( 275223 ) 2025/03/16 06:13:45 2 00 〈糞尿を散布する機械〉昭和の鉄道トイレの実態「一日に大便2000トン、小便145万リットルを線路に垂れ流し」《トイレと鉄道の歴史》NEWSポストセブン 3/15(土) 11:11 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/4282f4393064da65f554fcc9ef0ee06d33468b7e |
( 275226 ) 2025/03/16 06:13:45 0 00 長距離を走る列車にはトイレが整備されている(写真は横須賀線)
海外旅行者が増え、それに伴って日本の「トイレ文化」にも注目が集まっている。公衆トイレが有料の国も多いなか、無料で、かつ常に清潔が保たれている日本のトイレはもはや“観光スポット”だ。
しかし、昔から清潔だったわけではない。特に列車内トイレはかつて「黄害」が社会問題化したこともある。
特急列車や新幹線など、長距離を走る列車にはほとんど設置されているトイレ。今ではにおいや汚れが気になることなどほとんどないが、かつて排泄された汚物はタンクにはためず、長きにわたり線路に巻き散らされていたのだ。1960年代になると、沿線住民や医師などを中心に鉄道のトイレの「たれ流し状態」に批判が巻き起こった。
今では考えられない話だが、当時は鉄道のトイレ問題は社会問題のひとつだったのだ。いかに深刻なものであったか――。鉄道運行を担う立場にある国鉄職員たちが発行した“ある一冊の小冊子”から、その一端をうかがい知ることができる。
鉄道関係の取材・執筆を手がけるライターの鼠入昌史氏が、鉄道のトイレ物語を綴った『トイレと鉄道 ウンコと戦ったもうひとつの150年史』(交通新聞社)より、国鉄職員も苦悩した鉄道の“たれ流しの歴史”をお届けする。(同書より一部抜粋して再構成)【全4回の第1回】
* * * 「糞尿による汚染は、全国民が一億総加害者、総被害者であると言っても差しつかえないほどです」──。
1968(昭和43)年6月に発行された、『国鉄糞尿譚』の一節である。
『国鉄糞尿譚』は、国鉄労働組合全国施設協議会本部が発行、国労中央執行委員で全国施設協議会議長の秋元貞二が編集した、非売品の小冊子だ。メディア関係者を中心に配布され、たれ流しの列車トイレが沿線ばかりか保線作業を担う職員たちを文字通り“直撃している”ことを指摘し、早急な対策を訴えた。
その中では、国鉄職員、保線労働者たちの苦しみがつぶさに記されている。
たとえば、作業員が通過する列車を避けて待っていたら、車内からオシッコが飛んできて顔にかかった、などという生々しいエピソード。こうした体験談とともに、改善の必要性を切々と訴える。
鉄道車両にトイレが設置されて以来の伝統になっていた「停車中は使用しないでください」のご案内。これにも「誤りのはじまり」と切り込んでいる。
曰く、駅で停車中に用を足してもらうようにして、各駅にはおまるを抱えた職員を待機させ、糞尿を受け止めればいいじゃないか、という。こうした対策をすることなく走行中に排泄させるということは、大便と小便を跡形もなく飛散させ、人目に付かなくさせる“ごまかし”に過ぎないと喝破する。
一日の“たれ流し量”も試算している。1967(昭和42)年度の年間の輸送人員約80億人を一日あたりに換算し、全乗客に対して大便係数0.03、小便係数0.2を乗じてそれぞれの排便機会を算出。平均的な排便量を大便一回に300グラム、小便が一回に350ミリリットルと仮定、全体の“たれ流し量”を計算した。
それによると、一日にウンコが2000トン、オシッコが145万リットル。これだけの汚物が日本中を走り回る列車から吐き出されているというのだ。もはや多いのか少ないのかもわからないが、たぶん途方もない量だ。これだけの汚物によって、日本中の線路が汚染されているのである。
『国鉄糞尿譚』が世に出た時期には、より詳細に糞便による汚染を調べる実験も行なわれている。その結果、踏切付近では列車から25メートル離れたところにまで汚染が及び、トンネル内は汚物でビッシリ。窓や座席にシャーレを置いて細菌を採取してみると、もちろんこちらにもビッシリ。窓から手を突き出してみると、数十万から数百万個もの菌が付着したという。
ただの菌ならまあいいか、などという話ではない。赤痢や結核、腸チフスなどの病原菌でないとは言い切れない。そんな菌が付着した手で握り飯でも食べた日には、いったいどうなることやら。
労組では、沿線で発生した赤痢の集団感染のデータも集めている。そのうち、1955(昭和30)年に発生した余部鉄橋下の集落での集団感染や、1962(昭和37)年にトンネル内を流れる湧き水を飲用している集落での集団感染は、いずれも保健所によって列車から出た細菌が原因と断定されたという。つまり、鉄道はただウンコとオシッコをたれ流すだけでなく、病気までまき散らしていたのだ。
コロナ禍の折、大都市圏から地方にやってきた人をウイルス扱いする、などということがあった。それはまあ、わかりやすいくらいの差別というか、パニック状態だったのであるが、たれ流しの鉄道車両は、正真正銘の病原菌を全国各地にまき散らす装置になっていたのである。
『国鉄糞尿譚』では、鉄道をして「糞尿を散布する機械」と言ってのけているが、実際にはそれ以上の被害が知らず知らずのうちに生じていたのである。
(第2回に続く)
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( 275227 ) 2025/03/16 06:13:45 0 00 =+=+=+=+=
小学生の頃、地方の国鉄列車(古い東海道線カラーの車輌だったと思う)に乗ったらトイレが付いてたので、用を足しに行ったら便器の穴から線路のバラストが見えました。
明治時代の小説ですが、夏目漱石の『三四郎』にも、汽車に乗っている主人公の「からになった弁当の折おりを力いっぱいに窓からほうり出した。」という描写がありますね。
鉄道の線路って、昔からゴミや汚物を垂れ流すのが「当たり前」の認識だったみたいですね。 明治・大正とて道路じゃあさすがにやらなかっただろうに、どういう訳か線路はそういう認識。
▲1570 ▼79
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コメントの体験談では日本の話が主で昭和末か平成初期まで線路が見えるトイレが継続していたと読み取れます。これは自身の経験とも一致します。 ところで西ヨーロッパの話ですが、2008年頃にフランス国鉄のブルターニュ地方の鉄道で、まさに便器の下に線路が見える、停止中は使用禁止のおトイレに出会いました。日本では見かけなくなって久しく、その時は懐かしく感じたものです。今はどうなっているか、その点も興味があります。 懐かく昔を思い出し社会の進歩を知る事の出来る良い記事でした。
▲17 ▼2
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大便器(ステンレス製の和式)の穴に切れ目のついたゴム膜があって、隙間から流れていく軌道が見えていたから、消毒液と一緒に排泄物が車外に撒き散らされていたのだろう。
