( 241491 ) 2024/12/30 03:17:03 0 00 能登半島地震で亡くなった楠珠蘭さんが写ったアルバム。成人式を前に作ったものだった=石川県輪島市で2024年1月28日午後2時39分、後藤由耶撮影
2024年の元日に最大震度7を観測した能登半島地震は、年が明けると発生から1年となる。犠牲者228人、災害関連死は250人以上に及ぶ。 石川県輪島市で居酒屋を営んでいた楠(くすのき)健二さん(56)は、地震で倒れてきた隣のビルに自宅兼店舗を押し潰され、妻と長女を失った。 妻と2人で苦労して築いた店も一瞬にして消えた。 「2人は天国にいるけど、俺は(死んだら)会えるのかな」。 地震後、川崎市で始めた新たな店は軌道に乗ったが、がれきに挟まれた2人を救えなかった罪の意識は片時も消えない。残された家族を守るため、きょうもカウンターに立つ。
居酒屋「わじまんま」を営む楠健二さん=川崎市川崎区で2024年11月22日午後0時57分、安西李姫撮影
地震から5カ月が過ぎた6月10日、楠さんは川崎市川崎区の繁華街に居酒屋「わじまんま」を開いた。妻由香利さん(当時48歳)と切り盛りした輪島の店と同じ屋号だ。 冬は輪島産の香箱ガニ(ズワイガニの雌)やフグが並び、箸袋やおしぼりも能登の業者から仕入れる。少しでも復興に役立てばとの思いからだ。 7席ほどのカウンターは石川ゆかりの人で満席になる日もある。 店に立つ際、「わじまんま」と書かれたTシャツを着る。地震の後、あのがれきの中から見つけ出した。 楠さんが描いた大漁旗を利用したのれんは見つからなかったが、同じデザインで新調した。妻のお気に入りだったから。 輪島の店にあった掛け時計も揺れのあった午後4時10分過ぎを指したまま、川崎の店に持ってきた。 「妻と娘の面影がないここなら平常心でいられると思ったけど、思い出のあるものばかり。2人のことを思わない日はないよ」
居酒屋「わじまんま」の跡地。倒壊した五島屋ビルは3階以上の公費解体が完了した=石川県輪島市で2024年12月17日午前11時41分、安西李姫撮影
あの日、輪島市中心部にあった楠さんの店舗兼住居(木造3階建て)を、西隣の漆器店「五島屋」ビル(鉄筋7階建て)が倒壊して押し潰した。 普段は妻と子供2人の4人暮らし。長男は独立。長女珠蘭(じゅら)さん(当時19歳)は川崎市に住み、横浜市の看護学校に通っていた。 地震が起きた時、帰省していた珠蘭さんも含めて家族で食卓を囲んでいた。 楠さんと次男(22)、次女(19)は無事だったが、由香利さんと珠蘭さんはがれきの奥に取り残された。 すぐ近くで起きた火災を消すため、消防車両が何台も通り過ぎた。助けを求めて車両の前に立ちはだかると「火事が優先だ」と言われた。 自衛隊にも助けを求めたが「(2次被害の恐れがあり)隊員の命が危ない」と言われたという。 建材に足を挟まれながら「水が飲みたい」と声を絞り出す長女に、楠さんは水を渡し、夜通し2人の名前を呼び続けた。 「消防隊が来た時、娘はまだ生きていた。あの時、俺はのこぎりで娘の足を切ろうとしたの。足を切っていれば、今もここにいると思うんだよ。でもね、娘の足なんて切れるか……」と唇をかむ。 珠蘭さんは1月2日夜、由香利さんは翌3日に救助されたが、既に冷たくなっていた。 「2人は天国にいるけど、『俺は地獄に行くから会えないよ』と遺影にいつも言っている。助けてあげられなかったから」
楠健二さんが描いたのれん。奥能登の魚をデザインしている川崎市川崎区で2024年11月22日午後0時58分、安西李姫撮影
