( 243848 ) 2025/01/03 18:25:12 2 00 なぜ電車の網棚から「新聞・雑誌」が消えたのか? 懐かしき90年代の光景、スマホと共に失われた“無言のつながり”とはMerkmal 1/3(金) 10:11 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/f2944e98dd1abd0c014a630f266a27bf991fb27b |
( 243851 ) 2025/01/03 18:25:12 0 00 電車の網棚(画像:写真AC)
電車の網棚には、今では見かけなくなった光景がかつて広がっていた。
毎日のように車内に積まれた新聞や雑誌。それは、無言のうちに読まれ、次の乗客へと渡されていく「情報の受け渡し」のような瞬間だった。今となっては、あの時代の記憶はどこか遠いものになり、駅や車両内の光景も大きく変わった。かつての習慣が失われた背景には、技術革新や社会的な変化、そして人々の意識の変化があった。
1990年代中盤、日本は新聞や雑誌が全盛を誇った時代だった。特に都市部の電車内では、網棚に新聞や夕刊、週刊誌が並んでいるのをよく見かけた。これらの本や雑誌は、単なる情報源としての役割を超え、どこか社交的な性格を持っていた。読み終えた人が網棚にポンと置いていく、いわば次の乗客への
「おすそ分け」
のような行為が当たり前だった。
当時、この行為は
・読んだら置いて行く ・次の人が読んでいい
といった、文字通りの「共有」だった。たとえ誰かがその雑誌を読んでも、冷たい視線を浴びることはなかった。むしろ、それが一種のマナーとして、社会的な共感を生んでいた。このような小さな善意の連鎖が、都市という環境の中で人々をほんの少し温かく結びつけていた。
売店の新聞・雑誌(画像:写真AC)
しかし、その風景が次第に消え始めたのは、技術革新とともにスマートフォンが普及し始めた頃だった。電車内で新聞や雑誌を読む人が減り、その代わりにスマートフォンを手にした乗客が増えていった。情報源がデジタルに変わり、物理的なメディアへの依存度が低下したのだ。
この変化は、単なる物理的なメディアの消失にとどまらなかった。人々の生活がますますデジタル化し、情報の消費スタイルが大きく変わった。SNSやニュースアプリ、ウェブ記事などを通じて、どこでも瞬時に情報を得ることができる時代になった。それに伴い、電車内で雑誌を置いていくことが、どこか時代遅れに感じられるようになり、その傾向が人々の行動に反映された。
1995年(平成7年)の地下鉄サリン事件も関係している。事件後、公共の場での安全への懸念が高まり、ゴミ箱の撤去や監視の強化が進んだ。かつて網棚に雑誌を置く文化も、次第に警戒心から遠ざけられ、「不必要な物を放置しない」という新たなルールが広がっていった。
一方で、新聞や雑誌が減るなかで、それに代わるものとして登場したのはデジタルコンテンツだった。スマートフォンの普及によって、物理的なメディアが置かれていた空間はスマートフォンという無言のメディアに取って代わり、物理的な情報の受け渡しは次第に失われていった。乗客は画面に没頭し、互いに情報をシェアすることは減り、孤立した時間が増えていった。
電車内(画像:写真AC)
これらの変化は、単なる技術的なものだけでなく、人々の社会的な意識や価値観にも影響を与えた。かつての無言の雑誌リレーという「親切」は、今や
「公共の場で物を置いていくことへの慎重さ」
に変わった。それがなぜ変わったのか、誰もが納得できる答えはない。デジタル化の利便性や効率性が影響したのか、それとも社会全体でプライバシーや所有物への執着が強くなったからなのか、さまざまな要因が絡み合っている。
ひとつは、都市生活がますます個別化していることだ。かつては、雑誌を共有することで共同体感覚を得ることができたが、今はそれぞれがデジタル端末に個人の情報を集め、他者とのつながりよりも自分の時間を大切にするようになった。その結果、車内での無言の情報リレーは次第に消えていった。