古い漫画で週刊少年ジャンプに連載されていた『トイレット博士』(とりいかずよし著)で『黄害列車』のタイトルで問題提起された事があって、沿線住民の『糞尿被害』に苦しむ姿と苦情が描かれ、それが列車のトイレに便槽を設けるきっかけになったらしい。
▲290 ▼9
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ポイントが違いますが、今やタンク式トイレが普通ですが、これはこれで、物を落としたらおしまいですね。 この前も「トイレにスマホを落とした。拾ってもらえないか」と駅の改札で粘っていたおねえさんがいましたが、一言「衛生上無理です」と断られていました。 穴開きトイレならせいぜい大破位で、どこかの線路で保線さんが回収してくれる可能性もわずかに有りますが、世の中変わればですね。
▲135 ▼99
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踏切で通過待ちで立っていた時に被害に遭った友人の話を聞きました。 逃げる間もなく不意討ち状態だったそうです。 特急列車は複々線の外側を走るため、しかもスピードが出ているため汚物があたかも戦闘機のフレアーみたいに沿線に飛散し直撃します。
また、京都駅など停車中でやる人があるので線路にそのままの形で温存されていることがありました。 冬などは湯気が立ち昇るなど風情がありましたね。 大阪駅は終着駅になることが多いので比較的線路はキレイな状態でした。
▲937 ▼39
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私は昭和47年生まれです。小1か小2の頃と記憶していますが、福井県に行くために特急雷鳥に乗ったときのこと。湖西線か福井県に入ったあたりで用を足したくなりトイレに行ったら、大便器はボットントイレで穴の下には線路と縁石が見えた。衝撃だった。親に言うと、農家の人たちの肥料になるんだと言われた。今考えるとそんな訳ないよ。子供心にも絶対不衛生な事だし乗客には危険だよと思ったのを覚えている。
▲1068 ▼47
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まだ、小型釣船のトイレは垂れ流しだよね。糞尿が海に垂れ流し状態。トイレの底は海。
小型船のトイレで船頭が用をたしたら、お腹の調子が悪い時のやつだったみたいでそれが海面に漂い、釣れた真鯛を回収する時にコーティングされて上がってきた。 まだまだやるべきことはあります。
▲135 ▼24
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TV番組内の「噂の現場」でもあったね。 トイレがタンク式でない私鉄沿線の 車や洗濯物に黄色い付着物が付くと。 取材に訪れると臭い液状固形物が。
線路から数キロ離れているから違うと 説明する私鉄側。 しかし分析の結果は「人糞の可能性高い」。 当然大腸菌ほかウィルスもあるわけで。
その後改善されたかはわからないが。 国鉄からJRになったあとも東海道線は まだまだタンク式ではなかったと 記憶している。 停車中は使うな、はホームの前に山盛り 排せつ物が積もるためかと (実際に見たことあり)。
地元に国鉄の車両駅があった関係で 保線区の方の寮(待合室?)があった。 外の洗濯機にやたら黄色く臭い洗濯物が 出されていたのを覚えている。 関係者の苦労がしのばれる。
今はありがたいことにタンク式で 快適な生活がおくれている。 改革、改善に努力された 先人たちに感謝したい。
▲765 ▼19
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若い方には、「こういう事実があった」ことに驚く以上に、「当時はみんな何となく納得していた」ことに驚いてほしい。
この記事に書かれている程度のことは、昭和中後期まではみんな知っている常識でした。列車のトイレというのはそういうもんだと思っていたし、沿線の家で白いシーツを干すと黄色くなるなんて話も当時聞いたが「大変だねえ」という感想しかなかった。それを聞いて本気で怒ったり、問題意識を持つ人が少なかった。
一般家庭でも汲取り便所が多く、都市部ではそれを処理するバキュームカーが回ってきて、処理時の悪臭にも慣れていた。農村部のことは知りませんが、現役の肥溜めも多かったはず。 魚屋さんには無数の蠅取紙がぶら下がって、びっしり蠅がついている光景が普通だった。食物に蠅が止まったと言って騒ぐと潔癖症と笑われた。 汚物が現在よりずっと身近にあって、対する感覚も今とは違ったと思う。だから許されたんでしょう。
▲637 ▼14
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子供の頃、大阪近郊でもSLが走ってたが、客車のトイレはまさにコレだった。 線路上に残骸やちり紙の破片が飛び散っていたが、誰も気にしてなかった。 まあ畑に肥溜めがあった時代で、肥桶担いだおじさんがポタポタたらしながら歩いてたし。 春になると線路わきにツクシがはえてくるのだけど、近所のおばちゃん達が、肥しが効いてるから良く生えるとか言ってつんでいた。 ツクシの佃煮、ほろ苦い味だった。
▲569 ▼24
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10年ほど前にインドの鉄道に乗った時にまさにこのような構造でびっくりした。小さな赤ちゃんならそのまま落ちてしまいそうな穴。財布等落とさないように慎重にした記憶がある。今現在でも変わらないと思う。それよりもみんな車窓からゴミをポイポイ捨てるので線路沿いのゴミの山の方ほうが驚いた。
▲241 ▼7
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東京着の東海道線の夜行列車は横浜付近で朝を迎えるので、当時の写真を見ると車体の下が排水による霧だらけになってました。 洗面もトイレも使用ピークなので、辺りの住民は大変だったと思います。 昭和50年頃に汚水のタンク貯留だったのは、新幹線と総武線・横須賀線(東京地下線を走るので)、京阪神緩行線くらいだったと思います。
▲339 ▼19
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子供の頃踏切渡る時に、線路に平行に液体の筋がついていたら、それはおしっこだから飛び越せって教わった記憶が。 鉄道のトイレから丸見えの地面が見えて衝撃を受けた記憶もありますね。
▲224 ▼12
