( 241346 ) 2024/12/29 17:32:59 0 00 1963年発売の2代目スカイライン(写真:日産自動車)
自動車メーカーが、その存在意義を明確にするには、“競合が存在した”という例も多いのではないだろうか? 日産自動車(以下、日産)も、トヨタ自動車(以下、トヨタ)という相手があればこそ、名車が生まれたし、また独自性(相手が持っていない車種の存在)も打ち出せたのではないだろうか。
そうしたなか、「技術の日産」の言葉が特徴のひとつといえるかもしれない。それに対するのは、「販売のトヨタ」である。
【写真】「技術の日産」を示した、歴史的名車たちの姿を見る(12枚)
■日産を選ぶ価値、性能という魅力
トヨタはかつて、トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売にわかれて事業展開していた。トヨタ自動車販売は、トヨタ自動車工業が作ったクルマを売るだけの事業だから、宣伝を含め顧客へのサービスの充実に努めた。販売店へ行けば、懇切丁寧に対応する様子は今日も続き、来店した消費者を心地よく迎える。
では、日産車を選ぶ魅力は、その性能にあるというのが、技術の日産たるゆえんで、それが個々の商品性にも表れていた。同様の姿は、1966年に合併したプリンス自動車工業にも当てはまる。
それを物語っているのが、今日なお、日産を代表する1台「スカイライン」であり、それはプリンス自動車で生まれた乗用車だ。プリンス時代に、スカイラインGTが生まれ、日産銘柄になってからも継承されて、憧れのクルマとなった。
プリンス時代のスカイラインGTがレースで活躍し、それが日産時代となってからのGT-Rにつながる。4ドアの乗用車として実用性を満たしながら、同じ車体を使ったGT-Rが高性能車として車名を牽引した。GT-Rは高額で手に入れられなくても、その血筋がつながるスカイラインGTに乗れば、胸を張り、誇りを持って運転できるというわけだ。
■レースシーンで活躍した名車たち
ひとつ下の車格では、「ブルーバード」も多くの人々を魅了した。こちらもレースで活躍したほか、アフリカのケニアで開催されるサファリラリーに優勝し、その活躍ぶりは、石原裕次郎主演の映画「栄光への5000キロ」として公開され、名車の誉れを得た。ことに“510(ゴー・イチ・マル)”と型式番号で親しまれた3代目は憧れの的であり、人気を呼んだ。のちに、その面影を継承した6代目の“910”がモデルチェンジで登場すると、人気を盛り返した。
「サニー」も、レースでの活躍が人気を牽引し、より上級な雰囲気や装備を備えた「カローラ」ではなく、サニーを選ぶ理由がそこにあった。クルマ好きが選ぶのがサニーだと評価された。
トヨタ「スターレット」に対抗した小型ハッチバック車が、日産「マーチ」である。海外では「マイクラ」と名付けられ、大衆車の1台として存在感を得ている。初代は、ラリー競技向けに、ターボチャージャーとスーパーチャージャーの両方を装備するマーチRという車種を設け、リッターカークラスと分類された小型ハッチバック車でさえ、高性能化の技術を盛り込んだ選択肢を出現させて、技術の日産ぶりを発揮した。ルノーと提携後の3代目は、欧州車風の走りに加え、色とりどりの外装色や外観の独自性などで高い人気を得ている。
そして日産を代表するスポーツカーが「フェアレディZ」だ。オープンカーのフェアレディから、ファーストバックのスポーツカーとして1969年に誕生して以降、日本はもとよりアメリカでそれぞれの世代が人気を博し、伝説的ともいえる存在感を今日も持つ。トヨタからは1967年に「2000GT」が先に登場しているが、そちらは1代限りで終わっている。
市場動向や競合の様子などを加味しながらも、トップダウン的に技術を押し出して商品性を高めてきた日産の各車は、それぞれに人生の思い出と深く関わりを持つことが多いのではないだろうか。
■セドリック/グロリア、そしてフーガへ
