( 265863 ) 2025/02/16 03:05:12 2 00 「体育大嫌い」エッセーに共感◆ヒャダインさん訴え、大学で教材に #令和の子時事通信 2/15(土) 17:00 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/11c67fc5a770f9df4720adf5fcb0d134a883d513 |
( 265866 ) 2025/02/16 03:05:12 0 00 小学校の体育のイメージ
「僕は体育の授業が大嫌いです。体育の教師も大嫌いです」。こんな一文で始まるエッセーが体育専門誌に掲載されたことが、SNSで話題となった。寄稿したのは、音楽クリエイターのヒャダインさん。授業の残酷さや教育者の無理解を厳しくとがめる文章が、なぜ体育教員向けの専門誌に載ったのか。出版社やヒャダインさん、そして体育教育者側に、それぞれの思いを取材した。(時事ドットコム取材班キャップ 太田宇律)
◇「そっとしておいてください」
このエッセーは、「運動が苦手な子どもが輝く授業をつくろう!」と題された月刊専門誌「体育科教育」2019年3月号に掲載されたもの。ヒャダインさんは「なぜあなた達体育教師は僕達にクラスメイトの前で恥をかかせようとするのでしょう?」と問い掛け、この号のテーマについても「『運動が得意な子は輝いている』と思ってるってことですよね?上から目線の差別意識丸出しじゃないですか」と切り捨てている。
今から6年前に掲載されたエッセーだが、24年12月にあるユーザーがX(旧ツイッター)で紹介すると、「名文だ」「一言一句同意する」と共感が広がった。自分も体育でつらい思いをしたと訴える声のほか、「掲載した出版社もすごい」「体育教師側のアンサーを聞きたい」という意見もあった。
私(記者)も運動が苦手で、小学校では体育にD評価を付けられた苦い思い出がある。チーム分けで押し付け合われたり、バレーボールで何度も失敗してクラスメートに責められたりと、恥をかいた記憶は思春期を通じて何度もあった。エッセーがどんな経緯で掲載されたのか興味を持ち、出版した大修館書店(東京都文京区)に取材を申し込んだ。
◇刺激的な原稿、そのまま掲載
「体育科教育」は1953年創刊。大修館書店の編集担当者、川口修平さんによると、小中高校の体育教員や指導主事、体育科教育の研究者らが主な読者層だ。
「エッセーを掲載した19年当時も体育教育の関係者からかなり反響があったのですが、今回は一般の方にも広く注目されました。ここまでの反応があるとは、正直びっくりしています」と川口さん。体育は「好きな教科」のアンケート調査で常に上位に挙がる人気科目だが、「我々が思っている以上に、嫌いな人も潜在的に多いのだと改めて感じた」と話す。
テレビ番組などで体育嫌いを公言していたヒャダインさんに寄稿を依頼したのは、「運動が苦手な子どもをテーマにするなら、まず当事者の方の声をきちんと聞くべきだと考えた」ためだった。「ぜひ率直な思いを書いてください」と依頼したところ、届いたのは「かなり刺激的な原稿」(川口さん)だったが、編集部では「率直で尊重すべき意見だ」と一致。原稿はそのまま巻頭に掲載された。
◇ヒャダインさん「人格形成の障害だった」
ヒャダインさんは当時、どんな思いで寄稿したのか。取材を申し込むと、オンラインでのインタビューを快諾してくれた。
―寄稿の依頼が来たときはどう感じましたか。
正直に言いますと「我々にはこういう意見も受け入れる寛容さがありますよ」という体育教員っぽさを感じて、ちょっとむっとしまして(笑)。読んだ教員が反論できないように、あえて攻撃力の高い言葉を選んだんです。却下されるだろうと思いましたが、そのまま載ったので「すごいな」と思いましたね。
―少年時代、体育でどんな体験をしましたか。
週に3回、体育のたびに大勢の前で恥をかかせられるのは、人格形成において障害でした。鉄棒やマット運動もそうですし、特にサッカーのような団体競技では、足を引っ張る存在として無視されるのが本当に嫌だった。チーム分けでは誰も自分を欲しがらず、「僕は価値がない人間だからしょうがないんだ」とみじめに言い聞かせる。体育が自習にならないかと、いつも雨を心待ちにしていました。
―そうした気持ちに、教員も無理解だった。
運動が好きで、当たり前にできる人が体育教員になるわけですから、できない人の気持ちは分からないんですよ。僕が1人だけ走り高跳びを飛べないと、「できるまでみんなで見守ろう」なんて言い出す。できない人をさらし者にして、みんなが感動するコンテンツにしようとするんです。
音楽クリエイターのヒャダインさん(提供写真)
―エッセーはSNSで広く共感されました。
これから人格が作られる感情が柔らかな時期に、笑いものにされたり自己否定したりしなければならず、鬱屈とした人格を醸成されてしまったと嘆いている方が大勢いました。「自分のせいで嫌な記憶を思い出させてしまったのでは」という罪悪感もありました。
―体育教育に携わる方に伝えたいことは。
人間は、自分が得意なことができない人のことを責めがちだと思うんです。体育教育のプロフェッショナルになったのなら、自分と同じように運動が得意な子だけでなく、苦手な子にもきちんと配慮してほしい。そして、自分が授業でやっていることが(人前で恥をかかせる)「公開処刑」になっていないか、思い返してみてほしいです。
―体育を何とかやり過ごしている世代にメッセージをお願いします。
「大人になったらそんなこと関係ないぞ、こんなに活躍している同類がいっぱいいるぞ」ということをぜひ伝えたいです。体育では毎回恥をかいていても、漫画をたくさん読んでいるとか、歌がうまいとか、あなたには人と違った価値がある。そういう「自分の好きなこと」を寄る辺にして、襲い掛かってくる人格否定と戦ってほしいですね。
◇「体育嫌い」の声、教材に
運動が苦手な生徒にどう向き合うべきかは、昭和の時代から議論されてきた体育教育の重要課題だ。2017年改訂の学習指導要領では、運動を「する」だけでなく、「見る・支える・知る」ことも重視する考えが打ち出され、教育現場には多様な生徒に配慮した意識変化が求められている。
中学校で27年間体育を教えた経験がある和光大の制野俊弘教授は、ヒャダインさんのエッセーを体育教諭を目指す学生向けの講義で教材にしている。自分ならこうした声にどう応えるか考え、ヒャダインさんへの手紙を書いてもらうことで、学生の「体育観」が見えてくるという。
「学生たちは最初『努力すればできるようになる』とか『分からないときは友達に聞こう』といった、ありきたりな答えしか出せませんが、教育実習などを経て、少しずつ変わっていきます。体育とは何で、何のためにあるのか。まずそこを明確化しなければ、教科としての存続も危ういのではないかと危機感を感じています」(制野教授)
講義では、漫画「ちびまる子ちゃん」の1巻に載った、故さくらももこさんのエッセーも紹介する。さくらさん自身が体育で恥をかいた思い出を振り返り、「人間形成において学校教育の中で取り入れなければならないほどの重要な役割をどのへんに秘めているのか」と疑問視する内容だ。制野教授は「体育は本当に必要なのか。なくても子どもは育つのではないか。重い問い掛けだと思う」と話す。
◇「危険物」専門的知識で扱って
かつてのヒャダインさんやさくらももこさんのような生徒も取りこぼさない体育とは、どんな授業なのだろう。ヒントとして制野教授が紹介してくれたのが「8割走」という学習だ。50m走のタイムをそれぞれ測った後、「ぴったりその1.2倍の記録で走れた人が勝ち」というルールにし、最適な歩幅や走法を考えてもらう。それから「9割走」「10.5割走」と伸ばしていくと、どう走ればベストタイムが伸びるかを実感できるという。
制野教授は「運動の科学的原理をきちんと教え、単純に足が速い子ではなく自分の体を最後までコントロールできた子の方が評価されるような授業にしていくことで、スポーツの本来の面白さを知ってもらえるようになるはず」と説明。「授業から競争をなくせばいいということではなく、今より上手になる方法があることを可視化して、生徒に伝えることが大切なのだと思います」と話す。
いじめや不登校のきっかけにもなり得る体育の授業は「危険物のようなもの」と例えた制野教授。「近代スポーツには『力の強い方、素早い方、獲得点数が多い方が優れている』という側面がある。その危うさを教員一人ひとりが自覚し、専門的知識のもとに慎重に取り扱う必要があると思います」と語った。
この記事は、時事通信社とYahoo!ニュースの共同連携企画です。
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( 265865 ) 2025/02/16 03:05:12 1 00 この会話からは、日本の体育授業や体育教師に対する多くの意見や体験が共有されています。
このような意見や経験を踏まえると、体育教育においては個々の適性や成長を尊重し、生徒たちが楽しめるような授業方法や配慮が必要だと感じられます。
(まとめ) | ( 265867 ) 2025/02/16 03:05:12 0 00 =+=+=+=+=
