( 241354 )  2024/12/29 17:43:43  
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20年前と比べ、浪人を選ぶ人が減少している中で、浪人を経験することで人生にどのような影響があるのかを取り上げた記事があります。

医学部進学を目指し、4浪して名古屋大学医学部に進学した青柳泰史さんの経験が紹介されています。

彼は医師家庭ではなく、高卒の両親のもとで育ち、高校時代は優等生だったが東京大学への進学を諦め、医学部を目指すようになりました。

浪人生活を送りながら、医学部受験に挑戦し、努力の末に名古屋大学医学部に進学した経験が紹介されています。

(要約)

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※写真はイメージです(写真: Fast&Slow / PIXTA) 

 

浪人という選択を取る人が20年前と比べて1/2になっている現在。「浪人してでもこういう大学に行きたい」という人が減っている中で、浪人はどう人を変えるのでしょうか? また、浪人したことによってどんなことが起こるのでしょうか?  自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した経験のある濱井正吾氏が、いろんな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張れた理由などを追求していきます。 

今回は、4浪して名古屋大学医学部に進学。現在は医師として働く傍ら、HERO'ZZ UNIVERSITY.に通う青柳泰史さんにお話を伺いました。 

 

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■4浪して名古屋大学医学部へ進学 

 

 今回お話を伺った青柳泰史さんは、4浪して、名古屋大学医学部に進学しました。 

 

 医師家庭に生まれたことで、医師を目指して多浪する事例は、これまで本連載でもたくさん取り上げてきました。一方で青柳さんは医療とはまったく関係のない、高卒の両親のもとで育ちました。 

 

 また青柳さん自身は京都大学を志望していましたが、1浪のときのあることがきっかけで、医学部を目指すことにしました。 

 

 彼が4浪してまで、医師を目指したきっかけとは、なんだったのでしょうか。 

 

 青柳さんは、福岡県北九州市に生まれました。両親はどちらも高卒で、父親は新日本製鐵株式会社(現:日本製鉄株式会社)の関連会社に勤務し、母親は専業主婦でした。 

 

 幼少期は人見知り気味だった青柳さんですが、教育熱心な家庭で育ったこともあり、小学校の頃は習字の習い事と塾に通っていました。 

 

 勉強面では、照曜館中学校を受験して見事合格しました。ところが、合格したにもかかわらず、青柳さんは地元の北九州市立南小倉中学校に進みました。 

 

 「地元の同級生と3年間一緒に通いたいという理由や、親がお金がないと言っていたような記憶もあります。さまざまな理由で、地元の中学校を選びました」 

 

 この当時、特に熱中するものはなかった青柳さんですが、小学生のときから地元にあった全教研に週4回通っていたこともあり、中学校2年生のときには、学年100人前後の中で1位の成績を取ることができました。 

 

 高校受験では、先生の方針と、金銭面で私立を避けてほしい親の意向を汲んで、福岡県立小倉高等学校を志望。そのまま合格して入学しました。 

 

 

 「私立はラ・サール、久留米大附設・青雲・九州国際大付属を受験しました。ラ・サールと久留米は落ちたのですが、青雲・九州国際大付属には合格しました。九州国際大付属には特待で受かり、授業料も無料だったので、行くかどうか悩みましたね。でも、結局小倉高校に知り合いが何人かいたのでそちらに進むことにしました」 

 

■小倉高校でも優等生だったが、途中で挫折 

 

 北九州市でも有数の進学校、小倉高等学校に入ってからも、青柳さんの成績は優秀でした。 

 

 「入ってすぐに受けたテストは9/360番でした。小倉高校だったら、学年20番以内なら東大・京大に受かると言われていたので、東大も狙えるかな? と思いました。進路は悩んだのですが、父親が工業高校の出身で理系だったので、2年生から理系を選びました」 

 

 2年生になって理系コースを選択してからは、さらに順位が上がったと語る青柳さん。1番を取りたいと思って勉強をした定期考査では、3/200位を獲得することができました。 

 

 しかし、青柳さん自身は「中途半端でした」と当時について反省しています。 

 

 「当時、学年で1番・2番を取る人は東大志望でした。めちゃくちゃ勉強しても、その人たちに敵わなくて、『こんなに勉強したのに……』と思ってしまったんです。それで、自分に東大は難しいと思うようになりました」 

 

 結局、高校時代の順位は3番が限界だったと語る青柳さん。 

 

 「東大に行く人は、(東大に行くことを)ゲームをクリアするように捉えている」と考えた青柳さんは、東大を諦め、父親の仕事と近い京都大学の工学部を志望します。しかし、現役のときは受験勉強を一生懸命頑張っていたものの、模試の判定はE~C判定が限界でした。 

 

 朝7時半に学校が始まり、学校が終わったら塾に移動。塾で夜23時半まで勉強をしていた青柳さんは、センター試験では751/900点を記録し、京都大学工学部の地球工学科に出願しました。しかし、この選択は「失敗だった」と後に振り返ります。 

 