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停車中は、私用しないでください。が印象に残ります。 糞尿は走行中は、線路に落ちる前に、粉砕して、周囲に飛び散ります。 それは、トイレットペーパーが、飛ぶ様子でよくわかりました。 トイレの後方で、窓を開けると、晴天でも水分が顔を出すと、かかります。 民家が近いと、洗濯もの、布団にまで、飛んでくるそうです。 粉砕して、飛んでくれないと、線路が糞尿だらけになってしまうそうです。 車掌さんが、平然と言っていました。くみ取り屋時代ですので。 あれも、満タンになれば、海へ堂々と、逆噴射していました。 堤防に急坂を作って、バックして、逆噴射です。 その内容物を狙って、魚が寄って来るので、釣れますが、知らない人は喜んで持って帰っていました。大量のコマセ状態です。
▲209 ▼27
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客車のドアは手動で、走っていても開けられた。 そしてこのトイレは便器の穴を除くと走っている最中は枕木と砕石が 丸見え、よく覚えてないのが便所紙、確か灰色の固い便所紙は 置いてあったと思う。車内アナウンスは無く、車掌さんが通路を 歩いて「次は〇〇~」と言っていたと思う。 トイレに入っていると聞こえないので、駅に近づくと減速するのが 合図のようだった。そしてその飛散した汚物が鉄道近隣の家の 洗濯物に噴霧され、黄色い洗濯物をよく見かけた。 今思えばとてもではないが「公害」であった。 当時は学校にギョウチュウ検査のために検便のウンコを持って行ったものである。その関連で言えば、庭先に樽を埋めて糞尿をためて それを畑の肥料にしてたんだから衛生なんてもんじゃなかったなあ。 家の便所もいわゆる「ポットン便所」でバキュームカーがたまに 回収に来てた
▲87 ▼4
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1980年頃福岡市内の高校生でしたが、この記事にある車両に乗った経験があります。 現在も姪浜から西唐津まで運行しているJR筑肥線。 高校生の頃はまだ国鉄でしたが、博多駅から福岡市内南部、九州大学南側を経由して姪浜へ至り、それから現在の路線へ継続する単線路線がありました。 1982年の福岡市営地下鉄開業にあたりこの区間の路線は廃線となり今はありませんが、この時代の筑肥線がまさにそれ。乗車してトイレに入ると大便器があって、排出穴を見ると線路上の敷石が流れていく光景が…。 小の方で入りましたが、かなり驚いたせいか排尿せずに出ました。今でも忘れることがないですね。市内も走行してるのにこれでいいの?って。
▲81 ▼5
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まもなく還暦を迎える年齢ですが、田舎だったので、子供の頃は川で泳いでいました。
上を線路が通っている所があり、親や先生たちからは「あそこは列車から糞尿が落ちてくるから行くな」と言われました。
潜って遊んでいて、線路の近くに行ってしまった時など、急いで離れたものでした。
まあ、田舎だから本数も少なく、慌てる必要もなかったんですが。
▲170 ▼7
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昔は列車トイレとは別に他にも線路沿いに肥やしを撒いてしまう列車もあったようです。
戦中から戦後直ぐの時代に掛けて 今で言う西武鉄道には「黄金列車」なる糞尿を運ぶ列車もあり、 専用の木製タンクを載せて運んでは居た物の、漏れ出すことがあり、線路沿いの雑草に肥やしを与えていたようです。
国分寺線では その漏れ出すこともあった黄金列車に客車を繋いで旅客を乗せての運行もあったと言う話しも見かけた事があります。
▲4 ▼0
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子供の頃の筑肥線の話です。通学時満員で降りるべき駅で降りれないためデッキにぶら下がる男女高校生が毎日複数いたのですが、ある時鉄橋に差し掛かった時体調不良で耐えられなくなったJKが川に向かって落下する事件が何回か発生しました。落ちた川は室見川だと記憶しています。ちなみにこの川はスピッツのヒット曲の舞台になった川です。
▲30 ▼3
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むかし福岡に住んでた頃、筑肥線と言うローカル線があって、今のように改良される前は博多駅を出ると単線非電化でボロボロのディーゼルカーが走ってました。トイレに入るとボットン式になってて便器から枕木やバラストが見えました。今思い出しても怖い経験でした。大をしてると下から風が吹き混んできてお尻がスゥースゥしました。線路を歩いててもバラストや線路に白い紙のような物が付着しており駅構内でもそれと分かる物が落ちてました。 停車してる列車のトイレを見ると排水口付近もいっぱい飛び散った跡がありました。当時の保線区の人や列車の整備をしてた人は本当に大変だったと思います。
▲22 ▼2
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むかし福岡に住んでた頃、筑肥線と言うローカル線があって、今のように改良される前は博多駅を出ると単線非電化でボロボロのディーゼルカーが走ってました。トイレに入るとボットン式になってて便器から枕木やバラストが見えました。今思い出しても怖い経験でした。大をしてると下から風が吹き混んできてお尻がスゥースゥしました。線路を歩いててもバラストや線路に白い紙のような物が付着しており駅構内でもそれと分かる物が落ちてました。 停車してる列車のトイレを見ると排水口付近もいっぱい飛び散った跡がありました。当時の保線区の人や列車の整備をしてた人は本当に大変だったと思います。
▲22 ▼2
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今から30年ほど前、ベトナムをバックパッキングしていて、電車で24時間ほどかけてホーチミンから、中部の古都フエに移動した。当然列車内のトイレに行くわけだが、ただ穴が空いているだけで、下が見えてた。うーん、、、と思いつつも、我慢しようと思ってしきれるものではないので、用を足したけどね。 駅でおまるを抱えた鉄道職員が受け止めるって、絶対無理。下に人がいる状況で用を足せるほど図太い人なんて、そうそういないでしょう。生まれてきたのが現代の日本で良かった。 その後ベトナムも経済成長著しく、きっと今では改善されたのでしょう。
▲178 ▼20
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昭和生まれです お寺の横に線路がありました 当時線路に耳を当てると電車の音が聞こえると聞いて耳を当てていたら線路は汚いからと親に叱られた記憶があります 確かに白いティッシュの切れ端みたいな物が付いていたような気がします それと駅に止まっている時は電車の トイレは使ってはいけないと聞きました
▲73 ▼6
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昔そのトイレ利用したことがあります。 線路の敷石が見えてびっくりしました。 よく考えたら、車両の整備も糞尿が着いた車両を洗ってからじゃないと触れないですね。 YouTubeで見れますが、東京湾に糞尿を捨てに行く船とか今からじゃ考えられない事を昔はやってましたね。
