( 262816 ) 2025/02/09 17:51:51 0 00 三兄弟。真ん中が陸さん(写真:陸さん提供)
浪人という選択を取る人が20年前と比べて1/2になっている現在。「浪人してでもこういう大学に行きたい」という人が減っている中で、浪人はどう人を変えるのでしょうか? また、浪人したことによってどんなことが起こるのでしょうか? 自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した経験のある濱井正吾氏が、いろんな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張れた理由などを追求していきます。 今回は三つ子の兄弟の長男で、2浪で私立大学の医学部に進んだ陸さんにお話を伺いました。
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■三つ子のうち1人だけ浪人
今回お話を伺った陸さんは、「三つ子」の長男です。幼いころから野球を続けてきた三兄弟でしたが、次男は現役で早稲田大学、三男も現役でアメリカの大学に進学します。
一方で、兄弟で1人だけ2浪を経験して医学部を目指した陸さんでしたが、心細くはなかったそうです。ほかの兄弟が進学を決める中、なぜ彼は浪人生活を決断し、それを乗り越えることができたのでしょうか。
陸さんは、東京都で医療従事者の父親と、専業主婦の母親のもとに生まれました。
小学校のときからピアノ・水泳などの習い事をしながら、少年野球に没頭していた活発な子どもだったようです。陸さんの母親も「授業が始まっても校庭で野球に夢中になっていた子どもだった」と振り返ります。
「兄弟でよく喧嘩をしていた」と語る陸さんは、周囲に中学受験をする生徒が多かったこともあり、弟たちと一緒に中学受験用の塾に通って受験しました。しかし、3人全員合格はかなわず、全員同じ公立中学校に進学します。
中学に進んだ陸さんは、中学受験の勉強をした貯金もあったからか、上のほうの成績でした。中学に入ってからもクラブチームで野球を続けていた彼は、将来は六大学野球の舞台でプレーすることに憧れて、早慶の附属の高校に入るために受験勉強を頑張りました。
「中学受験では、すごく受かりたいという気持ちがあったかと言われれば、そうでもありません。ただ、小学校で野球を始めたときから高校野球で甲子園に行きたいという思いはありました。強豪であった早実(早稲田実業学校高等部)か、慶応(慶応義塾高等学校)のどちらかには入りたいと思い、塾での勉強には力を入れていました」
■早慶附属に落ち、第5志望の高校に進学
「甲子園に出る」という夢を抱いて、中学1年生の冬に入塾した早稲田アカデミーで勉強を重ねた陸さんは、次男・三男よりも上のクラスに入ることができました。
また、野球のクラブチームでは、エースピッチャーとして、3年生のときに、東京都の大会で準優勝しました。
こうして野球の方面でも結果を出していた陸さんでしたが、高校受験では早稲田実業学校高等部、慶応義塾高等学校に加えて、早稲田大学高等学院と立教新座高等学校を受けるも願いはかなわず。六大学の附属とは関わりのない、第5志望の高校に進学することが決まりました。
進学した高校でも野球を続けることにした陸さんでしたが、今まで以上に野球一色の環境になったことが、大学受験にも影響を及ぼします。
「毎週金曜のオフ以外は、ずっと野球をしていました。毎日部活が20時に終わったので、21時に帰宅してから食事・風呂・就寝という日々を送っていました。そのため、勉強はできませんでしたね。
朝練は強制ではなかったのですが、野球部の生徒は『8時半の始業よりも1時間早く来い』と言われていたので、7時半に学校に来て、その1時間は勉強するようにしていました。ただ、当時はその1時間と授業の間にある10分間の休み時間、登下校の時間だけしか自主的に勉強ができませんでした」
過酷な野球部の生活で勉強時間を確保できなかったことは、成績にも影響します。高校1年生のときは、学校で最も学力が上のクラスに入ることができて、そのクラスの中では35人中2番程度でしたが、高校3年生になると理系クラスで、40人中30番台前半くらいまで成績が落ちてしまいました。
「高校2年生までは模試の点数もそこまで悪くなかったのですが、模試に理科が加わるようになってから、点数が取れなくなりました。中学時代は、最初から都立の高校入試を受ける予定はなかったので、私立で必要な英語・国語・数学を重点的に勉強していました。そのため、理科の基礎的な知識も抜けていたのはきつかったですね。さらに数3が入ってきたので、覚える量も次第に増え、授業に追いつけなくなってしまいました」
