( 240894 )  2024/12/28 18:09:43  
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安倍晋三首相は選挙で強かったが、アベノミクスは国富を減らす安売り戦略と言われている。

日本経済が停滞している理由は、失われた30年を総括せずに放置しているからだ。

過去の失敗を反省せず、他人のせいにしている状況が続いており、1980年代のバブルがすべての原因であると指摘されている。

アメリカのテックバブルと異なり、日本は新しいビジネスモデルやシステムを作り出さず、過去のモデルに固執することで失われた30年を迎えてしまった。

(要約)

( 240896 )  2024/12/28 18:09:43  
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選挙にめっぽう強かった故・安倍晋三首相(中央)。だがアベノミクスは筆者に言わせれば「国富を大幅に目減りさせる安売り戦略」だった(写真:ブルームバーグ) 

 

 なぜ、日本経済は停滞を続けているのか。それは、いわゆる「失われた30年」を総括せず、放置しているからだ。 

 

■日本の「失われた30年」はすべて「バブル」のせい 

 

 過去の失敗を分析して原因を明らかにすることをせず、ただ反省をしたふりを続けているからだ。 

 

 21世紀初頭には過去を「失われた10年」と呼び、それが「失われた20年」、そして今では「失われた30年」と名称を変え、分析も改善案も議論せずにいる。 

 

 政治家や官僚、あるいはどこにも存在しない誰か他人のせいにして、日本自虐論で、「やっぱり日本はだめだ」と、したり顔で言うメディア、有識者、政治家、そして近年では経営者たちも加わり、日本に愛想をつかすことが、自分がそのダメな日本とは違う人間、企業である、というアイデンティティの主張となっている。自分だけは違う「日本人」「日本企業」だというわけだ。 

 

 2025年、日本経済に必要なのは、「失われた30年」と彼らが呼ぶ現象の総括だ。誰もやらないのであれば、私がやろう。 

 

 「失われた30年」とはなんだったのか。そして、どうしてそうなったのか。すべては「バブル」のせいなのである。 

 

 ここで言う「バブル」とは、抽象的な「バブル」ではなく、「1980年代の日本経済・日本社会のバブル」という特定の具体的なバブルのことである。これがすべての原因であり、そこからの脱却をせずにむしろ、そのバブルを懐かしみ、復活させようとしてきたことが「失われた30年」をもたらしたのである。 

 

 この話は、20年前に、私が日本経済新聞の「経済教室」にすでに書いていた(「企業統治の新地平」(下、2004年5月20日)。つまり、「失われた30年」になることは、「失われた10年」の時点でわかっていたのである。少し長くなるが、引用してみよう。 

 

■「右肩上がり」が「ガバナンスなしの効率経営」を可能に 

 

 <(1950年代以降)製品市場の競争だけが企業経営を規律付けるメカニズムであった……。日本企業では、株主だけでなくすべてのガバナンスメカニズムが機能していなかった…(中略)。それでは、高度成長など、戦後の日本企業の大成功はどう説明するのか。筆者は、高度成長という「右上がり経済システム」が、ガバナンスなしで企業経営が効率的に行われることを可能にした、と考えている。右上がり経済においては、企業のすべての利害関係者にとって、十分に収益の上がる将来が存在するため、長期的成長を目指すことが望ましい。経営陣も従業員も、企業の成長にすべてをかけた。(中略)株主、債権者である銀行、政府の利害も一致した。私はこれを「右上がりガバナンス」と呼んでいる。 

 

 

 しかし、90年代以降、「右上がり」の前提が成立しなくなり、ガバナンスを放棄していた資金提供者の資金は失われ、企業の資源の有効活用もできなくなった。(中略)経営の転換が図られなかった日本企業は十数年間、部分的なリストラに終始し、活力は衰退した。ガバナンス主体の不在が90年代の衰退をもたらしたのである。> 

 

 学者としての私は、この後の20年間、進歩しなかったが、日本経済も同様に進歩せず、私も日本経済も、続く20年を失い続けた。 

 

 つまり、1990年代に続き、21世紀に入ってからの10年間も、日本経済が停滞したという認識が続いたのは、21世紀の日本経済に対応した新しいシステム、ガバナンスメカニズムという狭い領域だけでなく、日本経済全体の新しいシステムが提示されなかったこと、新しいシステムに移行しようとしなかったことによるのだ。不良債権処理が終わり、1990年代のバブルの後始末がようやく終わった21世紀においても、日本経済は新しいシステムが存在しなかった。ビジネスモデルすら存在しなかった。 

 

 その理由は、第1に、1990年代の不良債権処理に時間がかかりすぎたことであり、第2に、1980年代にバブルに酔ったために、1980年代、調子のよい時代に21世紀を見据えた次の時代への戦略を、企業も政府も経済学者も立てなかったことにある。 

 