体育ではないのですが、「みんなの前で恥をかかせる」で思い出したのが、今話題になっている「小学校」というドキュメンタリー映画。 短編版がYouTubeで見らます。
楽器の演奏がうまくできなかった女の子がみんなの前で教師に叱責されます。 思わず涙ぐむと、「泣けばうまくなるの???」などと詰められます。
その後で先生に励まされたり練習を頑張ったりして演奏はできるようになるのですが、私はどうしても他の子供の前で叱責されるシーンで自分の小学校の雰囲気を思い出しまって気分が暗くなりました。
これを感動コンテンツだと思って見ている人が今たくさんいるんですよ。 それだけの作品じゃないと思うんですがね。
▲8741 ▼435
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日本の体育はとにかく悪い意味で独特だと思う。鉄棒や跳び箱など、日本独特の種目も多い(欧米ではやっていない)。小学校だと今はできなくても許されるらしいが、昔は出来ない子がどうすればできるようになるかの科学的な方法論やスキルを持たない先生が、「できるまでやらせる」根性論的やり方が主流、「クラス全員ができるようにする」みたいな一斉の目標を立てられて、出来ない子は苦しかったと思う。あと大縄跳びのような集団でやる種目も日本独特で、一人が失敗すると全体に迷惑がかかるような仕組みなので、苦手な子を精神的に圧迫していると思う。運動会も騎馬戦や整列行進など、戦中の軍事教練由来の種目ややり方がいまだに残っている。とにかく独特だと思う。合わない子には苦痛でしかない。これらの種目は大人になれば、必要になることもやる機会もまずない。もっと楽しく趣味として一生続けられるような内容を中心にすべきだと思う。
▲6646 ▼521
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子供は小中とマラソン大会で最下位でした。最後に見知らぬ保護者に拍手で迎えられる苦痛を味わっていました。他の保護者から「最後まで諦めず頑張っていたよ」と報告がきますが、親としてはそんな子供の姿は直視できず家で大好きなご飯を用意することしかできませんでした。 体育がすべてではない、練習は休まずに参加しなさいと伝えましたが大会自体は無理しなくていいと伝え本人に任せましたが、頑張って参加したこと誇りに思います。 高校は授業では持久走ありますが、大会はない高校を本人が選びました。辛い思い出となってるでしょう。 体育の意義、もういい加減考え直して欲しいです。 体育教諭は体育が出来ない子供の気持ちが分からない、本当にそう思います。
▲229 ▼11
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昔教員してました。数学とか英語が苦手な子を集めて放課後教えたりしてましたが、体育でそういうのやってる先生あまりいないですよね。上手い子だけ集めて部活してるイメージです。 そして、教員にとってもやたら怖かったり男尊女卑な感覚を持った先生が昔はいました。 大人になって気づきましたが、運動は上手なための子だけのものじゃなくて誰にとっても大事だからその大切さと運動の楽しさを学校で教えてほしいです。 うちの子どもは、高校で良い体育の先生に出会ったようで、苦手な子も笑顔で楽しんでると言ってました。こんな先生が増えてほしいです。
▲635 ▼17
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苦手科目は体育!多分学年で一番の運動音痴!! ヒャダインさんと同じタイプの小中高生時代でした。 苦痛でしたねー。 身体を動かすこと自体は嫌いではないのですが、授業など集団の中において運動の要素がある時は常に邪魔者になっているのをヒシヒシと感じるので、やってみたくても遠慮する事になる。 そんな状況で益々運動から遠のくという悪循環でした。
大人になり自身でウォーキングや自宅筋トレに取り組むようになり、ようやく身体を動かすことを楽しませてもらえるようになりました。 現在はスポーツクラブに入会し、週2〜3回ジムトレーニング、ランニングマシンやプールでのウォーキングを楽しんでいます。
マイペースで自分のできる範囲で運動しても誰にも文句言われないので、心から楽しいです。
▲4337 ▼177
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私も体育は苦手でした。子どもの頃って、勉強ができる子より運動ができる子のほうがモテるんですよね。運動神経が悪いと、それだけでクラスの中で出来ないやつ扱いされてしまい、体育は楽しいよりも恥ずかしいのほうが先に来る授業でした。 でも、社会に出ると運動の得意不得意なんて関係なくなるんですよね。体育の時間に恥をかいたことも、実は大したことじゃなかったと気づく。でも、そのときは本当にしんどかった。だからこそ、今の体育の先生にはできない子の気持ちを理解してほしいなと思います。
▲3600 ▼188
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同意です。 どんな教科でも成績順はあるし、上手いとかはあるけど、体育だけはみんなの前で怒鳴られ、失点の責任を追及されて、まるで教師主導のイジメのような場合もあった。 合唱コンクール、合奏、演劇など、他にも共同学習はあったけど、公開叱責や個人非難はなかった。 体育教師が、能力に応じて個人の心を尊重する授業ができない点が問題だろう。
▲3279 ▼316
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教育は難しいものだと思います。 科目の先生になるのは、それなりにその科目が得意な人が多くて、できない子がなぜできないのか、理解できない人が多いのではないですか。
いや、自分は最初できなくて、できるようになるのにずいぶん練習したよ、って言う先生もいるでしょうけれど、たかだか数年、十年すごく練習したぐらいでできるようになるのは、それなりに才能があったからです。むしろ「がんばったらできるようになった」という自分の成功体験が「みんながんばればできるようになるはずだ」という間違った勇気になっている可能性もありますよ。
先生は、どの科目でもおちこぼれをつくりたくなくて頑張っていらっしゃるのかもしれないですが、そのために大人の世界ならハラスメントにあたるような励ましをやってしまっていることはないでしょうか。
その科目を嫌いにさせないことを優先してほしいです。
▲349 ▼45
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陸上部とか野球部、サッカー部などでは、早く走るための腿上げとか、遠く投げられる投球方法とか、ボールをコントロールする方法などの技術面を学べますが、普通の体育では、そういう技術を教えてくれるわけでもなく、できるか、できないかの判定、できるまで練習が多いような気がします。 大人になってからその運動技術を学び、泳げなかった友人は、トライアスロンに参加できるようにもなりました。 そういう上達する技術を教えてもらえれば、少しずつうまくなるし、それが楽しいので続けられたそうです。 運動能力の頂点を目指して人と競争するのではなく、自分の能力をステップアップする挑戦ができて、励まし合える授業にしてほしい。 私も大人になってから歌い方も絵もyoutubeで学んでその楽しさを知りました。 上手くなくても、運動や音楽や絵など、一生、自分なりに楽しめる方法を教えてくれるのがいい教師、いい授業だと思います。
▲177 ▼13
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体育の成績は悪くはなかったが、身長が低くて学校のプールの深い所に入ると足が着かなくて怖かった。実際軽く溺れた事もある。 手が小さくて遠投のボールも掴みづらかったし、体格差を考慮して授業してくれと思っていた。 身体の動かし方を学ぶ、筋肉をつけるの研究は進んでいるはずなのだから、授業内容も更新して楽しいものにしてほしい。
▲691 ▼49
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私は昭和の子ですが笑 体育大嫌いでしたよ。昔は冬が寒くて霜焼けになり、カサブタが出来て、血だらけのため包帯していましたが、半袖ブルマ。流石に包帯の上から手袋して良いと言われましたが、寒すぎでしたね。家に帰ったら祖母がお湯を沸かしてくれて、洗面台にお湯をいっぱいためて、手を温めていました。 今、自分の子は体育で長袖長ズボンを履いて良いので、良い時代になったなとつくづく思いますよ。
▲1509 ▼86
=+=+=+=+=