「消えてしまいたい」と輪島の避難所で何度も思った。だが、残された家族を守る必要がある。 輪島では、すぐに店を再開するのは難しいと思い、川崎を選んだ。約30年前、妻と出会い所帯を持った街だった。 静岡県出身の楠さんと能登半島にある石川県七尾市出身の由香利さんは、飲食関係の職場の同僚として出会った。 偶然にも新たな店の場所は当時、由香利さんと飲み歩いた一角にある。「俺は日本酒。由香利はハイボールだったな」。ホームセンターに何度も通い、自力で内装を整えた。 次男は障害があり介助が必要だ。2人が亡くなったことはいまだに伝えられていない。次男は1月の葬儀でもひつぎの中を見ることはなかった。 食事を作ってもなかなか食べてくれず、「ママい(由香利さんのご飯が食べたい)」と言われた時は、途方に暮れた。「2人がいなくなったことは理解しているのだろうけどね。今はそっとしている」 珠蘭さんが看護学校に進んだのも、次男の将来を考えてのことだった。「パパとママが亡くなっても、私が最後まで面倒を見るから」と言ってくれた。反抗期もなく、優しい性格だった。 地震当時、高校3年だった次女はこの春、珠蘭さんの後を追って同じ看護学校に入学。姉の白衣や聴診器を受け継いだ。 次女の進路が決まった頃、妻が「輪島を離れても姉妹で一緒の学校に行くって、いいよね」と目を細めていたのが、つい最近のことのようだ。
屋根瓦などが今も散らばっている居酒屋「わじまんま」の跡地=石川県輪島市で2024年12月17日午前11時41分、安西李姫撮影
11月になって五島屋ビルの公費解体が始まった。他の被災者から「あのビルを見ると心が沈む」と聞いた。楠さんもそう思う一方、倒壊原因の調査を終えてから撤去すべきだという思いが交錯する。 「すごい揺れだったけど、うちの家は倒れる兆候はなかった。隣のビルがのしかかってこなければ、2人が死ぬこともなかったと思う」と悔しさをにじませる。 輪島市によると、12月に入って道路にはみ出していた3階以上の解体は完了したが、2階以下の撤去のめどは立っていない。 築50年以上で旧耐震基準の建物とされ、国土交通省が倒壊原因を調べている。
石川・輪島の店に掛けられていた時計。針は能登半島地震があった午後4時10分過ぎを指したまま止まっている=川崎市川崎区で2024年11月22日午後0時37分、安西李姫撮影
楠さんはこの秋、ストレスなどのせいか約2週間入院し、体重は5㌔落ちた。 店を再開すると、すぐに客足が戻り、忙しい日々が続いている。「家族を亡くし、体調を崩した自分をお客さんが『気の毒だ』と励ましてくれているのかな」。心の中でそんなふうに思っている。 ふらっと立ち寄ったお客さんが品書きを見て、能登にゆかりのある店だと気づく時がある。「そういえば地震あったね」と問われると、「何か(被災地のために)できることをやって」と応じる。 能登のことを思ってくれるだけでいい。復興には多くの人の力が必要だ。 元日の地震に続いて9月には豪雨でも大きな被害が出た。 「輪島の人たちは地震が来て大雨が来て、次は大雪被害に遭うのかなって心配している。数年に1度、車も動けないほどの大雪が降る。そうなるとおしまいだって」。能登に残る被災者の不安が痛いほど分かる。 楠さん一家が、川崎から輪島に移住したのは18年。毎年のようにキャンプで訪れ、輪島の自然や人情にひかれた。 店を開いたものの、最初は大変だった。「毎晩、夫婦で飲み歩いて顔を覚えてもらったのよ」 そのうち、「わじまんまさん」と声を掛けられるようになり、野菜を分けてもらうなど、溶け込んでいった。夫婦で苦労して築いたのが「わじまんま」だった。大事な店を一人守り続けたいと思う。 家族を失っていなければ、輪島で再起を図ったと思う。いまはつらい思い出が先に立つが、妻と選んだ大切な場所であることに変わりはない。 「本当にいい所だよ。次男と2人で暮らしてやっていけるような小さい店でいい。また輪島に戻りたいな」【安西李姫】 ※この記事は、毎日新聞とYahoo!ニュースによる共同連携企画です。
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