▲165 ▼8
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昭和38年生まれだが子供の頃は確かにトイレの穴から縁石と枕木の地面が見えたのを覚えている。多分直径30㎝くらいと中々大きめ。 一段高い和式トイレで猛スピードで走っているから、子供のわたしは間違えて落ちないかとものすごく怖かった。記事は安全面に触れていないけど事故は無かったのかなと不思議に思う。
▲62 ▼4
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たしかに昔は列車のトイレに入ると線路の枕木が見えたりしてましたね。 冷房もない時代だし夏など前方にトイレがある車両の窓を開けて入ってくる風で涼みながら気持ちよく(当時は)車窓からの景色を楽しんだものです。 今考えるととんでもない事をしていたんだな、知らぬが仏だし、沿線に住む方達も当時はそれほど問題視していた方も少なったんじゃないでしょうか?。
▲71 ▼7
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うちの地元広島地区でも平成の初頭まで115系電車(非冷房車)のトイレが垂れ流しでした。 トイレのドアには「停車中は使用しないでください」のほか高架駅である福山駅や三原駅周辺でも使用を控える旨もありました。 そんな広島地区、今は真空式で車椅子対応で広々とした室内のトイレを持つ227系で快適です。
▲12 ▼2
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確かにこの記事を読んで子供の頃電車でトイレに行ったら線路が見えた様な記憶がある。 線路やトンネルが糞尿で汚れていたとは知らなかった、線路は汚い所だったんだとびっくりです。 線路沿いの家の方は大変だったんだと初めて知った。 今はきちんと整備されて良かった。
▲11 ▼0
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小学生の頃、前橋から来る上野行の電車には「大宮上野間では使用しないでください」とトイレのドアに表示されていた。意味はわからなかったが、高校卒業後の春休みに友達と沿線で列車の写真を撮っていたら通過する特急列車といっしょに霧の水滴がシャ〜ッ!それからしばらくは撮影はやめた。
▲82 ▼2
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私もまあ、年だけど、確かにそうだったと覚えてる。 流すと下の蓋がパカっと開いて線路が見えていた。線路にもティッシュのような白いものが見えたりして、ああ、そういう事かと子どもながらに思ったものだった。 田舎だからかな? JRはよく利用したけど、私の記憶に残るくらいの年代まではそうだったと思うね。 シートとか、今思うとレトロで楽しかったね。小さなテーブルが窓の下に付いていたり、蓋つきの灰皿が壁に付けてあったり。 紙のお弁当箱の駅弁とか、プラスチックの、小さな湯呑み型のコップ付きのお茶とか、可愛くて好きだったわ。 今や、電車内でものを飲んだり食べたりするなって感じだけどね。 何年か前に同じところを走る電車に乗ってみたけど、パスみたいな回数券とる仕様になってて戸惑った。 レトロよねぇ。 電車、好きだしもっと乗りたいわー。
▲6 ▼0
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国鉄末期に入社、本来は使用禁止の都心部で数人と線路巡回していた時にも、運悪く何回か浴びてしまいました。慌てて詰所に戻り洗濯と風呂に入ろうとするも、当時国鉄が叩かれていた時代。「勤務中に風呂?けしからん!」などと報道されてましたから、時々お風呂の入り口に助役が待機。午前中に運悪く当たった時は夕方まで我慢?も出来る訳もなく、処分覚悟でお風呂へ。当時はこう言う事実は隠され、お風呂に入る悪意の行為だけが先行してましたね。そしてJR採用の振り分けの際、お風呂に入った回数まで判断材料にされたので、好きで入った国鉄ですが身を引くことに決めました。時代が悪かった…
▲55 ▼2
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昔は蒸気機関車やディーゼルカーで煙害があり、そしてこのような垂れ流し車両で糞尿被害があったから、線路沿いの土地はみんな忌避されてましたね。
いまも騒音問題は残ってますが、夜行列車がほとんどないから、線路沿いでも駅近ならば便利で住みやすいかも。
ちなみに、国鉄時代は駅トイレもとても汚くて、とくに女性は使う人いなかったような。JRになってから飛躍的に改善されました。
▲6 ▼1
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昭和56年くらいかなぁ。青や茶色の客車が機関車に引っ張られており、トイレは当然便器の穴から下が見えるスットン式、後に足踏みの便がついたものも出来たが、それが普通だった。踏切待ちの場合は、列車が通過後に、う◯ちが落ちてる事もしばしば。 急行型電車が格下げで普通として使用されるようになった辺りからトイレ事情はタンク式になり、その後に循環式へ。トイレ衛生は様々な病気を駆逐するのに役立ったと思います。
▲20 ▼2
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そもそもから当時はタンクをセットしてそれに貯めるという 概念というか考え方というか自体が存在しなかったのでは ないかと。 衛生状態に対する知識も希薄で問題だと思う人が少なかった。 そもそもからタンクなどに貯めるような構造を作ること自体が コストがかかり、経営者などがいやがった部分もあるのかも。
今では普通の建物の下水は必ず、トラップ構造の設置が 義務付けられていたりして、匂いや虫などが排水溝から 逆流してくるのを防止している。 結果、異物を流すとつまったりするようになってるけど。
▲2 ▼0
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昭和の時代、キハ58の急行おが号で窓開けると風に乗って液体が顔に飛んできました。天候は晴れ、非冷房なんでエアコン排水は無し。カーブになると前の車両の床下からシャワー放出。夏の黄金水体験ができました。
▲91 ▼1
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国鉄職員だった濱口國雄さんの「便所掃除」という詩があります。 その中では便器にこびりついた汚物を爪でこそぎ、汚水が顔やくちびるにかかるといった生々しい描写があります。 『男はつらいよ 寅次郎かもめ歌』で知ったのですが、この詩が読まれた50年代はまだあまり衛生面や労働環境は気にされず、この記事にある60年代からなのかな。衛生面にうるさい現代に生きる我々は卒倒しそうですね。