体育は苦手ですね。上手な人がリーダーになってチームのメンバーを決めるなんて時は大体最後は私を押し付け合いされたり、マット運動で笑ものにされたり。こいつは要らない人と言われているような気分になりました。 私の子供も運動が得意では無いですが、授業参観の時にキャッチバレーボール?なるものを見て感動しました。ルールを学びつつ、みんなで楽しめる工夫のあるいい授業だなと思います。 運動が得意な子が輝ける場面を作るのも大事だと思うので、順位を付けたり生徒の運動能力を見るものと、スポーツを工夫して楽しむものとがバランス良く組み合わさていくのがこれからの体育の形なのかな?と思いました。
▲1382 ▼90
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運動は生物として重要。脳に多大な好影響をもたらすのは数多の研究が示している。 それからすると、体を動かす楽しさを感じるような、時間にすることが必要かも。 小学校から専科の職員の指導で楽しく学ぶカリキュラムであって欲しい。
▲1417 ▼135
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私は素敵な体育の先生に出会えました。体育の先生なのに、ちょっとぽっちゃりのおばちゃん先生です。その先生は自分自身も体育が苦手だったそう。運動ができる子が1番になるのは当たり前だけど、頑張ってる子が評価されて、体を動かすことを楽しんでほしいと、体育の先生になられたそうです。教え方もいろいろ工夫していて、例えば持久走は自分で目標値を決めて、その目標との誤差で評価。 こんな先生が増えたらいいなと思っています。
▲861 ▼14
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ドッジボールとか地獄の時間でした。 男子が本気でボールを投げて、私の顔面に当たり、泣いたら泣き虫呼ばわりされ、先生は何もフォローしてくれない。
恐怖でしかありませんでした。
跳び箱も、走り高跳びも、ハードルも、 一体誰のなんのためにやらねばならんのだ。と思いながら、できない子のチームで固められ、先生がやり方を詳しく教えてくれるわけでもなく、そっとされてたきがする。
おかけで鬼ごっことか昼休みにみんなで何かする時、チーム分けで最後までいらない人扱いされて、 もう外で遊ばなくなりました。
体育なんて大嫌い。運動できる子にだけ元気に声かける体育会系教師も大嫌い。
▲778 ▼37
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体育は元々、病弱の子どもを健康にするために始まったので、過度な技能を追求する必要はない。服装も真冬なのに半袖短パンは風邪をひくから本末転倒。 準備運動をしっかりやって身体を温め、生涯に渡って運動しようとする態度を育てるべきである。 がしかし、体育教師が手柄を欲しがるためか、生徒指導のためか、過度な運動をやらされてきた。
▲861 ▼49
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徒競走、逆上がり、跳び箱、大縄跳び、などなど悲しい思い出ばかりです 大縄跳びは引っかかるのは必ず私 チーム全員から睨まれ、ため息をつかれる、その辛さ 海外の小学校では、体育の時間と言っても普段着のまま校庭で自由に運動するだけの国もあるそうですね 運動はもちろん体に良いですし、競争も、できない辛さを経験するのも悪くはありません でも、頑張れば必ずできる!みんな輝こう! とか言って全員に一定レベル以上を強制する必要があるかは疑問です
▲708 ▼22
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一概には言えないけど、体育って球技だと終始ゲームのことが多い。そうなると運動が得意な子が目立ち、苦手な子は何もできずどんどん嫌いになる。マットなどもやってみてできなければおしまい。そういう授業が多く、丁寧に指導したりポイントを説明したりする先生って一握り。教師こそ学ぶべき存在だと思います。
▲522 ▼18
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小学校では50m走万年ビリでいじめられ、中学生の授業で球技が死ぬほど嫌いになり、高校生の時に水泳部にいた時期も速い奴にいじめられ、「運動ができる奴にろくな奴はいない」と固く信じた子どもの頃を思い出しました。
今、自分が教育者になって思うのは、「競わせる」は「争わせる」の側面を持つことを、保健体育科の教員はどう考えているのだろう、あるいは考えていないのか?」ということです。
競う両者が信頼を築き、互いの向上のために協力できるなら、たとえ勝敗がついても互いを尊重できる。そもそも「競う」ってそういうことでしょ。
しかしそういう重要な前提をろくに説かず、ただ競技で勝敗をつけさせるのは「争い」と同じ。勝敗が決して「勝者は驕るな、敗者を悲しませるな」と言ったって、勝者は無関心だし敗者は尊厳を奪われるだけでしょう。
私は保健体育科の教員ではないので、専門の方の意見をぜひ伺いたいところです。
▲832 ▼125
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同じような学生時代の思い出を持っています。 劣等感から自分は運動は出来ない、嫌いだと 思って生きて来たのに、ダイエットのダンスを 踊ってみたらハマりにハマって周りから 教えてくれと頼まれるほどにw あんなに出来ない嫌いだと思っていたのが嘘のように 体を動かすのが大好きになりました。 言葉って暴力だなとつくづく思います。
▲626 ▼24
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私も体育の授業は大嫌いです。跳び箱飛べない、逆上がり出来ない、走れば鈍足、唯一なわとびがちょっとできたくらいでしょうか。それに体育の教師ってやたら体罰や連帯責任を押し付けてくる。中学の時テニスラケットで尻を叩かれた記憶、スキー教室で点呼に間に合わず私のせいで部屋の全員が頭を叩かれ、廊下に座らされました。クラスメイトに 対して本当に申し訳なくて……今でも苦い思い出のひとつです。苦手なことがあってはいけない。平均的に全部できなきゃいけないという日本独特の教育概念は子どもたちの自己肯定感を削ぎ落とすと思います。
▲498 ▼41
=+=+=+=+=
日本の教育は、どうしても競争や「和」を重視する傾向がありますよね。 本来子供は身体を動かすことが好きな子が多いはずなのに、チームプレーが苦手だったり、上手くできないと怒られたり、からかわれたりして、運動が苦手だと感じてしまう子が多いと思います。 競技などのスポーツではなく、大人になっても運動を継続出来るような、もっとリラックスした雰囲気の中で子どもたちが自然と運動習慣を身につけられるような教育になってほしいと思います。
▲287 ▼11
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教育って難しいと思う。すぐにできる子もいるしできない子もいる。勉強はませた子はすぐできるようになるが、幼い子には難しいことが多い。体育も持って生まれた運動神経の良し悪しで大きな差があるだろう。体育も、上達するためのコツ・技術を教えるべきだ。早く走る脚の動かし方、逆上がりの腕の力の入れ方、遠くへ投げるコツ、などなど。イタリアの美術の教育では正確に形を描くことを教えると聞いた。例えばイタリアの国の輪郭を描く練習など。まさに技術の習得だ。
▲257 ▼13
=+=+=+=+=
やっとこのような議論がされるようになりましたね! 私も運動が苦手で同じ思いをしてきました。 しかも体育の先生は意地悪な人が多い気がします。 水泳では、「あなたの泳ぎ方を悪い見本にしたいから」とみんなの前で1人で泳がされました。大人になった今も時折思い出し、心の傷になっています。 こんな私でも今はトレッキングが好きで何泊も歩きに海外の山などに行っています。 人それぞれ得意な運動能力は違っていて、本来はそういう物を見つける場所、体を動かす楽しさを学ぶ場所であるべきで、トラウマや心の傷になる場所ではいけません。 教えられる能力のある体育教師はなかなかいないという事と思います。
▲236 ▼8
=+=+=+=+=
私も体育が嫌いでした。ただ水泳については通っていた学校では泳げない子は夏休みに補習があり(水泳は命に関わるため)クロールのみ25m泳ぐことができます。その他は苦手です。子どもも体育が苦手で嫌いなようです。子どもの場合は障害もあるため努力しても出来ない部分もあります。療育の一環でパラリンピックの競技をしてみたときは楽しそうでした。決まりきったものを教えるだけではなく出来ない子どもも楽しめるものであってほしいです。
▲282 ▼36
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体育教師もだけどその学校の生徒の質も重要だと個人的には思います。
私の場合、中学の体育ではサッカーではサッカー部が、バスケではバスケ部が素人相手に無双するのが体育でした。(皆さんも同じかな?)