では、あの文化は本当に過去のものになったのだろうか。それを懐かしむ声もある。あの頃、電車の中で雑誌を拾い、読むことは都市生活の一つの「楽しみ」だった。そして、雑誌を読んだ後に網棚に戻す行為には、些細なことでも共感を生む人間関係があった。
しかし、今の時代にその文化が復活する可能性はあるのだろうか。それはおそらく、個々人の意識に大きく依存している。現代の人々は、生活をより便利で効率的に管理し、他者と情報を共有することに慎重になっている。しかし一方で、過去にあった共同体の温かさを求める心も、時折顔を出す。
結論として、この変化に正解はない。あの時代の情報の受け渡しが象徴する共感的な情報共有は、確かに社会的に美しいものであった。そして、デジタル化が進んだ今でも、その時代を懐かしむことは無意味ではない。しかし、技術の進化にどう適応するかは、私たちひとりひとりの選択にかかっているのだろう。
電車の網棚(画像:写真AC)
今日では、物理的なメディアを共有する機会は減ったが、それに代わる新しい情報共有の方法が次第に登場している。
例えば、SNSやオンラインプラットフォームでは、情報がリアルタイムで広がり、すぐにフィードバックを受け取ることができるようになった。このおかげで、情報のスピードと広がりは増したが、対面でのコミュニケーションや情報を直接渡し合うことによる共感は減少している。
では、これからの社会では、私たちはどのようにして情報を共有し続けるのだろうか。
技術の進化に伴う社会の変化の中でも、少しの工夫や心遣いによって、人と人との情報の共有は依然として可能であり、むしろその新しい形が求められているのかもしれない。
伊綾英生(ライター)
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( 243850 ) 2025/01/03 18:25:12 1 00 この会話の中では、昔は電車内で新聞や雑誌が広がって読まれていたことや、網棚に放置された雑誌が共有されていた様子が懐かしまれている一方、現代ではスマートフォンで情報を得ることが主流となったこと、そして新型コロナウイルスや地下鉄サリン事件などの影響で触れ合いの少ない状況が変化の要因として挙げられています。
網棚に置かれた雑誌の共有が社会的なつながりを生んでいたかどうかや、新聞や雑誌を拾って路上で売っていた人達の存在、そしてデジタル化や値段の高騰が文化の変化に影響したことも指摘されています。
総じて、過去と現在の電車内での新聞や雑誌の扱い方や読まれ方に関する懐かしみや変化が寄稿されています。
(まとめ) | ( 243852 ) 2025/01/03 18:25:12 0 00 =+=+=+=+=
単純に放置された落とし物やゴミに触ってトラブルや事件に巻き込まれるのは怖いですよ。今時珍しい新聞紙であってもそう。
たまたま近隣の駅に青空文庫があって古い本持ち寄れるスペースがある、たまに拝借して倍にして返すなどしている。無言の繋がりというのはそのくらいでいい。
▲66 ▼23
=+=+=+=+=
電車通勤しているが、殆どの人(自分を含めて)がスマホの画面黙々と見ている。昔のことを知る立場から見ると異様な風景だが、若い人にはこれが当たり前なのだろう。本や新聞・雑誌を読んでいる人もチラホラいるが、本当に少ない。確かに紙媒体が減ったこともあるだろうし、本ならまだしも狭い混雑した車内で新聞を広げて読むのは迷惑以上の何物でもない。殆どの人は降りる時にそうした物を持って行くが、高い金出して買った物を置いて行くのは勿体ないという心理もあるのでは? 今時100円以下で買える新聞や雑誌など有りはしない。捨てられた雑誌等を集めて路上で売る人(ホームレスが多かった)もめっきり見かけなくなった。まあ結局は会社や家庭でゴミとして出してしまうのだろうが。
▲28 ▼4
=+=+=+=+=
昔は都市と田舎では野菜でも価格差があった。
だから、田舎から都会に野菜を売りに行くおばさんを電車内では見かけたものです。
30年ぐらい前にうちの町の議会議員をしていた方は戦後すぐのころ、小学生でそうした都会にうちの町の野菜などを売りに行って小遣い稼ぎをしていたそうです。
