( 271654 )  2025/03/03 06:07:53  
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ミリタリー記事はスーパーカー記事の影響を受けており、数字の追求や性能至上主義、批評を避ける傾向がある。

ライターの流入や読者の需要によって、スーパーカー記事の形態がミリタリー記事にも適用されている。

この影響により、ミリタリー記事は数字の細かな記載や性能に焦点を当て、批評を避ける傾向があり、実用性や批判的な思考が欠けていることが指摘されている。

(要約)

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F-35B(画像:写真AC) 

 

 ミリタリー記事はネットニュースで“鉄板コンテンツ”のひとつである。食事やマネー記事には及ばないまでも一定数の反応は確実だからだ。 

 

 その形態には独特の特徴がある。記事では一切の抽象性は排除されている。数字の列挙、性能への注目、そしてなによりも批評はしないことだ。 

 

 なぜ、そのような形態となったのか。 

 

 ミリタリー記事はスーパーカー記事の“子孫”だからである。ブームでデビューしたライターが軍事趣味誌に移り、抽象性を廃した記事の形態を持ち込んだ。その結果だからだ。 

 

 実際に、ミリタリー記事とかつてのスーパーカー記事は酷似している。 

 

 第1には、数字の追求である。 

 

 スーパーカー記事は数字を列挙していた。車体重量、車軸距離、馬力、トルク、空力抵抗と、ひたすらに数字を挙げていた。 

 

 しかも、無意味なまでに細かく示そうとする。例えば単位は小数点以下2桁まで示す。実態との差異は考えない。重量はタイヤ次第で1kg単位で変わる。馬力やトルクは個体差や当日の空気密度、当時であれば燃料比重の影響も受ける。空力抵抗もトリムで変化する。だがそれは気にしない。 

 

 これはミリタリー記事と共通している。例えば、ゼロ戦やF-35のような戦闘機の寸法はセンチやミリ単位、記事によれば0.1mmで示す。いかに微細に至るまで紹介を尽くすか。それが記事の役割と考えているからである。 

 

 数字の意味に無頓着なことも同じである。 

 

「ゼロ戦はミリ単位の精密さがあるか」とは考えない。戦争中となると勤労動員で女学生が作っており完成検査の水準も軟化している。繰り上がり、繰り下がりから1cmの誤差はある。 

 

 F-35以下では0.1mm刻みとなる。これは無意味な換算をした結果である。参考元とする数値はインチ単位で丸めてある。それに25.4mmを乗じたあとで、わざわざ0.1mm単位の端数も残すからである。 

 

 航続距離では正確に間違える例も見られる。飛行機の1マイルは1852mないし53mである。しかも現場の換算は「2倍して1割引くと1.8km」や「ざっと2000フィート」程度だ。それを陸上マイルで、しかもわざわざ1609.34mの桁数で換算するからである。 

 

 

東京・後楽園球場で行われた、交通遺児チャリティー スーパーカー・フェスティバル。1977年3月21日撮影(画像:時事) 

 

 第2は、性能至上主義である。評価軸を性能にだけに絞る。性能が高いことを尊いとする価値観である。 

 

 スーパーカー記事の評価軸は速力以外はなにもない。「速いことはエラい」の価値観で統一されていた。すべてを最高速力と加速性能、あとは道路粘着力に帰結させる世界である。 

 

 実世界にある多様性は反映しない。 

 

 自動車ひいては輸送機械には速力以外の評価軸がある。スーパーカーのような「速い車」でも「運転のしやすさ」や「乗り心地」も評価軸となりうる。 

 

 だが、記事では一切無視する。想定読者の興味は向かない。記事を読んで車を買うわけでもない。だからどうでもよかったのだろう。 

 

 ミリタリー記事も同じである。評価軸は機械性能や高度技術の適応だけである。「高性能だからエラい」「新技術だからエラい」しかない。 

 

 これも正確に間違える原因である。高性能や最新技術に惑わされてしまう。 

 

 好例は国産の対艦ミサイルASM-3である。マッハ3の高性能と単純高性能のラムジェット推進採用の2点からいずれのミリタリー記事もベタ褒めした。 

 

 しかし、現物は実用性を欠く兵器である。重さは従来型の2倍でありF-2には半分の2発しか積めない。逆に炸薬量は半分以下である。なによりも高速性が仇となり迎撃容易となってしまった。 

 

 だから自衛隊が採用を遠ざけている。技術的には高度だが実用性はない。だから陸海自衛隊は採用を断り、空自も調達数を絞っているのである。 

 

 第3は、批評を避けることである。 

 

 スーパーカー記事には批評はない。それぞれの車種の不利面や、商業的不振、必須となる有鉛ガソリンや、大量に発生する未燃焼成分による大気汚染といったネガティブな要素は一切触れない。 

 

 ミリタリー記事も同じである。兵器や自衛隊、防衛産業の問題は一切触れずに対象を全肯定する。広告記事との違いは一番最後に「PR」と書かないくらいだ。 

 

“大人の事情”はある。人は圧力がなくとも動く。広告や取材便宜程度でも記事は肯定の方向に流れるものだ。 

 

 ただ、過ぎれば誤る。批判すべき内容も称賛するようになる。 

 

 19式軽自走砲の紹介記事がそれだ。判子で押したように「ウクライナでは大砲が戦場を支配している」「タイヤ式自走砲が活躍している」と評価したうえで「日本も導入は必要」と締める形である。陸自の予算要求をなぞった内容だ。 

 

 まずは環境の違いを無視した主張でしかない。ウクライナは大陸国であり大砲が重要な価値を持つ。国土も平坦でタイヤ式自走砲の価値も活きる。対して日本は海洋国である。主役は海空戦力であり、陸上戦力も離島防衛を優先する。大砲の出番は少なく、しかも自走砲となると使い道はない。 

 

 もともと陸自主張が誤っている。沖縄県民に「石油ストーブを買え」と勧めるようなトンチンカンだからだ。 

 

 だが、ミリタリー記事はそれを批判しない。逆にヨイショしているのである。 

 

 

自衛隊(画像:写真AC) 

 

 なぜ、ミリタリー記事はスーパーカー記事に酷似するのか。 

 

 その起源はライターの流入である。ブームでデビューしたライターが1980年代以降軍事趣味誌に移り、同じ手法で記事を書いた。それが契機だろう。 

 

 そして記事は80年代読者に刺さった。軍事趣味誌の中核層はかつてスーパーカー記事の熱心な小読者である。無味乾燥な学習図鑑的な記事を望む素地があった。 

 

 そして再生産によりミリタリー記事の標準となった。今ではざっと3回転はしている。団塊ライターの記事を読んだ団塊ジュニアが趣味誌ライターとなり、その記事を読んだZ世代ライターによる記事再生産が始まっている。 

 

 軍事趣味が劣化した原因でもある。スーパーカー同然に数字以下の暗記がマニアの道となったからだ。その結果、思考や理解に至るまでテンプレの暗記に堕している。 

 

「それは『戦車不要論』だ」は好例である。戦車戦力の見直し論に対し、今のマニアはその反応しかできなくなっている。劣化の結果、 

 

・予算上の制約 

・海空戦力の優先 

・内陸決戦戦力の過剰 

 

といった批判的、抽象的な思考は理解できなくなっている。ミリタリー記事の振り付けどおりにしか考えられなくなっているのである。 

 

文谷数重(軍事ライター) 

 

 

 
 

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