( 268444 ) 2025/02/21 17:15:44 1 00 日本の大学は現在、「ユニバーサル段階」にあり、エリート段階やマス段階を経て、学生の多様化に応じた教育方法も多様化しています。 |
( 268446 ) 2025/02/21 17:15:44 0 00 大学は万人に開かれたユニバーサル段階にある(写真:IYO / PIXTA)
このまま出生数が減り続けると、大学進学率が100%になったところで、数年後には出生数が現状の全体の大学入学定員(約63万人)を下回ってしまう。
それほどに出生数の減少は激しく、大学全体では入学定員を減らさなくてはならないのだ。まず、7年前に文部科学省が出したグランドデザイン(「2040年に向けた高等教育のグランドデザイン(2018年11月答申)」)の見直しが求められるだろう。
さらにAI(人工知能)の進化は目を見張るほどだ。AIが人間の能力を超えるシンギュラリティは2045年に到来すると言われたが、どんどん前倒しされそうだ。AIがいつまでにどのように進化するのかはまったく予想がつかない。それほどに進化のスピードが速く、今後の予測が困難な時代にある。
■ユニバーサル段階にある日本の大学
さて、日本の大学はいま「ユニバーサル段階」にあると言われている。
1973年にアメリカの教育社会学者であるマーチン・トロウが論文で発表した高等教育機関の在り方を示す概念によるもので、文部科学省の議論などでもよく示されるものだ。この論文では高等教育の在り方を就学率によって3段階に区分けしている。その1つが「ユニバーサル段階」である。
エリート段階(就学率15%未満)、マス段階(就学率50%未満)、ユニバーサル段階(就学率50%以上)といった段階を経て、高等教育は量的な拡大をして、その教育の目的や内容が質的に変容していく。
就学率を進学率に読み替えて議論されることが多いが、大学進学率(短期大学を含む)は50%を超えて久しくなった。2024年度の大学進学率(短大含む)は62.3%であり、大学(学部)進学率は59.1%、短大進学率は3.2%である。
一方で、大学入学定員と大学入学者の関係を考えると、2024年度を見ると、募集定員を大学入学者が1万人以上下回る状態にあり、いわゆる「全入化」状態にある。大学入学者は学習目的も学力層も多様化している。まさに大学は万人に開かれたユニバーサル段階にある。
ユニバーサル段階であれば、学生が多様化するがゆえに教育の方法も多様化する。大学の入学者選抜ももちろん多様化するのである。
残念ながら世間一般においてはこうした現状認識はなく、いまだに大学に「エリート」を求めたり、入試で「学力重視」が当然だとしたりするものが散見される。問題は、ユニバーサル段階にあるにも関わらず、いまだに多くの大学が大教室での講義が中心であり、入学者の多様化に応じた教育に変容していないところがあることに、課題があるのではないだろうか。
もちろん、いち早く「少人数化」「アドバイザー制度導入」などを進める大学もある。
こうした状況だから、数多ある日本の大学を「大学」とひとくくりにする時代ではないことと向き合う必要がある。大学入試が「大学教育にふさわしい準備」ができているかを求めるものである。
大学をひとくくりにできないのだから、当然、大学入試もひとくくりにはできない。だから、大学入試難易度ランクに「BF(ボーダーフリー)」があるのは当然なのである。
全入化して一般選抜で倍率が出なくなり、合否のボーダーラインが引けなくなると「BF」に位置づけられる。それはボーダーラインを予測する大学入試難易度ランキングからは実質的に除外されることを意味する。つまり、ランキング競争から落ちこぼれることを意味する。
そうした大学を世間は「Fラン大学」と揶揄する。しかし、そうした大学が登場することは必然なのだから揶揄しても仕方なく、若者の教育や生涯学習を考えたときに、この状況を受け入れるべきだ。なにしろ日本の大学は万人に開かれたユニバーサル段階にあるのだから。
■「ディプロマ・ポリシー」の重要性
さて、総合型選抜などで求められる「志望理由書」を書くにあたり、大学が示す「アドミッション・ポリシー」(入学者受け入れ方針)をよく読むように指導してそれに沿った理由を書くように生徒に求める高校や塾があるようだが、実は、それだけでは自分に合った大学に進学できるわけではない。
