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須崎市の話。

須崎市は財政難に陥っていたが、1人の市役所職員が活躍して市の活気を取り戻した。

彼はふるさと納税を活用し、ゆるキャラ「しんじょう君」を使ってまちおこしを行い、寄付額が大幅に増加した。

彼は元苦境にあった青年で、大学受験を経て須崎市に移住し、市役所職員として活躍。

彼の奮闘ストーリーは、ゆるキャラとその生みの親である1人の公務員の活動を通して描かれる。

(要約)

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須崎市のゆるキャラ「しんじょう君」と生みの親の守時健さん - パンクチュアル提供 

 

高知県須崎市は、かつて「第2の夕張市」と呼ばれるほど財政が逼迫していたが、1人の市役所職員の手腕によって活気を取り戻した。ふるさと納税による寄付額が200万円から34億円にまで急増したまちを、ライターの甲斐イアンさんが取材した――。 

 

■「第二の夕張」と呼ばれた町 

 

 高知県の中西部に須崎市という港町がある。人口は2万人弱。県内でもっとも漁業従事者の多い漁師の町だ。 

 

 市のゆるキャラ「しんじょう君」を知っている人は多いかもしれない。2016年にゆるキャラグランプリで1位を獲得したニホンカワウソのキャラクターだ。須崎市でイベントを開催すれば人口の4倍以上の観光客を集め、SNSで特産品をPRすれば3日で1億円を売り上げる。あの「くまモン」の経済効果を上回った年もある。 

 

 しんじょう君の活躍に合わせて、市のふるさと納税も好調だ。2014年度は200万円だった寄付額は、9年後の2023年には約1700倍の34億円に拡大している。 

 

 今でこそ活気に溢れる須崎市だが、10年ほど前までは「夕張の次は須崎か」と噂されるほど市の財政は逼迫していた。経費削減のために市役所庁舎の蛍光灯を半分だけ点灯させる案が真剣に議論されたほどだ。町全体が諦めムードに沈んでいた時に始まったのが、ゆるキャラによるまちおこしだった。 

 

 「僕自身も人生終わったと思ったところから這い上がることができた。死に物狂いでやれば、まちおこしでもなんでもできると思ったんです」 

 

 元須崎市職員であり、現在は自治体のふるさと納税のコンサルティング事業を運営する株式会社パンクチュアルの代表、守時健さん(38)は静かに語る。 

 

 人生に絶望していた青年が、いかにして高知の小さな町に活気を取り戻したのか。これは、町を救ったゆるキャラとその生みの親である1人の公務員の奮闘ストーリーである。 

 

■日給4000円で家賃を滞納、「人生詰んだ…」 

 

 「俺、このままでいいのかな……」 

 

 大阪、深夜の倉庫街。荷物整理の日雇い仕事をこなしながら、19歳の守時さんは絶望していた。 

 

 守時さんは1986年に広島県に生まれ、岡山県倉敷市で育った。高校卒業後、愛知県の自動車部品工場で契約社員として働いたが1年で退職。19歳で「音楽がしたい」と高校時代のバンド仲間を頼って大阪に流れ着いた。しかし大きな夢も志もなく、流されるまま怠惰に日々を過ごした。派遣仕事で食い繋ぐも、給与は業者にピンハネされ、日給1万円の仕事が4000円にしかならない。電気が止まり、家賃を滞納した。 

 

 「人生詰んだ。マジで地獄や」 

 

 ただ時間だけが過ぎていった。這い上がるための金も、気力もなかった。 

 

■一念発起で大学受験を決意 

 

 20歳になった頃、「さすがにこのままではまずい」と思い、大学に行く決心をする。アルバイトをしながら独学での受験勉強がはじまった。「偏差値38の高校をギリギリで卒業した身」にはとてつもなく大きな目標だった。 

 

 手始めに掲示板サイト「2ちゃんねる」で効率的な勉強方法を検索。ゴールから逆算して綿密な学習計画を立てた。真面目に勉強をするのは中学生ぶりだ。小学6年生の教科書から学び直した。 

 

 「勉強のやり方すらわからないのに、頼れる人が誰もいないことが一番つらかったです。でももうやるしかないから、必死でしたね」 

 

 朝6時に起きて図書館に行き、1日6~7時間を勉強に充てた。夕方から仕事に行って日付を跨いだ深夜に帰ってくる。周囲からは「アホの守時が大学なんて受かるわけない」と笑われた。孤独のなか人生を変えたい一心で、勉強とアルバイトと、わずかな睡眠をとるだけの日々が1年半続いた。 

 

 2008年2月、関西大学社会学部を受験した。滑り止めを受ける余裕はない。単願受験の一発勝負だった。 

 

