( 277533 ) 2025/03/25 03:53:34 2 00 9歳の子ひとり避難、家に残った母 東京大空襲80年「逃げなかった」人たち 防空法と市民に広がった同調圧力 #きおくをつなごう #戦争の記憶TBS NEWS DIG Powered by JNN 3/24(月) 18:05 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/625db3f0b4635a76f59513f99c1de90f55ca5458 |
( 277536 ) 2025/03/25 03:53:34 0 00 TBS NEWS DIG Powered by JNN
戦時中、日本各地で行われた空襲。実は空襲をまえに、あえて“逃げずに”家に残った人たちが数多くいた。人々をそうさせたのは「火を消せ」と国民に強いたある法律だった。しかし「油の火の玉」と当時の人たちが形容する焼夷弾の炎は、そもそも消せるようなものだったのか?当時の焼夷弾の炎を実験で再現した。そして、空襲を経験した人たちの証言を集めると、市民が“逃げなかった”背景には、現代にも通じる“同調圧力”があったことが浮かび上がってきた。 (TBS報道局社会部 平木場 大器)
東京大空襲で焼けた賛育会病院の旧本館
東京・墨田区の病院。 去年、初めて撮影された部屋がある。
すすで覆われた壁や天井… 80年前の東京大空襲で焼かれ、黒焦げのままで遺されていた。 当時、病院周辺は焼け野原となったが、鉄筋コンクリート造りだった病院は建物が残った。 焼け焦げた病院の大部分は修復されたが、屋上にあったこの小部屋だけは、当時の状態のままになっていたのだ。
9歳の時に東京大空襲を経験した豊田照夫さん(89)
1945年3月10日の東京大空襲。 1600トン以上の焼夷弾で街は炎に包まれた。 一晩でおよそ10万もの命が奪われた。
豊田照夫さん(89)は当時住んでいた墨田区の自宅で東京大空襲を経験した。
空襲時に火に囲まれながら逃げる様子の絵
豊田さんが描いた当時の様子の絵では、建物の窓から火が吹き出している。
●東京大空襲を経験 豊田照夫さん(89) 「廊下は風と吹雪のように火の粉が来ているんですよ。窓が全部真っ赤なんですよ。外の家が燃えている」
地下室に避難したという豊田さん。 地下室から見た光景が、今も脳裏に焼き付いて離れない。
「(出入り口に)マンホールみたいに小さい扉があって、それが開いたのを下から見たらキレイなお月さんが、真っ赤なお月さん…」 「外の家が燃えている。それがその部屋に写って天井も真っ赤に見えた。それがマンホールの穴から月に見えた」
マンホールのような丸い扉の先に見えたのは、燃えさかる周囲の炎を反射した天井だった。それが丸い形に切り取られ、真っ赤な満月のように見えたのだ。
当時9歳だった豊田さんは、当初一人で地下室に避難しなければならなかった。 母親が家に残ったからだ。
●東京大空襲を経験 豊田照夫さん(89) 「焼夷弾が落ちたりするとそういうのを消したりする役目があって、働ける人はそういうものをやらないといけない。(火を消しに)行かないよっていうそんなことは、まかり通らない世の中なんですよ」
その後母親は、近所の人に、ただならぬ事態だと声をかけられてやっと、豊田さんのところへ来たという。
●東京大空襲を経験 豊田照夫さん(89) 「(近所に)関東大震災を経験した人がいたんですよ。その人が『関東大震災よりもひどいから、先に私は避難します』。うちのお袋はそれを聞いて、そんなにひどいんだ ったら迎えに行かなきゃってなって私を迎えに来た」
ようやく駆けつけた母親と一緒に逃げるも、火に囲まれてしまった。
逃げる途中で水をかぶる様子の絵
●東京大空襲を経験 豊田照夫さん(89) 「既に火の粉なんかもずっと舞っているから、だから上から(水を)かぶれと言って、うちのおふくろもかぶってましたけど」
豊田さんと母親は近くの公園に避難し、生き延びることができた。 しかし、街には恐ろしい光景が広がっていた。
●東京大空襲を経験 豊田照夫さん(89) 「道路の真ん中で、自動車が逆さまになってひっくり返ってる。路地のところで人がハイハイする人形のような格好で炭になっている。上着なんか全部燃えちゃってなくなって、炭になるというのは異様なもので」
防空法を広めるためのポスター
火を消さなければならないことは、実は「防空法」という法律で決まっていた。 防空法を広めるためのポスターには威勢の良い言葉が躍る。 「必勝を期して戦(たたか)へ」。 「焼夷弾の防火は最初の30秒が最も大切」 防空法では、逃げることが禁じられ、消火活動が義務づけられていたうえ、罰則まであったのだ。
防空法に詳しい早稲田大学法学学術院・水島朝穂名誉教授
専門家は防空法が作られた目的は「市民を戦争に参加させるため」だと語る。