そういう光景も今となっては昔の話です。
▲16 ▼1
=+=+=+=+=
「新聞は他のお客様のご迷惑にならない様、小さく折りたたんでお読み下さい」 こんな車内放送もすっかりなくなった。スマホがあれば新聞も雑誌もいらないけど、電車内での新聞や雑誌をネタにしたコントも成り立たなくなり、ドリフターズの志村けんが読んでいる新聞を加藤茶が覗き込むコントも、過去の伝説! この頃の電車内、色々なエピソードは確かにあった
▲34 ▼1
=+=+=+=+=
タイトル見て、網棚に雑誌とかそういえばそんなことあったなと思って、記事読み始めましたが。
色々書かれてますが、そこまで大げさなことでもないように思う。 単純にスマホが要因なだけで。
当時を知らない若い世代がこの記事読んで、 みんなそうだったんだと誤解しないで欲しいのだけど、みんながみんなではない。
普通に捨ててくように、ぐしゃぐしゃになった新聞を網棚に置く人も居たし。 終点の駅員さんが見回りで、網棚の雑誌をゴミとして回収して行く。 次の人の為にとかじゃなく、ゴミとして見てた人も当然居ます。
みんなの共有物とか親切とか、そんなきれいなものではないですよ。
>むしろ、それが一種のマナーとして、社会的な共感を生んでいた。このような小さな善意の連鎖が、都市という環境の中で人々をほんの少し温かく結びつけていた。
個人の見解。 普通に、捨ててくなよマナー悪いな。って思う人も居ました。
▲17 ▼1
=+=+=+=+=
高齢層寄りの人にとって「皆がスマホをにらむ光景」は異様でしかない・・ しかし一方で昭和の「皆が新聞を開いて読む光景」も令和から見れば異様だ。新聞雑誌を棚に置いたりゴミ箱から拾って読むとか感染症を思えば今はあり得ない行為でもある。こういう話は「単なる時代の変化へのノスタルジー」でしかない。明治の文明開化で「ちょんまげ懐かしい」「刀が懐かしい」というのと全く同じ。 人間は年を取っても20代あたりで好きになった音楽しか聴かないそうだ。それ要は「好奇心の低下=脳の老化」である。ドーパミン神経が老化して「新しいものを受け入れる能力の低下」でしかない。「昔は良かった」は何千年も前からつぶやかれた「名言」だ・・繰り返ししつこいようだが、前の時代が良かったというのは「脳の老化現象」そのもの。もし「常に昔がいい」なら人類の進化は全部間違いという事にあるではないか(笑)
▲18 ▼13
=+=+=+=+=
昭和時代の車内では、窓テーブルの下に灰皿が付いていたので、おじさん方はタバコを吸いながら競馬やスポーツ新聞を見ていた記憶があり、降りる時はゴミ箱にではなく何故か網棚に載せていく。 今ではありえない光景でした。
▲50 ▼3
=+=+=+=+=
50代後半のじじぃです。 高校時代(1980年代)は電車通学でした。 当時はマンガ雑誌やスポーツ新聞は電車の網棚にあるのが当たり前でした。 ついでにマンガ雑誌の懸賞はがきだけを切り取って持ち帰って応募もしました。(今、考えると…セコいなぁ?)⇐でも、結構、当たりました! 社会人になってからは「夕刊フジ・東京スポーツ・内外タイムス」も買うのは年間数回… 今の電車の網棚がスッキリしているのは寂しい限りです。
▲58 ▼12
=+=+=+=+=
ちょっと前まで駅で仕事してたけど新聞雑誌用ゴミ箱も以前よりは減ってましたがそこそこ捨ててあります。 網棚云々は元の売上が下がってるのもあるでしょうけどマナーが向上したのではと思います。 文句言うルール守らないって人間が増えた感じはしますがゴミマナーはとても向上したのではないでしょうか そもそもゴミマナー向上の原因がテロ騒ぎってのが悲しい話ですが
▲0 ▼0
=+=+=+=+=
電車で新聞といえばカサカサ音が苦手という記憶しかありません。見かけなくなったことを嬉しく思います。 疲労と眠気で静かにしていたい時に近くで新聞を読まれると、とにかく気になる音でした。
▲34 ▼56
=+=+=+=+=
いわゆるキオスク型の売店が、なくなって新聞や雑誌をを買える場所が減ってたというのも大きいと思う 大手コンビニと提携したキヨスク型店舗に転換したところもあるけど、それも利用が少ない駅だと閉店しちゃってるしね
