=+= 

 

自分のケツを拭く。 

 

それが出来なくなったら、彼岸に渡りたいと思う。 

 

この方はこの方の考えで安楽死を選ばずに長生きしたら良いり 

私は私の考えて、自分の排泄の面倒を見れなくなったら安楽死を選びたいと思う。 

 

大事なのは、各々がよく考えてそれを実行できる社会であることだと思う。 

 

▲106 ▼2 

 

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本来生き物は、狩をしたり食べれなくなったり、呼吸が自力で出来なくなれば死に至るのは自然な事、人間の医療の発達により本来なら生きて行けない状況であれば自然に死を迎えてしまいます、私の親もそれに近い状態ですが、助けて良かったのかあの時自然にと望んでいれば、床ずれや、身体に痛みを耐えながら寝たきりで痛みに耐えながら今に至る親を看病しながら、あの時の選択が正しかったのか考えさせられています、安楽死は、良いとは思いませんが苦しみを抑え自然死延命治療は無しにすることは、許されると思います 

 

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私は、年間数回の心不全をおこし、人工心臓を装着しての退院を選ばずに、強心剤の点滴を着けたままで退院して、在宅医療を受けることにしました。退院のとき、医師から最短3ヶ月最長1年の余命宣告を受けました。今でも心不全の発作を起こしたときの恐怖に怯えています。その苦しさは想像を絶するものです。水のなかに顔をツッコミ息ができなくなる状態になり意識がなくなるのです。安楽死がなぜ出来ないのかいつも思いながら過ごしています。 

 

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呼吸器をつけないと決めて亡くなる患者さんは、どんな最期を迎えるのでしょうか。自分の力で呼吸することが難しくなり、亡くなるまで間、どれだけ苦しい思いをするのでしょうか。安楽死ができれば、患者さんの苦しみを減らせるのではないでしょうか。 

もし自分が当事者だったらと想像すると、自由が奪われた状態で生き続けなければならないことに恐怖を感じると思います。おそらく恐怖に耐えられず、呼吸器はつけない選択をすると思います。呼吸器をつけても本人の意思で安楽死を選択できるようになれば、呼吸器をつける選択をする患者さんも増えるのではないでしょうか。安楽死の選択肢があることで、もう少し生きてみようと思える人もいるのではないかと思います。 

もちろん、生きたい人が生きる権利は最大限守られるべきと思います。うまく共存できるポイントが見つかれば良いと思います。 

 

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私の父も難病で余命は数年です。母が亡くなり生きる希望を見失っていましたが、孫に会うことで少しずつ前向きになっています。呼吸器は付けないと言っていましたが最近は少し悩んでいるようです。おそらく数年前に安楽死の制度があれば利用していたと思います。ですが人生最後まで何が起こるか分かりません。ちょっとした希望や幸せを頼りに日々を過ごしてもいいのではとも感じます。 

 

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確かに生きたいと思える社会は誰にとっても大切です。しかし人間の幸福はそれだけでは解決しない。幸不幸を感じる人間の心にとって身体もまた社会と同じく環境と見なせる。生きたいと思える身体もまた必要である。しかし現実は健康な人々だけではなく力尽きる人々もいる。生まれる前に自分がどんな社会に、どんな身体に生まれるかは分からない。真の宗教に生まれ会わせる事が人間の幸せを決する。それはどんな社会、身体に生まれようとも幸せをもたらす。それも完全な幸せを。 

 

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衝動的な自殺願望に基づく安楽死には明確に反対します。 

しかし、病気が原因で安楽死を望む場合、それは個人の権利として認められるべきだと考えます。特に、病気による苦痛が常に続く拷問のような状態であり、完治が見込めず、余命が長いと宣告された場合、その選択肢があっても良いのではないでしょうか。 

 

実際に身内で同じような状況を経験しましたが、親に対して子が耐え難い苦痛の中で死を懇願する姿を見守ることは、まさに地獄のようでした。 

そのとき、確かに「死」が救済となり得る場合もあるのだと痛感しました。 

 

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安楽死・尊厳死を選びたい人、最後の瞬間まで生きようともがき続けたい人、どちらも尊重されるべきだと思います。しかし実際に植物状態になったら、意思表示も思うにまかせないでしょう。自分の生き方、死に方を意思表示できるうちにすることが大事ですね。 

そして本人の意思がわからない場合、安楽死や尊厳死を望むかどうか、誰が判断するのか? 医師の責任は? 法整備も含めて検討する必要があると思います。 

 

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安楽死の問題は、ALSだけではない。癌や脳溢血なども同様だ。私だけでなく同年代の友人たちも「胃ろう」をしてまで植物人間になって生きていたくはないと言う。問題なのは、安楽死の選択肢があってしかるべきだということである。当然、家族も含めて周りの人間の支えやサービスがあって初めて生きながえることができるのであって、当然ながら本人がそれらを斟酌して判断すれば良い。 

 

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私は癌で肺に転移してしばらくしたら咳と痰が出てきた。咳のしすぎで胸が痛くとんでもなくつらかった。咳をするときに胸を強く抑え覚悟をしながら咳をする。痛みで3秒程動けなくなります。スーパーの買い物中でもアメずっと舐めながら移動。何個も食べるからノンシュガーのアメをたくさん用意して外出。咳が出始めて止まらなくなると一旦スーパーの外に出て落ち着いたらまた店内に戻る。周りにも迷惑だし、本当に酷い毎日でした。抗がん剤始めるまでの間、医療用麻薬を勧められたけど副作用が嫌だったのでやらなかった。抗がん剤始めたら腫瘍が小さくなり咳も止まる。今は安定してます。今後、治療の効果がなくなりこんな咳が続くのなら安楽死望みますよ。 

 

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