( 263291 ) 2025/02/10 17:34:16 0 00 東京都町田市の「ライフテクトヤマグチ(でんかのヤマグチ)」 - 撮影=プレジデントオンライン編集部
安いことは本当にいいことなのだろうか。東京・町田の家電販売店「ライフテクトヤマグチ」は、かつて家電を安く売る“町の電気店”だった。社長の山口勉さんは、家電量販店が進出してきた1990年代に方針を転換し、安売りをやめた。それ以降、28年連続黒字を叩きだす地元の優良企業になった。なぜ山口さんは“高売り”に切り替えたのか。フリーライターの伏見学さんが、山口社長に取材した――。
■粗利率45%を叩きだす東京・町田の「町の電気屋さん」
レジカウンターの横にドサッと置かれた野菜や果物。店の入口の脇には酒類、菓子などがずらりと並んでいる。
「そのカボチャはこの間、北海道に出張していた社長が買ってきたものですよ。いつもそんな感じでダンボール箱ごと送られてくるんです」。レジに立つ女性スタッフがにこやかに教えてくれた。
この店では毎月、筆ペン教室や健康測定イベントなども開かれている。
実はここ、れっきとした電気店である。東京都町田市の街道沿いに店舗を構える「ライフテクトヤマグチ(でんかのヤマグチ)」だ。運営元は株式会社ヤマグチ。業界水準を遥かに超える約45%の粗利率を叩き出す店として知られている。その名声は海外にもとどろいており、中国の大手家電メーカー・ハイアールの総裁が直々に視察にやって来たこともある。
1960年代に自宅の物置小屋を改装して個人商店からスタートした同社は、数々の苦難を乗り越えてきた。最大のピンチは1990年代半ば。大手家電量販店が相次いで近隣に進出してきた時だ。ちょうどその頃、ヤマグチはいたずらに店舗数を増やしたり、価格競争に巻き込まれてしまったりして、赤字に陥っていたのである。
しかし、“黒船”の登場によって目を覚ます。従来のやり方ではとても太刀打ちできないことを悟った。そこで取ったのは、販売価格を上げて他社よりも高く売る代わりに、どこにも負けない手厚い顧客サポートを提供するという戦略だった。これが的中し、その後、28年連続で黒字経営を続けている。
たとえ企業規模が小さくても負けない戦い方とは。ヤマグチの経営の本質に迫った。
■起業するも電話を引けずに苦労した
「昔から兄貴が電気をいじっていたから、物心ついた時は針金とかハンダゴテとかを持って遊んでいたよ。ずっとそうやって育って、大人になってからも電気のことは好きだったね」
家電の世界に入ったきっかけについて、ヤマグチの山口勉社長(82)は朴訥(ぼくとつ)な口調でこう説明する。
1942年生まれの山口社長は、武蔵工業大学付属目黒高等無線学校電気科を卒業後、電機メーカーに就職。何社か渡り歩いた後、1961年に松下通信工業株式会社に入社し、横浜・綱島工場の自動車ラジオ事業部に配属となった。そこではラジオやステレオはもちろんのこと、自動車バッテリーの修理までも手がけていた。
東京オリンピック開幕の直前で、カラーテレビ、クーラー、自家用車(カー)の「新三種の神器」が一般家庭に急速に普及していた時期だった。山口社長は同僚とともに毎日忙しく働いたが、徐々に独立心が芽生えていく。「家電製品の修理ならきっと食っていけるだろう」と考え、3年ほどで退社した。
辞めてからしばらく東京・八王子の電気店で修行し、1965年5月、町田市内にあった自宅の敷地の一部を使ってパナソニック系列の販売店を興した。
■修理サービスからスタート
とはいえ、売る商品があるわけではないため、修理サービス1本でスタートした。
「まずは修理するものを探さなくちゃいけない。八王子の時のつながりが多少あったので、お客さんの家をポツポツと回っていったんですよ」
客の元を訪問し、その場で修理が必要な家電製品を受け取れればいいが、そうではない時が問題だった。
「よく『今度何か壊れたら電話するね』と言われました。これが一番困った。うちには電話が引けなかったのです」
その頃の町田は田畑が一面に広がるような田舎で、山口社長の自宅は電話回線提供のエリア外だったのだ。しかしながら、当時の山口社長はまだ23歳。若くて羞恥心もあったため、電話がないなどとは口にできなかった。「またすぐに回ってきますから……」と言って誤魔化していたそうだ。
約1年後には電話回線が開通。少しずつではあるが修理案件も増えていたため、5〜6坪のテナントを借りて店を構えることができた。1966年のことだった。
■頼まれたら何でもやる
ただし、電話を引いたからと言って、すぐさま注文が飛び込んでくるわけではない。基本的には巡回営業を続けた。