▲11 ▼4
=+=+=+=+=
そうだなぁ 確かに。皆んな何か読んでた。文庫本、一般紙、スポーツ紙。朝の通勤時、俺はkioskで日刊スポーツや九州スポーツを買って、車内で前日のプロレスの結果をチェックするのが日課だった。至福の時間。
もはや記憶の彼方へ遠のいた。もう戻ることはない。
▲49 ▼4
=+=+=+=+=
電車やバスで新聞や雑誌を読んでいる人は居なくなった。飛行機ではビジネスクラスに乗ればCAが新聞を持ってきてくれた。いまは全て無くなってしまった。電車の混雑具合を「新聞をどれだけ畳んで読めるか」で表していたときもありましたね。
▲40 ▼4
=+=+=+=+=
今年、夕刊フジと東京中日スポーツが休刊になると昨年発表があった。紙は廃れてきている。 自分だって、デイリースポーツはアプリの電子版でしか見ていない。古紙回収に出さず済むしな。
▲16 ▼2
=+=+=+=+=
>かつては、雑誌を共有することで共同体感覚を得ることができたが
ダウト。言うほどそんな事してなかったと思う。
>現代の人々は、生活をより便利で効率的に管理し、他者と情報を共有することに慎重になっている
むしろSNSやコメント欄等で共有化が進んでいる。
>情報のスピードと広がりは増したが、対面でのコミュニケーションや情報を直接渡し合うことによる共感は減少している。
雑誌を網棚に置いたところで、とても対面でのコミュニケーションとは言えないし、まして情報を直接渡し合うことでもなければ、共感など生まれる筈も無い。
▲3 ▼2
=+=+=+=+=
それより車内広告が激減していることに気付け。殆んどが自社広告か公的機関のお知らせ。写真でも車内広告枠がガラ空き。 コレが公共輸送機関の収入源を失わせている。
▲25 ▼8
=+=+=+=+=
マンガ雑誌が置いてあると嬉しかったですね。
写真週刊誌系はグラビアページが結構ドギツかったので、読むのに躊躇していました。
懐かしいですね。
▲27 ▼2
=+=+=+=+=
地下鉄サリン事件の影響も大きいと思う。電車内に極力不審物を置かないという流れが出来たのだと思います。
▲31 ▼4
=+=+=+=+=
オウムの地下鉄サリン事件の頃から、 車内に不審物を置かないように、って言われていたような。 新聞雑誌等だって何を仕込めるかわからない。
あと駅のゴミ箱にばさっと捨てていく奴も多く、 清掃の人がひどく嫌がっていた。今はゴミ箱自体あまり見ないけれども。
▲3 ▼0
=+=+=+=+=
69歳東京在住の者です。高校以来電車通学、通勤をしてきましたが、電車の網棚に放置された新聞雑誌が共有という意識はただの一度も持ったことがありません。それどころか、ある人が電車内で他の人が網棚にあった雑誌か何かを手に取ったら座っていた若い人に「俺のものに何をするんだ!」と食ってかかられる光景を目にしたことを父から聞いたことがあります。 共有意識なんていう文化なんてそもそもないと思いますよ。著者はどこの出身なのですか
▲18 ▼31
=+=+=+=+=
金を払わなくても、スマホで暇つぶしが出来る。 そんな状況なのだから、わざわざ金を払って雑誌や新聞など読まない。 金を払うだけ勿体ない。 だから、電車の網棚に広告を出す金がそもそもない。 雑誌自体も休刊が相次いでいて、新聞も多くが老人しかとっていない。
▲10 ▼6
=+=+=+=+=
駅売りのスポーツ新聞は家に持って帰れないからなー 少し大きい駅のホームに白いポスト見たいなのが有って、エ◯本やスポーツ新聞を入れろって、遠回しに書いてあった。 朝、キオスクでさっとお目当ての新聞を抜き、皿にパッと代金を置くのがサラリーマン上級生だった。
▲11 ▼1
=+=+=+=+=
パブるの余韻があった90年代あたりは、雑誌新聞は最低限の必要経費、読んだら必要なくなるので網棚に置くというのをやっていましたね。特に争奪になるわけでもなく、たまたま目の前にあったら読んでみる的な。
▲1 ▼0
=+=+=+=+=
言われて思い出しました。 30年くらい前だけど大きな駅外の裏通りで駅で拾ってきた週刊誌(ジャンプ100円)、新聞を売ってる露天商もいた。
