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国民民主党が注目を集める理由として、現役世代向けの主張である「手取りを増やす」が挙げられている。

これは、税金や社会保険料の負担感を持つ現役世代に呼応し、その負担軽減や手取り増を訴える政治主張であり、今後の政治を象徴する重要なテーマとなりつつある。

また、日本独自の構造である「神聖なる憎税同盟」が「手取り主義」の根底にあることや、現役世代の不満を考察することが示唆されている。

税収の低下や公共サービスの低下を招く可能性はあるが、現役世代の切実な要求から出発し、政府の公共的役割を再定義することが重要であると述べている。

(要約)

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メディアのインタビューに答える国民民主党の玉木雄一郎氏(写真:共同通信社) 

 

 今夏の参院選での比例投票先を聞いた朝日新聞と時事通信の2月世論調査で、国民民主党が野党トップとなる結果が出た。昨秋の衆院選でキャスティングボートを握り、今国会でも「103万円の壁」引き上げをめぐる議論をリードして目立っている。国民民主が掲げる「手取りを増やす。」に象徴される現役世代向けの主張が、なぜいま支持を集めているのか?  政治学者であり、現在は国会議員秘書として永田町の内部から政治を見つめる大井赤亥氏が解説する。 

 

 (大井 赤亥:衆議院議員政策担当秘書・広島工業大学非常勤講師) 

 

■ 「税金を払う側に立った政治」がなぜ流行っているのか?   

 

 今年1月から始まった第216回通常国会。本会議場に響く各党の演説を聞いていると、主として国民や維新など野党側から、いわゆる現役世代に視線をあわせた「減税主義・税還元主義・手取り主義」とでもいうべき趨勢が生じている。 

 

 昨年の衆院選で躍進した国民民主党は、これまでの自民党政治を「『税金を集めて使う側』に立った政治」と批判し、それに対して自らを「『税金を払う側』に立った政治」と位置づけ、前者から後者への転換を訴える(国民民主・田中健)。 

 

 日本維新の会もまた、自民党の政策を「多く集めて、集中的に配る」ものとし、それに対して自分たちは「『集めて配るのではなく、そもそも集めない』経済対策」を提唱してきたと自負する(日本維新の会・三木圭恵)。 

 

 これらは、税や社会保険料の負担感を抱きながら、社会保障の恩恵にあずかる実感に乏しい「現役世代」(40代前半から50代半ば)に依拠し、その負担軽減と手取り増を訴えるもので、いわば「手取り主義」と呼べよう。「手取りを増やす」は、2025年の政治をも象徴するスローガンになりそうである。 

 

 原則論でいえば、民主政治とは「治者と被治者の同一性」、すなわち治める者と治められる者との一致を前提とする政治である。したがって、「税金を集めて使う側」と「税金を払う側」もまた同一であり、双方を対立概念として論じるのは誤った設定である。 

 

 ただし、これはあくまで政治思想の教科書に書かれている原則論にすぎない。 

 

 重要なのは、今一度その原則を確認することに加え、なにゆえその原則に実感が持てないのか?  どうして原則と現実とがこれほど乖離しているのか?  どうすればその乖離を埋めていくことができるのか?  といった問いに向きあうことだろう。 

 

 現代日本における「手取り主義」が示すものについて考えてみたい。 

 

 

■ 「増税=憎税」意識を生み出す日本独自の構造 

 

 「手取りを増やす」で真っ先に想起されるのは、かつて労働研究者の濱口桂一郎が指摘した「神聖なる憎税同盟」、すなわち、税金を憎む人々の群れがもたらす日本政治独自の磁場である。 

 

 第二次大戦後、先進工業国における基本的な政治構図は、増税と手厚い社会保障を実践する社民/中道左派と、減税と「小さな政府」を主張する保守/中道右派との二大政党であった。 

 

 しかし日本は例外であり、竹中平蔵のような構造改革論者が「減税&小さな政府」を主張しながら、同時に労働者もまた増税を忌み嫌い、それに依拠する左派政党も保守政党と同様に、あるいはむしろより熱心に「税金に対する敵愾心(てきがいしん)を煽ってきた」(濱口)という。 

 

 濱口はこの原因を、日本の労働者に固有のメンバーシップ型雇用形態に求めている。すなわち、戦後日本の雇用形態において、賃金とは、会社のフルメンバーたる正社員に対して、その子どもの教育や親の介護などを含めた一家の生計費総体を賄うべきものとして支払われてきたため、そのようなコストを公的福祉によって担うという発想は希薄になってきた。 

 

 また企業内で提供される健康診断や入院保険は充実しており、それより見劣りする「政府による福祉」の必要性は感じられず、若年労働者は年金などに対する信頼も薄れかけている。 

 

 このような雇用環境のなかで、中産階級化した正社員労働者は、企業内福祉に守られて国家からの再分配の恩恵から外れ、公的福祉を例外的貧困者のための支援と見なしつつ、それらを支える税や保険料だけ担わされることに不満を抱き、漠然とした負担感や痛税感を蓄積させてきたのである。濱口にしたがえば、これこそ「左派が憎税派になる物質的基盤」といえる。 

 

 その結果、日本においては、真正の「新自由主義イデオロギー」と安定した正社員労働者の生活意識とが「反増税」で共振し、そこにインテリ・リベラルの反権力的な政府否定意識が重なって、強力無比な「『神聖なる憎税同盟』というトリアーデ」(濱口)が築かれてきたというのである。このような磁場は、現下の「手取り主義」という趨勢を考える上でも示唆的であろう。 

