( 252494 )  2025/01/20 17:34:49  
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新型コロナウイルスの流行によってリモートワークが増え、通勤ラッシュは減少した。

これに加え、人口減少も鉄道会社に影響を与えており、ビジネスモデルの見直しが必要になっている。

京葉線の通勤快速が全廃され、現在の路線や列車運行体系の変化について詳しく紹介されている。

(要約)

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京葉線の東端・蘇我駅は京葉工業地帯の雰囲気が色濃い(撮影:小川裕夫) 

 

令和2(2020)年に感染拡大した新型コロナウイルスは、私たちのライフスタイルを一変させました。それまで自宅から会社へと通勤するという当たり前の生活スタイルは改められ、自宅で仕事をこなすリモートワークが普及。それに伴って、朝夕の通勤ラッシュは消失していきました。 

通勤ラッシュがなくなることは、満員電車に揺られる苦しい思いをしている利用者にとって朗報。ですが、鉄道会社にとっては利用者減につながり、好ましい話ではありせん。そうしたコロナ禍にくわえ、鉄道各社の今後を脅かすのが人口減少という社会問題です。鉄道会社は、なによりも人を多く運ぶことで鉄道事業を拡大し、それを源泉として商業施設の運営や住宅地の開発といった沿線でのビジネス展開を発展させてきました。そうしたビジネスモデルは人口増を前提に成り立っています。 

 

しかし、人口減少とコロナ禍による利用者減は鉄道会社のビジネスモデルを根底から崩壊させたのです。鉄道会社は崩れた将来図を再検討して、方針転換を余儀なくされました。 

 

そして、列車の運行体系を合理化して鉄道運行にかかる経費を縮減する方針へと切り替えていきます。それを象徴する出来事が、京葉線の通勤快速を全廃するというダイヤ改正でした。(※本記事は、『鉄道がつなぐ昭和100年史』(ビジネス社)より抜粋したものです) 

 

JR東日本千葉支社は令和5(2023)年12月に翌春のダイヤ改正を発表。そこには京葉線と内房線・外房線で直通運転していた通勤快速を全廃する内容が含まれました。また、同時に快速もデータイムのみの運転になることが盛り込まれていました。これが大きな波紋を呼び、テレビ・新聞・ネットなど各種メディアが盛んに取り上げたのです。 

 

京葉線は東京駅─蘇我駅間を結ぶ約43.0キロメートルの路線です。そのほか、市川塩浜駅─西船橋駅間の約5.9キロメートル、同じく西船橋駅─南船橋駅間の約5.4キロメートルの支線を有します。 

 

京葉線の通勤快速は東京駅─蘇我駅間を走っていましたが、東京方面へと走る朝の通勤快速は蘇我駅を出発すると、次は新木場駅に停車します。駅前に幕張新都心が広がる海浜幕張駅や平成10年代からタワマンが増えていた新浦安駅、ディズニーリゾートの玄関駅となっている舞浜駅には停車しません。これら3駅は京葉線内では需要が高いのですが、これらを通過する通勤快速は利用者にとって不便だったのです。 

 

 

従来、多くの駅を通過する速達列車は特急や急行の役割でした。快速は特急料金や急行料金を必要とせず、運賃のみで乗車できます。なぜJRは運賃だけで乗車できる快速列車を走らせていたのでしょうか。 

 

その理由は、昭和62(1987)年に国鉄が分割民営化したことと無縁ではありません。JRの前身だった国鉄は、慢性的な赤字に陥っていました。その赤字体質を改善するために、民間企業のJRへと改組したわけですが、大都市圏を抱えるJR東日本・東海・西日本3社は収入を増やす取り組みとして、通勤圏の拡大に力を入れたのです。なぜなら、通勤圏を拡大させれば鉄道需要が増大するからです。 

 

こうしてJR各社は通勤圏を拡大するべく、運賃のみで乗車できる快速列車を増やしていきます。同じ距離を走っても、快速は各駅停車よりも停車駅が少ないので所要時間が短く済みます。つまり、快速を走らせれば、遠方からの通勤が可能になります。 

 

JRは単なる快速ではなく新快速・特別快速・通勤快速といった具合に、さまざまな種類の快速を運行しました。京葉線は東京湾の東側に形成された京葉臨海工業地帯の物資を輸送する貨物線として構想されました。線路が東京方面へ延びていくと、沿線が少しずつ宅地化されていきます。 

 

そうした旅客需要が増えたことを契機に、京葉線は昭和61(1986)年に一部の区間で旅客運転を開始します。これが歳月とともに区間を延長して、平成2(1990)年に東京駅までが旅客化されたのです。 

 

東京駅─蘇我駅間の京葉線が全通したのと同時に、朝夕に運行される通勤快速が誕生。通勤快速は誕生した当初から内房線・外房線とも直通するダイヤが組まれていました。 

 

平成2年は厳密にはバブル景気が崩壊した直後にあたりますが、当時の日本はまだバブルの余韻を引きずっていました。そのため、東京近郊の不動産価格は高止まりしたままで、一般のサラリーマンが東京23区内にマイホームを構えることは非現実的だったのです。このタイミングで登場した京葉線の通勤快速は、内房線・外房線を東京のベッドタウン化させる大きな力を持っていました。 

 

内房線・外房線から東京駅まで通勤するのは大変ですが、当時は一戸建てというマイホーム神話は根強く、一般のサラリーマン世帯でも内房線・外房線なら一戸建てが買える価格だったのです。つまり、京葉線の通勤快速はマイホームを持ちたいという庶民の夢を後押しする列車でした。 