▲12 ▼0
=+=+=+=+=
スマホとかが流行る前からホームレスが入場券で入って、ホームや車内にある新聞や雑誌を集めていたから、デジタル化だけが理由で無い。 今はそうした事をやる奴は減って、ほとんど見かけない。
▲21 ▼1
=+=+=+=+=
そういえば、電車通勤してる時に、隣に座った人と、インクの臭いが嫌で窓を開ける私と、風で新聞がバサバサするのを嫌がって閉める人の静かなバトルが発生したことがあったな。
▲0 ▼0
=+=+=+=+=
内容には大いに共感するが、つまらない論考だ。 それでも、かつて新聞社で働いていた者としては過去に郷愁を持つ人がいることは、ありがたいよ。
▲1 ▼1
=+=+=+=+=
次のひとなんて考えて置いたことないし、 逆にこっちが網棚の雑誌を取って読んだこともないよ。 単に家に持って帰っても邪魔だからポイ捨てしてただけ、 ゴミ箱に入れるのも面倒な感じで、単にマナーが悪いだけだったね。
▲7 ▼4
=+=+=+=+=
地下鉄サリン事件があった時から自粛されるようになった。 今の時代ならコロナを始めとする感染症対策で触るのは無理。
▲0 ▼0
=+=+=+=+=
地下鉄サリン事件のあった日の前後に、青春18きっぷで旅行していたから、はっきり覚えています。 地下鉄サリン事件の日を境に、網棚の雑誌も含めたゴミ類が一掃されました。
▲0 ▼0
=+=+=+=+=
昭和の頃は、電車の網棚の新聞やマンガ雑誌を拾い集めて、駅の改札外に屋台を゙出して一冊50円ぐらいで売ってるおじさんがいたな
▲5 ▼1
=+=+=+=+=
防砂林の中とか川辺の茂みの中とか ある種の嗅覚がある人にとっては エロ本 のおすそ分けに出会える場所 だったりしましたねー。
不法投棄っていえばそれまでなんだけどね。
▲3 ▼1
=+=+=+=+=
情報源が新聞からスマホに移行。駅売りの新聞を買わなくても情報がタダで得られる。 さらに、コロナ禍で知らない人が触れたものは避けるようになった。 この2つが決め手。
▲0 ▼0
=+=+=+=+=
昔、植木等さんの歌で♫借りた定期券でびくびく乗って〜隣の新聞横から覗き〜なんてのが有りましたが、もはや昭和遺産ですね。
▲3 ▼0
=+=+=+=+=
東横線渋谷駅には読み終わったものを入れる箱があった。 入っているものは自由に持っていってよかった。
▲4 ▼0
=+=+=+=+=
>雑誌を読んだ後に網棚に戻す行為には、些細なことでも共感を生む人間関係があった。 そうだろうか?それライターの勝手な郷愁に過ぎないんじゃないの。「無言のつながり」なんて感じたことはないよ。
▲18 ▼12
=+=+=+=+=
30年くらい前は網棚新聞のお世話になりました。スポーツ紙、特に東スポを拾うと嬉しかったです。でも聖◯新聞は困った。なんとも言えない感じになりました。バチが当たった気分でした。
▲0 ▼0
=+=+=+=+=
学生時代、向かいのおじさんが読んでるスポーツ紙のHな紙面がこっちに向いてるときはドキドキしたもんです。 今のスマ中の連中にはわかんねーだろうな。
▲7 ▼2
=+=+=+=+=
前や横にいる人の新聞や雑誌を横目で読んだりもしたなぁ 網棚に置いてある週刊漫画雑誌!今週はゲットできた!と勢いよく手に取ったら先週号だっり・・・・
▲1 ▼0
=+=+=+=+=
新宿駅南口では、これらを掻き集めて来て、路上で安く売っていたよ。 いろんな商売があるもんだと思った。
▲22 ▼0
=+=+=+=+=
新聞やら雑誌が置いてあるのは、苦手だったので、今の方がスッキリしつ良い派です。
▲7 ▼4
=+=+=+=+=
共有? 社内にゴミを放置していく マナーの悪い客としか思っていなかったよ
捨てる方も捨てる方だが 拾う方も拾う方でどちらも卑しいとしか
▲3 ▼3
=+=+=+=+=
紙媒体のデジタル化と共に、使い捨て文化の衰退とも関連しているように思う。
▲0 ▼0
=+=+=+=+=
今は電車で外の景色など見てる人などいないな…
観光列車でさえみんなスマホに釘付けの風景
▲2 ▼1
=+=+=+=+=