▲105 ▼3
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ポイントが違いますが、今やタンク式トイレが普通ですが、これはこれで、物を落としたらおしまいですね。 この前も「トイレにスマホを落とした。拾ってもらえないか」と駅の改札で粘っていたおねえさんがいましたが、一言「衛生上無理です」と断られていました。 穴開きトイレならせいぜい大破位で、どこかの線路で保線さんが回収してくれる可能性もわずかに有りますが、世の中変わればですね。
▲135 ▼99
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国鉄時代のオレンジと緑の車両だったか、クリーム色の新快速だったか、子供の頃に乗った電車で走行中に地面が見えるトイレに入った覚えがありました。
つい最近、この記事関係なく偶然にもその事を思い出して、線路作業の人は大変やったろうな…と考えていました。
この記事を読んで、本当にそうだったんやということと、想像以上にもっとひどい影響があったことを知れました。
▲30 ▼1
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60年以上前、鹿児島から東京まで急行桜島で行ったことがある。偶然居合わせた知らないおじさんから「もうすぐ富士川と言う大きな川を渡るよ」と教えられたので、わざわざトイレに行って、下の川面を見ながら用を足した爽快な気持ちを覚えている。
帰りは出稼ぎの親父が奮発して、特急はやぶさに乗せてくれた。寝台ではなくリクライニング出来る椅子席だった。大きな川(筑後川か八代川)が見えてきたので、また川の上で用を足してやろうと走って行くと、下が見えないのでガッカリした。
▲32 ▼0
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旧型客車時代はそうでしたね。旅情もあったけど、今これに戻るのは難しいですね(都会の駅ホームも臭いと感じたものです)。鉄橋下を歩いてくぐるとき、鉄輪の音が聞こえ始めると気を付けて早く抜けたものです。
▲86 ▼8
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水洗トイレなどなかった昔でも東京にはそれなりの人口があった訳で、人間とて生き物ですから当然糞尿の処理問題がありました。 それを手助けしたのが東京埼玉間を運行していた西武鉄道で、深夜に埼玉まで運ぶ「糞尿列車」があり、東京から運ばれた糞尿は作物の肥料に使用されたそうです。
▲8 ▼2
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昔は垂れ流しトイレだったが今思えば菌やウイルス撒いてるようなものです。赤痢コレラから最近ならコロナなどを広げてしまいかねない。車内で下痢してトイレしたら沿線に病気広げてしまう可能性ある。蒸気機関車を病気機関車と揶揄してたりして。今ならタンク式なので大丈夫ですが。
▲4 ▼0
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子供の頃は線路脇を歩くなと言われた。昔は線路脇には裁断された汚物が一直線になっていて、ちり紙なども入って果てしなく続いていた。薬品が入っていたのか匂いがなかったが、確かにそんな光景を見た。
▲3 ▼0
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昭和の終わり、1980年代に関東で子供でしたが、東海道線や横須賀線のトイレはまだこれでした。 踏切を渡る時に落ちていたのもよく見ました。 水洗タンク式になったのは、関東では平成に入ってすぐくらいでしたでしょうか。
時は流れて21世紀初頭、留学した欧州の普通電車のトイレもこれでした。 さすがに2010年代には絶滅したようですが、決して嬉しくはない懐かしさを感じたものでした。
それにしても鼠入さんか。
▲13 ▼0
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小学校の修学旅行が伊勢だったんですが、列車の編成がキハ58系列でトイレに停車中は使用できませんと書いてありました 中を覗くと線路が見えてました またガード下は別の意味でも頭上注意で下手をするとブツが直撃する危険がありました
▲42 ▼2
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昔は踏切待ちの時にはちょっと線路から離れて待っていたな あまり近づくと糞尿が飛んでくる時があったららね(笑) 線路の足が黒っぽいのも糞尿のせいだと思ってた時もあった 実際は車輪と擦れて鉄粉が石につくからと知ったのはしばらく後のことだった
▲19 ▼1
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鉄道近代化
単線から複線へ。非電化から電化へ。そして高速化、各種安全装置。そういったところは比較的目立ちますが汚物処理タンクの装備とかはなかなか地味でしたけど、本当に大事なことですよね。
▲34 ▼15
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昭和の頃のトイレ付きの電車に乗ると便器を覗くと地面が普通に見えた。男性の小なら多少は、いいかもしれないが大の場合や女性の場合じゃそういうわけには、行かない。たまに駅のホームで電車を待っていると変な匂いがしてきた。今じゃ考えられないけどそれが国鉄じゃ当たり前の世界だった。
▲35 ▼3
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昭和48年生まれの自分でも、その記憶はある。
母の実家に行く時に乗った特急か、在来線急行の車両だったか定かではないが、便器の中に線路上の砂利や枕木が見えたのは覚えている。今となっては考えられないけどね。
街中のゴミ収集でも、集積所でなくあちこちのゴミ箱にゴミが置かれ、溢れて散乱状態、臭いも酷かったらしい。東京オリンピック前に、ゴミバケツが導入されたというのは後になって親から聞いた事がある。
今でこそ日本は清潔な国と言われる様になっているが、その歴史は意外と短いという事だな。
▲34 ▼3
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高度経済成長期くらいの 衛生観念って 日本もアジア近隣諸国と総じて変わらなかった。いち早く経済発展することで 環境意識に目を向けることができ ヨーロッパや北欧など 参考にして行った例がある。30年前は ゴミ箱も街中に多く 道路もタバコ 空き缶 ビニール袋なんか溢れてて 子供が立ちションしてた。日本が海外に行って 汚いとかいうのは、その国の経済事情も加味して考えた方が良いかも
▲26 ▼7
