( 250803 )  2025/01/17 15:17:13  
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能登でボランティア参加の女子大学生、きっかけは生まれる前に起きた阪神大震災…「微力は無力ではない」30年で育まれた“支援の芽”

読売新聞オンライン 1/17(金) 11:01 配信

https://news.yahoo.co.jp/articles/558509c153d7d83c67a3566b0cfd20a31dd76656

 

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阪神大震災後の1年間に、被災地に137万人のボランティアが訪れた。

日本が豊かになって初めて起きた巨大災害で、テレビや新聞で被災地の悲惨な状況を知り、誰かの助けになりたいと思った人々が自然と被災地に向かった。

阪神大震災を契機にボランティアが革命と称され、歴史を着実に紡いできた。

豊かになった社会で初めて起きた大災害だったため、多くの人が心と体を動かし助けになりたいと思った。

内閣府によると、阪神大震災以前の自然災害で死者・行方不明者が1000人を超えたのは59年の伊勢湾台風までさかのぼる。

災害ボランティアに対する関心が高まり、防災意識の啓発や共助の力強化が求められている。

(要約)

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 阪神大震災発生後の1年間で、被災地には全国から延べ137万人ものボランティアが訪れた。戦後の経済成長を経て、日本が豊かになって初めて起きた巨大災害。大火にのまれる町並みや、倒壊家屋の前で立ち尽くす被災者の姿をテレビや新聞で知り、見ず知らずの誰かの助けになりたいと考えた人たちの心と体が自然と被災地に向いたのだ。 

 

 専門家が「革命」と表現する1年を契機に、歴史を着実に紡いできたボランティア。昨年の能登半島地震に向かった女子学生が防災やボランティアに関心を抱いたきっかけは、自身が生まれる9年も前に起きた阪神大震災だった。 

 

避難所の小学校で炊き出しをするボランティアら(1995年2月、神戸市中央区で) 

 

 阪神大震災の発生から数日後、三重県津市の萩野茂樹(70)は、パソコン通信で被災地の深刻な状況を知った。「赤ちゃんの粉ミルクがない」「水と食料を求めて歩いている人がいる」「人手が足りていない」――。 

 

 当時はインターネット普及前で、断片的な情報しか得られなかったが、被災地の様子を見聞きした人たちから書き込まれた内容は衝撃的だった。いても立ってもいられず、電車で神戸方面に向かった。 

 

 阪急西宮北口駅にたどり着くと、外に老若男女が100メートル以上の列を作っていた。中には、東京からリュックサックに寝袋をくくりつけて来た女性もいた。 

 

 「半壊家屋の補修、男性4人」、「支援物資の配給、男女6人」――。その場で挙手制の「求人」が大声で行われていたという。 

 

 萩野は、その一つに応じ、瓦のはがれ落ちた屋根にブルーシートをはる作業など力仕事にあたった。「誰かの助けになりたいという人の数とその熱量に感動した。みんな自己紹介もほどほどに、一丸になって取り組んでいた」と振り返る。 

 

 被災地には、トラックで衣類やパンを大量に運んでくる人や、大釜で炊き出しを行う人も現れた。 

 

 読売新聞は発生2日後の1月19日朝刊で、神戸市災害対策本部が18日にボランティアの募集を始め、「初日だけで全国から約300人が応募した」と記した。 

 

 

自然災害による死者・行方不明者数 

 

 内閣府によると、6434人が亡くなった1995年の阪神大震災以前の自然災害で、死者・行方不明者数が1000人を超えたのは、59年の伊勢湾台風(5098人)まで遡る。京都大防災研究所教授(防災心理学)の矢守克也 (61)は「この40年弱の平穏が『ボランティア元年』が生まれる背景の一つになった」と分析する。 

 

 戦後の約15年間に、数千人が命を落とす巨大災害が相次いで発生した。しかし当時は、国全体が復興途上にあり、「見ず知らずの遠くの誰かを案じて、助けに行くことはなかった」。その後、高度経済成長期と、地震活動が少ない期間とが重なった。 

 

 社会が豊かになって初めて起きた巨大災害が阪神大震災だった。消火活動が追いつかず、炎上を続ける町並みや、家族が取り残された倒壊家屋を見つめる被災者の姿をテレビや新聞で知り、助けになりたいと考えた人たちの心と体が自然と被災地に向いた。 

 

 矢守は「多くが災害の実体験を持たない一方、経済的、精神的に余裕があった。ボランティアの誕生は、あの時代だから起き得た革命だった」と指摘する。 

 

阪神大震災の経験をもとに、備えの重要性を訴える矢守教授(10月19日、熊本市で)=長野浩一撮影 

 

 矢守はあの日、神戸の街から真っ黒な煙が立ち上るのを機上の窓から見ていた。知人を訪ねた熊本から大阪への帰りの便だった。 

 

 「自分も何かできることをしないと」。2日後、兵庫県芦屋市立精道小にたどり着いた。給水車からタンクに水を注いで、被災者のもとに運び続けた。防災の研究者としてではなく、市民としての行動だった。 

 

 「あした津波が来るなら、どこへ逃げますか。一つ選ぶなら、何を守るか決めていますか」。矢守はいま、講演でそう投げかける。日常がいかに尊くかけがえのないものか気づいてもらい、備えにしてもらう。その働きかけが、被災当時を知る者の務めだと信じている。 

 

能登半島地震でボランティア活動をした経験について話す山口さん(京都市北区で)=川崎公太撮影 

 

