( 248834 )  2025/01/13 17:24:12  
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新幹線内で肉まんの香りが不快と感じる人もいれば、肉まんを楽しみとする人もいる。

この両者が共存できる空間を目指し、他者の行動を許容することで、公共空間の多様性を尊重し、自分自身の心の平穏と快適さを保つことが大切だ。

公共空間である新幹線では多様な人々が一時的に共存するため、他者の行動を許容することで、自分自身の自由や快適さを守ることに繋がる。

肉まんの香りを嗅ぐことを少し暖かい目で見つめ、その香りが予想以上に旅を豊かにする一要素になる可能性がある(要約)。

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新幹線(画像:写真AC) 

 

 冬が深まり、駅構内やコンビニで立ち上る蒸気とともに漂う肉まんの香りに、つい手を伸ばしたくなる人も多いだろう。しかし、その香りが新幹線の車内で隣席から漂ってきたらどうだろうか。 

 

「せっかくの旅が台無しだ」 

「迷惑だ」 

 

と不快感を感じる人もいるかもしれない。実際、公共交通での食事マナーについては議論が絶えず、特に匂いの強い食品はしばしば批判の対象になる。 

 

 だが、ここで一度立ち止まって考えてみたい。なぜ私たちは肉まんに対してそんなにも敏感になるのだろうか。また、その不快感は本当に合理的なものなのだろうか。 

 

 本稿では、新幹線という公共空間における 

 

「肉まん問題」 

 

を通じて、個人の許容範囲、社会の多様性、そして共存のあり方について再考してみたい。 

 

肉まん(画像:写真AC) 

 

 新幹線は、広義の「公共空間」である。切符を購入すれば誰でも利用できるこの空間では、さまざまな価値観や行動様式を持つ人々が同じ時間と場所を共有する。そこで生じる些細な摩擦は、ある意味では避けられないものだ。 

 

 隣の席の人が肉まんを食べる行為に対する不快感は、多くの場合 

 

「自分の基準」 

 

に基づいている。匂いが気になる人にとっては、その基準を超えた「迷惑行為」に映るかもしれない。しかし、公共空間においては、他者の行動を「自分の基準」だけで判断することが、必ずしも正当化されるわけではない。新幹線は、あらゆる背景やニーズを持つ人々が利用する場所であり、そこには多様性が存在する。その多様性を尊重しない限り、快適な公共空間の維持は難しい。 

 

 匂いに対する感覚は、極めて主観的かつ文化的なものである。例えば、肉まんの香りは一部の人にとっては食欲をそそる心地よいものだが、別の人にとっては不快な刺激になる。同じ匂いでも、背景や状況によってその感じ方が大きく変わるのだ。 

 

 さらに興味深いのは、こうした匂いに対する感受性が、個々人の文化的背景や経験によって形成されるという点だ。 

 

 例えば、日本では駅弁文化が長く根付いており、電車内での食事が許容されてきた歴史がある。車内で寿司やうなぎの弁当を広げる光景は、むしろ旅の風情として肯定的に受け止められてきた。一方、海外では公共交通内での飲食が厳しく制限されている国もあり、その違いが新幹線での「肉まん問題」への反応を分ける要因となる。 

 

 

新幹線(画像:写真AC) 

 

 肉まんの香りに過敏に反応する背景には、人間の心理的なメカニズムが影響している。公共空間で他者の行動に不快感を覚える理由のひとつは、そこに 

 

「コントロールできないもの」 

 

を感じるからだ。匂いは視覚や聴覚とは異なり、自分の意思で遮断することが難しい。そのため、肉まんの香りが自分の快適な空間に侵入してきたとき、それを「侵害」として捉える心理が働く。 

 

 しかし、この心理は逆に、個人の許容範囲を狭める要因にもなる。自分の価値観や感覚を絶対視し、他者の行動を許容しない姿勢は、結果として自らの自由も制限することにつながる。新幹線という多様な人々が集まる空間では、ある程度の「不快感」を受け入れることが、逆説的に自分自身の快適さを守ることにつながる。 

 

 新幹線は単なる移動手段ではなく、人々が「共存」する場でもある。ここでは、 

 

・仕事帰りのビジネスパーソン 

・家族旅行を楽しむ親子 

・地方に住む高齢者 

 

など、さまざまな事情を抱えた人々が一堂に会する。肉まんを手に取る人の背景も多様だろう。たとえば、短い乗り換え時間で食事を済ませる必要があったり、土地の名物を味わいたいという思いがあったりするかもしれない。 

 

 こうした背景を想像することで、「肉まんを食べる行為」を単なる迷惑行為として片付けるのではなく、より多角的に捉えることができる。新幹線の車内で肉まんを食べることは、その人の旅の一部であり、生活の一部でもある。それを完全に否定することは、新幹線という空間が持つ多様性を否定することにもつながりかねない。 

 

肉まん(画像:写真AC) 

 

 隣の席で肉まんを食べる人に不快感を覚えたとき、その行為を許容することには意外な効果がある。それは、自分自身の心を穏やかに保つというメリットだ。他者の行動に対して頻繁に苛立ちを感じていると、移動中の時間がストレスで埋め尽くされてしまう。むしろ、 

 

「そういうこともある」 

 

と受け入れることで、自分自身の心に余裕が生まれる。 

 

 さらに、他者を許容することで、関係性が円滑になることもある。新幹線は一時的な空間であっても、そのなかでの接触が完全にゼロというわけではない。隣の席の人と軽く会話を交わしたり、ちょっとした気遣いを見せたりすることで、その空間がより快適で心地よいものになる可能性がある。 

 

 新幹線の利用者が増加するなかで、車内マナーのあり方も進化が求められるだろう。しかし、その進化は「ルールを厳格化する」だけではなく、利用者ひとりひとりの意識の変化によっても実現可能だ。他者の行動を批判するだけでなく、その背景や意図を想像し、許容すること。これが、より快適な新幹線の未来を築くカギとなる。 

 

 肉まんの香りを不快と感じる人もいれば、それを旅の楽しみと捉える人もいる。この両者が共存できる空間を目指すことが、新幹線が本来持つ価値を守ることにつながる。移動の自由を享受しつつ、他者の自由も尊重する。そのバランス感覚が、現代の公共交通に求められる新しいマナーなのかもしれない。 

 

新幹線(画像:写真AC) 

 

 新幹線で隣の人が肉まんを食べることに対して、不平をいう必要はない。その行為を許容することで、公共空間の多様性を尊重し、自分自身の心の平穏と快適さを保つことができる。 

 

 新幹線は単なる移動手段ではなく、多様な人々が一時的に共存する場だ。他者の行動を許容することで、自分自身の自由や快適さを守ることにつながる。 

 

 次回、新幹線に乗った際には、隣の人が手にする肉まんを少しだけ温かい目で見てみてほしい。その香りが、意外にもあなたの旅を豊かにする一要素になるかもしれない。 

 

作田秋介(フリーライター) 

 

 

 
 

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