( 241049 )  2024/12/29 04:12:54  
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読売巨人軍のオーナーであった渡辺恒雄氏が、プロ野球界の再編に向けた選手会との話し合いに対し、「たかが選手が」と発言したことが大きな反響を呼んだ。

この発言がマスコミで大きく取り上げられ、球界再編問題に影響を与えた。

1993年に導入されたフリーエージェント制度や、近鉄球団との合併問題など、プロ野球における様々な問題が浮き彫りになり、渡辺氏の突然の退場でオーナー会議は停滞。

2005年のシーズンは再編された形で開幕し、新たな問題も浮上。

さらに、選手会のストライキが決行されるなど、プロ野球界が大きな変革の時期に入っていた。

(要約)

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球界の「ドン」を追い詰めたあの一言はなぜ、発せられたのか(産経新聞社) 

 

 読売新聞のドン、渡辺恒雄氏が亡くなった。98歳。読売新聞社の発表によると、11月末まで定期的に出社し、役員会や社論会議に出席していたが、12月に入って体調を崩し、都内の病院に入院していたといいい、19日午前2時、肺炎のため死去した。 

 

 新聞人でありながら政界に強い影響力を持ち、読売新聞の社論をけん引してきたことは改めて説明するまでもない。スポーツ界にも、プロ野球界の「盟主」を自任する読売巨人軍のトップとして強力な個性で影響力を発揮してきた。しかし、それだけの偉大な存在でありながら、スポーツマスコミに発した「ひと言」で、世論の猛反発を受けることになった。 

 

 プロ野球界の再編に向けた大きなうねりが渦巻いていた今から20年前の2004年8月、球団統合による球団数の削減に反対したプロ野球選手会代表がオーナー側に話し合いを求めたことに対し、「たかが選手が」と拒絶した言葉が独り歩きした。 

 

 当時筆者は運動部の取材現場を離れ、スポーツ担当論説委員としてプロ野球界の外側から球界再編騒動を見守っていた。渡辺恒雄を略した「ナベツネ」の剛腕ぶりは運動部記者時代から良く知っている。巨人軍のオーナーとして球界再編問題でも辣腕を発揮するのだろうと思っていた矢先のことだ。 

 

 この発言がマスコミで大きく取り上げられたことで、球界再編問題は大きく流れが変わっていく。歴史的な「失言」はどんな状況下で生まれたのか。時代を少し遡って背景を振り返ってみたい。 

 

 筆者が運動部記者としてプロ野球の取材を始めたのは1980年。当時、同じプロ球団でありながらセ・リーグとパ・リーグとでは集客力に大きな差があり、収益面でもリーグ間に大きな隔たりがあった。 

 

 格差を生んでいたのが「テレビマネー」だ。当時、テレビは地上波放送しかなく、プロ野球中継は巨人戦が中心で、パ・リーグの試合がテレビ放映されるのはまれだった。 

 

 巨人以外のセ5球団は年間13試合の巨人戦の放映権料(1試合約1億円)を貴重な収益源に何とか黒字を計上している状態だった。セ・リーグ内は「1強5弱」、球界全体は「1強11弱」の状態が続いていた。 

 

 巨人戦がもたらすテレビマネーのおこぼれが欲しいパ6球団は、公式戦でセ・パのチームが対戦する「交流戦」の実現をセ側に要望するが、セ5球団は巨人戦を減らしたくないから完全拒否。両リーグの主張はいつまでたっても平行線をたどっていた。 

 

 こうした中、巨人の「やりたい放題」が続いた。象徴的なのが1973年の「江川騒動」だ。球界の憲法ともいえる野球協約上の不備を突いてドラフト会議前日に、前年のドラフトでクラウンライター(後の西武ライオンズ)が1位指名していた江川卓投手と単独契約。この契約が連盟から無効と判定されると巨人はドラフト会議をボイコット。事態を収拾したい巨人寄りのコミッショナーは、阪神が交渉権を獲得した江川と、巨人のエース小林繁投手との異例のトレードを承認して巨人の江川獲得は成功する。 

 

 