●早稲田大学 水島朝穂名誉教授 「市民がどこにいても焼夷弾から逃げないで、そこにとどまって火を消すことが前線における兵士たちの戦いと同じなんだと。火の中に市民を突撃させると、そういう性格に末期の方ではなっていったように思います」
陸軍の幹部は国会でこう述べている。
●佐藤賢了陸軍省軍務局軍務課長(1941年11月の衆議院の防空法改正委員会での発言) 「空襲を受けた場合、実害そのものはたいしたものではない。戦争継続意思の破綻になるのが、もっとも恐ろしい」
また、焼夷弾の炎は「簡単に消せる」と盛んに伝えられた。 国が各家庭に配布した、空襲への備えなどが記載された冊子にはこう書かれている。
●時局防空必携 「焼夷弾も心掛けと準備次第で容易に火災とならずに消し止め得る」
竹と縄で作られた火たたき棒で消火を試みるも消えず
焼夷弾の中にはゼリー状のガソリンが入れられていて、 火がつくとガソリンが飛び散り、家の壁や柱にへばりついて燃え続けるようになっていた。
これに対して、当時は焼夷弾の火は、バケツの水、竹や縄でできた火たたき棒などで消せるとされていた。
当時の消し方で、“焼夷弾の火”は消せるのか?専門家監修のもと、実験を行った。 木の板に布をまきつけてガソリンを染み込ませ、焼夷弾の中身が床などにへばりついた状況を再現。
点火すると瞬く間に激しく燃え上がった火。
資料を元に作った火たたき棒を水につけ、叩いたり、こすったり。 3分以上、巻きつけた布がちぎれるほど繰り返すも、火を完全に消し切ることはできなかった。
バケツの水でも消火を試みるが消えず
続いて、バケツの水をかけてみるが、計8回かけても消えなかった。
●火災に詳しい 東京理科大・松山賢教授 「ガソリン自体が水を弾いてしまうことが起こりますので、水をかけて消火するというのは、消せる状態には程遠いんじゃないかなと。(ガソリンを)固めたことによって、なかなか消えにくいというところにプラスされて、継続的な燃焼が起こり得る」
水に浸っても燃え続ける火
ゼリー状のガソリンに見立てた布は、水に浸ってもなお燃え続けていた。
●実験を監修 東京理科大・桑名一徳教授 「ガソリンは蒸発した気体に火がつくことで燃えるんですけども、その蒸気が色々なところにありますから、火を完全に消すことができれば消える。しかし、火が少しでも残っているとそこから蒸気に燃え移って燃え続けますので、いつまで経っても火を消すことができない」
実際に焼夷弾の火を消そうとした、小林暢夫さん(94)。 ”油の火の玉”をまえに、「何をしても消えなかった」と証言した。
当時のバケツリレーのやり方を記者に教える小林さん
●空襲で消火活動を経験 小林暢夫さん(94) 「バケツリレーをして水をかけて、火たたき棒で消す。でも消えない。油脂焼夷弾だから。防空演習をやっていたのとは全く違う。油の火の玉だから。古い木造家屋の塀なんかに当たると、すぐにバンって燃え出す」「本当に怖さだね。何やったって消えないんだから」
隣組の集合写真
消えない炎。 それでも人々が火を消そうとした理由を、小林さんが語ってくれた。
●空襲で消火活動を経験 小林暢夫さん(94) 「何事か危険な状態になれば、自分で真っ先に逃げようというそういう意識はあるんだろうね。あるんだろうけども、表には出せない。隣組は。みんなで共同体だから。それは戦争中、特にそうさせられたわけだ」
「隣組」。お互いを助け合う地域の組織で、配給や防空訓練などの役割があった。 しかし、その助け合いの結びつきが、逆に“同調圧力”を生んだと専門家は見ている。
当時のバケツリレーの様子
●早稲田大学 水島朝穂名誉教授 「法律がただ禁止しているだけじゃない。隣組とか自治会とか生活圏における社会的な圧力、これが構造的に働いて人々はいわば“逃げなかった”」
そして、もし現代に「防空法」のようなものがあったら―。 「隣組」の役割が、現代では「SNS」に置き換わって、市民たちが空気に流されて行動してしまうのではないかと指摘する。
●早稲田大学 水島朝穂名誉教授 「SNSが当時あったら、うちのお父さん一生懸命火を消しているのに『あの家のお父さん子供を連れて逃げてるよ』というのを動画で撮って晒したらどういうことになります?大変なことでしょう。(当時は)SNSというツールがなかっただけで、もし今同じような仕組みができて、国家が『市民はそこに留まって協力しないと駄目だぞ』みたいなことを、仮にやったとしたら。みんながお互いを監視し合って『あの家逃げたぞ』とやって晒したりすることが起きたら。同じような機能を果たすんじゃないでしょうか」
“同調圧力”が漂う状況のなかで、 人々は逃げられなかったのではなく、逃げなかったのだ。
八王子空襲で家族全員で逃げた尾股重利さん
しかし、終戦間際には、防空法や同調圧力に抗う人もいた。 終戦の2週間前。450人が亡くなった八王子空襲。
尾股重利さん(2015年の取材時84)は、空襲が始まると家族全員で避難を始めた。 八王子市内が焼夷弾の炎に包まれる中、市外へと繋がる橋を渡ろうとした。