 「受かるかどうかは、結果が出るまで本当にわからなかったです。結果論ですけど、壮大な計画でも適切な戦略と実行力があれば、成果は出るんだという経験と自信は、その後の人生に大きく影響していると思います」 

 

 結果は無事、合格。ようやく手にした人生立て直しの切符だった。 

 

 

■大学時代に「SNSのバズらせ方」に目覚める 

 

 2008年4月、22歳で守時さんは晴れて大学生になった。なんの肩書きもないフリーター生活を送っていた守時さんにとって、「初めて人権をもらえた気分」だった。 

 

 遅れてきた「普通の人生」を取り戻すように大学生活を謳歌するなか、守時さんがハマったのが当時流行り始めていたSNSだ。 

 

 廃墟を巡って写真を撮るサークル「廃墟部」を友人と立ち上げた守時さんは、メンバー集めにmixiを活用した。mixi内に廃墟部のコミュニティを開設し、キャッチーなテキストを添えてとにかく楽しそうな印象を前面に押し出してみた。するとおもしろいほど参加者が集まり、最終的にサークルは160人近い規模に成長した。 

 

 個人で運用していたTwitter(現X)でも、持ち前の分析力を発揮した。リツイートの多い投稿を見比べて「バズるための構文」を地道に研究。実行と修正を繰り返しながら成功の法則を見出していった。 

 

 「mixiでもTwitterでも、やり続けるうちにコツみたいなものがわかっていくんです。当時は失うものが何もない大学生だったので、とにかくおもしろいと思うことを試しました」 

 

 守時さんが最初にTwitterでバズったのは2011年3月28日のこと。その時のツイートを紹介しよう。 

 

 「君たちにいい事を教えてあげよう。ゲーセンのプリクラでエロいのとか、キスしてたりキメ顔だったり色々恥ずかしい事してる人いっぱいいるよね。あれってさ、店員は 履 歴 見 れ る ん だ よ。」 

 

 「驚き」や「共感」を織り交ぜたこの投稿は、孫正義氏の「東日本大震災の被災地に100億円を寄付する趣旨の投稿」や、世界的ラッパーのスヌープ・ドック氏の「友人の死を悼む投稿」を抑え、リツイート数世界1位(当時)を叩き出した。 

 

 その後も大小多くの「バズりツイート」を量産し、SNS運用のコツを習得していった。 

 

■友人との旅行ですっかり須崎市の虜に 

 

 守時さんが須崎市と出会ったのは大学時代だった。大学3回生の夏休み、友人の地元である須崎市に3泊4日の旅行に出かけた。高知県を訪れること自体初めてだった。 

 

 滞在中、地元の特産品である新子(ソウダガツオの稚魚)の祭り「新子まつり」が開催されていた。会場で守時さんが見たのは、酔っ払った地元の人たちが、まるで大学生のようなノリではしゃいでいる姿だった。 

 

 「会場で開かれていたカラオケ大会で、酔っ払ったおばあちゃんがステージに乱入して警備員に退場させられていたんです。そんな様子を見て、みんな『いいぞー』なんて声を上げたり、拍手したり、『なんて楽しいところなんだここは!』ってすごく衝撃でしたね」 

 

 ここでなら社会人になっても楽しく暮らせると思った守時さんは、須崎市に移住する決心をその場でしてしまう。もともと卒業後は「証券会社のような実力主義の世界で働きたい」と漠然と考えていたがあっさりと翻意し、須崎市の市役所職員になることを決めた。 

 

 「若かったからとしか言えないんですけど、旅行が終わるまでに心はもう決まっていました」 

 

 半年間の猛勉強の末に公務員試験に合格。その後は6年分の議会議事録を読み込んで須崎市での面接に臨んだ。まちへの熱意や得意のSNSについて語り、「いつ災害が起きても駆けつけられるように市役所の近くに家を借ります」と締め括った面接の結果は合格。2012年4月、守時さんは26歳で須崎市の市役所職員になった。 

 

 

■「真っ暗な景色を俺が変えてやる」 

 

 意気揚々と須崎市民となった守時さんだったが、移住早々に「なんか、やばいな」と思った。 

 

 「旅行の時には気がつかなかったのですが、いざ大阪から引っ越してくると結構、何もないなと改めて気がついて。ここで定年まで過ごすのはちょっときついなと思いました」 

 

 当時の須崎市は収入に対する借金が多く、全国でワースト5に入る財政状況だった。予算は軒並みカットされ「何をやってもこの街はダメだ」と自虐的に語る人も多かった。 

 

