( 259633 ) 2025/02/03 16:25:59 2 00 「性的すぎる」「芸術だ」 街の裸婦像、もはや“時代遅れ”? ジェンダー意識の高まり? 市民は困惑、都市空間と芸術の関係を再考するMerkmal 2/3(月) 11:50 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/43755eaa7c95df0c817c5b014be6cb7b4511c003 |
( 259636 ) 2025/02/03 16:25:59 0 00 裸婦像(画像:写真AC)
都市を歩けば、ふと目に入る彫刻がある。ブロンズや石膏でかたどられた裸婦像だ。商業施設の前、公園の一角、駅前のロータリー。無言のまま佇むこれらの像が、近年「時代遅れ」と指摘される場面が増えている。
静岡市や宝塚市での議論をはじめ、各地で裸婦像の存廃が問われるなか、本当に「現代の価値観にそぐわない」のかを再考する必要がある。
裸婦像の存在は、都市のあり方そのものと密接に結びついている。
・都市景観 ・公共空間の役割 ・移動する人々の視点
芸術と都市の関係を見つめ直すことで、この問題の新たな地平が開けるのではないか。
裸婦像(画像:写真AC)
裸婦像が「時代遅れ」とされる背景には、価値観の変化がある。
・ジェンダー意識の高まり ・多様性の尊重 ・公共空間の利用目的の変化
が、その主な要因だ。特にジェンダーの観点からは、
「女性の身体を公共の場にさらすことが適切なのか」
という問いが浮上している。かつては美術作品として無批判に受け入れられていたものが、今では異なる視点から再評価される時代になった。
静岡市の難波喬司市長は、
「公共の開かれた目につきやすい空間に置くのではなく、作品の鑑賞環境に相応しい場所に置くのがよい」(テレビ静岡、2024年12月19日付け記事)
と述べている。これは、裸婦像の芸術的価値を否定するものではないが、都市の景観が社会の変化を反映すべきだという考え方の表れだ。
一方、設置当時の市長である天野進吾氏(在任期間:1987~1994年)は、
「『性的』と言うこと自体が未熟な感覚。『ヌードだから』と、いやらしさを感じるバカはいない」(同)
とし、むしろ裸婦像を否定することこそが問題だと指摘する。こうした過去と現在の価値観の対立こそが、裸婦像をめぐる議論の本質を浮き彫りにしている。
裸婦像(画像:写真AC)
裸婦像は、そもそも何のために設置されたのか。都市のモニュメントとしての役割を考えれば、単なる美術作品ではなく、街の象徴や景観の一部として機能してきたことがわかる。
都市空間におけるモニュメントの意義は、場所の記憶と密接に結びついている。歴史的建造物や記念碑と同様に、都市に
「意味」
を付与する役割を果たしてきた。駅前や橋、公園に設置された裸婦像も、その空間の個性を形成する要素のひとつだ。
しかし、現代の都市計画では「公共空間にふさわしいかどうか」がより重視される。利用者の快適性や利便性が優先されるなか、「裸婦像が不快に感じる人がいるならば移動すべき」という意見も出てくる。
では、裸婦像が都市の利用者に与える影響はどれほどのものなのか。静岡駅南口を訪れた市民の多くは「特に気にならない」(同)と回答している。この結果が示唆するのは、問題視する人の声が注目される一方で、大多数の人々にとっては関心の薄い存在である可能性だ。
裸婦像(画像:写真AC)
裸婦像の存廃をめぐる議論は、
「撤去か移設か」
という二択で語られることが多い。しかし、この問題を単純な二元論で捉えるのは適切だろうか。
欧米の都市では、彫刻やアート作品にインタラクティブな要素を取り入れる動きが広がっている。デジタル技術を活用し、像の背景や芸術的意図を解説するAR(拡張現実)を導入すれば、現代の視点から再評価する機会となるかもしれない。裸婦像に限らず、都市のモニュメント全体のあり方を見直すことで、新たな価値を創出することも可能だ。
都市には多様な人々が行き交う。一部の人が不快に感じるからといって、すべてを撤去するのが最善策なのか。それとも、歴史や芸術性を学べる環境を整えることで、多様な価値観を受け入れる道を開くべきなのか。この問いに対する答えは、ひとつではない。
裸婦像(画像:写真AC)
裸婦像の議論が浮き彫りにするのは、都市における芸術の役割をどう考えるべきかという根本的な問題だ。
芸術は、万人に受け入れられるものではない。それでも都市に存在し続けることで、文化の厚みを生み出してきた。しかし、公共空間に設置される以上、時代の価値観の変化を無視することはできない。
仮に裸婦像を撤去するのであれば、それは「時代遅れだから」といった単純な理由ではなく、都市のあり方を見直した結果であるべきだ。逆に存続させるのであれば、なぜその場にあり続ける必要があるのか、明確な説明が求められる。
都市の景観は、そこに住む人々や訪れる人々によって形作られる。裸婦像をめぐる議論は、単なる芸術作品の是非ではなく、都市空間における「共存」と「変化」のあり方を問いかけるものだ。
結局のところ、裸婦像は「現代の価値観にそぐわない」のか、それとも都市の文化として残すべきなのか。その答えを決めるのは、我々自身なのかもしれない。
小西マリア(フリーライター)
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( 259635 ) 2025/02/03 16:25:59 1 00 この会話の中では、裸婦像が公共の場にあることに対する意見が多岐にわたっています。
一方で、公共の場にある裸婦像が見る人々にどう映るか、という視点からの意見もあります。
さらに、芸術作品としての裸婦像に対する歴史的背景や、過去に起きた裸婦像に関する事件や修正について触れるコメントも見受けられます。
(まとめ) | ( 259637 ) 2025/02/03 16:25:59 0 00 =+=+=+=+=
言うほど生々しさはない、と感じますが。昔ヨーロッパでそういう運動があって、美術館などで絵や彫刻に布を巻く、と言うことがありましたね。個人的には半裸女性が顔を赤らめて、焦点の合わない目をしているようなイラストや、不快感やコンプレックスを煽るようなネット広告のほうが、視界に入って後悔、と感じることが多いですが、向こうもお商売なのである程度は仕方ないと思うしかないです。自分は好きではないから排除するのが正しい、と言うのは結構怖いことだと思いますし、そのブレーキが壊れた人の意見ばかりを受け入れるのも危険ですね。
▲448 ▼31
=+=+=+=+=
