( 257631 ) 2025/01/30 17:02:42 0 00 「格差が努力で乗り越えられる」という物語は、ますます現実味を失っている(写真:bee/PIXTA)
希望格差が拡大した令和社会において、自分の成功より「推し」の成功を望む若者が急増しているという。その背景には何があるのか。「パラサイト・シングル」や「婚活」などの言葉を世に出し、近著『希望格差社会、それから』を上梓した山田昌弘氏が解説する。
平成時代を総括すると、「停滞した豊かな社会」ということができる。昭和ではあたりまえに実現できていた、男性は仕事で努力すれば評価され、男女とも結婚して子どもを持ち豊かな生活を築くという、将来への希望が持てない人たちが増えていく。平成はそのような時代であった。
■「自分では無理」と思う人々
そして、令和になると、希望格差が固定化する傾向が強まっている。現実では努力しても、世代内でも(その人の人生の中でも)、世代間でも(子どもの世代になっても)、報われないと思う人々が増え、なかなか将来への希望が持てなくなっている。
一部の者は、停滞する中でも、自分が思い描く夢を実現していくことはできる。しかし、それは、能力が特段秀でていたり、親に恵まれていたりするなど、限られた人々になりつつある。少なくとも、多くの人は、「自分では無理」と思うようになっている。
テレビなどマスコミが、「貧しい親の元に生まれたけれど、努力して成功し豊かになった」人の実例を取り上げて宣伝することは、いまだに行われている。もちろん、今でもそのようなケースはあるだろう。
しかし、この「格差が努力で乗り越えられる」という物語は、ますます現実味を失っている。昭和の時代なら、「私も頑張ろう」になったかもしれないが、令和の時代には「別世界の出来事」として聞こえてしまう。
例えば、野球界で大谷翔平がアメリカで活躍している。若い人々の間でも大人気である。昭和の時代なら、自分も自分なりの世界で努力して活躍できるようになろうと「希望の星」という位置づけになっただろう。しかし、今の若者は、自分が身近な世界でもリアルに成功しそうもないことはわかっているから、彼を「推し」、つまり、応援する対象としてしまうのだ。
そう、現実の世界での成功が別世界の出来事なら、バーチャル世界の出来事、体験のほうがますますリアルに思えてくる、というわけである。
■分断と絶望の令和社会
令和期は、このまま、「リアルな世界で『豊かな家族生活』を築くという希望をなんとか実現できる人たち」と、それが無理なので、「バーチャルな世界に希望を求める人たち」への分裂が進行していく。
一方で、リアルな生活で希望を持てず、さらに、バーチャルな世界にも行けない人が存在する。つまり、希望の持てる仕事に就いているわけでもなく、生活が豊かになる見通しもない。自分を大切に思う家族もいなければ、理想的な結婚ができる見通しもない。
そのように現世に絶望した人の中から、欧米のように、原理主義的新興宗教に走る人もでてくる。平成にもオウム真理教事件があったし、近年では統一教会が話題になっているが、現世の財産をすべてなげうって来世に希望を託す人もいる。
また、秋葉原事件などにみられるように、現世に見切りをつけ、「不特定多数」の人を道連れに、「死刑になってもかまわない」と言って罪を犯す人もいる。
ただ、欧米に比べれば、その規模は小さいのが日本の特徴で、バーチャルな世界がリアルな世界で希望を失った人たちの受け皿になっていることが大きいと私は見ている。
筆者は、日本社会は世界の中で、経済的には、徐々に衰退していくと見ている。社会は分断され、大きな経済的発展はなく、少しずつ生活水準が低下する。この「少しずつ」というのがポイントだと思っている。
少子高齢化によって、現役世代が減少し、年金を受給する高齢者が増えていく。財政状況は徐々に悪化する。それ以上に、介護人材が大きく不足する。外国人に頼ろうとしても、日本の経済力が落ちているため、移民が来るどころか、チャンスを求めて海外に脱出する優秀な若者が増える。
経済成長は可能であっても、世界の成長率に比べれば、相対的に小さいままであろう。つまり、1人当たりGDPは、現在の先進国やアジアの新興国に遠く及ばないだけでなく、中進国にも追いつかれているかもしれない。
■優秀な官僚による経済・社会運営
日本の政府、官僚はとても優秀で、「大きな経済危機」、つまり、一度に多くの人が生活できなくなるという事態は防がれると見ている。全体が破綻しないように、大きな不満が出ないように、経済・社会は運営されていくであろう。