 当時の須崎市の様子について、守時さんには忘れられない景色がある。移住に向けて家を借りに須崎市を訪れた時、ホテルの窓から眺めた明かりのほとんど灯っていない街並みの風景だ。 

 

 「本当、真っ暗でしたね」 

 

 窓辺に立って暗い景色を眺めながら、守時さんは「この景色を俺が変えてやろう」と決意した。 

 

■「勝てるゆるキャラ」を調べ上げ70ページの企画書を作成 

 

 入職後、守時さんが配属されたのは企画課。産業振興や地域支援などさまざまな角度からまちづくりを担う課で、新人が配属されるのは異例のことだった。「町外出身の、SNSが得意とかいう変な新人が来た」と噂になっていた守時さんに、市役所側も期待していたのかもしれない。 

 

 やる気に満ちた守時さんは得意のSNSを使った情報発信でまちおこしに繋がる方法はないかを考えた。そこで思いついたのが「ゆるキャラ×SNS」だ。 

 

 「ゆるキャラを作って、ブログやSNSで町の情報発信をさせたらきっといける……はず!」 

 

 根拠はなかったが、できることからやってみようと思った。まずはインターネットや書籍でゆるキャラのことを徹底的に調べた。「くまモン」や「ふなっしー」などの人気キャラを分析し、「目が合わない」「特産品を持ち過ぎない」など、守時さんなりの「勝てるゆるキャラの条件」をまとめた。学生時代から培ってきたSNSの知見も盛り込んで、70ページにも及ぶ「ゆるキャラによる情報発信プロジェクト」の企画書を作成した。 

 

 

■火の車の須崎市から100万円の予算が下りた 

 

 「これ、確認お願いします!」 

 

 新人が持ってきた企画書なんて読んでもらえないかもしれない。一抹の不安を感じながら企画書を上長に提出した。配属から3カ月後の2012年7月のことだった。 

 

 意外にも、反応は上々だった。分厚い企画書を読んで「いいじゃん!」と言ってくれた上司は「ふるさと納税による基金活用事業提案募集制度」の検討委員会に企画を推薦してくれた。厳しい市の財政下で予算がつくことはほぼ不可能と言われていたが、来期予算として100万円が守時さんのプロジェクトにあてがわれることになった。 

 

 どうして企画は通ったのだろうか。守時さんは「委員会で一番偉い総務課長と喫煙所で一緒だったから」と笑う。 

 

 「いわゆるタバコミュニケーションですね。あとは、『何かしないと、マジでまずい』という思いが職員にあったんだと思います。民間出身の市長も理解がある人で、よくわからない新人が持ってきた企画を心から応援してくれました」 

 

 一方で、市役所内には「いまさら、ゆるキャラ?」と否定的な意見も多かった。そこで守時さんは、プロジェクトの理解を広げるために地域を巻き込んでいく作戦を取る。 

 

 実はしんじょう君には2002年生まれの「初代」がいる。新ゆるキャラ作りは“既存キャラのリニューアル”という名目ではじまり、市民参加型のデザイン総選挙も実施した。市民の応援を受け企画は着々と進み、守時さんが入職2年目となった2013年4月28日に現在のしんじょう君が誕生した。 

 

 初めてしんじょう君が市役所にやって来た日、守時さんは市長からこんな言葉をかけられた。 

 

 「守時、これで伝説を作りなさい」 

 

■片道13時間かけて東京のイベントへ 

 

 まちの期待を背負った守時さんとしんじょう君は、各地のイベントに精力的に出かけた。 

 

 イベントは基本的に土日に行われる。金曜日に須崎市を車で出発して、全国各地のイベント会場へ向かう。会場が東京の場合は片道13時間のロングドライブだ。土日のイベントを終えたらまた車を走らせ須崎市に戻ってくる。 

 

 守時さんはすべての週末をしんじょう君のアテンドと車の運転に費やした。生身の人間には(そして5歳のカワウソのゆるキャラにも)ハードな日々だ。言い出しっぺとはいえ投げ出したくなることはなかったのだろうか。 

 

 「めちゃくちゃしんどかったですよ。でも僕は人より4年も遅れて社会に出たんです。だから人よりも物理的に3倍も4倍も働かないと『普通』にはなれないと思っていて。とにかくがむしゃらでしたね」 

 

 イベント出演と合わせてTwitterとブログも開始した。この頃、特に意識したのが「人脈作り」だ。イベントで出会ったキャラクターと一緒に写真を撮ってSNSにアップしたり、されたりすることで、人気の相乗効果を狙ったのだ。 

 

 当時そうした動きは珍しく、ゆるキャラとしては後発ながらしんじょう君のSNSアカウントはじわじわとフォロワー数を増やしていった。 

 

 

 
 

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