新聞を広げて読む親父が、車内での迷惑ランキングから消えましたね…つい最近の事だったような気がするが、見かけなくなりましたね
▲6 ▼1
=+=+=+=+=
座って膝の上に書類広げてる人が昔はいたけど、今いない。モバイルに置き換わったから。
▲0 ▼0
=+=+=+=+=
そのように小難しい話ではなく、新聞も雑誌も高すぎてそうそう毎日は買えないということです。
▲7 ▼2
=+=+=+=+=
何で90年代?この記者さんの昔の風景が90年代だから?80年代もそうだったと思うけれど。
▲1 ▼0
=+=+=+=+=
網棚の上やホーム上のゴミ箱から当日発売の雑誌類を回収してそれ売ってたホームレスみたいなオッサン達もいたっけなぁ…笑
▲11 ▼0
=+=+=+=+=
昔は、ゴミ箱や網棚に捨てられた状態のよい雑誌は拾う役がいて、道端で叩き売りしていたが。
▲10 ▼0
=+=+=+=+=
電車通学してた時は必ず網棚にジャンプが放置されていたので買わずに読めてました。
▲5 ▼0
=+=+=+=+=
外から見えるタイプの駅のごみ箱。最近は新聞雑誌のところだけいつ見ても空っぽです。
▲0 ▼0
=+=+=+=+=
>このような小さな善意の連鎖が、都市という環境の中で人々をほんの少し温かく結びつけていた。
・・・ただのポイ捨てでは。
▲6 ▼1
=+=+=+=+=
読み終えた新聞や雑誌を売ってるオジサン達も見掛けましたね。 駅で堂々と(笑) 今じゃ考えられへんけど…。
▲1 ▼0
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結構新聞読んでるおじさんいるよ。めくり方が乱暴でうるさくて朝からイライラする
▲0 ▼0
=+=+=+=+=
大体は新聞かマガジンが置いてあったイメージ。
▲9 ▼1
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みんな新聞をスマホで読むようになったから と言えば、1行で終わる記事を長々と
▲16 ▼5
=+=+=+=+=
最近、首都圏の駅で新聞の自販機を見なくなったなあ
▲6 ▼1
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私も若い頃は網棚の新聞を取って読んでいたものだ。
▲8 ▼2
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わしの時代の国鉄はタバコを吸いながら新聞をよく読んだものだ。
▲0 ▼0
=+=+=+=+=
新幹線なんかも週刊誌や新聞がたくさん放置されていたような・・・^^
▲5 ▼0
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自分で捨てることすら出来ない子供の所業を「お裾分け」って····
▲6 ▼5
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昔スポーツ紙、のち日経、今スマホとノートパソコン。
▲0 ▼0
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地下鉄サリン事件から敏感になって消えたよね
▲6 ▼1
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新車両に網棚もうないんよ
▲12 ▼0
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電車の中でも何処でも、スマホは偉い。
▲0 ▼0
=+=+=+=+=
誰かが置いていった新聞、昔も、ワシは、読まんかった。
▲0 ▼0
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昭和のスタンダードは、令和のスタンダードではない。
▲9 ▼14
=+=+=+=+=
新聞を広げている人は邪魔だったのでなくなって良かった
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