●尾股重利さん(取材時84) 「浅川橋を渡ろうとしたら群衆がいっぱい集まっちゃって、行けなくなっちゃって。『みんな逃げるな、火を消せ』って言うんですよ。でもね、あれ火なんか消せる状態じゃないです。バケツで消えるような火なんかじゃないですよ。皆さん右往左往どっち行くか、逃げると殺すぞと(言われて)舞い上がっていた」
「火を消せ」と行く手を阻む人たちに向かって、尾股さんの父親が日本刀を振りかざして、何とか逃げたという。
●尾股重利さん(取材時84) 「科学的な炎だから水ぐらいで消えるものじゃないですよ。それで油を含んで噴出すんだからもうたまったもんじゃない。非現実的な話。命を生きながらえる方が大切だと思った。火を消すより。わが命を守るのが第一だと思いましたね」
命を繋いだのは周りの目を振り切る勇気だった。
※この記事は、JNN/TBSとYahoo!ニュースによる戦後80年プロジェクト「
」の共同連携企画です。記事で紹介した防空法や東京大空襲についての情報を募集しています。心当たりのある方は「戦後80年
#きおくをつなごう
」サイト内の情報募集フォームにご連絡ください。
また、企画趣旨に賛同いただける方は、身近な人から聞いた戦時中の体験談や写真を「
#きおくをつなごう
」をつけてSNSに投稿をお願いいたします。
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( 277537 ) 2025/03/25 03:53:34 0 00 =+=+=+=+=
叔父の母が最近まで存命で、空襲の話をよくしてた。 戦時中せっけん工場で働いて。 隣組でバケツで消火してたが、爆弾で吹き飛んで自分は逃げた。 焼夷弾であつくて隅田川に飛びこんだら、上から人が次々に飛んできたそうだ。自分は泳げたから川下に泳いでどうにか助かった。 川が遺体だらけで悪臭。 防空壕に逃げ込んだ人も,蒸し焼きのようになってなってた。 町内のほとんどは亡くなったそうだ。 石鹸工場も焼けて工員もほとんどなくなった。
戦後の食糧難もひどく、 大学教授が雑炊の屋台で儲けたりして何とか生き延びる時代。 残った苛性ソーダで石鹸作って闇で売って戦後生き残った と聞いた。
聞くだけでつらい話。
▲2021 ▼43
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昔は少しは経験もした世代だからこう言った話は辛く繰り返してはならないと思うし、今はあり得ないとも考えてたけど、子供たちに伝わり難い現実、世界情勢から人は間違いをまた繰り返してしまう生き物なんじゃ無いかと悲観してしまう。少子化はそんな不安からの方が大きいと感じる。政治家は目先選挙の事しか考えて無いし、いつかは世界に狙われて奪われるか戦うかになるんじゃないかな。 オープン過ぎる日本は核撃たれ無くても原発施設撃たれて正当な理由で滅びる可能性が高くて安心では無い。政府も票稼ぎに原発を止め切らない。
▲109 ▼70
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軍経験者の方はもうほとんど100歳以上でかなり少なくなっているけど、空襲や疎開経験をお持ちの方は80代や90代でまだまだご健在の方が多い。 (デヴィ夫人なんかイッテQで過酷な体当たりやってますね) 時代的に戦前戦中と直接つながりのある今のうちに、出来るだけ沢山の証言を伺って置いたほうが良いですね。
▲1410 ▼79
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同調圧力の中にいるとそれが間違いだと思わなくなる。 唯一の知る方法は群衆の中に天邪鬼を入れておく事です。 天邪鬼は同調しないので助かる。 コロナでもどれだけマスクなどで同調圧力を受けたかわからない。 自分は周りがしっかりマスクしてるなら自分はしなくても大丈夫だと言ってマスクはしなかった。 今は逆にマスクをしない人が多いのでマスクをしています。 多くの人が同じ方向を向く時には間違っていることが多い。
▲109 ▼130
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私の祖父母は空襲のことを聞いても何も教えてくれないままそれぞれ他界しました。思い出したくもないという気持ちもあったでしょうが、恐らく伝えても私の役に立つ情報はないという判断だったと思っています。 “同調圧力”という表現は今風の言葉に翻訳すると“勘違い正義マンの暴挙”ということかと思いました。もしくは○○アノンですかね。 戦時に限らず日常で発生している困った現象です。 正しい、かつ力強いリーダーシップしか解決できない課題です。
▲5 ▼10