 前者の理由は広く共有認識されているが、後者は20年前から筆者は主張し続けているが、誰にも相手にされてこなかった。しかし、重要なのは後者なのである。 

 

 1980年代、ソニー(現ソニーグループ)は何でもできた。しかし、成功に酔い、ソニー礼賛の風潮が世界を席巻した。ソニーが次の手を打てば、誰もがそれについてきて、世界はソニーシステムに支配された可能性もあったのに、ただ自由に好きなことができる状況に酔い、社員はソニーの社員であることに酔い、何もしなかったようにみえた。 

 

 

 21世紀になっても、アップルから「iPodなどを一緒にやってくれないか」などと頼まれたのに、あえて断って、自分たちが1980年代にやっていたことを21世紀にもやろうとして、結局、行く場所は未来どころか、現在にもなく、過去に戻り続け、自滅した。 

 

■アメリカのテックバブルとは、どこが違ったのか 

 

 ソニーをやり玉に挙げたが、日本経済全体がそうだった。「ジャパンアズナンバーワン」と持ち上げられ、自分たちでインフレさせた株価と円高で、株式の時価総額世界ランキングは日本企業が独占し、東京の山手線の内側の土地価格で、アメリカ全土が買えるという試算を出して、喜んでいた。そして、ロックフェラーセンターを馬鹿高い価格で買って喜び、そのあとは何もしなかったのである。 

 

 ここがアメリカの1990年代末から2001年へのテックバブル(ITバブル)と、大きく異なるところである。アメリカのテックバブルはバブル崩壊後、その悪影響で同国経済を停滞させることはなかった。 

 

 これは、一義的には、こちらは株価バブルに限定され、銀行システムが巻き込まれなかったため、経済全体に悪影響が波及しなかったからだと理解されている。そこが、日本の1980年代の不動産バブル、アメリカのサブプライムバブルと異なるところだと教訓として残されている。 

 

 それはそのとおりなのだが、アメリカのテックバブルについて重要なことはもうひとつある。それは、バブルの悪影響と同時に、バブルによるプラスの波及効果もあった、ということだ。 

 

■アメリカのメインエンジンを替えたドットコムバブル 

 

 すなわち、異常な株価バブルになったことで、多くのリソースがITセクターに殺到した。ドットコムバブルと言われるように、ただ社名にドットコムという言葉を付け加えた社名に変更したようなインチキな会社も多くあったが、一方で、アマゾン・ドット・コムもマイクロソフトも、その他多くの企業が、異常な株価による株式報酬にひきつけられて、アメリカ中の優秀な人材がITセクターに殺到したのである。マネーも人も殺到し、ビジネスモデル的なブレイクスルーの実現に成功したのである。 

 

 

 シリコンバレーは進化を遂げ、東海岸のエリートモデルから西海岸の起業家モデルがアメリカのメインエンジンになり替わったのである。東海岸でも、例えばボストンは、コンサルティングの町からテックの町に進化したのである。株価はバブルになり、崩壊したし、アマゾンの株価は100倍にもなり一時は100分の1にもなったが、新しいビジネスモデルと次世代へのプラットフォームが生み出され、残り、次の進化を準備したのである。 

 

 これが、日本の1980年代にはまったくなかった。すなわち、「失われた10年」は、その前の1980年代のバブルの崩壊後処理で生まれた(失われた)のだが、2000年代の次の10年も、1980年代に次のシステム、ビジネスモデルを準備しておかなかった。そのことにより、敗戦処理後も次へ進むということが起きずに失われた(何も生まれなかった)のである。これが「失われた10年」にとどまらず、20年になった理由である。 

 

 では、この間、日本政府は何をしていたのか。国民の支持を受けた小泉純一郎首相のもとで、道路公団民営化、郵政解散、という政治的なトリックを目的とした規制緩和議論というアリバイ作りに終始していた。実際の経済政策は、円安誘導で、安値たたき売り輸出および非正規雇用の柔軟化・拡大により、「派遣」「フリーター」という流行語を生みだし、コストカットによる安売り戦略に終始したのである。規制緩和ではなく、新しい規制のモデルへとモデルチェンジすることが必要だったのである。 

 

 規制とはシステムである。ただ、古いシステムをぶっ壊す、という掛け声だけが勇ましく響き、新しいシステムをそこへ置き換えなかったから、日本経済にはシステムもモデルもなくなってしまったのである。 

 

 仕方なく、過去のモデルにすがるしかなかった。企業も過去のモデルにすがり、1980年代と同じようなものを同じように売るために、経済成長により高くなったコスト削減に終始し、次への設備投資も人的投資も削減し、さらに深刻なことに、次のビジネスモデルを試行錯誤で生み出すのではなく、1980年代の輸出大国、モノづくり大国復帰をスローガンとする政治にすがって延命を図っていたのである。 

 

 

 
 

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