「当然、飛び込み営業ですよ。何にもないんだから。初めまして、電気店をやっています、修理品はないですか、といった具合で毎日家々を回っていました」
一方で取り扱いサービスは幅広かった。通常の家電製品だけでなく、井戸水を汲み上げる電気ポンプや、屋根によじ登ってアンテナを修理することも日常茶飯事だった。頼まれたら何でもするというのが、当時からモットーだった。なお、修理費は一品あたり500〜1000円程度だったという。
幸いだったのは、近所に他の電気店があったこと。そこでは修理を請け負っていないため、購入品が故障などすると自然とヤマグチへ依頼が来る流れができていたのだった。創業から5、6年も経つと、「ヤマグチへ持っていけば壊れたものを直してくれる」と町田エリアで評判になり、わざわざ巡回しなくても、電話でのオーダーが頻繁に入るようになった。そのうちに町田エリアの住民たちも安さやラインナップを求めて秋葉原へ家電製品を買いに行くようになったが、それでも修理はヤマグチに依頼していた。
■店舗拡大で赤字に転落、借入金は約2億円に
修理サービスが事業の稼ぎ頭ではあったが、パナソニックの特約店として徐々に家電製品の販売も行うようになった。
「当時は我々のような小さな電気屋の競争しかありませんでした。その中でうちの知名度を高めるには、とにかく売らなきゃしょうがない。だから値引きもしていた。粗利率で言うと(業界平均の)25〜26%ですね」
売り上げが伸びてくると、経営者としてはもっと手を広げたいと欲が出るもの。最大で6拠点まで店を増やしたほか、大量に仕入れてさらに安売りをするようなこともやっていた。ところが、拡大路線によって次第に業績に翳りが見えてきた。そして、1994年に赤字に転落したのである。
「店舗を増やすと、留守番兼事務員をすべての店に置かなくてはならないから、人件費がかかりました。そしていずれ量販店が出てくるから一生懸命売ろうと言って、安売りもしました。結果、赤字が3年間続いた。借入金も増えて、1億9000万円ほどに膨れ上がりました」
■量販店の進出で廃業危機、あえて「安売り」をやめる
そんな最中、ヤマグチを震撼させる大事件が起きる。現実問題として、ついに大手家電量販店が町田エリアに進出してきたのだ。コジマ、ヤマダ電機、サトームセン、ヨドバシカメラなど、半径数キロ圏内に計6店舗も出店した。ヤマグチは大混乱に陥った。
「量販店は他店より1円でも安くすると言ってくる。うちの売り上げは一体どのくらい下がってしまうだろうかと、いろいろな先生やメーカーに聞きました。でも、人によって意見はバラバラ。当の本人としてはどう見積もっても30%は落ちると思いました」
その後、周囲の電気屋は廃業に追い込まれたところもあった。ヤマグチには当時既に社員が30〜40人いた。そのまま戦略を変えずにやっていたら、ヤマグチも同じ末路を辿ったと山口社長は断言する。では、それを回避すべく何をどう変えたのか。
「粗利率25、26%だと、売り上げが30%落ちたら廃業するのは目に見えていた。だからいろいろと考えた末、粗利率を35%にすることを目指しました」
要するに、安売りをやめるという決断だ。その話を社員にしたところ、そんなのは無理だとなった。同じ商品を今より1割も高くしたら売れないだろうと。それに対して山口社長は、「いや、売れないではなくて、売らないとどうしようもないのだ」と反論した。
■“高売り”の原点
値上げをすること自体は容易かもしれない。でも、どうやってきちんと収益を上げるのか。声高に宣言したはいいものの確信が持てない中、ある出来事がヤマグチの向かうべき道を決定づけた。
「営業社員と一緒にあるお客さんのところへ修理に行ったんですよ。そしたらね、『お父さん、夏の暑い時期に2、3日家を空けたら、お父さんが大切にしているベランダの植木の水やりはどうするの? 犬のエサはどうするの?』と夫婦で旅行の話をしている。なんだ、そんなことで困っているのかと思い、とっさに『奥さん、うちでやるからいいよ。水くれなんて。朝やるの、夜やるの、どっち? 犬のエサはドックフードを準備しておいてよ。あと、ポストに新聞や郵便物が入っていたらうちで預かって、旅行から帰った時に持ってくるから。新聞屋に電話しなくたっていいよ』と伝えました」
すると客は「そんなことまでやってくれるの?」と大喜びした。そして、恩義に応えてくれたのであろう。後日、当時で十数万円する高額テレビをヤマグチで購入してくれたのである。
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