( 261609 )  2025/02/07 14:57:51  
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広島在住のフリーランス記者である宮崎さんは、東京で開かれた記者会見に出席しなかった。

なぜなら、移動が大変で子育て中のため余裕がなかったからだ。

会見をリアルタイムで聞きながら、自身の20年間の経験から、フジテレビの幹部や記者たちの態度について感想を述べる。

特に、幹部の言動やフリーランス記者の扱いについて痛烈な意見を述べ、メディア業界やジャーナリズムのあり方について考えを示す。

会見はメディア業界全体の問題を浮き彫りにした(要約)。

( 261611 )  2025/02/07 14:57:51  
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(写真:Splash/アフロ) 

 

 (宮崎園子:広島在住フリーランス記者、元朝日新聞記者) 

 

 もし東京にいたのならば、あの会見に出席しただろうか。「フルオープン」というのだから、メディア企業に属さないわたしのようなフリーランスの取材者も行こうと思えば行けた。だが結論を言うと、わたしは行かなかった。 

 

 そもそも、わたしの生活の拠点がある広島から東京は物理的に遠い。新幹線で往復8時間の移動をしつつ、抱えている仕事を傍に置いて参加する余裕はなかった。そして、これは結果論ではあるが、午後4時から午前2時過ぎまで、ぶっ続けで記者会見の場にいることなど、小学生の子育て中のわたしにはどだい無理だった。 

 

■ メディアのありようが問われた会見 

 

 ただ、自分が約20年間属していた「マスメディア」というか「オールドメディア」というか「記者クラブメディア」というか、そのギョーカイのありようが問われているという問題意識はあった。それに、動画撮影すらさせなかった前回会見で、排除されたフリーランスの取材者であるという立場でも、「やり直し」会見が一体どうなるのか関心があった。 

 

 結果的にどうしたかというと、会見をリアルタイムで聞いた。午前2時過ぎまでほとんど全編を、夕食を作りながら、片付けながら、確定申告に向けた事務作業をしながら、聞いた。 

 

 会見を現地取材していないのだから、今回の事案そのもの(中居正広氏とフジテレビをめぐる問題)について知ったように書くつもりもないし、専門家じゃないから解説するつもりもない。 

 

 だが、フジテレビや現場にいる多くの記者と同じギョーカイに20年所属した人間、そして、今も無所属で取材を続けるフリーの記者という立場で、「引き」で見た会見そのものから透けていると感じたことついて書き記しておきたい。 

 

 「神は細部に宿る」ってまさにこれだな。まずはそれが率直な感想だ。ずらっと並んだフジテレビ幹部たちが口でどんなにいいことを言っても、発する言葉の端々に、滲み出てしまっている残念さ。彼らは、それを自覚しているのだろうか。 

 

■ 身内に敬語を使う緊張感のなさに唖然 

 

 まず驚いたのが、一部の幹部が謙譲語を適切に使えないこと。身内に対して敬語的な表現を使うなんて。 

 

 会見では、37年間にわたって役員に君臨し続けているという取締役相談役(フジサンケイグループ代表)の日枝久氏が会見の場に臨席していないことに対する批判が記者側から噴出した。日枝氏に関する質問が向けられたとき、「(日枝氏から)お知恵を借りる」「相談役でいらっしゃいますので」「ご本人がご判断されること」などと、嘉納修治会長を中心に何度も敬語表現が飛び出したのだ。 

 

「企業風土の礎を作っているのは間違いない」(金光修フジ・メディア・ホールディングス社長)という日枝氏は、彼らにとって「身内」の人間のはずだ。にも関わらず、その日枝氏について語るとき、本来外部の人に対して使うべき敬語を無邪気に使っていた。何の説明がなくても「企業風土」「企業体質」がどういうものか、伝わってきた。あまりにも、ウチソトの区別ができていなさすぎではないだろうか。 清水賢治新社長は日枝氏を「親戚のおじさん」などというカジュアルな表現で例えたが、甥っ子たちのビビりぶりは痛々しいほどだった。渦中の女性ではなく日枝氏をこそ守りたいんだな、この人たちは。世間からの批判よりも、日枝氏からの叱責を恐れているんだろうな。会見を見ていた多くの人がそう思ったのではないだろうか。 

