( 269904 ) 2025/02/25 16:54:52 1 00 ジャーナリストやメディアの問題点について、様々な視点から取り上げられています。 |
( 269906 ) 2025/02/25 16:54:52 0 00 情報の送り手としての問題はどこに?
前回、フジテレビの記者会見の様子から「フリー記者」の実情を紹介した。筆者自身が携わっている仕事でもあり、もう少し踏み込んだ内容を続編として書くことにした。前回記事のコメントでも散見されたワードや、普段の活動から感じる「メディアや記者に対する世間の誤解」について紹介したい。
「指摘するのは誰にでもできる。そんなに主張するなら口だけじゃなくそれやってみろ」
普段、問題提起をする記者たちには、こういった声が向けられることがしばしばある。 なかには問題解決に向けて、実際に行動するジャーナリストもいるのだが、彼らに対しては、こんな言葉がよく掛けられる。
「あいつはジャーナリストではなく、活動家だ」
前回の記者の実態を紹介した記事にも、この声が散見された。
確かに本来、ジャーナリストたちの仕事は、「取材」であり「言論活動」だ。権力の監視や問題提起をするのが役割であり、その解決のために具体的な行動にまで踏み込むのは仕事の範疇ではないかもしれない。
それでも彼らが問題解決に向かって行動しようとするのは、決して不思議なことではない。元々、問題意識が高いがゆえに就いた職業であるうえ、第三者として長期間、現場に近いところから問題と向き合っていれば、時に当事者よりも解決策がクリアに見えてくることさえある。また、行動することで問題がよりクリアになるケースもあるため、ジャーナリストにおいては行動が伴うケースはそれほど珍しいことではないのだ。
ただし、気を付けなければいけないのは、取材対象や論評する相手方との関係性だ。利害関係によって言論活動が委縮することはあってはならない。
例えばブルーカラーの労働問題について書くことが多い筆者の場合、運送や製造、建設業界からの講演依頼がよくあるが、依頼を受ける際は決してその業界や企業を喜ばせるための話はしない。企業製品のPRも一切しないし、逆にこちらからPRをすることもない。あくまでも社会やその業界のための問題提起、取材・データに基づく現場の課題の指摘をすることを前提としている。
それは前回記事でも紹介したとおり、ジャーナリストは権力だけでなく「大衆」からの独立が必要だからだ。
ゆえに、こうして真実を忖度なく指摘することで真実性を担保しているジャーナリストは、現場のことを思いながらも孤独になりがちなのだ。
もう1つ、メディアに対してSNS上で聞こえてくるのは「足で取材しろ(自分で取材しろ)」なる批判だ。実際、現在のネットニュースなどには「コタツ記事」が非常に多い。
コタツ記事とは、その名の通りコタツの中に入っていても書けるような記事のこと。つまり、現場に足を運び取材しなくても書ける、引用を中心にした記事のことを指す。
このコタツ記事に憤りを感じているのは、読者だけではない。SNSでの発言を勝手に引用される人たちの間でも不満の声が上がる。筆者自身、勝手に自身の言動を何の確認もなくネットニュースにされることがあるが、かなりの頻度で間違った情報が混ざっていることがある。
そのため、ジャーナリストは原則「自らの力で取材するべき」と思うのだが、その一方、こうした「足を使わないコタツ記事」が世間からも批判されるようになったことで、一部の読者からは「全ての取材は足でするべき」、という見当違いな考えが見られるようになった。
SNSを見ていると、大手メディアの公式アカウントが、有事に居合わせた人の投稿に「突然すみません、テレビ局の者ですが、お話を聞かせてもらえないでしょうか」などとコメントを残すことがある。それに対してよく見られるのが、「自分の足で情報取りに行け」、「人任せにするな」という批判コメントだ。
しかし、SNSなどを使って現地の人に話を聞くことは正当な取材活動である。むしろSNSを調べたり分析したりすることによって、足では気付くことのできないような情報に触れることは多い。
もちろん、直接現場に行って自身の目で確かめる必要はあるが、例えば自然災害があった際、すぐに被災地に入れない時に現場で撮られた動画や画像を借りてテレビや新聞で報じれば、より多くの人に現場の現状をいち早く伝えることができる。
これに「使用料を払え」という人がいるが、取材・報道にあたっては中立性・客観性の担保から、金銭の授受はしないことが原則と考える。
また、筆者のように労働問題などの記事を書いていると、「経験したこともないくせに偉そうに記事を書くな」と批判してくる人もいる。
もちろん、その経験者が自分の業界の事情を多角的に汲んだ記事を大衆に分かりやすく書けるならばそれに越したことはない。伝聞になれば情報に齟齬が生じる可能性はあるし、感情も情景も伝わりにくくなることは間違いない。
しかし、1人が何かを語ると必ず「主観」が入る。真実性というのは、現場の経験者の話を“複数”聞き、客観的かつ冷静に物事を捉えることで初めて確立される。それを紡ぎ出すのがジャーナリストの仕事なのだ。
何より、もし「当事者以外は記事を書くな」がまかり通るならば、それは歴史を報じる記事が消失することになったり、交通事故や殺人事件に巻き込まれたりした当事者しか記事が書けないことになる。