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東京大空襲から80年、記事を読むと、防空法と同調圧力のもと、多くの人が逃げることをためらい、命を落としたんですね。 焼夷弾の炎など消せるはずがないのに、火を消せと言われ、逃げることすら許されず、それでも生き延びようと意を決して、逃げた人もいたということです。もし自分がその場にいたら、どう行動しただろうかと思います。 こうした歴史を通して、専門家は同調圧力の危険性を指摘しています。もし今、防空法のような制度ができたら、SNSが監視ツールとなって、市民同士が逃げる人を非難し合う可能性があると警鐘を鳴らしています。
▲754 ▼105
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祖父が仙台市の大空襲を経験しました。 東京の空襲とは規模も違いますが、 話させて欲しいです。 突然の襲来に、兎に角、逃げる事しか考えられなかったそうです。 畳を何十枚も重ねて、その中で沢山降り注ぐ焼夷弾。その音は凄まじく。 「今、死ぬか!今死ぬか!」 の気持ちしか無かったそうです。 その後の話は何もしてくださいませんでした。もっと戦争についてお話を聞けたら良かったと思う。その後、フィリピン諸島で戦ったご老人と、触れ合う機会があり、それはもうここでは話せない程の凄まじいお話でした。味方のウジの沸い肉を鍋で煮て食べたそうです。とても信じられないお話を聞かされた以上、その意味では私も、話す時もあるかも知れません。戦争から帰っていらっしゃった方々が多くを語らない理由は様々でしょう。
▲443 ▼26
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日本人は和を重んじることを良しとしてきました。それが戦時中には、今となれば悪い意味でこの記事のようなことが起こっていたと思います。
まだ100年も経ってない過去の話ですが、同じようなことが一部の権力者や既得権益層によって起こり得るかもしれません。 過去の戦争の教訓は、おかしいことはおかしいと発言できる環境を、すべての国民で作っていくことだと思います。
▲445 ▼40
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日本どうのっていうよりどの国でも似たようなことは起こり得るからね。コロナ禍がいい例だっただろう。あの時は外に出たら分かってるんだろうなお前らっていう雰囲気が国内中にひしめいていた。 特に地方ほどその傾向が強かったと思うけど、そんなさ中でも医療従事者たちは外に出て苦しんでる人らを助けないといけないのに、そういう人らまで攻撃対象だったからね。見た目じゃ医療従事者かどうかも分からないわけだし。 結局のところ右へならえしていない人間は攻撃の的になる。 それが決して正しくないとしても、関係ない。 冷静に分析し世情に流されず最善を検討し行動に移せるなんて、本当に限られた一部の人間だけしかできないってのが、パンデミックで浮き彫りになるんだよね。そしてそういう人間は攻撃の対象。 能ある鷹は爪を隠し続けなければ危ういんだ。 自分の周囲にいる人間は冷静だったか。それを今一度考えてみて欲しい。
▲607 ▼86
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火を消せと言っても爆弾が落ちてくるからね。うちの爺ちゃんも婆ちゃんも「一緒にいた友だちのほとんどが炭になった」と言っていた。ちょっと前に近所で空襲の被害者の遺骨が発掘された。まだたくさんの人がそこらに眠っているのかもしれないと思った。 戦争の厳しさをただ語り継ぐだけだと何のためにたくさんの人が被害に遭ったのか分からなくなる。生き残る手段や、避けた方が良いことなどを受け継いで後世に情報共有した方が自然災害のときにも役に立つと思う。
▲77 ▼2
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最後まで読んだ方がいい記事。全貌や結果を知っている現代人から見ると、戦時中の人はカルトの信者みたいな印象があるかもしれないけど、それは違う。現代人と全く変わらない日本人らしい日本人。そういう視点で考えることが大事だと思う。
▲629 ▼45
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焼夷弾と聞いて思い出したのはアニメ「火垂るの墓」です 街中に降るあの火の玉はゼリー状のガソリンが入っていたのですね
当時の事を語ってくださる方々の年齢が80代90代と高齢でリアルな話が本当に貴重に聞こえます 私の周りには戦争体験者の方がいないので辛い体験を思い出して語り継いで下さる事が本当にありがたいです