生活してる人の環境の変化が大きい様にあると思う。 バブルの様にカネが溢れて困っちゃう時代に、裸婦像があるのと、明日食べるご飯が無い時代の裸婦像は、見方が違うと思う。 他で言えば、同じ人間であっても、幼少期、少年、青年、壮年、でも各年齢事の見方は当然に変わる。
それに気付くか、気づかないかの出会いであって、畳の一点のしみを気にするか、しないかの違いとも言える気がする。
俺は芸術作品は、自分を見る鏡であると思ってる。
時間を置いて作品を見てみれば、見方がかわかもしれない。 だから、俺は置いておいて派だな。
▲50 ▼25
=+=+=+=+=
芸術は「人が見て美しい・素晴らしい」と感じることの表現です。その中には人体の形状も含まれ、当然そこには「性的な興奮」が含まれています。ですからそれらをみて「どき」っとしたり「いやらしい」と感じるのは、むしろ芸術家の狙い通りなのです。 しかし、緑色の石像にそれ以上興奮することは無いでしょう。だから、許される範囲の芸術であるわけです。変に性的な感情を否定してしまうのは人間の自然な有りようを否定することにもなり、裸婦像の議論はしても良いでしょうが、撤去にまで至るのは「表現の自由に対する検閲」で却って恐ろしいことが始まってしまったかのように思います。
▲444 ▼104
=+=+=+=+=
芸術も性的か性的じゃないかのラインは 個人個人で異なりますからね
今回の記事の芸術作品は裸婦像ですが 女性的なものを強調した絵画が 世の中にはあるんですよね
その絵画の名前は「世界の起源」 端的に言うと女性の下腹部を性器含めて リアルに描写してあります
ダビデ像も一部の人たちが卑猥だと言って 服を着せるなんてニュースもありましたが 本当に見極めが難しいと思います
私個人としてはダビデ像がセーフなら 世界の起源もセーフなので 裸婦像も芸術とみなすならアリだと思っています
▲4 ▼1
=+=+=+=+=
すべて美術館に納め、見たい人だけ見ればよいのでは。無料のエントランスなどでよいでしょう。雨水が防げて、ブロンズにとってもよいかもしれません。外のままだと、下手すると、金属の価値として窃盗されるかもしれません。太陽光発電の銅線が盗まれる時代です。芸術的な価値が無視されては困るので、美術館で保管するのがよいかも。
▲26 ▼11
=+=+=+=+=
そもそも裸婦像を性的に見た事なんてないし、大体その空間に溶け込んでしまっているので、特段気にかけることすらなかったな。まぁ、撤去までってのはやりすぎじゃないか?古くなってきたから無くす等、何かの折に対応すれば良いのでは?様々な意見があるなぁと感心するよ。
▲588 ▼80
=+=+=+=+=
うーん、言われてみれば、いつも使う駅などに飾られていたらなんか嫌かもしれない。男性の下半身丸出しのとか。 今の子供達は「水着で隠れる部分は人に見せてはいけない」と教育されているんですよね? 子供の視界に入ってしまう場所に、見せてはいけない部分を露出させた人の形を置くというのは、まあまあ矛盾がありますよねえ。公共の場に置くより(わざわざ見に行く人だけが見れる)美術館に置けばいいんじゃないですかね。
▲21 ▼11
=+=+=+=+=
高校生のころ、女子校に通う友人に文化祭に誘われて行って、「超キモいの見せてあげる」と見せられたのが、やはり裸体像。 どういう趣旨なのか、靴下だけ身に付けた若い娘の直立裸体像で、ブロンズ像のツヤ感がまた生々しさに拍車をかけていた。 台座に寄贈品の旨のプレートがあったが、学校側も困惑したと思われ、小さい通用口のだいぶひっそりした柱の陰に設置されていた。 同世代っぽい同性の裸体を芸術の名のもとに学舎に飾られて、異性の教師もそれを見てると考えるとセクハラにも思えたし、だいたいなんで靴下だけ履いてんの??と、違和感ばかり募る作品と場の組み合わせだった。
▲56 ▼11
=+=+=+=+=
日本のこうしたモニュメントは比較的新しいもので、たとえばローマの町中にみられるような神々や聖人の像とはわけが違う。そして、なぜその像をそこに置くのか、なぜその表現は裸婦でなくてはならないのかという文化的な意味合いについて共有されたかというと、おそらくされていない。なんとなく置かれたものが大半だと思う。 裏づけが乏しいから「時代に合わない」などという指摘が出るわけで、そうでなければ皆が納得して受け止めるものになっているはず。無関心層が大半だとしても、疑問視された時点で、果たしてそれがそこにふさわしいのか? そこにある意味は? と考えるのは、悪いことではないように思います。
▲128 ▼33
=+=+=+=+=
若かった頃、小太りになった体系も美とは言えない絵とか像に 綺麗で可憐なのをどうせ作るならそっちのがいいんじゃないのかなって 思ってたけど、歳を食うと、その体系になる過程が見えてきて 結婚して、子供産んで、育てて まあいろいろあったんだなって タッチがどうとかはわからないけどね シワとか、お肉の乗りとか、人生を感じますね
▲33 ▼16
=+=+=+=+=
もし裸婦像を禁止にしたら、次はあらゆる人物像が禁止になるよ。
美しいものは何か?と問われたら、その1つは人間の容姿です。 容姿に魅力を感じるから、人は人を好きになるし、彫刻や絵画や写真で残したいと思う。
裸婦像に反対する理由に「公共の場に不適切」というのがあるが、それはフェミニストみたいな連中のこじつけた方便であり、本当の理由は「気に入らない」から。 多様性のはずなのに一部の人間の「気に入らない」だけが優先される今の風潮は異常だよ。
▲565 ▼132
=+=+=+=+=
美術館などに行かなくても、日常の中にアートがあり鑑賞できる。 パブリックアートには、本来そういう意味があるわけで。 移設してしまったら、パブリックアートとしての意味は失われるし、作品の価値を棄損していると言ってもいい。
一方で、公共の場所にふさわしいかは議論の余地があり、何らかの正当な理由があれば、撤去も選択肢になり得ると思う。 だが、これはジェンダー意識の高まりというより、むしろ後退ではないだろうか。裸婦像が女性差別的であったり、女性の地位を低下させるのなら問題があるが、一見してそう受け取られる作品ではないと思う。
▲7 ▼6
=+=+=+=+=
芸術だよね。敢えて騒ぐ人達の性に関わる捉え方に問題が有ると思う。時代遅れだから駄目と言うのは考えが乏しい、有害とも思えないし芸術としてその時々の評価や受け止め方を尊重する意識も必要。
▲11 ▼8
=+=+=+=+=