■現役時には東大・医学部を諦める
高校受験のときのように大学受験でも早慶を受けるのであれば、科目数を増やさなくてもよかったはずですが、高校時代の陸さんは、東大か医学部に入ろうと考えていました。
「高校入試で落ちたから、また早慶を受けるのも違うかなと思っていました。中学のときから六大学で野球をしたかったので、高校3年生のときは東大に行ければいいなと考えていました。また、小さいころから親が医者の友達が多くて、医者という仕事にも興味がありました。いちばん入りたいのは東大だけど、医学部も目指す、という感じで勉強していました」
夏の大会が終わって引退した高校3年生の8月からは東進ハイスクールに通いはじめ、本格的に受験勉強をスタートした陸さん。しかし、勉強し始めてしばらくしてから、この年のうちには合格するのは難しいと感じたそうです。
「夏に受けた駿台のマーク模試で偏差値が40くらいだったことだけは覚えています。『30じゃなかったわ!』という感じでした(笑)。だから、もうこの年はまず、センター試験で点数を取るための勉強をしようと思いました」
野球部のときからの習慣であった朝7時半に登校して勉強を続けながら、それまで野球をしていた時間もすべて受験勉強に費やした陸さんは、センター試験では60%を確保します。しかし結局、この年は数学のみで受験ができた群馬県の大学を試しに受けたのみ。その大学も落ちて1浪が確定しました。
こうして「医学部に行くためには浪人するものだと思っていた」という理由で浪人を決意した陸さん。次男は早稲田大学の政治経済学部、三男はアメリカの大学に進むことが決まりましたが、自分だけ浪人することに対して「心細い」という感情はなかったそうです。
「周囲にも医学部受験をする人が多かったのですが、普通に高校で勉強をしていた人が1浪してようやく受かるところだとわかっていました。僕はその子たちよりも勉強時間が少ないので、1浪は仕方ないと受け入れていましたし、医学部は浪人しないで受かるようなところではないとも思っていました」
この年は志望を医学部のみに変更し、駿台予備学校の市谷校で浪人生活を始めた陸さん。8時10分の開館から21時の閉館までずっと予備校で缶詰めになって勉強し続けたかいもあり、頑張ったらどこかの大学の医学部には受かるかもしれないくらいの成績にまで持っていくことができました。
■「過去問を解かなかった」のが失敗に
陸さんのこの年のセンター試験は70%前半に終わったため、国公立の医学部は断念したものの、私立の医学部に10校程度出願しました。しかし、1月から大学を受け続ける中で、初めて自分の勉強法の失敗に気づかされたそうです。それは、「過去問を解かなかったこと」でした。
「当時の自分は、どの科目でもレベル別に分かれた問題集をやっていました。その問題が100%解けない状態で、過去問をやる意味があるのかと疑問に思っていたのです。でも、私立大学は制限時間や問題の形式が大学によって異なります。過去問を解かないと、問題の解き方や、1問にかけられる時間などがわかりません。私は現役のときに1校しか受けなかったこともあり、入試シーズンに入るまで、過去問の大事さに気づけなかったのです」
後期入試が2〜3月にあった埼玉医科大学と杏林大学の医学部は、あわてて過去問をやったこともありどちらも1次試験は突破したものの、それ以外はすべて1次試験で不合格に終わります。
1次試験を突破した2校も2次試験で落ち、結局1浪目の受験はすべて不合格で終わりを告げました。
1浪で全落ちしたことで、過去問の重要性に気づかされた陸さんは、再び駿台市谷校に通い、2浪することを決めます。
「現役のときに勉強をしていない自分が2浪するのは普通のことだと思っていた」とさらなる浪人を受け入れていた陸さんは、また新たに1年間の時間ができたことで、それまでにやっていなかったこともいろいろと試してみました。
「自分にとって無理せず続けられることを試していました。たとえば、1浪目までより少し早く起きて勉強するようにした時期がありました。それは続かなかったのですが、頑張って続けようとしても続かないのであれば、自分には合っていないと気づけました。勉強方法も、毎日たくさんの量を解くのではなく、少なくても解き切れる量を毎日続けることのほうが大事だとわかりました」
■医学部6校から合格をもらう
生活面や勉強面で自身に向いているやり方を試行錯誤したかいもあり、この年はようやく駿台の全国模試で偏差値60に到達し、東京慈恵会医科大学でB判定が出ました。
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