「火垂るの墓」は去年海外でNetflixで公開されましたが日本では見ることができません 子供の頃に見ても辛かった記憶がありますが 最近は8月になっても戦争番組は減り「火垂るの墓」も地上波では放送されなくなりましたね残念です 戦争のことを知らない私達やもっと下の世代の為に大事に記憶を繋いで行かせて欲しいです
▲34 ▼1
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昭和の昔、教諭に採用された高校の校長が学徒動員でいた大阪砲兵工廠で空襲に遭い、逃げ出した時に逆方向に走った友人が焼夷弾の直撃を受けたのを目撃した、と。
言葉では表現出来ない惨たらしさだったそうです。人間の運命ってそう言うものや、と。経験談は何より重い。
▲184 ▼8
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「一億、火の玉」、要は「一億、玉砕」という事です。 1万メートルの上空を飛ぶ「B-29」に対して、持っていた武器は「竹槍」です。 軍部や政治家の偉い人達には、別誂えの「防空壕」もあった様です。 知り合いから聞いた話では、国民は、食うものも食わずに頑張っていましたが、軍部や政治家の上層部はパーティの様な「お食事会」を開いていたらしいです。知り合いに誘われて、私の伯母も誘われて言った事があると言っていましたが、一般には「無い」と言われていた食材が、豊富に並べられていたそうです。
▲58 ▼4
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1933年8月に、信濃毎日の主筆だった桐生悠々は社説「関東防空大演習を嗤ふ」を書いた。防空演習等やっても意味はない、航空戦は空襲したほうが勝ちで、された方が負けだから、敵機の空撃に先立って撃墜することだ、と論じた。今日の目で見れば至当極まりない論説だが、これを陸軍は弾圧し、桐生は自費出版以外の発表の場を失う。
サイパンが陥落すれば本土空襲が常態化することはわかっていた。だから1943年9月に絶対国防圏と定めた。そのサイパンが1944年7月に陥落しても、日本は戦争をやめなかった。「絶対」と銘打っていたにも拘らずだ。
防空法を憂いた貴族院議員の大河内輝耕が議会でそれを批判したのは大空襲の翌3月11日だ。しかし、その期に及んでも政府は撤回しなかった。
大日本帝国の戦争指導とは、非合理的で、非人間的なものだった。徹底的な反省と批判をし続けなければ、また、繰り返し、また、負けるだろう。
▲67 ▼5
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私の母も当時墨田区に住んでいて、小学校6年生くらいで東京大空襲を経験。道端に転がっているマネキンのような塊が黒焦げた人間だと気付いたのは、逃げて暫く経ってからだったとか。
火の手から逃げる集団はその心理からか同じ場所へと集中し、それが風下だと気付いた祖父は、幼い妹を背負った母に向かって逆に燃え盛る炎の更に向こう側に行くから自分についてこいと指示をして、家族全員が欠ける事なく生き延びたそう。
パニックになった人間が集団と同じ行動をして安堵するのは理解できる。そしてそこで冷静な判断が出来る者はごく少数であり、恐らく日本人は長いものに巻かれるのに慣れきっていていざと言う時に思考を放棄する傾向にあるのかな…と。
高校野球の選手たちを見ても、なぜ野球部だけ未だに坊主頭のなのか、そこに合理的な理由はあるのか、無関係に見える坊主頭に抵抗を感じないのか、そんなことをふと感じましたね。
▲86 ▼18
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コロナ禍の初期、地方で感染者の出た家が、ご近所の目を気にして引越しをせざるを得なくなった話を思い出した。みなヒステリー状態だった。戦争は無論のこと、災害など非常時にも冷静な判断力を保ちたいと願う。「焼夷弾は消せない」。為政者も圧倒的多数の世間様も、間違っていたと後になってわかっても、失われた命は戻らない。同調圧力などで自分の大切な人が死んでしまうのは我慢ならない。しかし、とっさに正しく判断し多数派に逆らう行動をとれる自信は正直、無い。
▲13 ▼0
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戦時下における狂気が空襲被害を拡大させました。絶対に勝ち目の無い戦いは誰の目にも明らかであったにも関わらず戦争を引き起こしたのです。 全国各地で米軍により情け容赦ない爆撃に晒されました。想像してみて下さい空一面を埋め尽くしたB29から何百万発の爆弾や焼夷弾が降り注ぐのです。 その炎に多くの命がなくなりました。この真実だけは永遠に語り継ぎ、永遠の平和探究を世代が変わっても続けなくてはならないのです。 80年ほど前に起きた悲劇を見つめ直し、今こそあらためて平和について考えなくてはならないのではないでしょうか?