このような芸術性のあるものが問題として取り上げられる時は注意したほうがいい。街で目にした時も単純に芸術性のあるものとの捉え方をしてきた。ジェンダーが盛んに叫ばれているがその思考に反するものが全て無くなってゆく入り口なのやも知れない。気がつけばあらゆる芸術性のあるものの合理的否定を促すきっかけになっていたりする。
▲128 ▼35
=+=+=+=+=
子供の頃はなんとなく裸婦像を目にするのが恥ずかしかった。今はなんとも思わないけど。 芸術と言い張れば芸術だし、性的と感じる人が多いのなら性的なんじゃない。 価値観なんて推移していくものなんだし。 最近はなんでも過剰反応でうるさいなーとは思います。
▲209 ▼31
=+=+=+=+=
もうそれを言い出したら、芸術というものすべてが性的と言うことになってしまう。というか、それは実際性的なのでしょう。性的であることを否定していいのか、そのあたりは、社会全体で議論して、たてまえだけではなく深く考えていかなくてはいけないのでしょう。極論を言えば、芸術すべてを破壊すればいい、音楽や演劇だってその対象になるかもしれない。そして何が残るのでしょう。もしかしたら、私たちは私たち自身をも破壊しなくてはいけなくなるのかも。
▲17 ▼14
=+=+=+=+=
裸像を芸術と捉える前提は、中世ヨーロッパにおけるキリスト教の締め付けとルネサンス期における人間の再発見、神に創造された人間もまた美しいものである、という文脈が必要。 日本はキリスト教徒がほとんど居ないわけで、上記の文脈のないままなんとなく芸術と言っているだけなら個人の趣味レベルでしかなく、存在しなくても良いものでもある。
▲41 ▼7
=+=+=+=+=
数年前まで福岡市には西鉄グランドホテルの並びに大人の裸男像がありましたね。その先には区役所に小便小僧もあります。大濠公園や平和台へ学校行事で通る度に皆んなでクスクスと笑いながら通った思い出があります。別に嫌らしくは感じなかった。ヨーロッパの子供たちは授業で美術館や屋外の裸像をスケッチしているところをよく見かけますね。なぜ不快に感じるかは見る側の性体験の事情にもあるのではないでしょうか。
▲4 ▼2
=+=+=+=+=
アンケート取ってから検討した方がいいのでは? ・時代遅れで問題があるので撤去すべき ・芸術なので問題ない ・問題あるかなんて考えた事ないし気にしていない おそらく大半が3番目だと思います。 少数の意見で他の大多数に影響を与えて、その大多数が不便になるのが、今のクレーム対応だと思っています。 ただし少数の意見も大事で、必要あれば議論する価値もあるでしょう。 その為にも、意見に対してモノを言わない大多数がどう思っているのか、まずはそこからでは? 記事では、クレームが市民の意思だとばかりに書いていますが、そんな事はないですよね。 過去の経験からものを言う年寄りではなく、この先、生きてゆく若い世代の意見こそ重視されるべきでは? なので、アンケート取って分析するべきではないでしょうか。
▲75 ▼20
=+=+=+=+=
ミケランジェロの弟子で、「ふんどし画家」という異名を付けられたダニエレ・ダ・ヴォルテッラを思い出した。
ミケランジェロの大作『最後の審判』は彼の死後「下半身を露出した男性が多すぎて、不謹慎だから」という理由で下半身を隠すように指示された。 加筆を命じられたのは、ミケランジェロの弟子ダニエレ・ダ・ヴォルテッラ。 ダニエレは局部を隠すように、外衣や腰巻を絵の上から描き足した。 その結果、ダニエレは「ふんどし画家」という異名で呼ばれるようになったそうな。 《アートテラーのとに~さんの文章より》
ミケランジェロ自身には「不謹慎」という意識は全く無かったと思うのだが…。
▲21 ▼1
=+=+=+=+=
芸術の線引きは曖昧なものではあるが、人の感性に於いては明確に思う。勿論、これは論理的な話では無くあくまでも感性で、明確とは大多数の意見(社会通念)を指す。人によってはモナリザに欲情といった話も聞くが、そういった感性は無視できる。
分かりづらい書き方だけど、裁判で争ったらいい。芸術とは異なるが同じ社会通念の話として公園の騒音問題(子供の声)がある。
日本では最高裁による司法判断はついていないものの、ドイツなどでは判決が出ており、「子供の声は騒音ではない」で決着をみたという。
街の裸婦像も基本同じで、性的描写の激しいか否か(芸術or猥褻)で個別判断にはなるだろうが、裸婦像全体の扱い(芸術の在り方)に対しては最高裁判決で決めれば良い。
この辺の所で喧々諤々と先に進めないのは日本では良くある風景に感じます。散々騒いだ挙句最後は「お上に一任」で民同士の解決はない。
▲0 ▼0
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1901年(明治34年)10月17日に腰巻き事件と言うのがあったみたい。深掘りしたい人は調べる事でこの記事の価値が高まるかも。その事件については、当時、与謝野鉄幹や森鴎外も意見を言っているし、新聞各社の意見も賛否両論あったみたい。 そして現代にまた議論が蘇る面白さ。 イタリア行ったときも男性像の股間に葉っぱが付いているものと付いていないものがあり気になったが、その時々により押し引きがあったのだろう。 日本には街中の銅像で、裸婦像に比べ裸の男性像が少ないかな。裸の男性像を増やしても良いんじゃないかな。(うーんが増えそう笑)
▲31 ▼5
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街に設置されているブロンズの裸婦像に対して、性的なオブジェを公共の場に置くとはけしからん!と叫ぶ意見は、本来芸術としてあるはずのものを性的なものだと主張するものだ。 一方で、陸上や新体操、ビーチバレーなどのコスチュームやユニフォーム、水着が盗撮されるとして問題視されており、これはすなわちそれ自体に性的な要素があると十分に考えられるが、スポーツ関係者やメディアは口を揃えて、それは結果を出すため必要な機能だ、演技の芸術性を引き出すものだ、性的なものではない、性的対象に見ること自体が間違っている!と叫ぶ。こちらはこちらで、性的なもの対して性的ではないと主張しているわけだ。 どちらの主張にも共通する矛盾や不都合な真実といったものがあるということだろう。
▲3 ▼4
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銅像を見て敏感に芸術性を感じ取れるほど 感性豊かな人間ばかりでは無いです
私もそういった感性を持ち合わせていないので 街中で1時間これを眺めていて下さいと言われても 恥ずかしいし周りの目が気になるので遠慮します