 93年に導入が決まったフリーエージェント制度も、本家の米大リーグでは「選手の権利」として選手が球団側と戦った末に制度を確立させたのに引き換え、日本では他球団の主力選手を獲得したい巨人が積極的に導入に動いた結果だ。12球団の戦力均衡や共存共栄という意識の乏しい巨人は、自分の都合がいいように球界のルールを捻じ曲げ制度を変えてきた。 

 

 巨人戦で潤うセ・リーグに引き換え、経営規模が大きい親会社からの支援で球団を維持し続けるパ・リーグという構図が限界を迎えたのが04年だった。 

 

 2月1日のキャンプイン直前、年間約40億円という大幅赤字に苦しむ近鉄球団は起死回生を狙って破天荒なプランを公表した。チームを近鉄が保有したまま、「近鉄」という球団名を他の企業に売却するという、「ネーミングライツ」ビジネスで苦境を乗り越えようとした。 

 

 ところが直後に開かれたオーナー会議で賛同を得られなかった。反対の急先鋒となったのが96年に巨人のオーナーとなった渡辺だった。「協約上認められない」と近鉄の提案を一蹴。公表からわずか6日間で近鉄の再生プランはとん挫してしまった。 

 

 2府3県にまたがり営業距離は総延長500キロを超し、JRを除けば日本一の規模を誇る近鉄だが、97年に新たな本拠地とした大阪ドームの観客動員が激減し、年間11億円の球場使用料が重くのしかかっていた。加えてグループ企業がバブル期に投資したゴルフ場開発で巨額の負債を抱えるなど苦境が続いていた。 

 

 「命名権売却」に失敗した近鉄が最後の手段として打ち出したのがオリックス球団との合併だった。同年6月13日、日本経済新聞は1面で「近鉄・オリックス合併へ」と両球団の合併計画を特報した。表向きは「合併」だが、実際は近鉄本社が「お荷物」の球団をオリックスに売り渡した「球団売却」である。 

 

 日曜日の朝に発覚した大ニュース。近鉄本社の山口昌紀社長は午後2時から会見し「鉄道という公益事業の性格上、回収の見込みがない経営資源を野球に投入していくのは無理だと判断した」と報道を認めた。 

 

 4日後の17日に開かれたパ・リーグの臨時理事会。議題は当然、両球団の合併だった。 

 

 「5球団で果たしてリーグ戦を維持できるのか」など合併に伴い、様々な問題が出てくることが予想されたが、理事会はすんなり合併を承認。合併球団の本拠地を神戸、大阪のダブルフランチャイズとすることが決まった。簡単に合併が認められたのは、別の思惑が裏で動いていることを予感させた。 

 

 

 球団の譲渡など重要事項はオーナー会議の承認が必要になる。注目のオーナー会議は7月7日に開かれた。議長は渡辺である。そこでは「近鉄とオリックスの合併」は既定路線に過ぎず、新たな衝撃的発言が飛び出す。26年ぶりにオーナー会議に出席した西武の堤義明オーナーが「パ・リーグでもう一つの合併話が進んでいる」と明かした。 

 

 2組目の合併が実現したらパ・リーグは4球団となり、リーグ戦の運営はより困難になる。そこでセ・リーグの6球団と一緒になり、10球団の1リーグに再現しようという狙いが透けて見えた。 

 

 1950年に2リーグ制が誕生してから半世紀余。日本のプロ野球が再び1リーグ制に戻ることになるのか。近鉄とオリックスの合併は、球界全体の再編へと突き進む可能性が出てきた。 

 

 まさにそんなタイミングで渡辺の「失言」が飛び出す。 

 

 オーナー会議から一夜明けた7月8日のことである。渡辺自身がいきさつを『文芸春秋』(2004年12月号)に「独占手記〝世紀の悪者〟にも言わせてくれ――プロ野球ストの争点を衝く」に書いているので引用する。 

 

 <2004年7月8日夜、私は都内のパレスホテルのレストランで、読売の役員と一緒にかなり飲んでから、ホテル玄関で、恒例のことだが十数人の記者団に囲まれた。そこで「たかが選手」失言が飛び出したのである。その夜のパレスホテル玄関前での状況を、記者団の録音や取材記録に従って再現すると、次のようになる。 