 矢守らが大事にしてきた働きかけは、新たな芽吹きを生んでいる。立命館大の防災サークル「立命館FAST」代表の2年、山口穂菜美(20)は昨年2月、能登半島地震の被災地に立った。阪神大震災を機に生まれた「CODE海外災害援助市民センター」(神戸市)のボランティア活動に加わっていた。 

 

 石川県七尾市に入った山口が託されたのは、解体が迫った高齢女性宅から思い出の品を取り出すことだった。 

 

 身長1メートル52と小柄な山口は、倒れた家具の隙間に体を丸めて奥へ。家族写真やおそろいの皿を集めるうち、数字と名前が刻まれた柱が目に入る。子か孫か、誰かの成長の証しなのだろう。声を殺して泣いた。 

 

 

被災者に話しかける山口さん(中央)(昨年2月、石川県内で)=山口さん提供 

 

 電気やガスが復旧していない地域で、山口らは足湯を用意した。そこに姿を見せた80歳代の女性は、夫が行方不明のまま。山口が不安や困り事を尋ねようとすると、女性は「明るい話を聞かせてほしい」と言う。学生生活について話すと、「あなたに元気を分けてもらったから、頑張って生きていく」と笑ってくれた。 

 

 山口は思った。「微力かもしれないけど、無力ではない」と。 

 

 防災に興味を抱いたきっかけは、自身が生まれる9年前に起きた阪神大震災。通っていた兵庫県明石市の小学校では毎年、地震が発生した1月17日に合わせて震災学習が行われており、訓練で校庭に避難した後、炊き出しをイメージした給食の豚汁を食べた。暗く寒い避難所で、人々が体を寄せ合う光景を想像した。 

 

 高校では、災害が多い発展途上国の現状を知ろうと、南太平洋の島国フィジーに留学。毎年のように大雨による洪水に見舞われながらも、住民同士が声を掛け、支え合う様子を見聞きした。 

 

 「身近なところから防災意識を高めていくことが必要だ」。そう考えた山口は、大学に入ると、「火の用心」を呼びかけ、ひとりでキャンパス周辺を巡回し、防災新聞を発行した。 

 

 少しずつ理解の輪が広がり、山口だけだった防災サークルのメンバーは1年後に25人になっていた。 

 

 夢は消防士になり、いつか国際協力機構(JICA)の国際緊急援助隊に入ること。災害時に人の命を救う職業だ。 

 

 自身の経験を踏まえ、災害ボランティアにもっと多くの人が関心を寄せてほしいと考える。「いま困っている人たちは、大切な誰かの未来の姿かも、と想像してほしい」 

 

 阪神大震災から30年。あの日があったからこそ生まれた、助け合いの光を輝かせたい。 

 

大地震でのボランティア参加人数 

 

 ボランティアの活動は、災害発生前の「防災」への広がりも期待されている。 

 

 行政機関にも甚大な津波被害が及んだ2011年の東日本大震災では、自治体や消防、警察による「公助の限界」が浮き彫りになった。自ら身を守る「自助」と、地域の住民同士で支え合う「共助」の重要性が認識された。 

 

 ボランティアに求められているのは、平時の働きかけで共助の力を強化すること。地域の人口構造や地理的環境の弱みを根本から解消するのは難しいからだ。避難訓練や防災意識の啓発活動をいかに効果的に行い、人々に浸透させられるか。次の悲劇を防ぐカギになる。 

 

 ※この記事は読売新聞とYahoo!ニュースとの共同連携企画です。 

 

 

( 250805 )  2025/01/17 15:17:13  
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- 阪神・淡路大震災に関連して、被災地でのボランティア活動や支援について感動や感謝のコメントが多く見られました。

被災地での若者の活動や経験が人生に影響を与える様子や、地元住民の間での助け合いの大切さについてのコメントもありました。

 

- 個人の微力が集まって大きな力になることや、ボランティアや支援活動の重要性に関する意見が多く寄せられています。

 

- 自然災害に対する備えや被災地でのボランティア活動に関する意見もあり、災害時には地域ごとの統制や効果的な支援の在り方が重要だとの指摘もありました。

 

- 若者のボランティア活動や地域への支援に関する肯定的なコメントも見られ、将来に向けての希望や助け合いの大切さが強調されています。

 

 

(まとめ)

( 250807 )  2025/01/17 15:17:13  
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=+=+=+=+= 

 

現地民です。 

当時を思い出しながらこの記事を読み、全国から助けに来てくれた人達や心を寄せていただいた人達の思いに触れ、銀行の手続き待ちをしながら思わず落涙してしまいました。 

当時は情報が錯綜して大変でもありましたが、だからこそな思いや必死な行動があった事も心に響くものがあります。TVに映るのは映画のワンシーンではなく紛れもない現実だった。 

皆さんが居てくれたから神戸の街は前に進んでこれました。本当にありがとうございました。 

 

▲1283 ▼49 

 

=+=+=+=+= 

 

30年前の阪神大震災、いてもたってもいられなくなり、震災1週間後にヒッチハイクで神戸に入りました。当時、10代の私は自分の無力さを痛感。 

 

ボランティア団体が急造で設立され、日夜活動しておりましたが、被災地に送られてくる食材をボランティアの人達が食しているのをみて、団体と喧嘩になり、そのまま団体を離脱。今思えば、冷静に諭すことができたのではと、1月17日が来るたびに思い出します。 

 

その後、東日本大震災の際、ニュースでボランティアの衣食住は各々、準備して現地入りしなければならないと放送されていたのを見て過去の経験が活かされていると思いました。 

 

被災された方の心中は被災されていない方に共有する事は至難です。それでも少しずつ、前に復興出来たらと心より祈っております。 

 

▲219 ▼26 

 

=+=+=+=+= 

 