凡人としては もっとちゃんとした説明が欲しい なぜ裸婦像でなぜここにあるのか どのような意味を訴えたいのか 何も説明が無いまま芸術だから 理解しない奴がバカって言われても バカで申し訳ないけど、ちゃんと説明してください って思います それを聞いて なるほどねと納得すれば おそらく恥ずかしさは感じなくなると思います
移設するしないの前に ちゃんと意義を説明して 皆の理解を深めるべきです。 でないと作者に失礼だと思います
▲39 ▼14
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裸体は恥ずかしいものなのか?パイオニア探査機の金属板には人類からのメッセージを絵で記したもので、男女の裸が刻まれている。
古代オリンピックでは競技を全裸で行っていた。裸を恥ずかしいと思う感覚はキリスト教の影響で、ローマ人も男女混浴で風呂に入っていたし、わが国でも銭湯は当然のことながら混浴、人前で全裸を晒していたのだ。
裸体を恥ずかしいという文化は最近に、始まったことなのだ。
▲14 ▼10
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生理的嫌悪感と根源的欲求はコインの裏表のようなもので引き剥がす事は現状の人類では無理だと考える。その点を理解する寛容さが必要だが、一部の声の大きな人達のせいで迷惑している方々が少なからずいると思う。こういった人間の自然な感情を抑圧する事が犯罪に繋がる事を意識して貰いたい。
▲3 ▼3
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美術にあまり興味がない人は、裸婦をポルノぐらいにしか考えないのでしょうね。 なぜ芸術家は男性でも女性でも古今東西「裸」を選ぶかというと、服を着せた場合、その服のイメージが加わってしまうので「対象の人間自体」が違って表現されてしまうからです。 喜び、悲しみ、生命の躍動・衰退など「人間そのもの」をきちんろ表現しようとすれば、おのずと裸になります。 決して女性ばかりが表現されていないことは、ギリシャ・ローマの彫刻、「ダヴィデ像」はじめルネッサンス期の芸術を見れば明らかです。 芸術における裸の重要性を理解できるかどうかで、その人の芸術理解の高低が知れます。
▲59 ▼43
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撤去するほどでもないが、もし新しく作るならわざわざ裸婦である必要性はないと思う。地元の街にも裸婦像があるけど、いたずらで胸と股間にスプレーで色が着けられたり、逆に体にタオルを巻かれて隠されたりと色々事件が起こっていた。
▲80 ▼21
=+=+=+=+=
裸婦像はともかく、裸男像は街なかでほぼ見かけませんね。ハチ公などは人気がありますが、同族に関しては受け止め方は人それぞれということでしょう。特産品をアピールしている自治体もありますし、今後は烏賊とかトウモロコシとかそんな像が増えていくかもしれません。
▲68 ▼28
=+=+=+=+=
レーニン像も倒されましたし時代、思想、政治で無くなるものも出てくるのでしょう。私的には街中で男性裸体像、女性裸体像は少し恥ずかしいかな。 普段の着衣人物像であればなんら問題ない気はしますし、街中に溶け込む風景になるのではと思います。
▲28 ▼11
=+=+=+=+=
問題を大げさに複雑にしたら記事みたいな考えになるだろうけど
街中(不特定多数の人の目に触れる場所)に置くか、置かないかだけならシンプルに『像が無くなったら困る人がいるのか?』で答えは出る
現状、見たくない人がいて、街中にあるから目に入ってしまう 『像があっても気にならない』と言う人はいるが『裸婦像が必要だ、裸婦像がなければ困る』と言う人は居ない(少なくとも記事では触れてない)
『裸婦像があってもなくても気にしない人』と『裸婦像があると嫌な人』が住んでいる町で『なるべく多くの人の利益』を考えたら『裸婦像が無い方がいい』
見たくない人にまで見えてしまう街中に置かずに、見たい人が足を運んで観に行ける場所に置けばいいという結論になる
そんなことを許容したらもっとエスカレートして他の芸術も・・・みたいな想像をするとややこしくなるね
▲25 ▼2
=+=+=+=+=
芸術作品を性的な作品と認識している時点で恥ずかしいと思うが。 例えばそれで撤去、廃棄したとして、後年後悔するのは明らか。 時代によって価値観は変わるのは当然だろうが、当時の時代背景含め保存するのが必要。 なんでもかんでも時代にそぐわないと撤去、解体、廃棄処分してしまって国内に文化財が殆ど無いのが韓国。 国外に流出した文化財を後から貴重な物だと知り、返還しろと騒ぎ出す様な国に極論ではあるだろうが日本もなって良いんだろうか。
▲11 ▼9
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ようやく日本もここまで来ましたか。私は20年前に16年慣れ住んだアメリカから帰国した時に子供や高齢者が集う病院だの公園に裸婦像があることにぶっ飛びました。その後欧州人と結婚して日本に呼び寄せた妻も全く同じリアクションでした。男性中心だった日本では疑問に思う事もなかったのでしょうが、ようやくですね。
▲33 ▼19
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かつてミケランジェロの絵画に腰巻きを書き加えた画家は、「ふんどし画家」というあだ名をつけられた。 同じような裸体でも、神として描けば芸術で、人として描けば下劣とされた時代もあった。 何が正しいとか、決めるのは大衆で、芸術はそれに従うしかない。 これを馬鹿馬鹿しいと思う人でも、未成年に見える天使を新たに描ける人はもはやいないだろう。
▲9 ▼4
=+=+=+=+=
「芸術」といえば大抵のことが許される感じはあるよね…
街中で裸体を見たい女性は少ないと思う。 男性は知らないけど。 美術品を見たくてわざわざ見に行く場所に設置したらいいと思う。
▲14 ▼1
=+=+=+=+=
僕の田舎で50年前に同じ議論がありました。 小学校の前に裸婦像を建てる計画に対して、町長が1人反対したのです。 理由は「芸術なら何でも良いのか?小学生に相応しいものであるべきではないのか?」でした。 僕も小学生くらいの頃は、芸術としては受け止められなかった気がします。 記事の中にもある様に、芸術として愉しみたい人は美術館での展示で愉しみ、公共の場での公開はいろんな人の目に触れるので、慎む方が良いのではないでしょうか?