一番知っているのは当事者でも、それを最も正しく世に伝えられるのは当事者ではないことがあることも知っておく必要がある。
もう1つ、世間からは大きな事故や事件が起きた時、メディアが一斉にその当事者へ取材に行く「メディアスクラム」にも批判が向く。
確かにメディアによる過熱取材はよくない。どこよりも早く情報を得たいという思いから周りが見えなくなり、世間はおろか、当事者にも迷惑をかけるケースも少なくない。
筆者自身、このメディアスクラムにはかなり敏感で、長いこと被害者遺族に取材依頼ができなかった時期がある。
とりわけトラックドライバーの事情について書くことが多い手前、トラック事故による被害者遺族への取材においては被害者遺族へどうアプローチしていいものかとかなり悩んでいたのだが、いざ被害者遺族に触れてみると「是非報じてください」と積極的に取材に応じてくれる人が多い。
被害者や被害者遺族においては、テレビの報道を見ていると「悲しい印象のある人」に映ることもあるかもしれないが、触れ合ってみると、我々と同じように日常生活を送り、笑い、仕事をしている人たちだという「当然のこと」に気付かされる。
事故や事件においては、発生状況も当事者感情も十人十色だ。世間からは「大変な時にマイクを向けるとは何事だ」「そっとしておいてやれないのか」と通り一遍に批判されてしまいがちだが、なかには「聞いてほしい」「今の思いを世間に伝えたい」と思っている人たちもいることを知っておいてもらってもいいと思う。
メディア批判のなかで特にここ最近よく耳にするようになったのは、「偏向報道」という言葉だろう。
偏向報道とは、意見が分かれるような状況において、都合よく情報操作が行われることを指す。
特に選挙イヤーであった2024年はこの偏向報道という言葉が、メディアの報道姿勢を問う声として多く聞かれた。しかし、前回の記事でも言及したとおり、大前提として情報の受け手が知っておかなければならないのは、全てのメディアは偏向なくして報道はできないと言っても過言ではないこと。
元々メディアは、限られた紙面や尺のなかでどんな事件や事故を取り上げるかを選択している時点ですでに偏向しているからだ。
SNSで読み手が「偏向報道だ」と批判している要因を探ってみると、その多くは、自分の思想や主張と真逆のことを報じているメディアへの批判であることがほとんどなのである。
現に、自分の都合のいい報道に対して「偏向報道だ」と言っている視聴者や読者を、筆者は今まで一度も見たことがない。
とはいえ、メディアに世間の指す“偏向報道”がないのかといったら、そんなことはない。メディアが起こす悪質な偏向報道というのは、個人的に「取材内容の操作」に表れると思っている。
なかでも散見されるのが「グラフや数字」におけるビジュアル面での操作だ。
例えば、アンケート調査結果で、20%の割合を円グラフで40%ほどとして大きく見せかけたり、軸の目盛りの間隔を歪めたりする印象操作が過去には度々起きている。こうした恣意的な操作は、メディア側の完全なる「偏向報道」と言えるだろう。
また、例えば「満足」「普通」「不満」を聞いたアンケート調査の結果において、「普通」の数字を含めて「普通以上」「不満」と選択を2つに分けるようなグラフも見かける。
統計学には「数字はウソをつかないが、ウソをつく人は数字を使う」という有名な言葉がある。数字は客観的にその出来事を捉えることができる最大の指標である。だからこそ人は騙されやすいということも知っておくといい。
最後に、メディアの情報操作として個人的に悪質だと思うことを紹介しておこう。
それは、「チェリーピッキング」だ。
これは、例えば30人に取材したうち、取材側が潜在的に望んでいた回答をした、たった1人の話を取り上げて「世間の声」として紹介する手法を指す。決められたページ数で記事を書く、時間内に放送する、というように、メディアには制限が生じるため、どうしても報じる側には「想定」が生まれる。
その「想定」が「予定」に近づけば近づくほど、このチェリーピッキングは生じやすい。 受け手の多様化や送り手の人手不足により、番組・記事制作は年々難しさを増すが、結果ありきの取材方法はメディアとしては絶対にあってはならない。
恣意的でないにしても人間が報じている以上、報道機関も時に誤情報を流してしまうことはある。もちろんその数をできるだけ少なくするよう各メディアは努力しているところだが、情報が溢れる昨今、情報の送り手だけでなく受け手もネットリテラシーを高める必要があるとつくづく思う。
橋本愛喜(はしもと・あいき) フリーライター。元工場経営者、日本語教師。大型自動車一種免許を取得後、トラックで200社以上のモノづくりの現場を訪問。ブルーカラーの労働問題、災害対策、文化差異、ジェンダー、差別などに関する社会問題を中心に執筆中。各メディア出演や全国での講演活動も行う。著書に『トラックドライバーにも言わせて』(新潮新書)、『やさぐれトラックドライバーの一本道迷路 現場知らずのルールに振り回され今日も荷物を運びます』(KADOKAWA)
デイリー新潮編集部
新潮社
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