50代ですが阪神淡路大震災、東日本大震災ともに直接の被災はしていませんが、衝撃的でした。息子が小学校を卒業する時に、経験させる目的で、被災地を含む東北方面の一人旅をさせました。被災地の語り部の話を聞いたりして、息子なりに色々と学び感じとったようで、進路については一切何も言わなかったのに高校生になって突然消防士になりたいと言い出し、大学で専門的な知識を学び昨年地元の消防士になりました。 

息子曰く、被災地に訪れた経験がずっと心に残っていたそうで、あの旅行が人生を変えたらしいです。親としてはそこまでを見通して旅行させたわけではないですが、まぁ真っ直ぐに育ってくれて良かったなと。 

この女性もきっと消防士になるでしょうね、応援しています。 

 

▲71 ▼27 

 

=+=+=+=+= 

 

阪神地区は温暖な瀬戸内海気候で、関東に比べれば、地震も少なく、台風や水害もほとんどなかった。 

多くの方々から支援物資が届き、義援金が集まり、多くのボランティアが助けてくれた。実際に私個人としては支援を受けていませんが、神戸市民として感謝の気持ちでいっぱいでした。 

そして、ボランティアの目は、若い人にも傷が出ると言うことを知り、とても嬉しい気持ちです。 

 

▲113 ▼30 

 

=+=+=+=+= 

 

「微力かもしれないけど、無力ではない」この言葉に感動しました。それに一つ一つの家で歴史があり 

家族があり…その印として柱の傷を見て泣いたと言う、この女性にこちらも貰い泣きしました。私は 

東日本大震災の折、茨城県にボランティアとして参加しました。全身汗まみれ泥まみれと言う経験もしましたが周りのボランティアの方々の熱意をもらい 

なんとか二日間でしたがお手伝い出来ました。 

日本はこれからも震災は起きると思います。でも 

この様な若い方がいらっしゃるのなら乗り越えられます。(まだまだお辛い方々も多いとは思いますが) 

 

▲123 ▼15 

 

=+=+=+=+= 

 

当時は小学1年生でした。 

突然の揺れで家具が倒れて何のことか分からず泣いていたのを思い出します。 

 

高速道路から突き抜けたバスの映像は今でも鮮明に覚えています。 

 

大人になって危ない状況の中、全国の皆さまに支えられたんだと気づいた時は本当に感謝しかありませんでした。 

 

今ではその思いもあって災害の際にボランティアへ訪問していますが、現地に行くと人の温かさを改めて知る機会になりました。 

 

1月17日 

これからも人の繋がりを大切にしたいと強く思う日です。 

 

▲43 ▼15 

 

=+=+=+=+= 

 

私も東日本大震災の被災者 

世界の終わりを思わせる震災直後のあの光景は一生忘れない 

その恐怖の中なんとか前を向けたのは人の優しさを感じることができたから 

電気も止まり、全てが冷えきって世の中が白黒にしか見えなくなりそうなとき、ぬくもりと色彩をくれたのはやっぱり人の温かさでした 

 

復興は国による支援が不可欠 

でも当時の自分にとって人間の優しさはそれと同じくらい力になりました 

 

誰のものかわからない柱のキズ、それを見て涙を流す若者がいるということ、うれしいことですね 

 

▲197 ▼19 

 

=+=+=+=+= 

 

勤め先でボランティアを派遣する事があり、震災と豪雨災害のボランティアに参加した事があります。 

全国から集まった社員で現地入りしましたが、往復するのにかかる時間と比べると、作業できる時間はほんのわずかです。 

助け合いの輪を広げる、現地の状況を持ち帰って共有する意味合いもあるので、遠方らのボランティア参加は決して無駄ではありませんが、人手がいくらあっても足りない事を考えると、地元や近隣の被災を免れた地域からもっと積極的に募集するべきだと感じました。 

被災地では社会福祉協議会や自治体がボランティアの受け入れや振り分けを担っていますが、それでも個人が知り合いのいない土地でボランティアに参加するのはハードルが高いものです。 

企業の他、学校、自治会、市民サークル等の団体が音頭をとって組織的に募集すれば、手を挙げる人は少なくないと思います。 

 

▲7 ▼11 

 

=+=+=+=+= 

 

あれからもう30年かと感慨深い思いにふける。実は、私も直後に神戸に駆けつけました。 

梅田から阪神電車で向かったのだが、途中までしか回復しておらず、相当の距離を歩くことになったのだが、神戸市に入ったら、街中の所々で線香の煙が立ち上ぼり涙を誘った。 

また、大切に飼われていただろうと思われる犬や猫たちもお腹が空いていたのか、目的地までの道中に着いて来るものたちもいた。 

倒れかけたビルを避けながら、ようやく着いたのだが、直ぐに片付け作業に入った。 

1週間位休みを取って作業をしたのだが、家に着いたときには、疲労困憊という言葉が当てはまるような状況でした。 

そして今、被災地にボランティアで向かっている人たちには敬意を表したい。こういってはなんですが、ひとりの力は微力ではあるが、全国からこういった人たちが集まることに、日本人の力とエネルギーを感じる。そして、助け合いと隣人愛を感じます。 

 

▲45 ▼14 

 

=+=+=+=+= 

 

天災が起こるたびボランティア活動がアップデートされていると思う。 

その分傷ついた人や尽力した人がいると考えると喜べるものではないかもしれないけど、一人一人の活動が確実に未来につながっていると思います。 

 

▲162 ▼12 

 

 

=+=+=+=+= 

 