▲66 ▼15
=+=+=+=+=
あいかわらずハコモノ行政は盛んだが、公共の場に美術は不要、というのが世の趨勢だろう。だから、せめて、今あるものくらいは、大事にしてやったらどうか、ともおもう。
本当に公共の場とジェンダーの議論が必要なら、裸婦像にブラとパンツを付けてみたらよい。それがどう、見る人に語りかけるか。ワンピースを着せても良い。黒田清輝の裸婦画が別室に移され、下半身に布を掛けられて展示された「腰巻事件」から、われわれの意識は変わったのか、同じなのか。
▲13 ▼10
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公衆の場には裸婦像のほうが多いような印象。たまに裸の子供の像を見かけるけれど男性の裸の像は子供の像よりさらに少ないように感じる。それは作家が男性が多いからなのか女性の裸のほうが需要があるからなのか理由はわからない。 作家さんには申し訳ないが“裸の女性だな…”くらいにしか思わず素晴らしいともステキとも思わない。で、ときに“なんで裸婦像ばっかりなんだろうか”と思うんだな。
▲35 ▼0
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ジェンダーとか多様性とかコンプライアンスとか、今後に規制すれば良いだけで、過去の物にまで適用するのは行きすぎた感が否めない。 結局は流行りを煽ってるだけで世の中の人の認識は薄く、逆に意識が高まり行き過ぎると何も出来なくなる恐れの方が大きい。
▲44 ▼14
=+=+=+=+=
別にデフォルメされた裸婦像は何とも思わないけれど、リアルなのが街中に置いてあると、どきってしてしまう。ダビデ像とかだったらくらくらして倒れてしまうかもしれない。 作品がどうとかっていうよりは、芸術作品にそんな風に感じてしまう事自体が、私ってむっつり何じゃないかって後ろめたさを抱いてしまうのだけど。 美術館ならそういう芸術作品もあるかもって、心の準備もできているんだけど、街中で不意打ち的に見せられるとやっぱりどきどきしてしまうかな。子供と一緒だと気まずい感じ。撤去して欲しいとまでは思わないけれど。
▲27 ▼31
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まぁ宗教画における裸の女神だとかも元を正せばその時代の弾圧から逃れるための方便だったりするというのはあれど今更こういった物に性的だとか正直何言ってるんだ?って話で ジェンダー意識の高まりというよりそれに触発された過度な反応なだけでしょ 下手したら分かっててこういった物の弾圧を始めてる可能性すらある 始めはアニメや漫画の規制に躍起になってた物が今は芸術方面にも向いてるのは本気で危惧した方がいいんじゃないか?それこそ表現の自由の規制になるぞ
▲6 ▼7
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裸婦像が芸術の一環と捉えるかは人によると思うけど、やはり公共のの場に裸婦像を置くと決めたのは男性なのかな〜と思います。 別に裸婦じゃ無くて良いんじゃない?動物や他の物じゃ駄目なの?生身の女性が裸でいろんな ポーズで立ってたら問題あるのに像なら芸術になるからあちこち置いとこうって感じかな?
▲12 ▼4
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少しも性的魅力もない裸像の芸術的価値って、むしろなんなの?とも思うし、難しいね。
時代遅れという点に関しては、日展とかに行くと いつまで印象派の焼き直ししてんの?って思うこともしばしば。 勿論、印象派は素晴らしい功績を残してます。 長くなるので割愛しますが でも、しょっちゅうモネモネモネたまにゴッホ。 もーいい!っと思ったりもする。 彫刻も、そろそろ違うの見たいぞ。
▲0 ▼0
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別に服着てようが脱いでようが何も感じないんで、この件に神経質になる人って偏った見方しかできなくて残念な人だなとは思ってる
自分は絵を勉強していたので、本物の人間相手のヌードデッサンもしたことある 性的かと聞かれたら 「生き物の形として自分と同じ物体を絵にすることは意外と難しい」 と返事すると思う 性に対するあらゆる防護壁と偏見が渦巻く世の中ですが
銅像にいちゃもん付ける暇あったら性犯罪の厳罰化とかそっち話した方が建設的だと思う 銅像で興奮する人間はめったにいないが、見ず知らずの人間見て興奮する人は一定数いますから
▲8 ▼10
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別に不適切かどうかよりも、古いんじゃないかな。 芸術作品として現代のセンスとか景観にマッチしてないのでは? とりあえず裸の像を飾って見た人が「うーん芸術的だ。」って思わなくて、やらしいとか思うような時代になった。 どうせ飾るなら、今流行しているアートとか、最先端の芸術作品に変えたら、面白くなると思う。
▲33 ▼37
=+=+=+=+=
