( 250804 ) 2025/01/17 15:17:13 1 00 阪神大震災後の1年間に、被災地に137万人のボランティアが訪れた。 |
( 250806 ) 2025/01/17 15:17:13 0 00 阪神大震災発生後の1年間で、被災地には全国から延べ137万人ものボランティアが訪れた。戦後の経済成長を経て、日本が豊かになって初めて起きた巨大災害。大火にのまれる町並みや、倒壊家屋の前で立ち尽くす被災者の姿をテレビや新聞で知り、見ず知らずの誰かの助けになりたいと考えた人たちの心と体が自然と被災地に向いたのだ。
専門家が「革命」と表現する1年を契機に、歴史を着実に紡いできたボランティア。昨年の能登半島地震に向かった女子学生が防災やボランティアに関心を抱いたきっかけは、自身が生まれる9年も前に起きた阪神大震災だった。
避難所の小学校で炊き出しをするボランティアら(1995年2月、神戸市中央区で)
阪神大震災の発生から数日後、三重県津市の萩野茂樹(70)は、パソコン通信で被災地の深刻な状況を知った。「赤ちゃんの粉ミルクがない」「水と食料を求めて歩いている人がいる」「人手が足りていない」――。
当時はインターネット普及前で、断片的な情報しか得られなかったが、被災地の様子を見聞きした人たちから書き込まれた内容は衝撃的だった。いても立ってもいられず、電車で神戸方面に向かった。
阪急西宮北口駅にたどり着くと、外に老若男女が100メートル以上の列を作っていた。中には、東京からリュックサックに寝袋をくくりつけて来た女性もいた。
「半壊家屋の補修、男性4人」、「支援物資の配給、男女6人」――。その場で挙手制の「求人」が大声で行われていたという。
萩野は、その一つに応じ、瓦のはがれ落ちた屋根にブルーシートをはる作業など力仕事にあたった。「誰かの助けになりたいという人の数とその熱量に感動した。みんな自己紹介もほどほどに、一丸になって取り組んでいた」と振り返る。
被災地には、トラックで衣類やパンを大量に運んでくる人や、大釜で炊き出しを行う人も現れた。
読売新聞は発生2日後の1月19日朝刊で、神戸市災害対策本部が18日にボランティアの募集を始め、「初日だけで全国から約300人が応募した」と記した。
自然災害による死者・行方不明者数
内閣府によると、6434人が亡くなった1995年の阪神大震災以前の自然災害で、死者・行方不明者数が1000人を超えたのは、59年の伊勢湾台風(5098人)まで遡る。京都大防災研究所教授(防災心理学)の矢守克也 (61)は「この40年弱の平穏が『ボランティア元年』が生まれる背景の一つになった」と分析する。
戦後の約15年間に、数千人が命を落とす巨大災害が相次いで発生した。しかし当時は、国全体が復興途上にあり、「見ず知らずの遠くの誰かを案じて、助けに行くことはなかった」。その後、高度経済成長期と、地震活動が少ない期間とが重なった。
社会が豊かになって初めて起きた巨大災害が阪神大震災だった。消火活動が追いつかず、炎上を続ける町並みや、家族が取り残された倒壊家屋を見つめる被災者の姿をテレビや新聞で知り、助けになりたいと考えた人たちの心と体が自然と被災地に向いた。
矢守は「多くが災害の実体験を持たない一方、経済的、精神的に余裕があった。ボランティアの誕生は、あの時代だから起き得た革命だった」と指摘する。
阪神大震災の経験をもとに、備えの重要性を訴える矢守教授(10月19日、熊本市で)=長野浩一撮影
矢守はあの日、神戸の街から真っ黒な煙が立ち上るのを機上の窓から見ていた。知人を訪ねた熊本から大阪への帰りの便だった。
「自分も何かできることをしないと」。2日後、兵庫県芦屋市立精道小にたどり着いた。給水車からタンクに水を注いで、被災者のもとに運び続けた。防災の研究者としてではなく、市民としての行動だった。
「あした津波が来るなら、どこへ逃げますか。一つ選ぶなら、何を守るか決めていますか」。矢守はいま、講演でそう投げかける。日常がいかに尊くかけがえのないものか気づいてもらい、備えにしてもらう。その働きかけが、被災当時を知る者の務めだと信じている。
能登半島地震でボランティア活動をした経験について話す山口さん(京都市北区で)=川崎公太撮影
矢守らが大事にしてきた働きかけは、新たな芽吹きを生んでいる。立命館大の防災サークル「立命館FAST」代表の2年、山口穂菜美(20)は昨年2月、能登半島地震の被災地に立った。阪神大震災を機に生まれた「CODE海外災害援助市民センター」(神戸市)のボランティア活動に加わっていた。
石川県七尾市に入った山口が託されたのは、解体が迫った高齢女性宅から思い出の品を取り出すことだった。
身長1メートル52と小柄な山口は、倒れた家具の隙間に体を丸めて奥へ。家族写真やおそろいの皿を集めるうち、数字と名前が刻まれた柱が目に入る。子か孫か、誰かの成長の証しなのだろう。声を殺して泣いた。
被災者に話しかける山口さん(中央)(昨年2月、石川県内で)=山口さん提供
電気やガスが復旧していない地域で、山口らは足湯を用意した。そこに姿を見せた80歳代の女性は、夫が行方不明のまま。山口が不安や困り事を尋ねようとすると、女性は「明るい話を聞かせてほしい」と言う。学生生活について話すと、「あなたに元気を分けてもらったから、頑張って生きていく」と笑ってくれた。
山口は思った。「微力かもしれないけど、無力ではない」と。
防災に興味を抱いたきっかけは、自身が生まれる9年前に起きた阪神大震災。通っていた兵庫県明石市の小学校では毎年、地震が発生した1月17日に合わせて震災学習が行われており、訓練で校庭に避難した後、炊き出しをイメージした給食の豚汁を食べた。暗く寒い避難所で、人々が体を寄せ合う光景を想像した。
高校では、災害が多い発展途上国の現状を知ろうと、南太平洋の島国フィジーに留学。毎年のように大雨による洪水に見舞われながらも、住民同士が声を掛け、支え合う様子を見聞きした。
「身近なところから防災意識を高めていくことが必要だ」。そう考えた山口は、大学に入ると、「火の用心」を呼びかけ、ひとりでキャンパス周辺を巡回し、防災新聞を発行した。
少しずつ理解の輪が広がり、山口だけだった防災サークルのメンバーは1年後に25人になっていた。
夢は消防士になり、いつか国際協力機構(JICA)の国際緊急援助隊に入ること。災害時に人の命を救う職業だ。
自身の経験を踏まえ、災害ボランティアにもっと多くの人が関心を寄せてほしいと考える。「いま困っている人たちは、大切な誰かの未来の姿かも、と想像してほしい」
阪神大震災から30年。あの日があったからこそ生まれた、助け合いの光を輝かせたい。
大地震でのボランティア参加人数
ボランティアの活動は、災害発生前の「防災」への広がりも期待されている。
行政機関にも甚大な津波被害が及んだ2011年の東日本大震災では、自治体や消防、警察による「公助の限界」が浮き彫りになった。自ら身を守る「自助」と、地域の住民同士で支え合う「共助」の重要性が認識された。
ボランティアに求められているのは、平時の働きかけで共助の力を強化すること。地域の人口構造や地理的環境の弱みを根本から解消するのは難しいからだ。避難訓練や防災意識の啓発活動をいかに効果的に行い、人々に浸透させられるか。次の悲劇を防ぐカギになる。
※この記事は読売新聞とYahoo!ニュースとの共同連携企画です。
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