色々な意見はあると思うし、ボランティアの方々の気持ちもある。現地での様々な事があるし、微力って感じをどう捉えるか。1人ひとりの小さな事がゼロではないし、明日に繋がると思う助け合いが助け愛になるように、人との絆があってこそだと思います。無力を感じるのは、自然の力では。 

 

▲64 ▼18 

 

=+=+=+=+= 

 

その当時私は3人の子育てで精一杯でして、日々報道される映像に、何も出来ない自分が悲しい気持ちになっていた事を思い出します。ただ、その気持ちが強かったのか?よく覚えてませんが、今、医療介護士として地域の高齢者達の認知予防サークルを運営してます。隣近所との会話が難しい人でも、挨拶や笑顔の会釈だけでも気持ちは通じるものです。 

 

▲97 ▼14 

 

=+=+=+=+= 

 

最近のニュースでいつも感じる事は、人の気持ちを土足で踏みにじるような 

悪事が平然と行われる殺伐とした時代に、この記事にあるような人の優しい 

心を持った若者がいる事を救いに思う。被災地にボランティア活動で入り被災者宅の片付けで落ちていた家族の写真を見て涙するという繊細さは人間としてとても大切だと思う。 

また、被災地で生活されていた方々がボランティア活動の人に対する気遣い 

は、きっと救援活動の疲れを癒してくれるはずです。 

今の時代に欠けている、人と人との心の交流がこの記事にあるような情景が日常生活で感じられるようになると良い。 

 

▲14 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

夫が当時、政府の要請でボランティアに入りました。専門分野です。 

大阪に泊まり込みで2週間、余震もあり私に 

送られてくる写真の悲惨さと各マンションやアパート戸建のエアコン室外機が転がっている 

様子から、いくら温暖な淡路や神戸でも寒い冬にどんな思いだろうと離れながら落ちつけなかった記憶です。 

しかし皆、冷静に行動されていたとの事 

夫も2週間のボランティア期間、嫌な思いを 

全くせず逆にお世話になりますと言われ 

まだ30代前半でしたが今でも神戸の方々の 

民度の高さに感心しています。 

東日本大震災は私達は偶然経験し、関東の 

自宅へ戻れず途中ホテルに泊まった際、 

偶然シーツ交換に来ていただいた方が 

神戸で被災された方で慰めていただきました。 

ボランティアへ行った側としても神戸の方には 

感謝しています。 

また若い方がボランティアに興味感心を持つのは素晴らしいですね。 

 

▲72 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

大きな震災にあわれたかたなら言葉に鳴らなくても脳裏に必ずその悲惨さが今でも残っているのであり、その恐ろしさは経験している方なら、そしてましてや家族を奪われた人達の気持ちはその人自身しかわからない、それほど何の前触れも無く、そして突然やってくる、それは静かなスローモーション映像みたいに動き出し、その場を離れたいと思う気持ちと、家族を守らないとと言う気持ちが交差してただただその場に立ちすくむ事しか出来なかった記憶が蘇り、今想うのはその地震で家族を失われた方々の気持ちは今でも鮮明に残っていると思う。 

それだけにその悲惨さは計り知れないものであり、難十年たった今でも脳裏から離れないだろう。 

特に家族を失いただ一人今も一人で苦しんでいる人達の思いは言葉に出来る様なものではなく 

家族の為に少しでも長く生きようと思っている人達はいると、その人達の思いが少しでも伝わる事を心に深く留めたい。 

 

▲17 ▼7 

 

=+=+=+=+= 

 

数年前、広島の豪雨ボランティアに 

息子が参加しました。 

そこへはもちろん、食事等全て自分で準備をしていきました。 

そして‥帰ってきた時 

持っていった保冷バックを現地に置いてきてしまった。 

と言う息子に私は 

思わず怒鳴ってしまいました‥ 

ボランティアに行くならそこまで全て管理しろ。と 

迷惑をかけにいくな。と 

厳しいとは思いましたが、やはり被災地へお手伝いに行くということはそういう事。 

覚悟をして行くことが大切だと教えたかったです。 

 

▲15 ▼27 

 

=+=+=+=+= 

 

私も30年前、六甲道の古いアパートの1階に下宿していましたが、気づけば寝ていた顔の前に天井があり、部屋の3分の2はペチャンコで、運よく助かりました。周りの住民も、買い物をしていた商店街のお店の方も、皆が被災して、意外と悲壮感がある人はいませんでしたが、亡くなった方も何人もおられることを聞きました。 

 都会の神戸では近所づきあいも無かったんですが、震災では、多くの助け合いを経験しました。コンビニで、財布を忘れたことに気づき列から離れようとしたら、千円をくれた見ず知らずのお姉さんとか。 

 今は能登半島地震関連の仕事もしていますが、最近、ボランティアに行きました。全国から何度も能登に入っている方が多くいて、チームワーク良く、声をかけあいながら、一緒に泥かきをしました。本当に素晴らしい人たちだと思います。自分の仕事や体調の維持が大前提ですが、できる範囲で何かをしていきたいと思います。 

 

▲10 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

自分は仕事で阪神大震災の三日後に神戸市長田区、又東日本大震災の一月後に気仙沼市に行きました。両方の被災地に行って最初に思った事は長田区は焼け野原で焦げた匂いが充満してました。気仙沼市はとにかく静かで鳥の鳴き声が響いて、遠くで重機の音が聞こえて、生活音が無く自分の靴音がよく聞こえました。どちらも見たくない光景で絶望ってこういう事を言うのだって心に響きました。 

 