裸婦像が公共の場にそぐわない理由で撤去されるのであれば、美術館にも美術の教科書にも・・・となるのでは。 それに裸婦像をそんな目でみていたのと思ってしまいます。昨今の露出の激しい服装に比べてたらと思います。
▲6 ▼13
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「性的過ぎる」って感じるのは、自分の心の中にそう云う気持ちが有るからじゃないですか。 近年のエロ雑誌のグラビアとは、訳が違うんですよ。 有名な「ミロのヴィーナス」や「円盤投げの像」を始めとするギリシャ彫刻を見て卑猥な物を感じますが? 感じるとすれば、それは見る人の心の中に邪念が有るからではないかと思います。
▲28 ▼30
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こうした裸婦像が芸術作品として沢山生まれた背景には近世までの知識人階級の社会では人間らしさ、特に女性らしさをタブーとして忌むべきもの隠すべきものとして否定してきたことへの批判や反省がある。 ジェンダーを理由に批判するのは時代の先端どころか先祖帰りに近いものだと思うのですが、こうした価値観を推進してきた層が同時にAIやら無人化を好むあたりはさもありなん、といったところ、
▲3 ▼2
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芸術作品を芸術作品として見ることを教えればいいだけで、これは時代に左右されることではない
芸術作品を性的対象に見る人の意見が全体の意見になってはならない
御上先生で議論の重要性が作品として述べられているが、日本は決めつけて相手の意見に耳を傾けない風潮があることを認識して行動しなければならない
女体を目にしたとき、ナイスかナイスでないか、好きな人と好きじゃない人と祖母や母や姉妹、それぞれにどんな印象を受けるのか、ただエロいものにしか見えないなんてことはないはずだし、まだ本物の他人の始まり女体を見たことがないときと色々と経験したあとの自分を比べても同じ裸婦像を見たときに印象は違っているはずだ
エロいものと見るのも芸術作品として見るのも別にどちらでもいいんじゃないのかと、個人的には思っていてエロいものと観てしまうことに関してはわざわざ隠す必要もないと思っている
▲4 ▼9
=+=+=+=+=
システィーナ礼拝堂の壁画をイエスやマリア、その他聖人をミケランジェロは生まれたままの姿で描いたのですが、後に宗教改革の波が来て腰布を別の画家に描かせたら、後の世にその画家さんは下着屋と呼ばれたそうです。 得てして芸術性を大事にしてる銅像は胸や局部は強調しないし、生身の人間が公共の場でどうするか、と銅像や絵画は分けて考えて良いと思います。 SNSやニュースのCMに付いてくるやたら性的な広告や美容整形の広告のが、タチが悪いです。見る前に拒否するには有料だし。
▲32 ▼6
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銅像のどこに性的に高揚させる要素があるのかわからんのだが この調子だと、ルノワールの絵だのミケランジェロの銅像などは、18禁になりそうだし、男性向けグラビアにクレームを入れる輩もいるようだし、本当に日本は表現の自由が保証された国なのか?と思うのだが
▲132 ▼40
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芸術でも良いんだけど、だからって税金はたいて、裸婦像を購入して公共の場でどどーんと置かなくても良いのかなぁという気がする。 裸婦像のモデルになった人、本当にやりたかったのか、お金のために無理してやったかもなんて思い巡らせると、見るのが辛いんです。
▲27 ▼7
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裸婦像が駄目なら、ギリシア・ローマの彫像やルネッサンス期の彫刻・絵画も駄目なのか。 近・現代でも著名な芸術家の多くが題材として取り入れている。 宝塚の女性裸婦像問題も設置のときから知っているが、女性活動家達が大騒ぎしてたけど、結局設置されてからの約40年、付近の景観の一部となって何の問題もなかった。 橋の修繕工事で一時撤去されたが、ジェンダー意識が高まる時期ともあって再設置反対の声が上がり、結局再設置されなかった。 設置時・再設置時共、時代に翻弄された作品だったと思う。 多くの人が芸術作品として認識していたのに、突然、少数の声で撤去されるのが正しいといえるのだろうか。
▲9 ▼8
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私が夢想すること、、、 アマゾンあたりの裸族の一つに偉大な指導者が出てきて、 瞬く間に世界の科学技術や文化芸術の主流に躍り出た。 彼らは先進的な技術や文化を持つと同時に、 老若男女とも衣装は下半身の最低限を隠すため以外には身につけないという伝統を持ち続けた。 そして世界に問いかける。 イスラムの女性が髪を、体の線を隠すことを強いられるのを非難している人たちが、 なぜ女性が胸を隠すことを強いているのか? これもまた女性差別ではないのか?
あるいは大相撲の力士たちにもTシャツを着て相撲を取ることを強いるべきか?