 「京都大学工学部は、国語・英語・日本史のパーセンテージのみ2次試験に反映されるのですが、私はその3科目の平均が9割だったので、河合塾のセンターリサーチで工学部はA判定でした。地球工学科に出したのは、いちばん合格最低点が低そうだからという理由です。でも、結局この年は不合格でした」 

 

 

■京大を目指して浪人も、まさかの転機 

 

 後期日程では無事九州大学工学部のエネルギー科学科に合格しましたが、「もう一回頑張れば受かるかもしれない」と思ったことで、河合塾で浪人を決断します。 

 

 「九大には知り合いが多いからいいかなとも思ったのですが、不完全燃焼感も強かったので、予備校で浪人しようと思いました」 

 

 こう考えて、河合塾に入り1浪を決めた青柳さん。6月には京大の成績開示の結果が届きましたが、それを見るとわずか11点足りずに落ちていました。例年、合格最低点が高い電気電子工学科が、青柳さんの年だけは低めの点数が出たようで、「そっちに出しておけば合格していた」と自身の選択を後悔したそうですが、なんとか踏ん切りをつけて、浪人生活を送ります。 

 

 しかし、夏に駿台からアルバイト募集の紙が届いたことがきっかけで、次第に医学部に興味を持つようになります。 

 

 「紙には、九大生のアルバイトは『時給2000円』と書いてあったのですが、そこに『医学部生は別料金です』とも書いてあったんです。そこで初めて、医学部って給料いいの? と思って、少し心惹かれました」 

 

 当時医学部に関する情報をあまり持っていなかった青柳さんにとって、学生バイトでさえ破格の高待遇である「医学部」の存在は衝撃でした。 

 

 この年も高校時代と同じくらいの勉強時間を確保した結果、東大や京大の模試では東大理1でA判定が出るようになりましたが、少しずつ医学部に気持ちが傾いていきました。 

 

 「まだ進路はハッキリと決めず、医学部と京大の両睨みという感じでした。この年のセンター試験は750/900点で前年度とあまり変わらなかったのですが、医学部だと難しい数字だったので、京都大学の農学部を受験しました。ですが、結局この年も合格最低点に6点足りずに落ちてしまいました」 

 

 2年連続僅差での悔しい不合格。後期で受験した大阪大学の工学部も落ちてしまい、2浪が確定した青柳さん。しかし、すでにこのときには、京大や大阪大に受かっても、医学部を受けるために再受験しようと心に決めていました。 

 

 「もう医師に心が傾いていました。京大を受けたのは、前年に負けたことのケリをつけたかったのもあります。情報がないからとりあえず京大に行こうと思っていたのですが、結果的に基礎を身につけるのを疎かにしてしまったので落ちてしまいました。『A判定だから、落ちるわけがないだろう』と思ってはいましたが……」 

 

 

 2浪目の青柳さんは、成績がよかったために、代々木ゼミナールに年間5万円で通えることになり、代ゼミに移って浪人生活を始めます。 

 

 医学部を自分なりに調べた結果、じっくり時間をかけて考えさせてくれる問題で、相性がよかった名古屋大学の医学部を第1志望に設定し、1年間受験生活に励みました。 

 

 「国語が苦手だったので、とにかく古文と現代文の対策に時間をかけました。前年よりも勉強時間は落として、朝9時に塾に行って夜21時に切り上げるスケジュールにしました」 

 

 勉強以外の時間は、積極的にほかの医学部受験生に話しかけました。クラスが一緒だった4浪の人や、4浪の人に紹介してもらった6浪の人などとコミュニケーションを取り、医学部に行くための情報を収集していました。 

 

 この年はセンター試験でも過去最高の795/900点を確保。その前に受けた防衛医科大学校では歯がたたなかったものの、十分に勝負になると思い、前期で名古屋大学医学部、後期で産業医科大学を受験します。しかし、名大は数学で失敗して100点足りずに不合格。産業医科大も、面接で2浪していることを突っ込まれ、落ちてしまいました。こうして青柳さんは、またしても全落ちで3浪目に突入します。 

 

■年上の仲間と受験勉強 

 

 代々木ゼミナールの学費が5万円ではなくなったことから、3浪目からは自宅浪人を選択した青柳さん。その一方で、いつも一緒に勉強をしていた仲間がいたことが救いになったそうです。 

 

 「代ゼミのときの浪人仲間で、医学部の再受験を目指しているアラフォーの方がいらっしゃいました。その方は時々マクドナルドで勉強していたので、一緒に勉強していました。朝8時ごろに起きて、マックで夜遅くまで勉強できたのも、仲間がいたおかげですね。そうじゃないと宅浪は病んでしまうので」 

 

 9月末までロイヤルホストで18時から深夜までアルバイトをして月5万円を稼いだり、図書館に行って勉強のために本を読んだりしていたこともあり、置かれた状況を生かしながら名大医学部の問題を研究していた青柳さん。 

 

 3浪目もセンター試験は790/900点と医学部への挑戦権は確保。もうこの年は名古屋大学の医学部しか受けませんでした。 

 

 「ここまできたら意地でした。今思えば後期で琉球大、宮崎大の医学部を受ければよかったのですが、もうこの年は名大に受からなかったら働こうと思っていました」 

 

 

 
 

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