そのなかには、「セドリック」と「グロリア」も含まれるだろう。セドリックは日産の最上級4ドアセダンであり、グロリアはプリンスから販売される競合車であった。それは両社の合併により、セドリック/グロリアという兄弟車種の関係になった。両車は、のちにまったく同じ車体やエンジンの仕立てになったが、それぞれの車名を残す形で存続し続け、“セド・グロ”と呼ばれ親しまれた。ただ、ルノーとの提携後、「フーガ」に名を改めることになる。
スカイラインは継続したが、一時、インフィニティのバッジをグリルにつけるなど、日産を代表する車種であるという価値を手放したことがあった。
セド・グロがフーガとなり、スカイラインが日産ではなくインフィニティのバッジを使ったあたりから、日産車を選ぶ意味が薄れだしたように思う。
一方で、ルノーとの提携を通じて新たに技術の日産を世に示したのは、電気自動車(EV)「リーフ」の発売だ。
1990年から世界的にEVの模索は行われてきたが、本格的に量産市販を実行したのは、三菱自動車工業の「i-MiEV」と日産リーフという日本のメーカーであった。
今となれば、排出ガスゼロというゼロ・エミッションの重大さが評価されるが、2009~2010年当時はまだ、市場にその意味深さが浸透していなかった。1990年に、アメリカ・カリフォルニア州でZEV(ゼロ・エミッション・ヴィークル)法が施行されて20年近くも経っていたにもかかわらず、である。
■先見の明、時代に先駆けてEVへ転換
時間を要した背景にあるのは、リチウムイオンバッテリーの実用化と普及を待つ必要があり、それまでの鉛酸バッテリーはもちろん、ニッケル水素バッテリーでさえ、EVには不十分だった。そのとき、いち早くリチウムイオンバッテリーの研究開発を行ったのが、日産と三菱自だった。技術の神髄を見抜く力は衰えていなかったが、世の中がそれに追従できなかったのである。
なおかつ、充電を含めたEV利用の仕方が、エンジン車やハイブリッド車と異なることを日産は見抜いていたが、世間が理解せず、大手媒体や行政が、充電基盤整備のあるべき姿を誤解し、不手際をもたらした。それは未だに解消しきれず、急速充電器の整備に多くの目が注がれている。しかし為すべきは、普通充電の整備であり、自宅や勤務先での基礎充電と、出先での目的地充電の充実である。
欧米は、遅ればせながらEVへの投資を試みたが、充電基盤整備の仕方を同じく見誤り、普通充電を基本としたEVの使い方にも知見が不足し、投資を見直す事態に陥っている。それは、単に中国のより安価なEVの出現のせいばかりではない。
日産は、EVをもとに、“e-POWER(イーパワー)”と名付けたシリーズ式ハイブリッドを編み出した。これは、トヨタがプリウスで世に出したシリーズ・パラレル式と異なるハイブリッド方式である。ガソリンエンジンは搭載するが、発電にのみ利用し、駆動力としては使わない。まさにEVと同じ走り方で、車載バッテリー量を減らし、エンジンによる発電を組み入れたハイブリッド車だ。これが、瞬く間に人気を呼んだ。
■技術の日産は、今でも健在である
かいつまんで事例を挙げたように、日産は、技術で押してきた自動車メーカーであることがうかがえる。そしてEVに関して付け加えれば、単に1台のクルマとしての商品性だけでなく、EVを活用したV to H(ヴィークル・トゥ・ホーム)の実用化や、系統電力と結ぶスマート・グリッドへ組み入れる研究などのほか、EV後に性能を残すリチウムイオンバッテリーの再利用も、初代リーフ発売前から専門の会社フォーアールエナジーを設立し、すでに再利用事業をはじめている。他社のような実証実験の域を超え、将来を見据えた事業の実績を積み上げているのである。
EVの周辺技術において、現在なお世界最先端であるのが日産であり、アメリカのテスラがまだ手をつけていないバッテリー再利用の分野の知見を持っている。単なる製造業ではなく、EVを核にした電気エネルギーの最適活用という視点での事業展開が、日産の存在感をより強めていくことになるだろう。テスラが、自動車メーカーではなくAIを含めたIT企業であるように、エネルギーを有効活用する経営視点が日産にとって重要になってくるはずだ。
御堀 直嗣 :モータージャーナリスト
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