▲0 ▼1
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維持費が掛かったり、新規に作るなら要らない。 倒壊のおそれも無く撤去費用の方が高いなら撤去する必要は無いと思いますよ
そういった文化への支出は余裕が有るときにするもので、自治体にも住民にも余裕が無い時代にするものでは無いでしょう。
▲0 ▼1
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裸婦像が設置されるようになった経緯を調べれば良いと思います。 明治維新後に欧米の何処かを真似たのだと思います。その場合でも欧米で広くあった文化なのか、何処かの国がやっていたものを取り入れたのか。 もしかしたら、日本で受け入れられて広まった背景には、体操着のブルマと同じで男性から見れば、そういうのが広まるならラッキーなので反対が少なくなるという側面が無かったと言えるでしょうか。
▲32 ▼44
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こういった銅像は何のために飾ってあるのか分からない。子供の時に「あれ何?何で裸なの?恥ずかしくないの?」と先生にみんなが聞いたけど芸術作品だからと返されて変なのと思ったことがあった。 撤去ではなく置く場所の配慮があっても良いのでは?と思う。
▲141 ▼132
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社会のOSが人権やそこから派生する「価値観」で動いている以上、柔軟な姿勢で撤去すればいいと思う。ただ、何らかの開かれた議論をしないままだと、何となくの時代だからとか、一部の価値観主張の声でふわふわ動いてしまうことになる。芸術を社会の方から疎外するものとなる。
▲12 ▼6
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銅像を見て性的だと考える人、四六時中そんな視点で世の中見ていて疲れないんだろうか。 その内、花壇に植えてる花を「花は植物の生殖器だから見ていて不快」「花に興奮を覚える人もいるから撤去すべき」と言われるようになるのかも。
▲3 ▼2
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製作者側は芸術だから「いやらしい」と思うな!と主張するけど、ではなぜ胸や尻は表現するのに股間はリアルに表現しないのですか?それは製作者側も「さすがにその部位はいやらしい」と線引きしているからなのでは?「裸体は芸術だ!」と言い張るならとことん突き詰めて股間の細部までも芸術だ!と主張して制作すればいいと思います。どこまでが芸術で、どこからがいやらしいのかの判断基準が曖昧ですよね。
▲80 ▼126
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「これは一体何なのか?」それに対して「自分はなぜ、そう感じるのか」「他の人はなぜ、そう感じたのか」を考えることは重要だと思います。 すぐ批判に同調して「相手を袋叩きにする」のは日本人の悪い癖。もう一歩、深く考えるだけで、物事の見え方が激変すると思います。
▲2 ▼2
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裸婦像って、私は男だから歓迎するよ。小便小僧、子どもの像だから許容範囲です。でもね、公の場で設置ってのはジェンダーどうのこうという以前から嫌でしたね。ましてやそういう像に対して芸術を感じたことはありません。美術や工芸家にとしての才能はあるんでしょうけど。
▲1 ▼1
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世界的に見てこれほど街中に裸婦像があるのは日本だけらしい。
『文明国は街のあちこちに裸の像(美術的な像)がある』と間違えた情報が広まったせいだと聞いたことがある。
これが本当なのかどうかは知らないけど、確かに海外ではあまり見かけないような気がする。
▲33 ▼8
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ブロンズの彫刻っていうジャンルが流行った時代があったんだろうな。今見るその世代のジジくさい芸術カテゴリーとしか感じない。西洋文化への憧れだったんでしょうな。
▲21 ▼5
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モデルを強制するのは論外なのは当然として、 本来、芸術は、作者が創造したいものを自由に創造すべきだと思うのだが。 例えばナチスの壁画などの様に、市民の総意で公共の場に設置するのが相応しくない、となれば撤去すべきだと思うけど。 時代遅れって、何基準なのだろう。 古代ギリシャの裸の彫像に、時代遅れって言うのだろうか。 そんな事言う人に、芸術の可否を語る資格が有るのだろうか。
▲5 ▼5
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「性的になんて見るわけがない!」とはいえ局部が露わな男性の裸像は、裸婦像に比べて明らかに公共の場に少ない。 また児童の裸像に対してならより抵抗感を持つ人が多いのではないか。 見る側の性的どうこうの話じゃないと思うんだよねこれって。 (今も、子供や男性の裸像あるにはありますけどね)
▲4 ▼1
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男の銅像もちゃんとあるぞ 青梅駅はズボン履いてるが津田沼駅はありのまま 錦糸町のバンザイ男児像は心が疲れた時に見ると クヨクヨ悩んでるのがバカらしくなる温かいパワーに満ちている
▲13 ▼4
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ある街の広い橋の真ん中あたりに、大事な部分丸出しの男性の裸体像があった時はギョッとしたな・・・まぁ、ダビデ像と同じような物だと思えば良いんだろうけど、地元の防犯メールには、小学生が露出狂の男と遭遇したので注意を呼び掛けているとあるし・・・芸術も見せたい、変態も見えたい・・・紙一重なんだろうか。
▲7 ▼0
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博物館周辺に女性や、男性の肌を露わにした銅像が点在してて、アプリポケモンGOでまわってた時、胸部をアップにした写真が登録されてて、周りに人が居ないかキョロキョロしてました
▲10 ▼46
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以前どこかの公園にダビデ像のレプリカを設置したら、近隣住民から卑猥だと言われてパンツを履かせろと言われていたのを思い出した。 当時バカなの?と思ったけど、またこんなネタで騒ぎになるとはね。
▲2 ▼1
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ジェンダーとか抜きに、あえて裸婦ばかりモチーフにしてきたのも芸術家としてどうかと思うよ。 服着ててもいいじゃん。マリア像だってちゃんと着てる。 作家が、服を表現するのが難しかったから裸婦ばかりになったのかも。ある種の手抜き。 私も裸婦はウンザリです。作者が作っていて楽しいというだけのものなら、作者の自宅に保管してほしい。
もっと、意外性があり自然に美しいと思えるような作品、あるいはその地域の由来などを表すような作品こそが、公共の場にふさわしいと思います。
▲31 ▼11
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特に気にならないっていうのは見慣れてるせいじゃない? 裸である必要があるのか、そこに像を置く必要があるのか。 私が住んでいる自治体は役所の前に色んなオブジェを置くのに大金をかけて随分批判された。 何のための、誰のためのと考えれば自ずと答えは出ると思うんだけど。
▲13 ▼0
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個人的にはブロンズ像を見て性的だとは思わないが、何で裸婦が圧倒的に多いのか? (ダビデ像みたいな)男性像では駄目なのか? 薄衣を纏った女性像では駄目なのか? という疑問はある
某所で、四つん這いになった裸婦像があって、何でこのポーズ??芸術とは…?と思った事もあったり
「芸術とは?」と思わせるのが目的だから成功、とか言うのかな それにしても圧倒的に裸婦ばっかだよね 良い悪いは置いといて
▲10 ▼1
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歴史的価値をとるか、現在の価値観をとるか、まあまあ難しい問題ですね。 確実に意見が分かれる話です。 芸術的にも歴史的にも大した価値のないもの、つまり自治体とかがその時の感覚で作ったものに関しては撤去でいいのではないでしょうか。
▲0 ▼0
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芸術に時代遅れというのは価値観が凝り固まり過ぎていて、むしろ多様性の逆をいっているのではとすら思う。人間を表現するのに性を外して考えることはできないし、極端過ぎる考えはもはや差別的にも感じてしまう。
▲4 ▼5
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「芸術だから」で全てを容認していると、「報道だから」でやりたい放題しているフリーの記者みたいなのも認めなきゃいけなくなるよ。ある程度の線引きをしないと、何でもありになってしまう。
まあ、裸婦像に関しては歴史や伝統があって、芸術の中ではオーソドックスなものだから、批判されるいわれはないけどね。
▲4 ▼4
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私はこのような嫌悪感や不安感に繋がる認知の歪みを「概念アレルギー」と呼んでいます 問題なのは、情報工作によって容易に「概念アレルギー」を大衆に蔓延させることが出来るということです 為政者や、過激な主張をする人々や団体がヒステリックに騒げば、人々はそれに対して「うんざり」したり「不安になる」ようになります そうして「概念アレルギー」を身体の内部の風船のように膨張させていきます 刷り込みや洗脳の一種ですね
▲17 ▼8
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これ,実際に時代遅れというデータがあるのだろうか? 日展等みても,未だに裸婦像とか裸の男性像はあるし絵画でもある。 現代作家も普通に作品作っている。 現代の人の価値基準でも,そんなに目くじら立てることもないはずで,寧ろ昔の方が,うるさい人も居たような。 正直,この人が勝手に思いついただけで記事にしたというのが正しいのでは?