例えば、高齢者を例にとろう。年金水準を「少しずつ」引き下げる。新たに年金をもらう人は、比較のしようがないからそれを甘受するしかない。10年前にもらい始めた人に比べて相対的に少ない年金であっても、それを実感することはないだろう。だから、文句はあまり出ない。
公的な介護水準も「少しずつ」引き下げられる。例えば、同じ介護基準の人でも、以前は週2回入浴サービスを受けられていたのが、月に2回になるというレベルである。これも、新たに要介護者になる人にとっては、前と比較しようがないから、文句は出にくい。
日本人は、同じ立場の人の間で差が付くのは嫌がるし、今介護を受けている人が、突然その水準が低下すると怒り出すかもしれないが、前の世代と比較して水準が低下していてもあまり気に留めないものである。
なぜなら、年金水準や介護水準の低下は、現実に今でも起きていることだが、ほとんど目に見えない形で実施されるからである。また、比較的富裕な層は、公的な部分に頼らない形で老後の資金、介護計画を立てるので、大きな反対運動は起きないのである。
現役世代も、収入はあまり増えず、増えた分は、税金や社会保険料の上昇によって帳消しにされる。同年代で比較した場合、実質可処分所得は、平均的に見れば、今後、減ることはあっても増えることはない。しかし、同世代を見てみれば、皆が同じような収入で、同じような生活を送っていれば、大きな文句は出ない。
このように、平均的にみれば少しずつ、徐々に生活水準が低下する。そして、多くの国民は、それを仕方がないものとして受け入れていくだろう。なぜなら、多くの日本人は、リアルであれ、バーチャルであれ、それなりに満足しているからである。
■不満は比較から生まれる
結婚して伝統的家族を形成・維持できている人々(男性正規雇用者、正規雇用者と結婚した女性)は、子どもを育てながら、将来人並みの生活を送れるという希望を持つことができるだろう。
生活水準は、前の世代に比べれば低下するにしろ、「節約」すれば、「人並みの生活」は送れるし、時折、推し活やゲームなどのバーチャル世界で楽しめば、たいしたお金はかからない。
独身者など、将来、昭和型の家族が形成できない人も、リアルな世界で多少生活水準が落ちても、ゲームや推し活という世界で楽しむことができる程度の収入がある限り、文句は言わない。
不満は比較によって生まれる。みんな一緒に少しずつ、貧しくなるのであれば、多くの人は不満を持たない。みんな一緒というのがポイントである。現代の日本人は、何よりも、自分だけ損をすることを最も嫌う。自分が多少損をしても、周りのほかの人が同じくらい損をするならば耐えられる。
もちろん、人並みの生活自体が成り立たない、バーチャルに使える程度の収入もないという状態になれば怒るだろうが、そうでない限り、今のままの生活が続くことを願う。そして、その願いは、政府、官僚がかなえてくれているし、自分が何もしなくても、政府が安定した社会を保証してくれると信じているともいえる。
また、比較の対象が身近な国内である限り、大きな不満は起きない。円安もあり、近年は海外旅行に行く人も減っており、発展する豊かな海外を垣間見る人でさえ少なくなる。さらに留学や仕事で海外生活をするなど、海外の豊かな生活を羨望の目で見る人(私もだが)は少数派である。
能力がある人は、社会を変えることにエネルギーを注ぐよりも、海外で活躍したほうが合理的である。NHKで話題になった『ルポ海外出稼ぎ』では、いわゆるサービス業などのアルバイトであっても、オーストラリアやカナダのほうがはるかに高給を稼げる。英語に不自由なければ、海外で働いたほうが、よほど将来に希望が持てる生活ができる。
それが大きな流れにならないのは、やはり、「リスクをとりたくない」という若者がまだまだ多いからだ。だから、優秀な人材が大挙して海外流出し、日本社会が立ちゆかなくなる可能性も低いと見ている。
高収入になるチャンスがあったとしても、貧しくとも安定した生活を送るのがよいというような若者を、われわれ大人たちが育てたというのは、この事態を見越してのことだろうか。
■国民の多くが改革を望んでいない
政治に目を転じれば、国内で安定した生活が送れると思っている人は、わざわざ、自分が損をする「かもしれない」ような社会改革は、必要ないと思っている。多くの国民がそう思っている以上、政治家や官僚もその願望に従わざるをえない。将来の日本のためによいと思っても、そのような改革が現在の犠牲を伴うものであれば、だれも行おうとしないからである。
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