▲1 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

人の役に立ちたいと思い、ボランティアに参加したいと思ったことがあるが、勤め先の会社からは、「ボランティアに参加することでもし何があって仕事ができなくなると、取引先に迷惑がかかるということを認識した上で行くこと」と強い通達があり、それを見て誰1人ボランティアには行かなかった経験がある。まあ確かにそうですよね。 

 

▲43 ▼37 

 

=+=+=+=+= 

 

当時、個人事業を継いで、土地を買い工場を建てこれから迎える30数年に及ぶ止まった経済。 

 

自分の家族を守るのが精一杯、それでも当日営業回りの車のラジオから震災の速報が流れていましたね、記憶では情報が全くメデイアからも入らず夕方頃でも死者数十人程度のラジオ報道でした。 

記憶は曖昧ですが翌日か、2日後かテレビメデイアが現地入りして映像を観て驚いた記憶があります。 

それでも、目の前の自分の家族で精一杯、しかし60過ぎた今でも自分の家族で精一杯。 

零細企業は辛いですね、災害が起きるたびに後ろめたくなる。 

 

▲24 ▼4 

 

 

=+=+=+=+= 

 

日本最大の反社組織本部にも全国の系列団体より 

多くの支援物資が到着 

近隣の被災住民の困っている方々にもお裾分け?があった様です特に女性向け衛生用品等重宝されたとか 

またダイエーが健在だった頃なので支援物資水や食料品等の配布を行なっていました 

これが原因で経営が難しくなったとか… 

物資は道路が混乱状態だったためヘリ空輸で行なった場所も有ると聞きました 

 

▲2 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

震災復興に東日本の時から携わってますが、自分自身も中越地震で助けて頂きました。 

あの時の事は忘れられないです。 

震災がなくなる事はないのかもしれないですが、邪魔にならない様に支援を続けていくつもりです。 

 

被災地に住むか住まないか。 

能登で今なお悩んでる方が沢山いらっしゃると思います。 

 

▲5 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

そもそも、今まで増税してきた分を天下り先企業に流さず、金をかけて有事や事故、災害に対するスキルアップ策を講じていれば、もう少し楽に対策できていたかもしれない。失われた30年は経済を中心に言われるが、官僚・政治家・巨大企業の私腹肥やしのために、こういう要素においても阪神大震災以降、停滞し続けている。 

 

記事のような素晴らしい若者もいるが、将来は若者の数がさらに減少するのだから、くだらない私腹肥やしはやめて、災害等対策や復興事業に本腰を入れてほしい。 

 

▲103 ▼13 

 

=+=+=+=+= 

 

私は共感力が欠如してるのかも知れないが、こういった天災絡みのボランティア活動を割と冷めた目で見ている。被災者に対して同情も抱かないし、自分が被災してもボランティアに頼る気もない。 

 

地震、津波、台風、洪水、、、これらは定期的に発生する自然現象。戦争や墜落事故のような予想不可能な悲劇では無い。海岸線から十分な距離があり、近くに氾濫する可能性がある河川の無い、強固な地盤の土地を選び、地震や風水害に強い家を建てれば良い。最悪、もらい火で全焼しても立ち直れるだけの火災保険や地震保険に入っとけって話だ。 

 

特に津波や河川の水害、土砂災害などについては、水没する場所や崖の側に住まなきゃ100%回避出来る。なので、テレビで被災者がメソメソしてる姿を流してるのを、自分は割と冷めた目で見ている。 

 

▲3 ▼28 

 

=+=+=+=+= 

 

「微力は無力ではない」に共感します。私も1は0じゃないという思いで支援してきました。人は持ちつ持たれず、困った時はお互いさま。自分が被災した時は必ずの誰かの助けを必要とするのですから今後も出来る事をしていきたいと思ってます。 

 

▲8 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

私は首都圏に住んでいますが大規模災害ではとうなるかわかりません。 

それなのでいざというときのためにコツコツ災害対策品を揃えています。 

せめて自分の家族の分くらいは自分でできるように… 

みなさん今から備えれば有事に間に合います。 

 

▲63 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

ちょうど30年前が成人式だった夜友人と集まって成人で堂々と飲み会してたのは記憶にある。 

地震の速報見てまたかよ〜と思ってTVを見たら大変な事になってた事は全く忘れていない。 

忘れられてるのは阪神大震災の陰に埋もれて、北海道の奥尻沖地震、釧路沖地震だと思う。 

阪神大震災より先にあった大きな地震で被害も大きかったに関東大震災の後の大きな地震は阪神大震災のようになっている。 

忘れないで欲しいよね。 

 

▲4 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

ただ、この種のボランティアは、震災直後の衝撃的な映像を見て参加しよう、と考える人が多いから、震災直後はともかく、大部後になるまで「入るな」と言われたら、そうした勢いを削ぐ結果になる面も少なからず有るからなぁ 

 

▲1 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

現地に会社があり。 会社の有った集落は津波で壊滅状態になりました。幸いにも避難でき数日避難生活後会社に出勤命令社屋は鉄筋コンクリート造りのため残っておりかたづけを命令され泥だらけになりながらかたづけをしているとどこからともなくボランティアの方が現れ声をかけていただきました。それだけなんですがなんかうれしかった。(差し入れいただいたかも)余談ですがかたづけを命令した上司は仕事するふりで姿を消し。事務職だった私は遠く九州の地に転勤させられました。遠隔地に転勤と言えば辞めるとふんでいたようです。赴任先でわかりました。定年まで頑張りました。人も表裏ありますよね。 

 

▲1 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

「あんたのとこ赤ちゃんおるよね」と言って、店頭では売り切れていたペットボトルの水を持ってきてくれた近所のコンビニのオーナーの声が、30年経った今も忘れられません。 

 