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裸婦像だけが撤去されていけば、性別による差別がどうのという問題になるため男の像も撤去せざるをえなくなるだろう。やがてはダビデ像すらも許されなくなっていくのだろうか。
▲3 ▼4
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絵を描く人は、元の骨格方や筋肉や贅肉のつき方男女違うし、それが美しいわけだから、勉強するんでしょうが、裸の女性が街にあって何を意味してるのか私もわからない。 昨日の選挙でも予想外の女性候補に多くの票が入ったのはいやらしい気持ち(もっと露骨な表現で言ってました)男性が入れたからだと評価する人もいる位なので街中に不要だと思いますね。
▲8 ▼1
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この程度のレベルで性的だ、不適切だって言ってたら、何もできなくなる。そもそも裸婦像やダビデ像を性的に見たことなんて無いけどな。バランス良くて綺麗な身体とは思うけど。 こういうの言ってるのは、何でも文句つけたがるクレーマーみたいな人な気がするけどね。
性別の美しさがテーマであって、卑猥さではないのだから、これすら許容できないとなると、性別を感じるものは全てダメになっていくと思う。 じゃミニスカやタンクトップはいいのか?とか。性的に見える無機物は?とか。
まぁどこまではオッケーって、人それぞれだから線引きは難しいけど。 やりすぎたら、生き難くなるし、芸術とか表現が阻害されて閉塞していくと思う。
ほんとに酷いものは、規制していいと思うけど。
▲5 ▼5
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裸婦像に性的なものは感じないけれど、同じくらいに芸術性も感じない。 経年劣化で色褪せひび割れ、生気のない目やポーズは美しいというより怖いイメージ。
それを芸術を解する一部の人のために押し付け、駅や役所や公園の公共広場に一様に裸婦像を設置している様は、逆に芸術センスのなさを感じる。
▲6 ▼2
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最近は減ったけど、裸婦像より電車内の週刊誌の中吊りの方が不快だったり、子供に見せたくなかったりしたかな。ようは想像力や連想力の問題なので、裸婦像にイヤラシサを感じる人の方が想像力が逞しいと言う事かもしれない。ミロのヴィーナスもミケランジェロのダビデ象もダメなんだろうね、そう言う人には。見る人の品性の問題でしょ。それかジェンダー論に利用してるか。
▲3 ▼1
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裸婦像と言っても、当たり前にひとつひとつは違う訳で。 全裸もあれば半裸もあるし、あっけらかんと明るいものもあれば、ちょっとドキッとするようななまめかしいものもある。 ポーズによる違いなんかもある。ダビデ像と考える人はまさにそれ。
ある程度の人数にアンケート取って、取り代えたほうがいいかどうか決めればいいんじゃないかと思うけど、それじゃダメなの? 絵なんかは季節ごとに取り代えて全然不都合ないと思うんだけど、銅像ともなるとお金かかるってこと?
▲2 ▼0
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時代と共に変化した。 夏場の服装、水着、スポーツウェア等含め大きな変化です。 映画でも芸術作品と言えば許され変化が進みました。 然し、少数派のジェンダーまで考慮したらめちゃくちゃです!
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設置継続に費用がかからないならいいかもしれないけど、像の汚れ除去の為に毎年何万円もかけて専門業者に依頼してるとかだったら、撤去した方がいいと思う。 だって、「芸術」っていうけど、こんなの絵画転売とかが流行したバブル期の流行遺物だし、どうせ「市の今年度予算が余ったから何か買おう。・・・そうだ、隣の市が裸婦像置いてたからうちの置こう。」くらいのものでしょう? 芸術どころか、発想が「俗物」そのものだし、当時の市議会がいい加減な予算執行してきた証拠品以外の何物でもないですよ。 もちろん長崎平和公園の平和の像みたいに芸術的意味が共有されてる半裸像ならいいし、渋谷ハチ公みたいに愛されてる像ならいいですけど、 そうじゃないなら、裸婦でも裸夫でも着衣でも撤去でいいです。維持管理費がムダ。
▲3 ▼2
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小学生の子供に、何で銅像ってみんな裸の女の人なの?と聞かれたけど、ちょっと答えが浮かばなかった。裸体の美しさでいうなら、鍛えられた男性も十分美しいのに、日本の街中にある裸像はほぼ女性なんだよね。
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他方で表現の不自由展のように「表現の自由」を政治プロパガンダで悪用する輩もいますからね。 (表現の不自由展も古今東西の表現規制を取り上げていれば価値があるものなのに、「特定の政治主張」に偏っているから問題) 表現の不自由展を肯定している人間は例えば安倍氏を神格化する安倍神像なんてものを税金で作っても「芸術なら」「肯定」するのだろうか?
「芸術だから」と何でもかんでも許容してはいけない。
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そろそろ還暦になる者ですが、昔っから、なぜ街中にあのようなみっともない像を置くのか、不思議でならなかった。
公共の場である。 市民の意向を確認せず、役場の勝手な判断で、見苦しい物体を置き、放置するのは違法にはならないのか?
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子供の頃から裸婦のブロンズ像を見て余り良い感じは無いな。 公園や駅前広場に置いて在る意味が理解出来ない。 赤羽駅西口には男性が二人で全裸で肩を組んでいる銅像もあり、こちらは何か嫌な感じだな。
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