 

 

■ 根源にある現役世代の不満 

 

 このような労働者の「憎税意識」、その裏返しとしての「手取り主義」を、就職氷河期をはじめとする現役世代の視点から、世代的な要求として照射することもできる。 

 

 社会学者の伊藤昌亮によれば、現在の「手取り主義」の背後にあるのは、明らかに高齢者と現役世代との世代間の利害相違であり、さらにいえば、高齢層と現役世代とのあいだにおける「強者」と「弱者」の入れ替わりとされる。 

 

 従来は高齢者こそ社会的な「弱者」、現役世代は「強者」とされてきたが、人口動態や社会保障の変化のなかで、むしろ「既得権益」にあぐらをかいている高齢層が「強者」であり、それを支えるために搾取されている自分たちが「弱者」だという言説や意識が生じはじめているのである。 

 

 社会保険料やマイナ保険証など、2024年衆院選で浮かびあがった争点は、主にその手厚い受益者となっている高齢者層と、そのための負担を迫られている現役世代との格差、いわゆる世代間格差が政治に現れた契機であった。 

 

 このような高齢者像に、旧来型のマスメディア、地方議会、公務員などが重なって、いわゆる「既成権力」の上にあぐらをかく「オールド連合」のイメージが作られる。伊藤によれば、「オールド連合」とは、社会のイノベーションを阻み、「既得権」保護のために旧弊に固執し、高齢者優遇の再分配政策と「大きな政府」を志向する勢力とされる。 

 

 それに対し、このような既存の体制から疎外されている者は「ヤング/ニュー党」とされ、とりわけ就職氷河期現役世代にあたる現在の中年層は、世代間格差をめぐる不公平感をひときわ強く抱いてその中心にいる。 

 

 彼ら/彼女らからすれば、政治は「かりそめの弱者」である高齢者ばかりを保護し、「本当の弱者」である自分たちを保護してくれないどころか、「事実上の強者」のための負担を自分たちに押しつけて搾取する。とすれば、非正規雇用の現役世代にとっては、「誰も保護されることのない自己責任の競争社会」の方が、まだ合理的なのである。 

 

 したがって「ヤング/ニュー党」は、既成政治のアウトサイダーとして、「既得権」のかく乱を求め、税や社会保険料の減額を主張し、地方議会や公務員と敵対して「改革」を断行しようとする、いわゆる「新自由主義」路線の若手のリーダーを支持する。 

 

 それは、不遇な現役世代が無知なわけでも、篭絡されているわけでもなく、「ジリ貧になっていく社会を彼らが生き延びていくための世界観だ」という伊藤の言葉は、深く拳拳服膺(けんけんふくよう)されるべきだろう。 

 

 もちろん、こういった分析は世代間対立を煽るためになされているわけではない。現役世代と高齢世代が、日本丸という同じ船の乗員であること、さらにいえば連綿たる人類史からすれば一瞬の時間を共有する宇宙船地球号の同乗者であることを忘れてはならない。しかし、そのことは、世代間利害の違いという「不都合な真実」から目を背けることでもない。 

 

 

■ 「とにかく銀行アプリの額面を増やして」という切実な要求 

 

 「手取り主義」は、結果的に税収減や公共サービスの低下を招きうるという点で、「小さな政府」ということになるだろう。しかし、この議論の出どころは、財界やアメリカ発の「新自由主義」のイデオロギーだといって片付くようなものではない。 

 

 2024年の「石丸現象」や「玉木現象」などを踏まえれば、それは現役世代の有権者を中心に、市民社会に一定の現実的基盤を持っている。 

 

 税や社会保険料を払ってもそれがリターンされている実感がない。であれば、将来リターンされる確信もない政府の再分配よりも、とにかく来月の手取りの数字を増やしてくれ、給料日に銀行口座アプリを開いた時に目に飛び込んでくる額面を増やしてくれ、という「切実な」要求から来ている。 

 

 政治の公共的果実を実感できない有権者が、減税と手取り増を通じて、個人の自活と自己防衛に活路を求めるのは当然のことであろう。 

 

 しかし、眼前の生活はもとより、病気や加齢など将来不安への備えもすべて自己防衛で行おうとする人々の先に導かれる社会の姿は、おそらくいささか荒涼としたものだろう。 

 

 ここにあって、税負担から逃げず負担を正面から訴えて「分かちあいの社会」を作る理念は、減税一本鎗のポピュリズム的公約に比べて、責任ある政党の姿であり、政府の公共的役割を再定義する道筋といえる。 

 

 とはいえ、国民の間の政治不信がこれほど高い日本において、どのようにして政府への信頼を取り戻し、子育てや教育、介護や年金への政府の役割とその財政的基盤を取り戻すかは、容易な課題ではない。分断と対立に沈みかねない日本に、今再び「公共的自治」を復権させるためには、それを望む人々の尋常ならざる意志と覚悟が求められる。 

 

 参考文献 

◎濱口佳一郎「神聖なる憎税同盟」『税務弘報』中央経済社、2023年9月号 

◎宮本太郎・濱口桂一郎・住沢博紀「宮本太郎提言は“神聖なる憎税同盟”の壁を打ち破れるか」『現代の理論』第28号、2021年11月10日 

◎伊藤昌亮「『石丸・玉木・斎藤現象』で可視化された苛立つ若者たち」『潮』潮出版社、2025年2月号 

◎伊藤昌亮「『オールドなもの』への敵意」『世界』岩波書店、2025年2月号 

 

大井 赤亥 

 

 

 
 

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