私は阪神淡路大震災の被災者です。とは言っても、家が壊れたということはなく、水道が止まった程度です。 

ドンと突き上げから始まった揺れは「このままマンションが崩れて死ぬのか…」と思うほどでした。 

揺れが収まった時に家の中で立っていたのは冷蔵庫だけで、マンションの外壁には亀裂がありました。 

若いころで収入も貯金も少なかったので、家財道具を買うのに困ったことを思い出します。 

でも、その程度で済んだのは幸せでした。 

 

我が国は地震に限らず自然災害の多い国です。 

あれから30年の間にも、さまざまな災害の被災者のことをニュースで見聞きしました。 

これからも様々な災害が起こると思いますが、命を落とすような犠牲者が出ないことを切に願います。 

 

▲15 ▼1 

 

 

=+=+=+=+= 

 

この1995年というのは、バブル経済がハジけ、大震災やオウム真理教事件など、「まさかこの日本で」という出来事が続いた年だったように思う。私は個人的に、日本の斜陽化の本格的な始まりはこの年だと思っている。 

 

▲0 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

春や秋の叙勲をうける人のなかにこの様な方が何人いるだろう、おそらく皆無だろう、金持ちや名声はあるが別に何した訳もない『有名な人』ばかり表彰してないで若くても人の為に頑張ってる人こそ称えられるべきだ、本人はそんな事微塵も求めていないのはわかるが、何かしてあげる事なできないか。ただ私は尊敬します。 

 

▲34 ▼6 

 

=+=+=+=+= 

 

ボランティアは大事だけれど、統制も取れてない、最低限の交通網もない状況でのボランティアは逆効果になりうるから、「ボランティアの押し付け」はやめましょう。 

この記事で「瓦礫撤去 男6人」などのような、「ボランティアを必要な場所に配置する」という統制がとても大事で、なんならこの職務が最重要。 

それがないと統制が取れずに烏合の衆になってしまう。 

「目の前の人に手を差し伸べたい」という精神は高潔で尊ぶべきものだけど 

広い視野で考えないといけない。 

 

あと、売名行為目当てのボランティアはやめましょう。 

特に政治家。 

 

▲92 ▼54 

 

=+=+=+=+= 

 

この学生は災害のプロを目指してるので、 

ボランティアが凄いわけじゃないと思うけどな。 

神戸の震災を経験して、 

ボランティアは微力で無力だと思ったけどな。 

寧ろコミュニティの力とプロの力が大事と実感したけどな。 

 

▲11 ▼67 

 

=+=+=+=+= 

 

明るい話が聞きたい 

ちょっと驚いたけど、なるほどと 

思った。復興復旧に一生懸命にな 

るのも大事だけど、みんな、笑え 

る「希望」が欲しいんだと思う。 

お笑いやスポーツ、芸術、形のな 

いものが力を発揮する時だろう。 

 

▲10 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

若さ故に現実が… 

彼女の意思は尊重します 

 

阪神大震災は当時 戦時下空襲以来の 

初の都市での 激動 激震でした 

地獄絵図でした… 

そして東北は正に地獄絵図… 

日本 終わったと 思いました 

私も 共に関わった人間として申し上げます 

※決して能登の現状を下げたい訳では有りません 

女性が危険区域でボランティア活動する場合 

無慈悲な件にも遭遇します事の警告です 

女性に限らず 

誰人も決して1人で行動為さらないで下さい 

 

▲14 ▼5 

 

=+=+=+=+= 

 

震災は何故か政権交代の際に起きている、阪神神戸震災は村山富市総理大臣のとき発生しAM5:46に発生し、海自は神戸港に予備展開をしているのに10時を過ぎているのに閣議を開いていた。 

 

更に大きい東日本大震災は菅直人総理大臣の時発生し、福島原発がまさにメルトダウン直前に自らが現地で判断するとして何の命令もせず、海水注入命令をすれば・・・ 

 

どうして革新政権は国民を不幸にするのだろう。 

 

▲17 ▼22 

 

=+=+=+=+= 

 

素晴らしいと思う反面、 

昨日、今の小学低学年から幼稚園児の3割が、暗いand怖いから震災嫌い、もしくは嫌、受けたくないと言うニュースを見た。 

果たしてこの子供の声を聞いて親はどう言う教育、躾をするのか。 

怖がってるから、嫌がってるからと学校等に文句を言いに行く、親が家庭で教育しないのだろうか、 

大事なことだからと子供に我慢や説得をするのだろうか。 

親によってものすごく方向性がブレる時期に来たのかなと感じてます。 

 

▲6 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

年寄りはこういう時、あまり役に立てないね。 

こういう惨事には若い子の力が絶対必要だし何よりあたたかくて心強い。 

これからも日本を支えていくのは若い力だ。 

老齢政治家の皆さん、若い子が生きやすい社会を作って下さい。 

その子達が歳とった時、安心して暮らせる社会を、そして、その住みやすい社会が次の世代へ受け継がれるよう、日本を守って行きましょう! 

 

▲4 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

微力かもしれないが、無力ではない。 

とても感銘を受ける言葉ですね。 

人間一人の力は小さくても集まれば大きな力になる! 

大きな力になればできることを増える。 

絶望でも希望に変えることもできる。 

 

▲0 ▼1 

 

 

=+=+=+=+= 

 

こういう被災地に行く行為は大変素晴らしい事ですが、そこまで行く労力があるなら近くに居る困ってる人を助けてあげて下さい! 