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昔の国鉄型電車の中には地方の路線に転用されることもあったが、トイレの注意書きに、高架橋区間では使用してはいけないというものがあった。やはり高架橋だと掃除が大変だったということだろうね。
▲4 ▼0
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糞尿垂れ流しは話でしか聞いたことないけど、排泄物だけでなく落とし紙も現代でも海外がやってるように便器の横に捨てるのではなく外に撒き散らしてたんですか? 風に吹かれて色んな所に飛んで行ってたんでしょうなぁ。 上下水道が整備されてない時代や水害の後の伝染病の原因が何なのか既にわかってる時代でもタンクに貯めずまだ外に放出し続けるとか何考えてるのかと。
▲13 ▼1
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トイレは大事ですね。 公共交通機関をよく利用します。 電車はもとより高速バスもトイレ装備だとありがたい。バスは1時間以上運行路線車にはトイレ付を企業努力とし改造費用等を国からの補助金出すとか。 以前、PAでトイレ休憩時間内にバスに戻れず置き去りにされた。
▲42 ▼22
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小学校の修学旅行、横浜から団体列車で日光に向かう際に、事前に担任の先生から、東京都内だったか〇〇駅だったかは忘れたけど、そこを抜けるまでは「車内のトイレは使えないので、出発前に済ませるように」と言われた記憶がある。要は沿線に住宅街がある場所では使わないように、って注意だった。今思えばただただ垂れ流しで、保線作業の人は辛かっただろうな。感染症リスクとか高かったんではなかろうか?
▲80 ▼6
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昔、そう言えば、駅に停まってる時は使用を辞めて下さいて 書いてたな、しかし、小さかった自分は、どうしても我慢できず 使わしてもらった事、あるな 今では、処理システムが出来 トイレがなかった路線も 最後尾に完備してたり 有難い 昭和時代の鉄道マンの方々には 本当にありがとうございました。
▲12 ▼0
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子供の頃に昔の電車のトイレの仕組みをどこかで大人に聞いた記憶はあったけど、やっぱりそれは本当だったんですね。
当時はまだ技術が及んでなかったと言えばそれまでだが、“垂れ流し方式”を良しと判断していた当時の責任者?役人?の思惑というか考えを聞いてみたいですよね。
▲9 ▼2
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電車通学をしていた高校生の頃の当時の国鉄の列車(オレンジと緑の車体カラー)のトイレはそういやペダルを踏むと下が丸見えやったな。 夏場の冷房車も稀で扇風機が生暖かい風を撹拌させてたし。
▲30 ▼2
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ちょっと前、個室の男性用が少ないとか、共用で男が入ると汚いとか、はたまた、女が化粧台を独占していて迷惑等々、新幹線のトイレに関する記事で男女が衝突していましたが、、、この手の、ぼっとん便所でしゃがむと下に線路の石が見えるような列車内トイレを子どもの頃に使った記憶がある身としては、贅沢な悩みなり言い合いだよなぁって読んでいて思いました。
基本、駅で用を足しておくのは大事だし、頭痛薬と下痢止めくらいは持っておくべきってことを書きましたが、垂流しの列車便所を知らない世代なのか?アンチが多かったです。
綺麗な列車内トイレは「当たり前」ではなく【ありがたい】って、今後も私は思いたいです。
▲1 ▼0
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むかしの話だな、線路沿いの家の洗濯物が薄くだろが黄色くなると聞いたことがある。 確かに小学生になった頃は線路が見えた記憶がある。当時は畑が見えたらそれらしい香りがしたし、気をつけないとハマる人間もいた。中年になった頃ヨーロッパの地中海沿いの各駅停車で同様の経験をした。G7の国なのだが。
▲5 ▼1
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御殿場線に313系が入る直前まで、ボロクハ+ボロモハ&クモハで組成されていた115系が大概トイレが垂れ流し管タイプばっかしで、タンクがあるのが1000番台の一部か身延線で本来使う車が入って来た場合のみ。 国府津駅の2.3番線ホームの柱に「御殿場線車両は停車中のトイレの使用はご遠慮下さい」の張り紙まであった。 東海道線の東日本はみんなタンクがあるのに御殿場線の東海は垂れ流し車っていう凄まじさ。まあ東海道線の付属車の東海車は全部タンクがあるが。
▲21 ▼5
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1993年かそのぐらいに和歌山の紀勢本線で普通列車に乗った時、垂れ流し便所で、レールがチラリと見えました。まだこんなのがあるのかと驚きましたが、それが最後の垂れ流し列車便所体験となりました。 列車にせよ、その他の施設にせよ「便所」という言葉もすっかり聞かなくなりましたね。
▲14 ▼2
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子供の頃、国鉄の電車に乗ったら必ず便所に行って便器を除き込んで高速で流れるバラストを見てましたね。うぉ〜すげ〜とか言ってね。懐かしい!駅で止まってる電車からポタポタ。当たり前の光景でした。線路脇には毎年大量のつくしが生えるのは、その為なんだど今でも確信してます。栄養が豊富なんでしょうね。
▲4 ▼0
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はい覚えています。
上野から直江津に行く電車で、トイレに入ると便器の中はそのまま外になってて、走ってる時は線路の赤茶けた砂利が見えてました。
駅では止まってるのでもちろん砂利が普通に見えました。
1年に1回しか直江津には行きませんでしたが、子供心にトイレが凄く怖かったの覚えてます。
▲5 ▼0
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そう言えば小さい頃東海道線の便所、まだタンク付いてなかったな。 親父に聞いた事あって、その時は風圧で糞尿もちり紙もバラバラに無くなるから問題無いって聞いてたが、やっぱり近隣住民に被害あったんだね。 当時まだ家庭がボットン便所の家も普通にあったし、鼻をつんざくような公衆便所なんて今時見かけないし、当時から臭いとは思っていたが、まさか今みたいなキレイなトイレになるとは思わなかった。
▲4 ▼1