しかし高校の体育のサッカーの時には「サッカー部が体育のサッカーで素人相手に無双のはカッコ悪い」という共通認識があって、サッカー部員はあえて審判やキーパーなど補助役に回ってました。
試合に出るサッカー部員はシュートは打たずに素人のカバーやアシストなどに専念し、体育の時間だけサッカーをする素人が楽しめるようにと日陰役に徹していました。バスケやバレーも同じです。
もちろん満足度が高いのは高校の体育です。そして嫌味に聞こえたら申し訳ないですが事実として述べると、中学は地元の市立、高校は県立の進学校でした。
教養のない人間が集まれば自然と弱者を貶める環境になってしまうし、逆もまた然りなのです。
▲243 ▼11
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私も体育の授業はいい思い出がないなぁ。それで運動嫌いになったんだけど、歳を取って体力維持のためにスポーツクラブに通いだしたら、運動することの楽しさを本当に実感できた。 常に励まされることが、どんなに心強くモチベーションに繋がるのかというのは、目からウロコがおちるような体験でした。 そういう民間のノウハウ使って指導法考えてもらったら、安全配慮も行き届いた、誰でも楽しめる楽しい授業になりそうですよね。
▲159 ▼11
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体育の授業が自己否定に繋がるというのは賛同できますね。私も体育の授業での嫌な経験から、長きにわたり自分は運動ができないという自己暗示にかかっていたことに20代後半になって気付かされました。 例えば何かにぶら下がらないといけない時に、体力が無いから落ちて怪我してしまうに違いないし怖いという感情が先に出て、体がすくんでしまいます。自分の体が信用できないというか。 いい年して恥ずかしいですが、大人になってから公園やアスレチックの遊具で試し、自分でもできるんだと思える成功体験を作って、足りないと感じたらジムで鍛えることで、ようやく体力テストで平均を超えるようになりました。今はスポーツの大会で結果も出ているので、馬鹿にした同級生達を見返したい気分です。 公立学校って、体育の得意不得意は目立つのに勉強が得意な生徒は目立たないですよね。テストの上位者とか公表すればいいのに、そこは配慮されるんですよね。
▲200 ▼15
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私は球技全般が苦手でした。苦手意識が強かったこともあり、私は自分が運動全般に能力がないと思い込んでいました。しかし、実は不得意なのは球技だけで、水泳・陸上・武道などは人並みに出来ることに、迂闊なことに30歳過ぎてから気付きました。 運動は心身の健康維持のために必要です(既に知られていることですが、適度な運動は記憶力増強・うつ病予防などに効果があります)。現在の小中学校のプログラムは多少は改善されているかも知れませんが、生徒それぞれの適性がしっかり自覚できるような教育が望ましいと思います。 生涯にわたってみんなが自分なりに運動を楽しみ、少しでも健康寿命が延びるような、そんな社会になって欲しいですね。 ヒャダインさんが経験したような屈辱的な教育は、当然のことながら論外です。
▲126 ▼7
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運動部でも体育は好きではなかった。嫌々やってる人達としても楽しくない
音楽などは、教員より学生が合唱コンクールの練習などを強要してきて大変不快でした
科目や専門に関係なく、何かをはじめるタイミングは人それぞれ。嫌いにならない程度に入り口になればいいくらいにしたらいいように思う
人生の半分以上を費やしている専門があるけど、嫌々してもらいたいとは思わない。いつか踏み入れてみたいと思ってもらえたら幸い。その時に仲間として歓迎するのが、先輩達への恩返しだと考えてます
▲213 ▼36
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勉強ができる子もできない子も特に目立つようなことはないけど、体育や音楽はできる子できない子が一目瞭然ではっきりわかってしまうのがつらいですよね。 算数が苦手な子に、問題が解けるまでみんなの前でやらせるなんてことはそうそうないと思いますが、体育だとその状況はよくあること。ある程度は仕方ないと思いますが、先生の配慮の仕方ひとつで改善されることもあると思います。
▲142 ▼3
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高校時、体育の授業に持久走がありました。 持久走の授業を見学した人は、放課後に残って授業の分を走らなければならないというルールを体育教員が決めており、私も放課後に走らされた事があります。 ある日、放課後に諸事情で走ることができない同級生が、体調不良を我慢して授業を受け、倒れてしまいました。 同級生は数日意識不明の後、亡くなりました。
学校では不慮の事故ということで片付けられましたが、同級生から「体調が悪いけど授業休むと放課後の追加授業があるから…辛いけど頑張る。」と言う話を聞いた生徒が複数おり、これを不慮の事故と片付けてしまうことが疑問でなりませんでした。
体育の教員は元々長距離走を専攻しており、授業がない日はいつもひとり校庭のトラックを走っていました。
体育はあくまで個人の体力限界を超えてやるものではないはずです。
何のための体育なのか今一度見直してほしいと思います。
▲151 ▼4
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体育教師は体育が得意。ごく当たり前の事だった。エッセイを読んで気付かされました。初めから得意な者が苦手な子の気持ちは分かるのだろうか。 関係ないけどうちの子の通う高校では体育教官室に入るのに厳格なルールがあって、間違えるとやり直しをさせられる。 生理でプールを休む際にも、ペナルティが課せられる。 教員の頭の固さも年齢に比例しているとの事。 この話題をきっかけに体育教育についての意識が変わっていく事を願います。
▲136 ▼3
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体育ほど個人差があらわになる科目はないですよね、、 得意な子は自己肯定感も高いだろうけど 苦手な子はトラウマレベルに心が傷ついて 自己肯定感が低いまま大人になってしまっている人もいると思います。 私も後者の1人です。 運動ができない人の気持ちがわからないから、傷口にに塩を塗るような指導をしてくる体育教師もいますよね。 中学時代の体育教師が、今だったら大問題になるくらい酷くて大嫌いでした。 著名な方がこういう発信をしてくださると 本当にありがたいし、 救われる生徒さんもいると思います。
▲190 ▼5
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私は運動神経の良い女子でしたが子供心の体育の授業は残酷だと思っていました。勉強だと公立の場合小学校の頃から順位をつけられることってないんですが体育は見るも明らかなので苦手な子が見せ物になってしまう。体育の先生は風紀や躾係のような感じで厳しく根性論の人も多い。
スポーツだって勉強と同じでいろんな種類があってみんな得意不得意あると思います。得意な子は部活で活躍する場があるんだし今の時代は体育は健康面などもう少し違う教え方をしても良いんじゃないかと思いますね。
▲44 ▼1
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中学生の部活動の外部指導をしています。 子ども達と関わり分かったのは、運動って元々持っている要素が大きいです。真面目にコツコツ頑張って努力していても、上達に時間がかかる子もいるし、ここまでかなぁと思うこともあります。なので、短い体育の授業の中 で皆んなが同じに出来るなんて無理です。本人はふざけてる訳でもないのですから。それを出来ないと責めるのは良くないです。責めたりするのでなくどうしたら出来るかを教えてあげるのが、先生ではないですか?出来ても出来なくても、努力している姿を評価して欲しいです。
▲53 ▼5
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体育が不得意な子の母です。 不得意なりに授業を受け、勉強はできるので体育の試験で90点以上をとっても、成績は2か3。 失礼ながらこの体育教師は算数ができないのかと首をかしげました。不得意なら評価に値しないのでしょうか。東京都の教育委員の方々、体育教師の再教育が必要では?