みんながそういう意識なら日本は変わりますよ 

別に震災で被災した人だけが困ってる訳ではありませんし、被災地に行くことが価値がある訳ではありません 

人に親切にする事が凄い価値があるのです 

 

▲28 ▼137 

 

=+=+=+=+= 

 

記憶を風化させないニュースが溢れていますが、震災経験してどんなものを備蓄しておけばよかったと思ったのか?といった情報もあわせて書いてもらえるとありがたいです。 

 

▲1 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

災害ボランティアの在り方については、様々な議論となりますが、「微力かもしれないけど、無力ではない」という言葉にはとても感銘を受けました。 

20代のお嬢さんからそのような言葉が出るのは素直にすごいと思います。 

 

▲12 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

全てを失ったかのような人には、新たな出会いが特別な価値を持つ。微力は無力ではない以上に、心の復興には本質的な価値がある。 

 

▲31 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

「微力は無力ではない」 

本当にその通り。災害と無関係の日本人はいない。ボランティアに行けないなら寄付でもいいだろう。シニカルにならず助け合うことが必要だ。 

 

▲144 ▼4 

 

=+=+=+=+= 

 

当時はネットがない時代でした 

大昔の印象を受けますが当日は大阪市内で仕事をしていた私は課長から「若いから京都まで自転車で行ける」とは笑えない地震でした 

インフラは麻痺してました 

新婚夫婦だった当時は電話が繋がらず混乱しました 

 

▲1 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

いとこの家が被災した時は母上がずっと電話しとった思い出 

今思うと迷惑だから止めろって言うと思うが、実の兄弟の安否不明だと気が気でないわな 

 

もちろん無事だったけど、住居のマンションがヒビだらけでいつ崩れるか分からない状況で、避難場所も移動手段もないからマンションに残るしかなかったらしい 

 

▲1 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

素晴らしいね、こう言う若者に政治家になって欲しいですね。 

被災地にカレーライス食いに行っただけとか、通り一遍のお義理で覗きに行っただけとか、いかにもの演説で市民を騙すような連中にはお引き取り願ってね。 

しかし当時のド左翼市長は市民が瓦礫に押しつぶされたり火災の業火に焼かれて断末魔の叫び声を上げていたのに自衛隊に救助をさせなかったと言う信じられてない人物でしたからね。 

まあ市民が選んじゃったんだから文句は言えないかも知れませんが、政治家はよく吟味しないと命に関わるって事ですね。 

選挙に行きましょう。 

 

▲2 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

能登の復興の為のボランティアの方々の尽力は本当に頭が下がる思いです。 

しかしながら能登の復興の邪魔をするのが日本政府の地元に癒着した土建業者だといいます。 

自社の利益のためわざとゆっくりゆっくり工事を進めてるらしいです。全国から復興の為に集まってもその方達が現場に入れさせないみたい。本当にいい加減にしてほしいです…… 

 

▲5 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

この地震以降、耐震制度が変わったんだよね。昨今、強い地震がきてもあの時のような大規模倒壊がないのはそのお陰もあるんじゃないかと思う。 

 

▲13 ▼0 

 

 

=+=+=+=+= 

 

最近ボランティアがし難いと思います。無秩序ではいけないが何でもシステム化で管理しょうとしてバランス悪いです。 

広島の水害時も結果、何もしないで1日終わり新幹線で帰宅した。ただ外で並んでいただけ。いっそ各家の前を「手助け、ボランティアは要りませんかぁ」と言って歩いた方が良かったが(役所?)怒られそうで。 

 

▲2 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

遠方からですが、能登のボランティアに2回行きましたけど、総じてボランティアの士気は高い 

 

ただ、、、 

 

(政府批判とかがしたい訳じゃ無いけど、国もいつまでもボランティアありきなのは、改善の余地はあるかなとは思います。能登に限らずね・・・) 

 

▲4 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

過去の悲劇を忘れるなとは言わないが、これでもかというほど意識的に過去を掘り起こされる強要されるのはどうかと思う。 

関係者が静かに心の中で偲べないものだろうか… 

 

▲1 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

ボランティアに頼った復興では遅々として進まない。 

行政が主導して業者を入れるべきだろう。 

その費用を義援金として集めたほうが効果的です。 

 

▲2 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

この時期阪神大震災を取り上げる記事が多いが、現在能登は、現政府の対応悪く、今も酷い状況。多くの人はこのままでいいのかと、まだまだ能登の厳しい寒さの中で、耐えている人を助けてあげたらいいのにと思う。能登の議員が訴えているのを見ても石破は、何もしない。こんな総理は早くやめて欲しい。 

 

▲52 ▼14 

 

=+=+=+=+= 

 

税金払っているのだから、しっかりやっておけ! 

では政治家も役所も動かないです。 

地域の町内会も限界。 

地方自治体に関心が無い住民。 

少子高齢化で体力が無い人ばかり。 

東南海、首都直下、富士山噴火。 

国民の意識の問題が大きい。 

 

▲1 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

こう言った記事を、見るたびにおもいますよ、ボランティアの皆さんや自衛隊の皆さん、日本はまだまだ棄てたもんじゃない、本当に本当にご苦労様です私は、家内が寝たきりで参加が不可能ですが、テレビに何回も何回も頭を下げています。 

 

▲0 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

『微力は無力ではない』 

なんとも小さく力強い言葉だろう。 

 

微力が集まれば強力になる。 

敬意を込めてエールを送ります。 

ありがとう。 

 

▲34 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

ボランティアといえば、元長野県知事の田中康夫氏が原付バイクで支援物資を届け続けているニュース記事か何かを見て印象に残っている。 

 

▲1 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

ボランティアの方々今の日本は被災地を見捨て、被災者支援等は行わない石破茂の方針で、見捨てています!政治家は保身の為に選挙!官僚達はひたすら金を貪る守銭奴と、化している! 

