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日産は過去に国際的なラリー活動に積極的に参加しており、「ラリーの日産」と称された時期もあった。

初めて国際競技への挑戦を果たしたのは1958年のオーストラリア一周ラリーで、その後もモンテカルロラリー、シェル4000ラリー、サファリラリーなど世界三大ラリーに挑戦し続けた。

特に510ブルーバードや240Zはサファリラリーで成功を収め、1980年代には4連覇を達成するなど活躍した。

しかし、1973年にはオイルショックや排気ガス規制の影響によりラリー活動が休止されたり、後の年代には苦戦を強いられることもあった。

現在はWRCから撤退しているが、日産はまた新たなチャレンジを通じてスポーツカーを作り出すことを期待されている。

(要約)

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いまはラリーのイメージは無縁といってもいい日産だが、かつては国際的なラリーに積極的に参戦していた。 

 

 世界で活躍した日本車のラリーカーというと、三菱のランエボ、スバルのインプレッサ、トヨタのセリカあたりを思い浮かべる人が多いだろう。しかしその昔、日産は「ラリーの日産」といわれるほど、ラリーに力を入れている時代があった。 

 

 その発端は、1958年に開催されたオーストラリア一周ラリー「1958 モービルガス・トライアル」。このラリーにダットサン1000 セダン(210型)を2台出場させたのが、日産の国際競技への初挑戦。結果はAクラス優勝。ドライバーのひとりは、のちにNISMOの初代社長となる難波靖治だった。2位も210型でワンツーフィニッシュを達成している。 

 

 これを機に日産は、世界三大ラリーと呼ばれたモンテカルロラリー、シェル4000ラリー(カナダ)、そしてサファリラリーへ挑戦する方針を決め、1963年のサファリラリーに310ブルーバードと30セドリックでエントリー。 

 

 310ブルーバードは、前輪独立懸架をいち早く採用したモデルで、ボディもセミモノコック。大ヒットした初代ブルーバードだ。 

 

 この年はいずれもリタイヤで終わっているが、この後、日産は継続的に国際ラリーに参加していくこととなる。 

 

 その翌年、1964年には410ブルーバード5台と31型セドリック4台をサファリで走らせ、セドリックが総合20位で完走。初代セドリックは、日産自動車初となるモノコックボディで、そのマイナーチェンジ版の31セドリックには、国産車初の3速ATも用意されていた。 

 

 そして1966年のサファリには410ブルーバードSSで参戦。クラス優勝を達成(総合でも5位、6位の快挙)。 

 

 完走したのは88台中わずか9台の過酷なラリーで、その奮戦ぶりはのちに映画化され、石原裕次郎主演の『栄光への5000キロ』として上映された。 

 

 1967年には、「新しい時代の新しいセダン」というキャッチフレーズで、大本命510ブルーバードが誕生。 

 

 スーパーソニックライン(高速ジェット機のフォルムを受け継いだクサビ型のシャープなシルエット)が特徴で、BMWのようなストラット型前輪独立懸架、セミトレーリング型後輪独立懸架のサスペンションを備え、名車の名にふさわしい仕様で大ヒット。 

 

 サファリでも1996年にクラス優勝し、1.6リッターのL16型エンジンのツインキャブ仕様(100馬力)を積んだSSS(スリーエス=スーパースポーツセダン)は、1970年のサファリラリーでついに総合優勝! 日産はチーム優勝の栄冠も手に入れている。 

 

 510ブルーバードには、このサファリでの優勝をモチーフにした「サファリブラウン」というボディカラーも用意された。 

 

 

 このころから世界のラリーは、セダンではなくGTやスポーツカーでの参戦が主流になりはじめ、日産も主力モデルをフェアレディ240Zにスイッチ。 

 

 1971年のサファリラリーで、初出場ながら総合優勝し、サファリ2連勝を達成。このとき2位も240Zだったので、ワンツーフィニッシュの完全優勝だった。現在まで続くWRC初年度は1973年になるが、このWRC発足後最初のサファリラリーも240Zが制した。 

 

 しかし、1973年といえばオイルショックの年。さらに排気ガス規制にも本腰を入れて対応しなければならなくなり、日産のラリー活動は休止となる……。 

 

 日産ワークスがサファリにカムバックするのは、1979年からで、ここから1982年まで未到の4連覇を達成。マシンはPA10型バイオレット。それまで活躍していたブルーバードよりもひとまわり小さなボディだったのが大きなミソ。エンジンは直列4気筒OHC・1952cc、最高出力190馬力のLR20B型を搭載。1981年からは、4バルブ化されたLZ20Bエンジンに進化している。 

 

 PA10バイオレットは、スーパーシルエットレースにも参戦。その心臓部、LZ20Bターボエンジンは、WRC用に開発されたグループ4規定のDOHC4バルブのシリンダーヘッドに換装されたものだった。 

 

 このLZ20Bターボが、スーパーシルエットのスカイライン、シルビア、ブルーバードに搭載され、「日産ターボ軍団」として人気を博していくのは余談。 

 

 1983年からは、グループB規定がはじまり、シルビアベース(S110)の240RSを投入。エンジンも新しい2.4リッターのFJ24となって期待されたが、アウディ勢をはじめとするライバルたちは、ターボ+4WDに移行しており、FRの240RSは苦戦を強いられ、WRCでは未勝利に終わる。 

 

 グループA時代になっても、S12シルビアで参戦するも、ビハインドは埋められず、1990年、パルサーGTI-Rを発売。コンパクトなボディに4WD+ターボで、必勝を期し、1991年からWRCに参戦。 

 

 しかし、重量バランスや冷却系の問題、タイヤサイズ、etc.がミスマッチで、参戦2年、最上位3位で姿を消してしまう……。 

 

 このパルサーGTI-R以降、日産ワークスはWRCから手を引いてしまったが、「技術の日産」「ラリーの日産」としてまたラリーフィールドに戻ってきて、そこから得た知見をフィードバックし、素晴らしいスポーツカーを作ってくれることを願っている。 

 

藤田竜太 

 

 

 
 

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