 

 「最初からその女性を一人で差し出すケースは少のうございまして、男性社員、もしくは年寄りの女性社員が同伴していく……」という、遠藤龍之介副会長(日本民間放送連盟会長)の発言にも呆れた。 

 

 フジテレビだけではなく、マスメディア(オールドメディア? 記者クラブメディア? )というギョーカイの男性優位ぶりは、その中に自分も身を置いていたので痛いほどよくわかるが、こんな厳しい局面に至っても、そんな前時代的な表現が飛び出すことに驚いた。女性はモノか。宴席で若い女性を隣に座らせて鼻の下を伸ばしている姿がありありと浮かび上がる。 

 

 

■ アップデート未了なのはフジテレビだけか 

 

 神が細部に宿っていたのは、フジテレビ側だけではないとわたしは感じた。 

 

 会見開始から3時間が過ぎてようやく指名されたある新聞記者は、質問に入る前、「おそらく17日の放送記者会にかなり限定したひどい会見があったので、フリーランスの方々を中心に当てているんだろうと思いますが」と、不機嫌そうに吐き捨ててから質問を始めた。 

 

 フルオープンと主催者が言っているのだから、フリーランスの記者もマスメディア記者も関係なく進められているのに、まるで「なぜ私たち(マスメディア記者)が後回しにされるのか」と言わんばかりの一言、あれはなんだったのだろうか。もっとも、その時点で、新聞記者も普通に指名されていたと思うのだけれど……。 

 

 人が質問している最中に割り込んで叫んだり、質問ではなく意見表明だったり、1人2問というルールを破ったり。この会見をめぐっては、取材者側の「お作法」について批判する声が上がっている。その批判はやたらとフリーランスに向けられ、マスメディアの記者界隈から、「これだからフリーランスは」と蔑む声も耳に飛び込んでくる。 

 

 ただ、そのような行動をとっていたのはフリーランスだけではなかったはずだ。とかく、「マスメディア所属かフリーか」みたいな二元論で語られるが、どちらかというと世代の違いではないだろうかと思う。 

 

 ベテラン風の記者を中心に、壇上のフジテレビ幹部に対して説教をする場面が何度もあった。取材相手に説教をするのは、報道記者の仕事なのだろうか。わたしはそうは思わない。 

 

 かつては、記者会見の様子がインターネットでリアルタイムに配信されるなど考えられない時代があった。だが、発信媒体が多様化し、取材手法もそれに応じて変化した。いろんなボールを投げて相手の言葉や姿勢、表情を引き出すのは記者の仕事だと思うけれど、ジャーナリズムの作法も、時代に応じて変わって行かなければ、社会にとって必要不可欠なものとして認識されなくなるのではないだろうか(視聴者に阿るとかそういう話ではない)。 

 

 記者会見がここまで「見える」化というより「見られる」化した今、取材や編集の成果物のみだけが晒されるという時代はとうに終わっている。客観報道と言いながら、自らのありようは客観視できていないのではないか、との批判は免れないように思う。 

 

■ メディアというムラ社会の「見られ方への無自覚さ」 

 

 会見を通じて感じたのは、壇上のフジテレビ幹部も、質問する一部の取材者たちも、ものすごく「内向き」な論理で動いていやしないか、ということだ。フジテレビ幹部と記者たちが相対している会見ではあるが、引きで見ると、両者一体となって、メディアというべきかジャーナリズムというべきか、ギョーカイ全体の問題が浮かび上がってくる。 

 

 そういう部分も含めて色々と思うところがあって新聞社というマスメディアを離れたとはいえ、今も取材執筆を仕事としている自分自身も、その一端に身を置いているという自覚と省みを持ってこう言っている。 

 

 会見中、企業風土をどう刷新するのか問われた港浩一社長は、このように答えている。「色々なことが緩かったりとか、時代時代の空気があった。ちょっと昔のやり方、雰囲気を引きずってきてしまっている部分がある。そういう引きずってしまっているようなことを今の時代に合わせてアップデートと言いますか、作り替えていかないといけない」 

 

 それは、フジテレビという企業だけでなく、メディアという業界、ジャーナリズムという仕事にも、課せられた問題だと、わたしは思っている。 

 

宮崎 園子 

 

 

 
 

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