得意なら楽しいから笑顔も輝くでしょうね。運動すれば汗もかくでしょうし、太陽に反射してなお輝くでしょう。 でも勉強が得意な子や他が得意な子も輝いているんですよ。
▲174 ▼30
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体育の授業そのものもだが、体育教師って、みんなの前で怒鳴りつけることを「教育」だと勘違いしてる人が多い。少なくとも私が中高で出会った体育教師はそうだった。 何か悪いことをした生徒を指導するとなると、みんなが見てる前で怒鳴りつけて、怒鳴られた生徒が「すいません」と言ったら反省したと見なして満足する。 実際は、生徒側からしたら、他の生徒たちの前で晒し者になってる状況を早く収めたいから、何が悪かったのか、今後どうすればいいかもよくわからないままとりあえず謝ってその場を乗り切ろうとする。 当時から、こんな人たちがなんで教員免許が取れて教師になってるんだろうと思っていました。
▲83 ▼4
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昔は一人一人みんなの前でテストさせられましたね。出席番号が始めの方の名字だったため、いつもみんなの集中力があるうちにやることになり、今でも思い出せるほど苦い記憶です。 ドッジボールも外野やるとか、鉄棒や跳び箱の順番練習をやったふりして並び直すとか、何とか逃れる方法をずる賢く考えるようにもなりましたが。 我が子ももれなく運動音痴を引き継ぎましたが、今の体育は昔より音痴にも優しめだなとは思うものの、小分けのチームでやることが多そうで、それはそれで大変そうだなとも思います。
▲67 ▼4
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持病で長く体育を見学していましたが、苦手だったもので、むしろホッとした記憶があります。
治療で参加できるようなって、高校生の頃の体育教師が非常に印象的でした。高校の体育教師を仕事に選んだ理由を話してくれたからです。交通事故をきっかけにという、ご自身の体験、日々の運動の大切さ。心に深く染み渡りました。今も心と体の健康に注意して生活しています。 あの時の先生、ありがとうございました。
▲6 ▼0
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子どもの時は体育が好きだし、得意だし、運動会や体育祭が生きがいでした。今、小学校の教員になったのですが、体育が好きじゃありません…(笑)年と共に体が動かなくなってきたのもあると思うんですけど、運動が苦手、体育が苦手な子の気持ちは今になってよーーく分かります。なので、試合形式の体育の時はレベルが同じくらいの子で戦えるようにしています。子どもたちにどうしたいか選ばせて。勉強が苦手な子たちに手立てがあるように、運動が苦手な子たちにも適切な手立てを取ってあげればいいかなと思います。人間、全く運動しないのは不健康だと思うので、健康が保たれるくらいの運動ができれば正直良いですよね。
▲6 ▼0
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子供が運動苦手で、本人も苦労してるのはもちろんですが親である私も運動会の日なんて特に他の子との差を見せつけられて胸が締め付けられるような気持ちになります。 本人も苦手で嫌な事を意識し過ぎて普段より身体がガチガチになってしまって徒競走は集団から離れて断トツビリでした。 楽しそうに1位で駆け抜けて笑顔でゴールテープ切る子が羨ましかったです。 気持ちだけでも分けてもらえないかなって思いました。 子供に対しては参加した事が偉いと思うし、頑張った事を褒めたいけどそれだけでは埋められない辛さがあります。 晒し者にするのは辞めて欲しい。
▲41 ▼2
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私も体育の授業が大嫌いでした。できないものはできないのに、「真面目にやれ」と教師に叱責されました。放課後に跳び箱の練習を1週間続けさせられたこともあります。真面目にやっていました。でも、できないものはできないんです。理屈はわかっています。助走して勢いよく踏み切って、両手を跳び箱の前方につき、腰を高く上げる…。わかっててもできないんです。算数が苦手な子も、絵が下手な子もいるのに、体育ができない子だけがさらし者にされていました。ヒャダインさん、そんな子たちの代弁をしてくださってありがとうございます。ようやく溜飲が下がりました。
▲71 ▼4
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人格形成に影響を与えられたなというのはあらゆる部分で感じます。良くも、悪くも。 中学よりも小学校の方針の方がより強く影響していると思う。 漠然と先生達はそういう子供のメンタルへの影響を殊更に心がけているのかなと思っていたけど、大人になり同級生たちと当時を振り返るにつれ、先生独自の正義感や志で暴走していた先生もいたよねと気づけました。 子供の頃に嫌な気持ちをした経験から、教育者向けの精神科の本を読んだりしましたが、子供と向き合うことはやはり簡単なことではないなと思います。 現場のことは詳しくないですが、専門家が先生達に指導できるような環境がもっと整備されなければいけないのかな。 大人になって、子供の頃の自分を慰めてあげることができて私は少し救われましたが、そもそも大人のせいで嫌な気持ちになる子供がいないのが一番だと思うのでこういう活動はもっと進んでほしいなと思います。
▲20 ▼3
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教員ですが、体育だけでなく、グループワークやペアワークを多くする授業が苦手で、不登校になる事案は数多く存在しています。ひと昔前は、「我慢」することが当たり前だった感じなので、表面化していませんが、昔から一定数以上、体育や音楽などが嫌いすぎて、心が壊れそうな人は数多くいたと思います。今は、誰もがスマホで自分の本音を出せる時代なので、問題が表面化しているだけだと思います。
何十年前のシステムが今もなお普通に行われていることが、限界にきているのです。
▲106 ▼2
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寒風の中、半袖半ズボンで震えながら体育をしている風景に遭遇すると、今の小学生も大変だなと思います。 健康な体を育てる目的をある程度果たせば良いわけで、体育授業は今も昔も過剰なものが多いと思いますね。 転倒予防や姿勢維持の柔軟性を養うストレッチだとか、適度な筋トレだとか、心拍数をそこそこ上げる有酸素運動だとか、ジム的なプログラムで良いと思います。 タイムや出来にこだわる子は本格的に競争の道に進めば良いし。 成績をつけるなんて無駄なことやってないで、各々が身体づくりは自身のためになると思える内容にすれば良い。
▲28 ▼3
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体格や運動神経の発達の程度が幼少期には激しいです。この事を、教育委員会に、まず理解してもらいたいですね。次に性格面において、協調性を必要とする種目の取り扱いも慎重さが必要でしょう。自分自身を振り返るに、幼少期は体が弱く、内向的といわれ、走る事も、球技も苦手でしたが、大人になれば、団体競技は嫌ながら、マラソンもスキーも個人で行えるスポーツは普通にできるようになります。何せ、信じてもらえないかもしれませんが、大学教養課程において、25メートル泳げなければ、単位がもらえなく、それで落第や退学となる学校に進学してしまいましたから。どんな運動音痴でも全員、犬かきで必死に泳ぎ切りました。ある意味、体育はやれば良いだけで、勉強にはほとんど影響しません。人格形成なんて大袈裟ではありません。軽い気持ちでやり過ごすのが一番です。
▲49 ▼15
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体育が得意な人が体育教師になる、確かに。できない人の最も遠い位置にいる人から教わるのですよね、嫌いになるわけだ。
私は特にプールが大嫌いでした。近年は気温と水温を元に入れる日を決めているようですが、私が子供の頃小雨でも入りました。体質かすぐに芯まで冷えて唇が真っ青に。ガタガタ震え泳ぎどころでは無かった。なので自分は泳げないと思い込んでいたのですが、大人になり温水プールで練習したらすぐに100メートル程度なら泳げるように。
子供の中学は私立だからか見せしめのような体育ではありません。プールも無い。みんなで軽く体動かして勉強で凝った肩をほぐそうか程度。進学校だから運動不得意な子が多いのかな(これも偏見か)助かってます。 ラジオ体操やストレッチ、やりたい子だけ球技とか、こうすると怪我するから気をつけようとか、こういう運動するとどこに筋肉つくとか楽しみながら身体を知る授業になればよいのに。
▲52 ▼5
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私立中学に通う子供がいます。私立だからなのか、今の時代だからかわかりませんが、体育祭の競技は運動が不得意な子供にも活躍できるような競技を選べるようになっています。 普段の体育はサッカー等もあるのでたぶんうちの子は苦戦してると思いますが、体育祭だけでも皆が楽しめるようにしてくれているのは良いことだと思っています。
▲36 ▼3
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体育こそ生まれ持った才能が大きく、生まれつき苦手なコもいるし、体育でしか輝けないコもいる。私は勉強も体育も普通で音楽だけが取り柄だったが、そのことに救われてきた人生でもある。教育とは何が出来ないか、ではなく、何が出来るか、伸ばせる才能があるかを見定め、自信を与えて一人一人が輝けるためであってほしい。
▲63 ▼4