▲29 ▼21
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今でも逃げる事は許されないという価値観はしっかり残っています。酷い目に遭わされたなら遭わされないように頑張るか反省するか謝るか我慢するかのうちから選ばなくてはいけない。要は根性見せろという事。 問題なのは根性の見せ方は個人的に決めてはいけない、勝手な根性の見せ方をしてはいけない、皆と同じようにしなくてはいけない事。
▲17 ▼2
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同調圧力に関しては圧力をかける方(もしくは空気)を責める傾向があり、それは確かにそうするべきだけど、同調してしまう側に「そんなことじゃダメだ」と圧力をかける批判をした方が悲劇はより防げるのではないかと思う。
もちろん強く言えない、流されてしまう人たちは気の毒ではあるのだけれど、強者(や空気)を責めても効果には限界がある。弱者を救うには逆らえる空気感を別に作ったほうがいいのではないか。
▲57 ▼64
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特攻隊で命をを落とさねばならないように仕向けられた若き学生の死も、同様に日本人的同調圧力だったのではないでしょうか。日本人の考えって命までも他者のために捨てなければならないと軽々しく扱うのはいったい何故なのでしょうかね。それも地位の高い人々は助かり下々にそのような圧力をかける、大事な判断を誤る上層部であってもそれがまかり通るのですから異常ではないでしょうか。国民の命を軽視す国に未来はないのではないでしょうか。
▲179 ▼15
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第二次世界大戦に限らず戦争を推し進めた人たちは本当に罪深い。 指揮を執っている人間は命をおとさず、犠牲になるのは一般の人たち。 一種の洗脳みたいなもの。 色々困難なことはあれど、日々平和に暮らせていることには感謝しなければと思う。
▲85 ▼4
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テレビで視聴しましたが焼夷弾は ある高度に到達すると十数初に分裂して屋根瓦を貫通して畳に突きささり炎上するように設計されていたそうです。
アメリカ本土に日本家屋のモデルを何棟も作って実際に投下したそうです。 更に、燃焼効率を高める為にケロシンをゼリー状にしたそうです。これで無駄に飛散したり地面に染み込む事が無くなります。
光瀬龍氏の小説では 僕が防空壕に避難してじっとしていると カラカラと風車の音がした そうです。 戦後に米軍の焼夷弾は高度計で焼夷弾を分裂させていた事を知ったそうです。 その風車が高度を計る物だったと知って不謹慎にも感動したようです。
▲9 ▼1
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実際に体験された方の話を見たり聞くたびに本当に戦争は恐ろしいものだということがひしひしと伝わってきます。軍人として参加された方は若くても90代半ば以上の方ばかりだろうし、戦争体験された方も80代以上。本当に風化させてはいけないと思います。それでも、時の流れだけはどうしようもなく、いつかは第二次世界大戦なんて大昔の話のように過去にこういうことがあっただけになるのでしょうね。日清や日露戦争、第一次世界大戦みたいに歴史で習うだけで終わっていくのだろう。
▲1 ▼1
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同調圧力は恐ろしい。アメリカ軍が次の空襲目標を記したビラを空中散布して拾った市民が山に避難しようとしたら隣組の責任者に加えて軍の憲兵隊が検問作って避難を阻止した事例もある。敵のプロパガンダに躍らせされることはけしからんというのが理由だった。結果的に青森空襲では避難を禁じられたことで多くの市民が空襲で死傷することになった。
▲118 ▼5
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生々しい記憶ですがこうしたお話をいま集めておかないと 戦争はきれいな話ばかりになってしまいます。
私は大阪大空襲について近所のおじさんから学びました。 小学校の卒業式が幻になったこと、 焼夷弾はガソリンなので水では消えないこと等々。 それは偶然のことでした。 夏休み、空襲についてお年寄りから話を聞いてこい、 そんな宿題が出たという話をしていたら、 遊びに来ておられたそのおじさんが反応されました。 もっと上の世代に聞くテーマと思っていたので驚いたことも思い出します。
当時の私にはそのお話の価値がわからなかったんですけども、 課題提出後、先生は「あなた、いい話を聞いてきたね」と。 近所のおじさんにそのことを伝えると泣きそうなお顔をされていました。 その先生の集めてこられた膨大な記録は本になっています。
▲6 ▼0
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90歳前後が終戦の頃が小学生の頃だと思います。夜間に飛行機の大群が頭上を通る音がして、その後に夜間空襲で遠くの町が真っ赤に燃えていたのを見たと言ってました。記憶にはっきりと残っていると言ってました。