そんな日本にも、まだまだボランティアの方々がいらっしゃる事には、感謝しかない! 

ありがとうございます。 

日本政府は見習うべきだ! 

見捨てるのではなく助けろ! 

 

▲1 ▼0 

 

 

=+=+=+=+= 

 

自民党は、震災を増税の道具に利用するだけで、復興の支援する気など全くないのだろうな。ウクライナには復興とか言って何兆円も金送った上、ウクライナの債務の連帯保証人にまでなっているのに。 

 

▲1 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

阪神淡路の様に明け方家族が揃ってる所で起きてみんなが犠牲になったのと東北みたいに平日のお昼に起きて親だけが犠牲になり子供達だけが取り残されるどちらも悲惨 

 

▲2 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

頑張れ、現地民が頑張る中、立憲の姿勢、特に米山の現地を一月そうそうに見捨てるかのような発言は、政治家として人として信じられなかった。 

 

▲1 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

あれだけ人々に助けられ支えられて復興した東北地震 

それを忘れて人を騙し人の生命あやめる悪人多発してるの見ると助ける気も起きません 

 

▲0 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

ボランティア頼みはやめてほしい。公的資金をしっかりと充ててしっかりと復興事業を迅速に行なうのが国家の責務 

 

▲77 ▼7 

 

=+=+=+=+= 

 

137万人ってすごい数ですね… 

能登か福島の地震の際勝手にボランティア行く人がいて抑えて抑えて!みたいなニュースがありました 

昔と違いますね 

時代ですね 

 

▲0 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

ボランティアもその時だけではなく、 

継続して参加することが大事。 

どうしても時間が経つと風化してしまうから。 

 

▲2 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

いつ自分の地域に災害か起きるか不安です。 

もっと政府がスピード感を持って災害に対応してもらいたい。その為にこんなに高い税金を納めたい。 

 

▲0 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

阪神神戸震災で親戚がマンションの一階な住んでて一階部分が潰れて亡くなりましたがもう過去の出来事です、能登半島の人達を早く助けてあげてください。 

政府は何やってるのか腹立たしい思いです。 

 

▲24 ▼8 

 

=+=+=+=+= 

 

臨時国会したらその歳費分の議員報酬から返納して支援に充てよう。 

国政外交を棚上げで個人スキャンダル吊るし上げ。検察ですか?メディアですか?というような職業議員が多すぎる。 

 

▲0 ▼0 

 

 

=+=+=+=+= 

 

今は、就職に有利という理由でボランティア活動する時代だからね 

素直に、素晴らしいですねとは思えない。 

 

▲1 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

阪神の時に村山富一の初動が遅かったって批判されたが石破はそれ以上!現在の石破は水産高校実習船が衝突沈没の方が入ってもチョコレート(握りの隠語)をかけたゴルフをしていた森以下! 

 

▲6 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

阪神地区は滅多に地震が起こらない地域。 

風化した頃には、大震災が起こるように 

なっています。 

 

▲1 ▼3 

 

=+=+=+=+= 

 

こういう時には、政治家の名前は出てこない、自分達さえ良ければという人間性が丸出し。日本の政治に大革命が必要な時期。 

 

▲0 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

微力は無力ではない 

なんていい言葉だろう 

支援だけではなく、日々のあらゆることに通じる言葉 

 

▲10 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

被災地支援者が蔑ろにされるのは今も昔も一緒だねー 

解体や水道復旧が遅れてるけど作業してる人たちの泊まるところさえ行政は与えない 

 

▲0 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

阪神淡路大震災から本日で30年ですね。もう30年てすか何か早いですわ。5時46分に黙祷してました。 

 

▲2 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

30年経って未だに体育館で雑魚寝、災害大国の日本で利権にしか興味のない今の自民党ではダメですね、既存のものを全てぶち壊してやってくれる人が必要です 

 

▲0 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

普段ヤフコメで地獄の住民みたいな書き込みしてる長生きしてる方々も当事者になると誰かを助けずにはいられなくなることを俺は知っている。 

 

▲0 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

あの時渡したあれ、今でも大切にしてますか?まるで昨日のことのように思い出します。 

 

▲0 ▼0 

 

 

=+=+=+=+= 

 

何気に目が覚め、ふと外を見た瞬間、空一面が光ったのを覚えている。 

その直後に揺れだした。 

 

▲0 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

「微力は無力ではない」 

 

ただただひたすら素直に頷ずけるフレーズですね。 

 

▲2 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

「微力は無力ではない」とても心に響きました 

 

▲75 ▼3 

 

=+=+=+=+= 

 

今日は阪神大震災のニュースで持ちきりな事を見込んでたフジテレビ社長の会見。 

 

▲2 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

コレをきっかけにどこぞのYouTuberやインフルエンサーみたいに 

金儲けに走らなければ良いがね。 

 

▲7 ▼11 

 

=+=+=+=+= 

 

『微力は無力ではない』とても説得力のある言葉です。 

 

▲2 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

まあそれはそれとして。行政は税金集めてるんだからちゃんとやって下さいよ。 

 

▲6 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

日本中から支援が届くのに永田町からは届かない。 

 

▲9 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

マスコミが、、、大騒ぎ? 

リアルタイムでヘリを出して!人を殺した 

(ヘリの騒音で、、、、)  

当時、村山首相で自衛隊の派遣が遅れた 

 

▲2 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

素晴らしいと思うけどこんなニュース見るたびに 

政治家に腹が立ってきてしまう、、 

 

▲0 ▼0 

 

 

 
 

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