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学校や社会ではしばしば、人前での失敗が恥とされる。しかしその背景には、個人の価値が外部評価に強く依存する風潮がある。失敗した時点で自分の存在価値が否定されるように感じるから、どうしても怖くなるのだ。本来、失敗や苦手なことを認め合い、助け合う安心感があれば恥など怖くない。教師や周囲が結果ばかりでなく、その過程や努力を評価し、安心して失敗できる環境を整えることが大切だ。まずは「うまくいかなくても大丈夫」という空気をつくり、それぞれの得手不得手を尊重する仕組みを増やす。そのためには、教師だけでなく家庭や地域社会も、失敗を批判ではなく次へのステップと捉える姿勢を共有する必要がある。そうした環境が整えられれば、学びは深まり、社会全体の空気も変わるだろう。そして人前で失敗を恐れずに試みを重ねられる社会こそが理想だ。そのような安心感が広がれば、学びは深まるはず。失敗を恥としない文化が根付けば輝けるのだ。
▲2 ▼0
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勉強のできる子がいて体育のできる子がいてそれぞれで活躍できる場があっていい。 両方できなくても人と話すのが得意とか音楽が得意とか絵が得意とかそんなのでいい。 でも世の中に出たら人前で嫌な事をさせられることもある。 だから学校でその耐性をつけておかないといけないとは思う。 しかしまだコレから人格ができるタイミングだから先生はしっかりフォローしないといけない。 しかし先生も忙しいからそこまで見れる先生がどれだけいるかわからない。 だから恩師と言う人に出会えたら良い人生になる。 体育の先生もそうなれる様に頑張ってみるそこを諦めない事が大切なきがする。 耐性のない子が社会に出るから鬱になる人が増えている様に思う。
▲7 ▼4
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ある学校の取り組みで跳び箱の授業をタブレットで動画を撮り、自分のフォームを客観的に見て見るというものありました。 体育の授業で思うのが、どう体を動かせば良いかわからないということでした。 見本を見せられて試すけれど、自分のどこが悪くてうまくいなかいのかは誰も教えてくれません。 でも客観的に見て、具体的にどうすれば良いかがわかるともっと上達する子はたくさんいると思います。 体育の授業自体が悪いのではなく、できて当たり前、できない子はできないまま放置、団体競技は連帯責任等現行の仕組みが良くないのであって、みんなが楽しく参加できる授業は工夫次第だと思います。 デジタルコンテンツも発達したこの時代だからこそできる工夫もあるかもしれません。
▲51 ▼0
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体育学部教員養成課程を10年以上前に卒業した者です。体育学部ですが球技などは苦手です。教員ではありません。 教育を子どもたちの運動発達を考えながら見直していく必要があるように感じます。体育大嫌いと数学大嫌いは同じだと考えています。数学は解き方が分からないから嫌い。だとしたら体育は体の動かし方がわからないから嫌いなのではないでしょうか。ただ50M走をやるのと、体の動かし方を教わってからの50M走では明らかに結果は違うでしょうし、動かし方が分かるとワクワク感や自身の体の理解も深まります。数学などはどこでつまずいているかを先生も一緒に考えますが、体育では出来なければ運動が苦手で仕方ない、としてしまっている様に感じます。発達運動学や運動力学などの学問が研究されていますし、教員養成のカリキュラムにも含まれていますので、是非現場に活かして体育苦手だったけどやって良かったという経験が増えてほしいです。
▲18 ▼1
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体育そのものは嫌いではなかったですけど苦手ではありました。 周りの子達が運動神経良い子が多かったので、自分のダメっぷりを痛感しました。 散々からかわれたりイジられたりしてあまり良いことがなかったですが、自分には運動とは違う分野で得意なことがあったので、それに人生救われました。 苦手なものは克服するのも良いですが、ダメなら得意なことを頑張れば良いと思ってます。
▲19 ▼1
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体育教師は体育のできる人がなるわけで、できないや嫌いな人の気持ちを分かれと言っても難しいと思います。だからこそ、体育が嫌いな私も体育の教師は苦手でしたし、大人になってもなかなか運動に興味が持てない原因になってるかもしれませんな。 身体を動かすことが楽しいと思える授業になれば私みたいな人も少しは減るのではと切に願います。
▲2 ▼1
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下の子は運動が得意なほうではないですが、体操教室に楽しんで通っています。 スポーツが得意、不得意は関係なく、自分なりの目標をもって無理なく頑張れるように指導してくださる先生です。 保護者にもそのような指導方針について説明が再三されています。ヘタクソって言ったり失敗を笑う子は、先生から指導が入るのでしなくなります。(そう言う子って、ふだん親からヘタクソって言われたり失敗を笑われているんでしょうか。)運動が得意な子も不得意な子も課題をクリアして次のステップに進めるようになると、拍手が起こります。 学校の体育もそのようだったらいいのに。 でも、見学に行くと子どもたちは立派なのに、失敗した子を笑ったり揶揄する親がごくわずかですがいるんですよね。とても残念なことです。
▲38 ▼1
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体育は「できる子はさらにできるようになって、できない子はできないまま」のイメージがあります。 自分の経験では、まったく教育ではありませんでした。 運動習慣は健康な人生のために必要なものなので、運動習慣を身につける授業にしてほしいと思います。
ただ、学校の体育で嫌な思いをしても、そんなときにこそ頭の良さが生きるんですよ! 自分は運動神経が非常に悪く、短距離走・長距離走ともに遅かったのですが、早く走るための研究をしてみたら、クラスで2、3番くらいの速さになりました。 球技も研究して、必要な練習をちょっとしてみたら、とても上手になりました。
▲4 ▼0
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体育大嫌いと叫ぶ児童生徒が多い背景として、一人一人の競争の結果が「クラスの順位となって」しまい、その結果としていじめられる事が目に見えている事があります。 順位をつけるのは個人競技のみとして、団体競技や球技等では「順位をつけない」方式が良かろうと思います。
▲400 ▼97
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ドリル位はするけど、小学中学と体育以外はオール5。中学時代はヤンキーやアイドル追っかけながらも、ガリ勉たちに余裕で勝ってた。私は将来、どんな人と結ばれるんだろうって思ってた。結ばれたダンナは、体育だけが5の人。あの頃の偏差値は30位差がある。が、誰よりも大切で尊敬する人。だから人生って面白い。
▲1 ▼4
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元々運動能力高くない上に小学生の頃は気管支喘息で体力もあまりなく、周りが当たり前のようにできる運動が自分にはできず体育は大嫌いでした。小中高と体育の成績は5段階評価の2。 高校生後半で幸い喘息発作も起きにくくなり高3のときは受験勉強には体力も必要かと思いジョギングもするようにしました。体力が多少ついたのか大学に入ると身体を動かすことが楽しくなり以後現在まで定期的に運動してます。サーフィンをするなんて小学生当時の自分からは全く考えられないことでした。 健康の維持には適度な運動を続けることが重要だと思います。学校の体育の授業で運動の楽しさや生涯学習としての大切さを学ぶべきと思いますが、実際は運動能力の優劣を競うばかりで運動苦手な子はますます嫌いになるという理想とは真逆の授業になってますよね。 生徒を競技に勝ちたい派と優劣関係なく適度に楽しみたい派に分けての授業はどうかと思いました。
▲23 ▼0
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私も体育は何やってもだめでした。走ると遅い。マラソン大会はお腹痛くなって、いつもビリ。泳ぐと溺れる。マットや跳び箱も出来ずに先に出来た人の前で何度もやらされる。鉄棒とかすぐに落ちちゃう。球技はボール取れないから、ミスばっかりでのび太くんと同じだと思ってました。体育も運動会もいつも泣きそうでした。 もともとスポーツは観るのは好きで何でも観てました。特にマラソンは地元の朝日国際マラソンを熱心に観てました。 そんな私が40代からゆっくりゆっくり、マイペースで長く走る練習を始めて、フルマラソン完走できるようになりました。これまで5回完走してます。小出さんや金哲彦さんの本を読んで楽しく走ることを学びました。体育が苦手な子に楽しく走ったり、泳いだりできることを教えることができる先生がいたら、もっと学校も楽しくなるのでしょうけど。
▲45 ▼2
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本当に賛同する。昔、跳び箱が一段も跳べず、最終的にはみんなの前で先生が担ぎあげて跳べた事にするみたいな事をされてすごく恥ずかしかった。 体育そのものは健康や成長の為にもあった方がいいとは思うが、出来なくても無理に助け合わなくていいし、そっとしておいて欲しい。出来てる人が見本見せるとかもやらなくていい。
▲256 ▼27
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人それぞれ発達段階が異なり、幼少の頃から自分の体を上手く扱える子もいれば、成長してからやっと扱えるようになる子もいます。大人になってからも上手く扱えない場合もありますが、スポーツに限って言えば「非日常」の動きを要求されるので、「生活に困らない動き以上のものを要求する体育の意義は?」と考えるとき、実は他の教科も日常生活で直接役立つ場面を思い浮かべられる場面はそうそうないのでないかな?算数や国語でも皆の前で発表させられる時の苦手感は人それぞれで、もしかするとヒャダインは体育以外の教科では他の生徒よりもすぐれていたのではないかな?人それぞれ得意、不得意が有り、それをお互いが分かり合っていることが大事だと思います。