▲20 ▼0
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これさ、東日本大震災で福島第一原発が爆発した際にもあった。 被災地では仕事や介護などさまざまな事情で、すぐには土地を離れられない人もたくさんいた。
そのなかで、「自分だけ逃げるのか」という無言の同調圧力を感じた人は多かった。
▲256 ▼21
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戦時中に「逃げずに火を消せ」と命じられ、人々が命の危険を冒してでも家に残った背景には、強い同調圧力があった。それって、まさにコロナ禍の時にマスクや外出自粛の“空気”で動かされた日本社会と重なるところがあると思うんですよね。周囲と違う行動をとると「非国民」扱いされるような空気に流されてしまう構造は、今も昔も変わらない。本当に必要なのは、個人が自分で考え行動する力を育てることだと思います。
▲438 ▼272
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私は古希世代で有りますが戦争の何たるかを私は全くしません。
親父は兵隊さんで有りました。 靖国の英霊に申し訳ないと言ってました。 親父は子供には戦争を多くを語りませんでした。
唯一、覚えているのは我が皇軍は亜細亜の独立のため八紘一宇のために戦った聖戦であるとしか聞いたことが有りません。
お袋は6人兄弟姉妹でした。 お袋の兄と弟の三人はラバウルで特攻したと毎年1回ほど泣きじゃくります。
東京大空襲はひどかったらしいですが残った三姉妹は戦後を迎えられました。当然に私は知りませんがお袋から三姉妹の防空頭巾をかぶった一枚の写真を見せてもらいました。
写真はそれだけです。 私の叔父さんたちの写真は全くありません。
唯一、軍人恩給の切符が私の記憶です。
親父もお袋は戦争について多くを語りません。 語り継ごうにもほとんど話を聞いて無いので仕方なし。
▲29 ▼11
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先の大戦があまりにも深い傷を遺したことで二度と戦争してはいけないということは国民誰もが刻み込まれていると思います。 ただそれを同調圧力だった、という当時の日本国民を非難するものとなると、モヤモヤしてしまう自分もいます。 あの時代、アメリカは鬼畜と国民は散々教え込まれて育ち、実際大切な家族が出兵したり亡くなっていた時代です。 私の祖父は終戦間近に予科練だった、と亡くなる間近の祖母から聞きました。戦争の話を家族は生前一度も聞いたことはありませんが、戦争の話には目の色を変えて絶対に反対だったことは覚えています。
もしネットが当時あったのならば、間違いなく米軍は世界中から非難されていました。原爆投下後、あまりの被害の大きさに戦慄したGHQは徹底的に写真を没収しました。 もしあの凄惨な現場が出回れば、もしかしたら歴史も変わっていた、とも言われています。
大切なのは、その前に戦争をしないことです。
▲34 ▼9
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現在の価値観で過去を断罪するのは極めて卑怯な評価の仕方です。 あの当時、同調圧力や集団心理などの言葉は、少なくとも一般人の中には無かったはずです。そして焼夷弾が降ってきて消さなかったら町がどうなってしまうのか、誰にでもわかることだし、自分さえ良ければいいなんて現代の腐った価値観が無かっただけです。 今だって自己犠牲の心を持っている方は沢山います。あの時代に生きた人達だって逃げたかった人や実際に逃げた人もいるかもしれません。どちらにしても現代人の我々があの時代の人を批判する資格など無いのです。 教訓にすることは必要ですが、この記事のように高みから批判するような人間にはなりたくないものです。
▲3 ▼11
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戦争の思い出話はすごく良い事だと思うが、その思い出話が今後の生活にどう影響してくるのか? 時代と共に記憶が薄れて語り継がれて行くのは難しくなるし、過去の歴史となっていき、反戦に対して賛同する力は衰えて行くと思う。 また考え方や価値観がかわり戦争反対の声は小さくなって行くとも考えられる。
また軍事を持たない日本は今より世界的立場は弱くなり存在感がなくなるだろうね。
100年後の日本は日本人の人口が4000万人前後になりその減少を抑えるために外国人が人口の約3割まで占める事になると予想です。 総人口6000万人 今の時代で考えらないと思うが、全く今の日本とは違う国になりますよ。 日本での仕事は厳しいでしょうね。
▲6 ▼22
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津波のような緊急事態でも「津波てんでんこ(自主的な判断で逃げてよい)」が認められるのはじつは例外的で、本当は大川小のように「勝手に逃げてはいけない。ルールを守れ」というほうが普通です。政府は「首都直下地震に際しては都心から勝手に帰宅するな。都心の勤務先にとどまれ」と言っていますが、これは都心の勤め人が一斉に帰宅すると、横断歩道の人の列が途切れなくなり、車の大渋滞が起きて緊急車両が通れないからです。だから政府としては「歩行者は路上をうろうろするな」と強く言いたいわけです。でも差し迫った危機があったり個々人の事情があったりするので全員には強制できない。ルールを強制できないとき、権力者・政府は「社会全体を考えてできる限り守ってください」と言います。そのとき「同調圧力」が起きます。何が正しい判断なのか、全体からの視点と個別の視点から、それぞれの判断があり得るとしか言いようがありません。