大学はいまアドミッション・ポリシーを含めた3つのポリシーを策定・公表することを義務づけられている。「ディプロマ・ポリシー」(卒業認定・学位授与方針)と「カリキュラム・ポリシー」(教育課程編成・実施方針)、「アドミッション・ポリシー」の3つである。
これらも多様化する大学が自らの個性、特性を示すにあたって重要なものであるが、ディプロマ・ポリシーは「教育目標」、カリキュラム・ポリシーは「教育方法」、アドミッション・ポリシーは「学習準備要件」と読み替えることができるだろう。
受験生から見れば、この大学では「なにができるようになるか、どのように学べるか、そのためにはどのような準備が必要なのか」であるのだから、アドミッション・ポリシーだけを見ていても志望理由書をうまく書けないのではないか。大学をひとくくりに語ることができず、多様化する中で、大学の教育目標から教育方法を見ておくことは重要であるのだ。
特にこれから入学者選抜の機能が緩くなり、不合格になる確率が低くなる時代には、この大学で「なにができるようになるのか」は最重要になるのではないか。そして、大学側の教育に臨む姿勢を最も表しているのがディプロマ・ポリシーであることは言うまでもないことだ。
大学「全入化」の時代に、アドミッション・ポリシーは選抜基準を示すものから受験生に入学するにあたっての準備が整っているかを求めるものへと重点を変える必要があるだろう。近い将来には、選抜試験が有効に働く大学は全体の2割程度ではないだろうか。それが「全入化」である。
■大学入試で何を問うべきか
大学は、冒頭で触れたように、少子化とAIの進化にともない予測不可能な時代にあり、さらには学生の目的や学力の多様化にともなう対応を求められている。特に地方の大学はこれらが重くのしかかる。
そうしたときに大学入試でなにを問うべきなのか。これまでのように難度の高い大学と同じようなことを易しく問えば良いわけではない。
「大学教育にふさわしい準備とはなにか」。大学教育の有り様によって多様化することは間違いない。生成AIとうまく付き合えることも大学教育をうまく享受するための「能力」なのだろう。求めるものは「学ぶ意欲」なのか。ではそれをどのように測るのか。そもそも大学が求める「知的能力」とはなんなのか。
文科省の中央教育審議会大学分科会では、高等教育の在り方を議論しているが資料に「知の総和(数×能力)」とある。こうした概念を示す段階で議論の解像度の低さが心配になる。
「知の総和」とは人の「数」を確保して、より高い水準の教育により「能力」を高めることで総和を上げていこうといったことを示しているようだが、この「数(人)」とは誰なのか。生産力のある人なのか。
日本の生産年齢人口の割合はOECD加盟国の中で群を抜いて低い。それを上げるためには出生数を増やさないといけないし、上がるまでには15年以上の時間がかかる。移民受け入れの議論もまだまだ十分ではない。「数」が増えないとなると「能力」を上げなければ「知の総和」は維持できない。
果たしてこの能力とはなになのか。そもそも能力はアカウンタブルなものではないからかけ算には使えないことは小学生でも知っていることだが。
能力の定義もできていないだろう。そもそも能力をアカウンタブルなもので示せるのであれば教育の議論はとても楽になる。それがいまだできないのだから困っているのだ。
■未来を創るのは教育を受けた若者
AIが進化する中で「より高い水準の教育」とはなにを意味するのか。OECDのPISA調査(学習到達度調査)からわかるように日本の教育の「平均値」は高い。この平均値を上げようとしているのか、特定の人材の能力を上げようとしているのか、特定人材だとしたらその能力はどこまで高めたら良いかを示すことはできるのだろうか。
世の中は優秀な人材だけで構成されているわけではない。この議論はユニバーサル段階にある大学教育をどこに着地させようとしているのか。
教育は社会の中にあり、社会の影響を強く受ける。予測不可能な社会を前に、教育の未来予測はかなり困難である。しかし、社会が変わろうとしても、選抜機能が緩くなっても、大学で主体的に学ぶ姿勢を求められることに変わりはないだろう。
未来を創るのは教育を受けた若者である。このことをいま一度確認したい。
後藤 健夫 :教育ジャーナリスト
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