▲9 ▼5
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私も体育で辛い思いをしてきた身です。 あの辛さって、不必要な苦しみんですよね。だから理不尽な気持ちになる。 ただただ「できない」という惨めさを思い知らされる。結局できるようになるわけでもない。何の意味があるのか? 私は成人してから視覚障害のために盲学校に入ったのですが、あん摩マッサージ指圧師の資格をとるための必須カリキュラムに保健体育も含まれていました。 盲学校では若者から50、60代まで幅広い年齢層の人がいて、持病があったり足が悪かったり。だから体育の授業はそれぞれの体力に応じた内容でやっていました。グラウンドを走りたい人は走る、歩く人は歩くだけ。 時々球技のゴールボールをしたり。でもできなくても全然OK。怒られることなんてない。 すごく楽しい体育でした。 子どものころこんな体育だったら、私は体育が好きだったろうなと思いましたよ。
▲36 ▼1
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自分は体育は好きだったが、それは大体の競技をそこそこクリア出来ていたからだろうし、苦手な子がトラウマになってしまうのも分かる。自分も苦手な種目がいくつかあって、それについては「自分は〇〇が苦手」という強い忌避意識が出来上がってしまった。 体育が必修なのは良いことだと思う。授業がなければ一生マットの上で転がったりバレーボールを打ったりしなかった。ただ、授業で運動に対して生涯引きずる苦手意識を植え付けるのは違うのではないか。 可能であれば、競技成績の良し悪しに関わらず「体を動かすのっていいな」と思う子供が増えるような指導方針にしてほしいと思う。学校体育はスポーツや運動の全てではなくほんの一部だということをよく認識して、子供に教えてほしい。そのほうが健康寿命が伸びて国民のためになるから。
▲5 ▼1
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下手な見本として走らされた時は悲しかった。
でもあの時の心の棘が、周りの人への気遣いへの気づきにもなってる。
運動は得意じゃないし、人前で運動することは嫌いだけど、できない人を見下すことのひどさとかに気づけた。 嫌なことから逃げない強さも身についたかもしれない。
人生は長いから、嫌なことが役に立つ時もあるし、何がどう役立つかはわからないなと思う。
▲19 ▼3
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体育苦手でした。笑 唯一体育館でのマット運動、跳び箱の台上前転はできました。 逆上がりも毎日近所の公園で練習しました。 跳び箱は1人だけ一番低い段で練習してました。 それがある時コツを掴んで一番高い段まで跳べるようになったのです。 嬉しかったです。 でもかけっこや持久走、ボール関係はずっと苦手でした。
勝手なイメージなんですが、中学、高校の体育の先生が苦手なタイプの方が多かったです。
でもまだ私の時代は穏やかなものでした。 子どもの中学校の女性の体育の先生は、生理でプールの授業を見学するのに、親がそう書いて見せているのに何日目?と聞かれたり、炎天下での見学や掃除だったそうです。
そんな私に似ず、上の娘は体育大好きでした。 授業参観に体育が当たらないのをすごく残念がって、やっと体育の参観だったのに走り高跳びが苦手だったようで、それはそれで懐かしい思い出に今はなっています。
▲4 ▼5
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どんなに運動が苦手でも、成長をしっかり誉めてくれる先生とかいれば少し楽なのかなと思ったりもした。
走るのが苦手でどんなに遅くても、前よりもタイムが縮んだり順位が上がったりしたらそれはちゃんと評価する。
運動できるやつが出来ない人に対して居心地悪くさせてるのなら、そういう雰囲気を止めるようにするのが体育教師の仕事でもあると思う。
オリンピックのスケボーとかで、たとえ競争相手が技を失敗してもその人が挑戦する姿勢をちゃんと評価して賞賛しますよね。 オリンピックはトップ層の集まりなのでみなさんスケボーが得意な人だらけなんですけど、体育の授業レベルでもそういう認め合う雰囲気があったら良いですね。
体育が嫌いだから運動会を中止にしたり授業から逃げても良いみたいな変な方向にいかないで欲しい。
▲8 ▼10
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ちょうど、うちのこ3年生で、跳び箱の上で前まわりする台上前転がどうしても上手くいかないと嘆いていたんですが、うちのこは体が大きい。実は私も小学校の頃体が大きく、台上前転で跳び箱から落ちたトラウマがあるので、気持ちがわかった。聞くと、できてないのは体が大きい女の子ばかりで、普段他の体育は問題なくできてる子たちばかり。成績アップのため、頑張ってますが、、正直台上前転なんて人生に関係ないし、体が跳び箱の上に収まらない子には曲芸並に難しいよ、、と感じた。
▲53 ▼3
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こんなことは体育の授業に限ったことではないと思いますが、特に体育の教師は脳みそが筋肉で出来ているので、運動能力=優秀と考えることはあるかもしれません。。 私は小学五年生の時、担任から他の生徒の前で字が汚いと罵られ、文章を書くことに苦痛を感じるようになったことがあります。大人になってワープロができて助かりましたが、習字が趣味になっています。
▲23 ▼2
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自分は体育では困らなかったが、小4の時図工で、おそらく自分が先生の課題を無視して好きな絵を書いてしまったのだろうと思うが、提出した際皆の目の前でその作品を破かれた時は本当に学校が嫌になり、その後も小学校は本当に嫌な思い出が多かった。今に照らせば多分特性が濃くてそういった指導が必要な児童だったと思うが、少なくとも多様性を重んじるのであれば今の義務教育のあり方や一律教育は根本から変える必要性を感じる。
▲3 ▼0
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「運動が苦手な子どもが輝く授業をつくろう!」という主張は分からんでもないですが、これ「運動」と「勉強」を入れ替えても成り立ちますよね。そしてのび太のように、運動も勉強も苦手な子どももいるわけです。一方、運動も勉強も特異な子どもも。また、勉強は苦手だけど体育でだけは輝ける子どもも。 ただ、身体を動かすことの楽しさを学べる授業になれば良いかなとは思います。授業や受験とは関係なく、趣味で歴史や音楽やスポーツを楽しんでいる人は普通にいますから。そのきっかけになるような授業となれば良いですね。
▲67 ▼15
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私も運動神経0で授業では笑われ本気を出しているのに真面目にやれと言われ、他の科目ができなくても見世物にならないのに、と疑問に感じていました。
運動神経が普通以上の人ってアメトーークの運動神経悪い芸人をヤラセだと思ってますよね…
姪の小学校では50m走の計測の際は1人ずつ走って、皆で応援するそうです。姪が体育も楽しんでいるようでうれしくなりました。運動できるようになることより、将来的な健康維持の為にも運動を好きになる教育が進めばいいなと思ってます。
▲3 ▼0
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音楽の授業で楽譜を見ていきなりリコーダーを吹く見たいのがすごく苦手意識がありました。 みんなの前で音楽の先生に違うでしょ!と怒るそれで上手くなるかと言ったらそうではなく苦手意識が強くなるばかり。 当然、みんなで歌うのも恥ずかしい。 でも、音楽は好きなので好きな音楽に目覚めてコード、スケール、リズム等の曲の構造、理論、練習の仕方、バンドを組んで発表とかの方向づけに恵まれていたら上達したかもしれない。 そういえば学校の水泳大会も特に嫌でした。 水泳の習い事してるかしてないかで明らかな差があるし自己流のクロールでなんとか25m泳げる自分なんか惨めなものです。 音楽でもスポーツでも習い事しててどういう先生に出会っていてどういう教わり方をしていたかで残酷なまでに全然違いますよね。 こういうのっておとなになるにつれての自信、自己肯定感に大きな影響を与えるんじゃないでしょうかね。
▲9 ▼0
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自分も体育は苦手で、 ずーっと2をつけられていました。 みんなができる中、一人だけできず、 晒し者になる気分は本当に辛かった…。 だからずーっと運動は嫌いだと思っていたが、 大人になってからダンスを習ったら とても楽しく、ストレス発散になった。
もちろん、教科として査定は必要なのは 理解できるが、これからの子ども達には 身体を動かす事は楽しいと感じれる 体育の時間にしてほしいと思う。
▲6 ▼0
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私は音楽も体育も苦手て小学校の教師です。 別に教師ができなくても何となくは指導できる。 苦手だったからひどいサボりは許さないけど今できる力でいろいろチャレンジすることを推奨してるし、自分を高めるのであって人と比べるのではない。少しでも良くなるアドバイスをし合うことに重点を置いている。 できない人に指導されるの嫌がる保護者いるけれど、別に私がずっと担任するわけじゃないし、健康的に無理なく生活する、体を知るための教科であって、プロを育てるわけではないから、嫌なら金出して習わせたら?って思う。 音楽も、学校で習った以上のことは私はできない。 ピアノ両手で弾く指導受けてないから私はできない。指導要領に載ってないんだから私ができないことに問題はないし。発達段階に応じて音楽を楽しむ心を育てたらそれでいいのでは?習い事ってプラスワンのものでしょ?
