( 269931 ) 2025/02/25 17:26:23 0 00 (※写真はイメージです/PIXTA)
「退職金」は一度にまとまった資金が手に入ることから、その使い道が老後の人生を大きく左右します。なかには、普段の人柄からは想像もつかないような“大胆な行動”を起こした結果、取り返しのつかない大惨事に発展するケースも……。真面目な元公務員男性の事例をもとに、詳しくみていきましょう。元証券マンの倉橋孝博CFPが解説します。※プライバシー保護のため、個人情報の一部を変更しています。
気温36.2℃。うだるような暑さが続く2024年8月5日。Aさんはこの日を生涯忘れることができないだろう。この日、1年前に受け取った退職金2,500万円が、灼熱の太陽のもとで灰のように消えたのだ。
――Aさんは大学卒業後、地元の市役所に就職し、38年間勤めあげた。多少頑固なところもあり、ときには同僚と熱い議論に発展することもあったが、生まれ育った故郷を支える仕事にはとてもやりがいを感じ、懸命に働いてきた。
2023年3月、60歳で定年退職。退職金は2,500万円だった。住宅ローンは繰り上げ返済を数回行って完済。Aさんには2人の子どもがいるが、すでにどちらも大学を卒業し独立している。
預貯金も1,500万円あり、退職金と合わせると4,000万円程度のキャッシュがあるため、ある程度ゆとりのあるセカンドライフを送れるはずだ。
資産運用に興味を持ったきっかけは「マネープラン講座」
Aさんには、株式や投資信託といった資産運用の経験はまったくない。たまに同僚が株やiDeCoで儲かった話をしていたが、「俺には関係のない話だ。自慢話は聞きたくない」と、あまり気にしてこなかった。
そんなAさんが資産運用に関心を持ち始めたきっかけは、定年を3ヵ月後に控えたある日、勤務先で受講した「マネープラン講座」だった。
その講座では、公的年金制度や所得税の計算方法の説明のほか、退職後の家計のポイントや老後の資産運用の重要性などについても助言を受けた。
なかでも、講師がひときわ熱弁をふるっていたのが「NISA」だった。
「一定の金額までなら、株でいくら儲かっても税金がかからないんです。通常100万円儲かっても、そのうちの約20万円は税金として国に持っていかれます。しかし、NISAであればその100万円がすべて自分の儲けとなるのです!」
威勢のいい語り口調が耳に残る。Aさんが思わず感心していると、隣の席にいたKさんも「Aさん、NISAやってないの? 絶対やったほうがいいよ!」と勧めてくれた。KさんはNISA以外にも特定口座で株式投資をしており、1,000万円近く運用しているという。アベノミクス相場では200〜300万円儲かったそうだ。
「退職金は2,500万円ぐらいあるし、そのうち100万円ぐらいなら株を買ってみてもいいかもな……」
Aさんは株式投資に少し前のめりになった。
3ヵ月経ち、Aさんには予定どおり2,500万円の退職金が振り込まれた。入金欄に「2,500万円」と印字された通帳を見ると、約40年間の苦労が報われた気持ちで胸が熱くなる。
そのころ、日本の株式市場も熱を帯びていた。米株式相場の上昇を手がかりに、日経平均株価は4月に2万8,000円超え。さらに、著名投資家のウォーレン・バフェットが日本株投資を拡大、生成AIChatGPTの開発にあわせ米半導体大手エヌビディアが急騰するなど、話題に事欠かなかった。Aさんも、気になっていたNISAを始めるべく、ネット証券に口座を開設した。
AさんがNISAを利用してはじめて株を買ったのは、2023年8月上旬のことだ。「業績も配当も安定しているし、しばらくつぶれることはないだろう」という理由で、大手自動車メーカーTを選んだ。2,400円で400株、96万円の投資だ。
はじめての株式投資にドキドキしていたAさんだったが、これがビギナーズラックというものか、株価は瞬く間に値上がりし、わずか1ヵ月余りで2,900円まで上昇。Aさんは短期間で20万円もの利益が出た。
これに気をよくしたAさんは、特定口座でもう少し投資金額を増やすことにした。