 

 日刊スポーツ・S記者「明日、選手会と代表レベルの意見交換会があるんですけれども、古田選手会長が代表レベルだと話にならないんで、できれば、オーナー陣といずれ会いたいと(言っている)」 

 

 渡辺「無礼なことをいうな。分をわきまえないといかんよ。たかが選手が。たかが選手だって立派な選手もいるけどね。オーナーとね、対等に話をする協約上の根拠は一つもない」> 

 

 渡辺自身が「失言」と書いているから、まずいことをいってしまったという思いは発言直後に感じていたのだろう。あわてて「たかが選手だって立派な選手もいる」とフォローしても後の祭り。民放テレビ1社が一部始終を撮影しており、弁明の余地もなかった。 

 

 渡辺に質問をぶつけた日刊スポーツの巨人担当、沢畠功二は30行ほどの記事を書いた。「渡辺オーナー暴言」の見出しのついた記事は翌日の5面に掲載された。一般紙を含め反響は大きく、「たかが選手が」の発言が独り歩きし、それまでファン不在で進められた球界再編問題の推移に大きな影響を及ぼしていく。 

 

 筆者は翌9日付の毎日新聞社説で「『よらば巨人』に明日はあるか」という見出しで、選手やファンを置き去りにして球界の縮小に突き進むオーナーたちに苦言を呈した。「巨大な影響力を持つ金持ち球団が自分の都合のいいように制度を改変し、他球団のスター選手をかき集めながら思ったような成績が残せず、テレビ視聴率の低迷を招いている。もう一度、球界全体の繁栄という視点から選手やファンの納得する制度改革を進めるべきではないか」というのが趣旨である。 

 

 「たかが選手が」の失言は、普段プロ野球に関心を持たない人にも球界再編問題を広める効果があった。労働組合・日本プロ野球選手会(ヤクルト・古田敦也会長)は98%の高率でスト権を確立、伝家の宝刀であるストライキの行使を真剣に検討するようになった。 

 

 

 そんなさなかに巨人の不祥事が明らかになった。秋のドラフト会議で獲得を目指していた明治大学の一場靖弘投手に総額200万円の食事代や小遣いを「栄養費」などとして手渡していたことが明るみに出た。世の中はお盆休みに入った8月13日のことだ。 

 

 ドラフト候補にどんな便宜を図っていたか、球団オーナーが細かく承知していたかどうかはわからないが、軽井沢でゴルフをしていた渡辺は即座に巨人としての対応を打ち出す。まず、問題となった一場投手の獲得を断念したうえで球団の会長、社長、代表の3人を解任。さらに自身もオーナーを辞すると発表した。渡辺は前出の手記の中で、こう説明している。 

 

 <私はクラブ片手に芝生を歩きながら、一場投手獲得の断念と、関係者を処分するという孤独な決断をした。仮借なく不正を追及してきた新聞の主筆として、自社の醜聞となったこの「栄養費」なるものは、金銭の多寡ではなく、責任者処分以外に思案の余地はなかった> 

 

 アマチュア選手への200万円の不正支出というルール違反を、オーナーを含む球団トップの総退陣に結びつけるのは、いささかつり合いに欠ける印象はぬぐえない。筆者には、「たかが」発言で自分に向いた世論の逆風から一時避難するため、一場問題を利用したようにも思われた。 

 

 オーナー会議議長として、球界再編の動きを主導する立場だった渡辺の突然の退場で、オーナー会議は実質的な思考停止状態に陥る。堤の言う「もう一つの合併」も進展しないまま9月を迎え、9月8日に開かれたオーナー会議は近鉄・オリックスの合併を正式承認し、05年のシーズンを「セ6球団、パ5球団」で開幕することを決めた。その間に新興IT企業のライブドア、楽天の2社が球界参入に名乗りを上げていた。 

 

 9月10日午後5時を最終期限にスト突入を通告していた選手会は、11、12日に予定していた第1波ストこそ直前に回避したが、新たな進展がなかったため18、19日にストを決行。ベナントレース大詰めを迎えた公式戦が中止に追い込まれた。日本のプロ野球史上初めてのことだった。 

 

 

 
 

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