( 252004 )  2025/01/19 18:05:40  
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スズキの元社長であり世界有数の自動車メーカーを育て上げた鈴木修氏が亡くなった。

政治的な影響力も大きく、地元静岡県のリニア新幹線工事に反対するなど知られる存在だった。

篠原文也氏によると、鈴木氏は小泉純一郎氏に期待し、政界再編を訴えていた。

経営者としては、反骨心に満ち、海外市場への先見性や行動力があり、現場主義を貫いた。

政治への影響力も大きく、親和力や包容力も備えていた。

鈴木氏は90歳を越えても元気で現場を回り、ゴルフを楽しむなど活動的だったが、2021年に94歳で亡くなった。

(要約)

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photo by gettyimages 

 

スズキの社長や会長を40年以上務め、三兆円の年間売り上げを誇る世界有数の自動車メーカーに育て上げた鈴木修氏が昨年12月25日に亡くなった。享年94。 

 

海外進出の成功や、トヨタ自動車との資本提携など、カリスマ的な経営手腕はよく知られたところだが、地元・静岡県を素通りしてしまうリニア​新幹線の工事に反対し、川勝平太静岡県知事を支援するなど政治的な影響力も絶大だった。 

 

鈴木氏と親交が厚かった政治解説者の篠原文也氏(77歳)に話を聞いた。 

 

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私がテレビ東京の解説委員だった2001年の総裁選の最中に、ある政治家を介して三人で日本料理店で会食したのが最初の出会いです。第一印象は、政治に対する興味と関心がものすごいなと思いました。 

 

あの時は、当時首相だった森喜朗氏の跡目争いで、小泉純一郎氏と、二度目の登板を目指す橋本龍太郎氏が総理の座を争っていました。ただし、すでに小泉氏が圧倒的な人気を誇っていたすでに地方票の動向などでも、リードが伝えられていた。 

 

それに対して鈴木会長は「これはまずい」と言ったんですね。要するに「今の政治体制はよくない。政界再編に持ち込まないといけない」というのが持論でね。その一つの軸が、小泉氏だと期待していたんですね。 

 

小泉氏が総理にならないでいたほうが、一つの政界再編の軸になる。もしこのまま小泉氏が総理になってしまうと、その軸が失われてしまう。それを鈴木会長は嘆いていたんですね。 

 

事業への影響を懸念してか、あまり表舞台での国政への言及は避けていましたが、鈴木会長は常に一家言を持たれていたのです。鈴木会長は「政治家は、人柄がいい、頭がいい。この二つが大事だが、両方揃っている人はそう多くない。どちらか選ぶということになれば、俺は人柄がいい方を選ぶ」とよくおっしゃっていましたね。 

 

スズキが拠点を置く静岡県浜松市は鈴木会長のいわば金城湯池。圧倒的な"スズキ票"を持ち、歴代の浜松市長はその影響下にありました。静岡県知事も、川勝平太氏といい、現職の鈴木康友氏といい、鈴木会長のバックアップのもと、県政運営に携わってきた。 

 

そんな鈴木会長の政治力は国政にも及び、小沢一郎氏も、森喜朗氏も、幹事長時代は静岡を訪れると必ずといっていいほど"鈴木詣で"を繰り返していたと聞いています。同じ中央大学出身の二階俊博元幹事長とも親しい関係にありました。 

 

いわゆる"党人派"的な政治家にシンパシーを感じていたように思います。「小沢総理を一度見たかった」と語ることもありましたね。 

 

 

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経営者としては、反骨心に満ち、いい意味で破天荒な人でしたね。「中小企業のおやじ」を自称し続け、現場主義を貫いた人でもありました。 

 

先見性や行動力にも優れていました。最後発の自動車メーカーですから、成長のカギは、海外市場だということを早くから打ち出した。まだ競合他社が参入していない市場に狙いを定めるという、ある意味でニッチを狙う戦略でした。 

 

海外は1983年に現地生産を開始したインドや、その前に進出したパキスタンで圧倒的なシェアを獲得しました。インドのモディ首相とは、非常に親しかった。モディ首相の出身地のグジャラート州にスズキの工場があるんですね。 

 

「こんちきしょう」という負けず嫌いの精神が基礎にあるとご自身でも語っておられました。1975年に自動車の排ガス規制でスズキが大打撃を受けた時に、当時、専務取締役だった鈴木会長はトヨタとの協力を得て、乗り切った。 

 

その後に軽自動車「アルト」が大ヒットして、名実ともに軽自動車のトップメーカーになったのです。 

 

鈴木会長は若い時はお酒もタバコも麻雀もやられていたということでしたが、晩年は少しお酒を嗜む程度でした。早朝に起きると、新聞を四紙も五紙も抱えて読み込むのが日課だったといいます。 

 

90歳をこえられてからも、年にゴルフを60回近くやっていたといいます。自分なりのエンジョイするルールで無理なく回っていたとはいえ、驚きです。コースを歩いていらっしゃいましたから、足腰を強くすることも意識されていたと思います。 

 

相談役になってからも工場を回るなど、現場主義を貫かれた。とにかくカリスマ性が強く、全国の販売店の集まりに出席すると、"修ファン"の奥様方が鈴木会長の眉毛を触りにいくんです。中にはテッシュ紙まで持ってきて、「一本下さい」という人までいた(笑)。皆、鈴木会長の人間性に惚れていたのでしょう。 

 

非常に豪快だったけど、親分肌で同時に気さくで、愛嬌があり、義理人情に厚い人でした。親和力、包容力があり、相手を思いやる繊細さも持ち合わせていた。 

 

 

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私は政府の再就職等監視委員会や、中央教育審議会の委員などを務めていた関係で、2019年秋の叙勲で、旭日中綬章を受章しました。その時にホテルオークラの平安の間でパーティをやる予定でした。 

 

コロナ禍で流れてしまったのですが、その発起人に鈴木会長にもなっていただいていました。私がテレビ東京やBS11で番組を持っていた時も、協力してくれました。私が番組をやめるときには、「なんだ、やめるのか」と不満げでした。 

 

月刊誌の『潮』と『文藝春秋』で二回インタビューしましたが、思い出深いのは、2021年12月に文藝春秋でインタビューをした時のことです。 

 

コロナ禍が続いていた当時の世相について「ひとことで言えば、狂ってる。人間が、人間らしく生きることができていない。これはコロナのせいではなく、経済の問題です。経済が成長するのはいいことだけれど、すべてをお金ではかる価値観が生まれてしまった。そのために、人間が元々持っていた道徳観が失われてしまったんじゃないでしょうか」などと強く憂いていました。 

 

インタビューの後、鈴木会長からお誘いを受け、「天気がいいからゴルフでもしませんか」ということで、浜松市のスズキ直営のゴルフ場に行きました。食事もできるし、源泉掛け流しのお風呂もついている施設があり、一緒に時間を過ごしました。 

 

その後も鈴木会長はことあるごとに「もう一度浜松に来いよ」と声をかけてくれたのに、忙しさにかまかけて、実現できなかったことが心残りです。鈴木会長は自分なりの大局観を持ち、先見性を持って、今の日本を見つめていた。まさしく国士、警世家です。貴重な経済人がまた一人お亡くなりになってしまい、寂しい限りです。 

 

しのはら・ふみや/1947年大分県生まれ。政治解説者。早稲田大学政治経済学部卒業後、日本経済新聞政治部記者やテレビ東京解説委員を歴任し、現在は「篠原文也の直撃!ニッポン塾」主宰・塾長 

 

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