「Kさんの半分、500万円くらいなら、老後の暮らしに大きな影響はないだろう」と考えたAさんは、ウォーレン・バフェットが買ったとされる大手商社Mを200株(約150万円)、エヌビディア祭りに沸く日本の半導体関連銘柄Lを100株(約220万円)、先に購入していた大手自動車メーカーTと合わせて、約470万円の投資をすることにした。
海外からの投資マネーが大量に流入したことから、株式市場は2023年秋口から2024年初夏にかけてさらなる活況を呈する。日経平均株価は2024年7月11日に史上最高値4万2,426円をつけ、Aさんが購入した3銘柄も上昇を続けた。
Aさんが投資した470万円は一時830万円まで増え、特に半導体関連銘柄Lは、生成AIブームに乗り株価が2倍になった。
こうなると世の中も浮足立つ。テレビや新聞では連日株価上昇が伝えられ、投資家が集うBARの様子がニュースで流れた。
「どれくらい儲かっていますか?」という記者の質問に、平然と「1億円を超えてますね」と答える若いサラリーマンの姿も。
Aさんは、この「1億円」という数字に魅せられてしまった。
「このまま投資を続けていれば、公務員時代は夢にも思わなかった『億り人』になれるかもしれないな」
HPなどで調べていると、億を超える利益はその多くが「信用取引」から生み出されていることがわかった。
信用取引とは、証券会社に株券や現金などを担保として提供し、お金を借りて株を買う仕組みのこと。お金は担保の3倍近くまで借りることができる。
「億り人」に魅せられたAさんは、この信用取引に手を出した。冷静な人であれば「そんなハイリスクな取引を安易に始めるはずがない」と思われるだろうが、これが欲の恐ろしさだ。欲に駆られてしまった人は冷静な判断ができなくなる。Aさんに限らず、すべての人にいえることだ。
2024年6月、Aさんは残りの退職金で、別の半導体関連銘柄Eを500株(約1,750万円)購入した。このEと、すでに購入していたLおよびMを担保にした。
信用取引で購入したのは、自分がこの1年間値動きを見続けてきた半導体関連銘柄のL。1,000株(3,300万円)の投機だった。半導体関連銘柄のEとLが上昇すれば、Aさんも「億り人」に近づくはず、だったのだが……。
マーケットは数週間一進一退の展開を続けたが、8月に入るとアメリカの景気下振れ懸念と、日本銀行の利上げの影響で暴落が始まる。Aさんの状況も急速に悪化し、特にEとLはわずか数日で30%超の値下がりとなった。
8月2日、信用取引で購入したLは2,260万円まで値下がりし、評価損が1,000万円以上発生していた。
この評価損を加味した実質担保は350万円余りしかなく、証券会社から翌々営業日の正午までに310万円入金するようにとメールが届いた。いわゆる追加保証金(追証)である。
Aさんは恐怖に駆られ、とにかく早く楽になりたかった。翌営業日の8月5日、追証を入れることなく、担保も信用取引のLもすべて売却。
残ったのは、380万円余りの現金とNISA口座の大手自動車メーカーTの200株のみ。2,500万円の退職金の大部分が消えた。
「こ、これは夢か? 夢、だよな。たのむ、夢であってくれ……」
あまりに一瞬のできごとに、Aさんはしばらく現実を受け入れられなかったそうだ。38年間の努力の結晶である「退職金」の大半を、わずか1年で失ってしまったのだから無理もない。
資産運用は「長期投資」が基本
資産運用は20年以上の長期投資が基本だ。なんのための資産運用なのか目的を明確にしなければならない。また、信用取引は大きな利益を期待できる分、損失を出すと自己資金以上の大きなダメージを被ることになる。
信用取引をするのであれば、Aさんのように担保がほとんどなくなってしまう可能性があるということを忘れないでほしい。
「退職金のほとんどが消えてなくなってしまいました。65歳まで嘱託で働き、その後は残った退職金と1,500万円の預貯金で細々と生活します……」
肩を落とすAさんにかける言葉が見つからなかった。
倉橋 孝博 株式会社くらはしFP事務所 代表取締役
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