( 255114 )  2025/01/25 16:06:43  
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1931年の大相撲初場所で活躍した朝潮が後に横綱男女ノ川となる。

男女ノ川は横綱として活躍した後、年寄としての道も歩み、相撲協会理事も務めたが、突然年寄を廃業し、自由な生き方を選んだ。

男女ノ川はその後、政治や異業種に進出するも成功せず、最期は料亭の下足番として静かに生涯を終えた。

彼の生き方は世間的には「転落」と見なされることもあったが、彼にとっては自由な選択の結果であり、「転落」とは異なる存在だった。

(要約)

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1931(昭和6)年1月、初場所の番付表を見る朝潮(右)。この朝潮が後の横綱男女ノ川である(日本電報通信社撮影)(写真:共同通信社) 

 

 大相撲初場所も終盤を迎えているが、場所中に横綱・照ノ富士が引退を表明した。引退した力士が進む道といえば、年寄として部屋を持つのが理想だ。ただ、誰もがなれるわけではない。部屋を持つどころか相撲界に残って、食っていくのも簡単ではないが、ポストを得ながら、自ら去る者もいる。 

 

 34代横綱の男女ノ川(みなのがわ)もそのひとりだ。彼は1942年の引退後、一代年寄として相撲協会理事も務めたが、終戦直前の1945年6月に突如として年寄を廃業する。不祥事を起こしたわけでも誰かに辞めろと言われたわけでもない。突然、自ら辞めたのだ。そのとき41歳。理由は実に単純明快だった。理事会に出るのが面倒くさくなったのである。 

 

■ その人気で国技館を満員札止めに 

 

 男女ノ川は「忘れられた横綱」のひとりだろう。 

 

 1903年に現在の茨城県つくば市の農家の三男として生まれる。本名は坂田供二郎。190センチを超える上背と150キロに迫る巨漢から「仁王」と評された。しこ名は、郷里を詠んだ百人一首「筑波嶺(つくばね)の峰より落つる男女川 恋ぞつもりて淵となりぬる」からとった。 

 

 1924年の初土俵から頭角を現し、小結時代には千秋楽での武蔵山戦が大きな話題を呼び、両国国技館は18年ぶりの大入り満員札止めを記録した。巨体を活かしたかんぬきからの決め出しや小手投げは豪快だったが、下半身に欠陥があり、もろさも同居していた。 

 

 1936年に横綱に昇進する。後輩で歴史に名を残す横綱・双葉山について「俺が強くしてやった」と語るのが持ちネタだったが、実力では双葉山の完全な引き立て役で、全く歯が立たなかった。 

 

■ 型破りな横綱の素顔 

 

 横綱在位は11場所(当時は年2場所制)、87勝55敗22休という成績を残した。現在の1場所15日制に換算すれば、平均して9勝6敗程度の成績だ。 

 

 場所を皆勤して負け越す不名誉もあり、長い大相撲の歴史を通じて「最弱横綱」と揶揄されることもある。ただ、息子の坂田和夫は朝日新聞のインタビューに「皆勤負け越しは、途中休場して土俵から逃げなかった証し」と父を擁護している。 

 

 現役時代から型破りな一面を見せていた。自動車がまだ高価な時代に誰に相談することもなく車を買い、自ら運転して場所入りした。戦時下にガソリンが手に入らなくなると自転車で国技館に通った。 

 

 現役の横綱ながら大学の聴講生となり、巡業を休んで講義を聴講するなど、力士らしからぬ行動が目立った。 

 

 

■ 「転落」の先にあった自由 

 

 終戦直前に年寄を廃業した理由も常人では考えられないものだった。自宅の庭を開墾し農園を開いたら、農作業が楽しくなってしまい、理事会からも足が遠のいた。協会仕事が面倒くさくなり、辞めてしまったのだ。 

 

 自由な振る舞いは、時に危険を伴うこともあった。戦時中、三鷹の自宅で「この馬鹿げた戦争はいつ終わるのだ」と叫んだことがあった。息子の和夫は子ども心に「外に聞こえはしないか」とハラハラした。さらに男女ノ川は庭に出て、隣家に向かって「じいさん、じいさん」と声をかけた。その隣人こそ、徹底抗戦を訴え、終戦の日に自決した陸軍大臣・阿南惟幾だった。 

 

 農業を始めると収穫間際に作物を盗まれる被害に遭ったが、男女ノ川は盗まれたことに怒りを示すのではなく、「平和じゃないから盗む人がいるんだ」と戦時下の国を嘆いた。そんな気持ちは自然と政治に向かった。 

 

 「元横綱の知名度があれば当選できるだろ」。1946年4月の戦後初の民主的な選挙(第22回衆議院議員総選挙)に出馬する。しかし結果は惨敗。3年後の衆院選にも出馬するが、またも破れ、貯金は底をつき、農園も手放すことになる。 

 

 選挙後は、土建業、保険外交員、私立探偵、金融業と、職を転々とする人生が始まる。探偵事務所は自ら開いたが、190センチを超える巨体が災いして尾行が全くできず早々と断念した。 

 

 その後、思いがけずハリウッド映画に出演する機会も得たが俳優として大成することもなかった。 

 

 気ままな生活に妻子はついていけず、別居することになる。その後、脳出血で倒れて施設に入った男女ノ川を救ったのが、かつての後輩で時津風理事長となっていた双葉山だった。表向きは「有志」として当時で総額33万円という大金が贈られたが、実際はほぼ全額を双葉山が負担したという。 

 

 晩年は東京都武蔵村山市の料亭で過ごした。男女ノ川の最晩年については「料亭の下足番として生涯を終えた」という逸話が有名だ。『下足番になった横綱』(川端要寿、小学館文庫)という小説の題材にもなり、そのイメージが完全に定着してしまっている。 

 

 Wikipediaにも「下足番」のエピソードが記述されており、「栄華を極めた者の没落話」として語られがちだが、実際には支援者に料亭の敷地内に離れを新築してもらい、周囲からは「親方」と呼ばれて悠々自適の生活を送っていたという。気さくな性格から、玄関で客を出迎え、写真撮影にも快く応じていた姿が「下足番」として伝えられたのだという。 

 

 1971年1月19日、最期の日の前日。男女ノ川は虫歯に悩む息子にウイスキーで浸した脱脂綿を詰めた。珍しく父親らしく振舞った翌日、67歳で生涯を閉じた。 

 

 息子の和夫は「貧乏のまま亡くなった父ですが、本当の自由人だったんだと、いま思います」と振り返っている。 

 

■ 自分ならではの「物差し」 

 

 相撲界の常識や世間体にとらわれない生き方は「奇人」と評されたが、それは彼なりの自由を選んだ結果だったのかもしれない。引退後の人生は、世間的には「転落」と見なされがちだが、それは世間の物差しで測ったにすぎない。彼にとっては決して「転落」ではなかったのだ。 

 

 人生100年時代の今、キャリアの転換や引退後の生き方は、誰もが直面する課題となっている。男女ノ川の生きざまは自分なりの物差しを持つ重要性を教えてくれる。 

 

 参考文献 

川端要寿『下足番になった横綱』小学館文庫 

抜井規泰「角界余話 賜杯90年:6 男女ノ川の破天荒人生」『朝日新聞』2017年9月17日朝刊27面 

抜井規泰「角界余話 賜杯90年:7 「下足番」説、独り歩き」『朝日新聞』2017年9月17日朝刊25面 

 

栗下 直也 

 

 

 
 

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