▲6 ▼12
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同じでビックリしました 自分は3月産まれでいつまで経っても不利な状況でした 4月産まれだったらだいぶ状況が違っていたと思います 毎年平均6cm伸びていたので4月産まれだったら6cm大きいポジションと力を持てていたと思います 常に比較されると小さい弱いってなっていました 高校に入ったくらいでやっと体力差が無くなったのを覚えています いろいろ人前で弱かった部分を晒されて嫌でしたね プロ野球の選手に4月産まれが多いと言うデータもあるようです
▲19 ▼3
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ヒャダインさんに同感です。私が当時いた中学校は不良の総本山でした。不良たちにいじめられていたクラスメイトを友人と一緒にかばったら私たちもいじめの対象になってしまいました。特に体育の授業は地獄で、ドッジボールの時に私たちは何度も狙い撃ちされて強めにボールをぶつけられていました。いじめの舞台は体育館だけではありませんでしたが、ボールという武器がある体育は本当に地獄でした。体育の教師や担任に相談しても埒があかず、私たちも自分を守るために体育の授業を休むようになりました。が、その体育教師は不良グループではなく私たちに怒りの矛先を向けてきました。私はこの件があるまではその体育教師との仲がそこまで悪くなかったので、本当に悲しくなりました。今でも体育の授業はトラウマです。そして今さら謝罪や賠償を要求するつもりはありませんが、故郷を素直に愛せなくなった原因を作った彼らに対する恨みや憎しみは消えてません…
▲64 ▼6
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小中の体育で、運動のやり方をそもそもきちんと教えてもらったことないような気がします。 とりあえず、球技でも跳び箱でもなんでもやってみてできるまでやるって感じでした。 多少、こうやるみたいなのはあったかもですが、できない人はこうするといいみたいなのはありませんでした。今は違うのかもですけど…。 私は運動音痴すぎて、ハードルも跳び箱も飛べたことありませんし、ボール投げをやると最高9mしか跳びません。 水泳なんて、高校でようやくまともに教えてもらえました。小中はただの水遊びでした。 授業のやり方を変えていかないと、運動音痴はずっとそのままで、運動が苦痛のままです。
▲30 ▼2
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私は、音楽が得意でなく嫌な時間でした。 音楽会も嫌なイベントでした。 結論、嫌な事も中学位まで経験したことが良かったと私は思います。あの頃の嫌なストレスを乗り越えてこその今がある様な気がします。 社会に出て、好きな事だけで生活できる方はほんの一握り。いくらでも嫌な事も苦手な人も苦手な事も出てきます。 社会に出るまで、苦手な事等乗り越えてこなければ、きっと長い社会生活は耐えられないだろうと私は個人的に思っています。
▲22 ▼9
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凄く分かる。まさか大人の今になって、自身の経験と重なる事が話題に上がるなんて思いもしなかった。グループ分けではすぐには選ばれず、要らない感がヒシヒシ伝わり、バレーで自分にサーブの番が回ってきて、やったら下手であからさまにガッカリされ、小学生の頃やたらとキックベースをやらされていたけど、下手過ぎて運動神経の良い人達からは物凄くキレられ怖い思いをし、野球いうバッター側をやる時は、とにかく順番が自分に極力回ってこないように、いつも列から抜けて後ろに並び直しに行っていた。
▲42 ▼2
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趣味が武術なのでw 武術関係は色々勉学を重ねます。 そうしていると、やっぱ明治以来、学校教育、軍隊となって体育と取ってつけたような科目が作られた。体育なんて書いてるけど、実際は欧米式に人間を作り替えるものであり、日本においてはさらに奴隷や囚人になるための訓練と言っていいと思う。 歩く・走るなんて、普通と思うが、何か皆さんも武術や昔の身体操作に関わる事に触れた事ある人なら知ってると思うが、実は江戸と明治以降では違うんですよ。立つ事すら違う。具体的には膝裏を伸ばす事と左右交互に振って歩く事がある意味体育の命題なった。今や当たり前過ぎて何言ってるとさえ思うだろうが。 だからこの明治に遡って向き合わないと体育は根本的に改善の方向なりません。それは諸制度にとってもそうだと思います。給食からしてご飯味噌汁でなくパン牛乳だから、もう社会的には絶望的なほど改善は見込めない。個人で取り戻していくしかない。
▲5 ▼11
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自分はできない側だったし、いじめられっ子でもあった。 でも体育は嫌いじゃなかったな… できなくて笑われるとか嫌われるとかよりも、 そもそもいじめられてたので みんなと一緒に何かやれる、ってことのほうが嬉しかったな。 休み時間に誘い合って遊ぶってことがなかったから。 足は遅いし体は固いし、ドッヂボールなんて最初に当てられて ずっと外野でボールなんて触ることもなかったけど。 休み時間にみんながやってるドッヂボール、 授業でなら参加できるってことが嬉しかった。 はたから見たらかわいそうだったかもしれないけど。 感じ方って人それぞれだから、 当事者の本当の気持ちを汲めるようになるといいよね。
▲3 ▼10
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最近は必ずしも当てはまらないようですが、「走り方も教えずに競争させてタイムを取って順位をつけて終了」という進行は、他の教科では考えられないのでは……音楽も割とそうかもしれません。
長年にわたって「教員が忙しすぎて、なり手がいなくなるほどに」教育研究活動が続けられてきたのに、見直され始めたのが数年前ですから、それまでは一体何だったのかという話にもなります。
▲43 ▼3
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自分は子供の頃に運動が得意だったのでですが、得意ゆえ少年野球で今では問題になるようなハラスメントを受け、運動そのものが嫌いになってしまい体も壊してしまいました。その後、自分が体を動かすのが好きなのを思い出すのに30年間も掛かってしまいました。 本来体育とは適度に体を動かして健康な毎日を送りましょうということでしょう、それを運動嫌いにしては本末転倒です。大人になって歩くのすら嫌いな人の中には子供の頃の体育でのトラウマが蘇ってくる人も少なからずいるのではないでしょうか。 自分のように得意だった運動を嫌いになるような状態に陥るのも、ヒャダインさんのように体育が嫌いになってしまうのも共通している点は指導者の所謂体育会系的指導によるものだと思います。
▲22 ▼1
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今の小学校は、体育できない子にかなり配慮してますよ。徒競走も同じ位のタイムの子と走らせ、差がつきにくくしたり、勝ち負けを明確にしなかったり。体育できる子ができない子に配慮しないと怒られたりします。体育できる子にとっては、物足りない事も多いようです。日本の教育は平均を意識しすぎて伸びそうな子も伸ばさない、伸びなさそうな子に頑張らせないで大丈夫かなと心配になります。子供少ないし、算数みたいに、クラス分けをして、やればいいのにと思います。
▲13 ▼6
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体を動かすのは大事な事である。しかしあの競技が出来るこの競技が出来るとかタイムを競うというのは皆に同じものを求めるのは間違っていると思うが。昨今どことなくスポーツを神扱いする風潮があるがそれは間違いだと思わないのが不思議である。体の鍛錬とか健康的な生活の為の運動は賛同するが。
物事は体育でだけではない。科学数学国語そして近年では道徳なども重要であると思うが。スポーツ特待とかスポーツ部での活躍が内申点になったりするのであればずば抜けて数学や物理化学に長けているなどももっと前面に出ていいだろうと思う。なんだか日本がおかしな方向に言っているような気がする。
▲11 ▼3
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私も子供の頃体育の授業が大嫌いでしたが、大人になった今ではほぼ毎日ジムに行って1番嫌いだった有酸素運動をやっています。運動が嫌いだったのではなく、集団行動が嫌いだったのだと気がつきました。また、体育同様に勉強も出来ない子供でしたが、デザインの世界の隅っこ生きられています。 体育の授業が嫌いな生徒がいるからどうしようではなく、お互いに才能や可能性の入り口に立っているかもしれないという前向きな捉え方をして貰いたいと思います。甘いかもしれませんが。
▲31 ▼0
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自分の場合は体育とはいっても、内容によって好きなものと嫌いなものに分かれていた。持久走や跳び箱は比較的好きだったが、球技が大の苦手で、中でもドッジボールはまさしく戦力外そのものでしかなかった。自分とは違って球技を得意としている子の方が多数派だったので、上手くボールを取れなかったり、判断を間違えると責められたりすることもあって億劫極まりなかったのを今でも鮮明に覚えている。ただ、そんな体育よりも嫌いだったのが音楽の授業。楽譜は読めない上にリコーダーもろくに吹けないにもかかわらず、クラスメイト全員の前で実技テストをやらされ、残ったのは恥と屈辱だけ。それ以来、リコーダーはすっかりトラウマでしかない。
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