 

 

こうした庶民の夢を叶えてくれるような京葉線の通勤快速は、マイホームを持ちたいと考える庶民に支持されます。また、ベッドタウン化によって人口増を期待した内房線・外房線の沿線自治体も京葉線の通勤快速は歓迎されました。 

 

京葉線を運行するJR東日本も京葉線に力を入れていきます。平成7(1995)年には、葛西臨海公園駅と海浜幕張駅の2駅に追越設備を新設。この追越設備を新設したことによって、データイムに運行される快速の所要時間を2分、通勤快速は7分も短縮しました。さらに朝の時間帯に内房線・外房線から京葉線へと直通する通勤快速を1本増発しています。 

 

追越設備の新設は、翌年にも夜間帯に快速を2本増発するという効果を発揮。平成16(2004)年には外房線から京葉線へと直通する快速を朝に1本増発。平成18(2006)年にも快速を増発しています。 

 

JRにとっても遠方の利用者は運賃をたくさん払ってくれる上客です。そうした長距離通勤者たちに支えられて、運賃収入を増やしていきます。 

 

通勤圏の拡大は、京葉線だけに起こった現象ではありません。東京圏では東海道本線・東北本線(宇都宮線)・高崎線でも快速・通勤快速による通勤圏の拡大が図られています。 

 

こうした経緯を見ると、JR東日本が取り組んでいた通勤圏の拡大戦略は千葉県のみならず、神奈川県や埼玉県、茨城県、果ては群馬県・栃木県・山梨県・静岡県にも及んでいました。 

 

しかし、東海道本線・東北本線・高崎線の通勤快速は令和3(2021)年3月のダイヤ改正で廃止。東海道本線・東北本線・高崎線の通勤快速の廃止は、沿線自治体からの強い反発もなく、世間から注目を集めることはありませんでした。 

 

JR東日本千葉支社は以前から京葉線を走る通勤快速の運行本数を段階的に減らしていました。通勤快速の運転本数が減っても、特に沿線自治体や利用者から反発は出ていません。    

  

そうした事情を踏まえて、通勤快速の全廃に踏み切ったのです。 

 

通勤快速が全廃されると、内房線・外房線の利用者はそれまでより通勤時間が20分ほど増えます。20分早く家を出れば済むという話ではありません。子供を保育園へと預けてから通勤していた親にとって、20分早く家を出ても保育園が開いていません。保育園に子供を預けられなければ、東京へと通勤するというライフスタイルは成り立たないのです。 

 

 

京葉線の通勤快速は通勤圏の拡大に寄与し、それはJR東日本の収益拡大にも結びつきました。それにもかかわらず、なぜJR東日本千葉支社は京葉線の通勤快速を全廃させたのでしょうか 

 

JR東日本千葉支社は、京葉線の通勤快速全廃と朝夕の快速廃止の理由に「通勤快速を各駅停車へと置き換えることで、列車の利用者を平準化させること」「各駅停車の運転本数を増やすことで、快速が停車しない駅の利便性を高めること」「通勤快速や朝夕の快速がなくなることで通過待ちがなくなり、各駅停車の所要時間が短縮できる」の3点を挙げています。 

 

JR東日本千葉支社が挙げた3点のうち、もっとも注目された理由が1番目の「利用者を平準化させる」でした。 

 

京葉線は貨物専用線として計画されたという歴史があります。旅客運転を開始した直後は、沿線に倉庫や工場が多く点在していました。住宅が少ないこともあり、京葉線の区間だけでは通勤需要の拡大が難しいという事情がありました。そのため、直通運転をしている内房線や外房線で通勤需要を増やす必要がありました。 

 

しかし、平成17(2005)年頃から都心回帰が鮮明になり、東京近郊にタワーマンション(タワマン)が増え始めていったのです。タワマンの隆盛は神奈川県川崎市から始まります。川崎市は臨海部に大規模な工場が多く操業していましたが、これらの工場は平成期に地方へと移転していきました。 

 

その広大な跡地にタワマンが次々と建てられていきます。そうしたタワマンの影響で川崎市、特に武蔵小杉駅の周辺は局地的に人口を激増させたのです。 

 

武蔵小杉駅近隣タワマン住民は朝のラッシュ時に一斉に駅へと向かいます。そのタワマン住民が東京方面へと向かう電車に乗ろうとして長蛇の列をつくることが日常茶飯事になりました。駅混雑は日に日に激化し、危険水域に達していたのです。 

 

武蔵小杉駅の混雑は放置することができません。事故が起きれば、鉄道事業者であるJRの運行にも支障をきたし、電車の遅延は社会を混乱させることにもなるからです。 

 

この混雑問題は行政が対処に乗り出す事態へと発展しました。そして、同じようにタワマンが引き起こす局地的な人口増による混雑の問題が京葉線の沿線でも起きてしまうのです。 

 

京葉線の沿線で人口増が顕著だったのは新浦安駅ですが、駅前にららぽーとをはじめとする商業施設が立ち並ぶ南船橋駅も発展。そのほかの駅でも、タワマンが建ち始めていきます。そのタワマンの波は、年を経るごとに東京へと寄っていきました。都心寄りに通勤・通学需要が増えたことで、JRはわざわざ内房線・外房線といった遠方に電車を走らせる必要はなくなりました。遠方に電車を走らせることは非効率なのです。 

 

 

 
 

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