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当時の国鉄車両乗りにタイに行った。 湖の上で臨時停車して線路に下車できるサービスがあり、降りて車両の前から後ろまで歩いた時、排出口からブツと液体が流れてきましたよ。 風が強かったから風下には行かないようにした。 国鉄保線員、こういう感じだよなと思いました
▲15 ▼4
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終戦直後、国内の都市部は焼け野原、疲弊していたが、それでも田舎に行くと田や畑は綺麗に整備維持されていた。それが日本人の良さだと思っていたけど、今回の記事を読んで、鉄道沿線に糞尿がまき散らされていた実情を読んでビックリした。薄々は感じていたし以前新聞の記事に「有楽町のガード下の露店で売り物のバナナに汚物が飛び散って、それをそっと拭き取っている」という売り子の話が載っていた。考えてみれば沿線にまき散らされた汚物の大きいものは、それぞれの地元の人が掃除していたのだろうね。 また、トンネル内では落下した汚物が舞い上がって列車の窓から入ってきていたかも知れない。何とも酷いお話でした。
▲14 ▼2
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餓鬼の頃田舎町だったけど、線路を時々道のように歩いていたこともあったけど、線路上に◯◯◯や用足しに使ったと思しき紙くずが、よく散らばって枕木、砕石と線路にあった。確かに停車中は用を足すなと言われた記憶もある。
当時は社会全体が豊かではなく、あるものは全て当たり前だった。特に小さい餓鬼の俺には、汚いとは感じたような気がするけど、それは常識だったのだろう。特に鉄橋ではよく「◯◯◯を撒き散らす」とか言われたような記憶もある。(今思えば曖昧)
まぁそう言う時代で日本も大仰に衛生的とか言われるものでも無かったのかもしれない。DDTやれBHCも何も考えずに大量に日常的に振り撒いてた時代だった。
▲3 ▼1
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確かに、昔の東海道線のトイレは便器の穴の先に線路の枕木や石が見えてた…線路にもトイレットペーパーがこびり付いていたのを見た記憶があるなぁ… 当日は子供だったので何も考えていなかったけど、今思うと保線する人や周辺住民の人たちは大変だったろうな…
▲56 ▼3
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いま51だけど、小さい頃乗った電車はトイレの穴から線路が見えていて、駅で停車中にしてはいけないと認識していた。走り出して十分速度が出てからするようにしてました。
▲3 ▼0
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当時は列車の便所のトイレの先に、枕木と線路が用足し中に見えたもん。 それに、駅停車中はトイレのご使用をご遠慮いただきます。なんていう車内アナウンスありましたよ。 そうだね、トンネルは地獄かもしれません。保線の作業員さん。鉄道マンさん。近隣住民さん。今となったら謝るしかないです。急なこととはいえ、ごめんなさい。
▲55 ▼2
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昔、ホームで汽車を待っていた。 向かいのホームに止まっていた汽車から、いきなりボタボタボタッと水と白い紙と黄色いものが線路に落ちた。トイレだったのだ。 そのあと、すました顔で座席に向かう女性が見えた。自分の流したものを見られていたとは知らないで。ちょっと気の毒な気がしました。 「停車中はトイレを使わないでください」という意味が分かりました。
▲26 ▼0
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53歳です 昭和の山陽本線は車内の新聞紙と弁当ガラは当たり前でした。 4人がけの客席の足元には必ず新聞紙が捨ててあり、午後の便には弁当ガラとみかんの皮やプラスチックのお茶入れ、ガムのカスは常にありました。灰皿は吸い殻で山盛り 灰皿ボヤもたまに。 和式便所は垂れ流し、枕木が見えて冬場は寒くてたまらなかった。 駅のホームにも人糞と使用済みの紙が落ちてある事を思い出します。 オシッコが吹き上がる風に揺られてたなぁ。 余談ですが新幹線は冷水機が置いてあり紙で出来た封筒半分くらいのサイズの入れ物で飲んでました。アイスはもちろんカチカチ。
▲6 ▼0
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筒井康隆の「近代都市」という怪作(私自身はこの作品大好きです)が、このテーマを扱っている。ストーリー自体は極限までデフォルメされた筒井流だが、60年代の黄害の酷さがよく現れている。もっとも、日本では黄害はすでに過去のものだが、海外ではまだまだ現実の問題である。問題の所在は理解しても、どうしても後回しにされがちなので、その国の国民の環境意識が向上しないと、なかなか解決しないだろう。
▲18 ▼1
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父親が国鉄の保線工でした。 トイレした後はそのまま線路に落とすから石が茶色いんだと話を聞いたことがある。線路沿いの住民は不衛生な環境で我慢していたと思うといたたまれない気持ちになる。
▲27 ▼2
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子供の頃、東海道線の線路下の小川にグッピーが生息していて、それを捕りに小川に入っていたときに黄金水を散布されました。そのまま川で洗い流しずぶ濡れで帰宅し今は亡き母親に叱られました。
▲4 ▼0
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65歳です。撒き散らしてたの覚えてます。確かトイレの底からレールが見えてた。ただ沿線はなぜか臭くなかった。鉄の臭いだけだったような。当時はティッシュもトイレットペーパーもなく新聞か古い障子を切ったもので尻を拭いてましたねえ。いいことはインド旅行での列車が苦にならなかった事。俺より若い人はカルチャーショック受けるんじゃないかな。
▲31 ▼5
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昭和は綺麗だった、治安が良かったとノスタルジックに話す大人はほぼ嘘だと言っていい。路上喫煙当たり前分煙なんてなく交通事故死は頻発、公害で工場の産廃水垂れ流し、亜硫酸ガスを多量に含んだ煙が煙突から処理されずに放出される。殺人事件は現在の数倍、反社の構成員も10万人と今考えるととんでもない時代だった。
▲100 ▼14
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私が小さかった頃、あまり電車に乗ることのない田舎で農家をやってたおばあちゃんが遠方に行くため特急電車に乗り、その時トイレに行った時驚いた話として、電車のトイレに入ったら便器の下の方に高速で流れていく線路の枕木が見えて怖かったと話してた。 そのお婆ちゃんの息子(私の叔父)が20代の頃に線路の真横に結婚して住むようになり、線路のそばに洗濯物を干してると、長距離走る在来線の快速電車が通った後、洗濯ものに糞尿が飛び散ったものが付着してることに気がついたけど貧しいから引っ越せなくて、洗濯物が外に干せなかったと言っていた。
▲15 ▼0
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昔、国鉄の保線員さんは退勤の際に職場に風呂があって、そこで身体を洗って着替えて帰ってた。 国労批判が強くなると「帰りに風呂に入れるなんて何様だ!風呂に入る時間は勤務外として給料を払うな!」という声が多くなった。 保線員さん達は「この糞尿まみれで外に出た方が多くの皆さんに迷惑がかかるけどなあ…。」と困惑したと。
▲7 ▼1
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大昔、高校に通ったときがまさにこの手の列車で、ある日体調が悪くて母の作った弁当を食べられず、帰りの列車のトイレに捨てて線路に落としたことがある。母に心配かけないようにの一心での行動だったと記憶してる。
▲2 ▼0
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半世紀以上前には「黄害反対/○労」と書かれたビラやポスターが駅や踏切近くにベタベタ貼られていたけど何のことやら子供にはさっぱり解らんまま踏切に立っていた。時々冷たい雫の様なものが顔にかかったのを憶えている。あの頃の踏切は自動ではなく、踏切の遮断手さんが手動で上げ下げしていたから堪ったものではなかったろう。
▲5 ▼0
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確かに小中学生時代横浜駅に鉄道写真撮りに行って待っていると、反対側停車中列車トイレ下部からウ○チとペーパーがポトリ!停車中の大小便はその場に直置き状態で生々しかった事を記憶しています。 他の小さい駅で優等列車が通過するので線路上には粉々になったトイレットペーパーやどす黒い物体やら乾燥して赤茶けたウ○チが点在してました。小さいながらに保線の方は大変だと思いましたね。 橋梁下で釣りしてる時も鉄橋の鉄骨に枕木 線路が下から見える状態だったので列車通過の際は一度釣り場を離れたことも、列車本数少なかったので逃げる間隔も空いてた記憶が。まあ現在では考えられませんが、似たような現象は現在の電車や車にもありますね、夏場の冷房除湿した汚水を線路上に垂らしてますが。最近では真夏にこの水をレールに垂らして線路温度下げレールの曲がりなどの予防にされてるようですが。
▲28 ▼4
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昭和三十年代までトイレの穴から直接に線路に落としていた。子供心にそれで線路敷地が茶色になるのかと思ったで。怖いのは用足し中に自分の身すら落ちてしまう。轢死だ。命懸けの便所。妊婦さんの赤ちゃん産み落としたとか。こんな現実を見てたので友達と飛行機からも大の垂れ流しは霧になるのだろうと離してきたぞ^_^。
▲0 ▼0
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都心近くだと80年代迄 八高線がそうでした、 本数が少ないので 線路が見えるトイレ。 トイレというか便所、 高崎迄長距離でしたので 窓際にマクラが埋め込まれていて 栓抜きも付いました。
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そう言えば、現在の修学旅行は新幹線だけど、私の小学校の時の修学旅行は団体専用列車で、トイレに行くと駅停車中は使用してはいけません。使えるのは走行中のみ、言わなくてもわかりますね。 愛知県の私鉄では、近鉄電車は急行でもトイレ付き、愛知環状鉄道は、無人駅が多いせいか単線区間が多いのに、各駅でも前列車トイレ付き、名鉄さんは特急でも一部しかついてない! 営業距離が短いから、停車駅まで我慢しろと言うことらしい。 コンビニの男性トイレ15分経っても出て来ない。中で化粧直ししてるのか? トイレも今では、男性、女性とどっちつかずの3分別かま必要なのか? 宝塚大劇場に初めて行ったとき、男性用トイレがあった事に感激したのを覚えています。 それまで、宝塚大劇場には女性用トイレしかないと思い込んでいた!
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子供時代に停車中の駅でトイレをしないように親に言われた記憶が蘇りました。
今でも海外の田舎をローカル線で旅していると(欧州の比較的豊かな国でさえ)車両から糞尿を落下させている事が結構あります。
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郡山駅で停車中の客車から固形物が落ちてくるのを目撃したことがあります、液体もかかってましたね。オシッコと排水かな。走行中なら飛び散り付着、当時は台車やバラストに必ずペーパーがくっついてましたね。知り合いに吹田操車で働いていた人がいました夜行上がりの列車はまず糞尿を落として整備するって嘆いて居ました。夏なんかめちゃくちゃ臭かったそうです。
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昔、トイレット博士という漫画があったんだけど、その様子が面白おかしく描かれていたね。今でも見れるのかな。 沿線で暮らす住民が、列車が通るたび、とんでもないウンコ被害に合うという設定だった
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JR西日本エリアの地方都市間を運行する路線沿線に住んでました。 平成になった頃まで、電車内トイレは記事のように線路垂れ流しタイプでした。
当時はあまり理解してなかったですが、いま考えれば保線作業員のことは全く考えてないものでしたね。
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小さい頃は線路に簡単に入れた 線路の周りや軌道内にはチリ紙がよく散乱していたのを覚えてる それが列車のトイレから出されていることを知ったのは親に聞いたからですが、それが当たり前の時代だったんですよね 今考えると昭和ってなんでもアリのイケイケの時代だったのかもしれない 汚職や不正も普通にあったしそれが原動力にもなったのかもしれないがその影響を多くの人が被ってきたのですね やりがい搾取なんていうのもこの辺りが原因なんでしょうね
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