▲5 ▼0
=+=+=+=+=
うちのばあちゃんも空襲の話をよくした じいちゃんのほうは何も語らなかった。 それだけで戦争って嫌なものだと感じた。
今の人からすると現実感はないけど 空から爆弾や火の玉が飛んでくる、戦闘機から銃撃される そんな時代がこの国にもあって、これからだってあるかもしれない あの戦争自体が同調圧力で始まったようなものだ 国民自身がが戦争をしたがった。怒りに満ちていた。 いまの時代も似たようなものだが 次は絶対にそうならないように強く警戒していかないといけないんだ。
▲15 ▼1
=+=+=+=+=
確かに現代日本においても地上波テレビ局や大手新聞社などオールドメディアはどこも同じ話題ばかりを同じような論調で取り上げていたり、ある日パタリとその報道が止むことがある。 近年ではモリトモ、加計学園問題で3年近くもしつこく安倍総理を叩いたり、兵庫県の斎藤知事に関する論調、かと思ば安倍さん暗殺問題は当社から統一教会問題にすり替えられ、暗殺の、真相はタブーのように語られず、裁判も始まる気配がない。また赤木さんの自殺に関する文書は公開された後実態は報道されずパタっと報道が止んだ。 これが同調圧力なのか真実を追及する能力も意志もないのか大いに疑問だ。
▲36 ▼8
=+=+=+=+=
現在、池袋で「東京大空襲」が公開されています。 空襲を生き残った人たちの証言で構成されたドキュメンタリーです。 火災発生時に起きる火炎竜巻や隅田川に避難した人々の惨状が語られており、空襲の状況を知る上では必見の作品。 米軍による焼夷弾の実験映像や空襲発案者のカーティス・ルメイのことも語られています。
▲21 ▼0
=+=+=+=+=
今に置き換えて考えてみようか。 こうだ。 他国のミサイル攻撃を防ぐには、ミサイルの基地を先制的に攻撃する必要があると盛んに報じられた。 その先制攻撃用の基地の建設が進められたが、建設に反対する人は「何あの人たち。国を守る施設に反対しているよ」「守られているくせに、わきまえない人たちだね」とさかんに攻撃された。
実際に先制攻撃でミサイルを防げるのか、検証してみたらいいよ。
▲23 ▼23
=+=+=+=+=
現代もパニック時は信じがたく無意味な同調圧力がある。同時にまた、パニック時は自分さえ助かれば良いという行動(買い占めもこれ)が浮かび上がってくる。 人間の醜い部分は何時代になっても消えることはないだろうが、パニック心理に火を付けない報道の仕方、行政のイニシアチブ、SNSに書くなら冷静な呼び掛けなど、現代なりに醜さをリカバリーする方法はあるはずだ。
▲11 ▼1
=+=+=+=+=
狂った指導層のもとで多くの悲劇を引き起こした先の大戦。 確かに戦争へと流れる機運は必ずしも日本が作ったものではなく欧米思想の流れから巻き込まれたものと考えるが、出口戦略を見出せず盲目的に破滅に向かった愚かさと、それによる尊い犠牲を多数作った軍部は恥そのものであり、二度と繰り返さないよう教訓とするべきもの。
▲52 ▼9
=+=+=+=+=
外国で災害が起こった時、デパートが多くの市民に襲撃されて、ガラスや入口が壊されて中の物品が盗まれていた。 日本では災害時、みなが避難所で助け合って我慢して生活していた。 社会性やルールの根本は同調圧力だ。
先の戦争時の多くの問題は「目を逸らさず対処する」が抜けたことだろう。 大空襲時の焼夷弾対策も効果的な対処を考えるべきで、「同調圧力の集団には 日本刀を振り回して 自分だけ生き残るのが正しい」ではないと思う。
日本の戦争を「国がやった犯罪」と世界が位置付けたのは、日本が負けたからだ。 が、国は国民を守るために戦争をしたことに、そろそろ目を逸らさず向き合う時期が来たのではないだろうか。
むろん正しくなどない。 世界に「正しい戦争」など、一つもありはしない。 だからこそ「どうしたら対処できるか」を、「自分だけ」の都合でなく、「目を逸らさずに」考える姿勢を持つべきだ。
▲3 ▼1
=+=+=+=+=
遥か太平洋を渡って飛行機と爆弾運んでくるのにバケツで消せるようなもの持ってくるわけないだろう。アメリカ人は馬鹿で臆病なことになってたが、ならば戦争なんぞしなくても言うことを聞かせられたはず。 ごく簡単な当たり前の理屈が通用しない世の中になったらもうそこはアウトだ。 それでいて自分らは風船飛ばして相手を降伏させられると思ってたんだから救いようがない。 「同調圧力」で人が殺されたことを覚えてるのにそれを「連帯」で防ごうというのだから、同じことはこれから何度も起きる。 SNSが悪いとか。 関係ない。 日本人の根本的な心性が悪い。 絆だ共感だというものに頼ったらまたバケツで焼夷弾に立ち向かうことになる。 個人主義しかない。人を見殺しにしてもまず自分が生きろ。自分が生きて食べて眠ることができなければどのみち誰も助けられない。自分のことは自分で判断するしかない。誰よりも自分を信じること。それだけだ。
▲91 ▼20
=+=+=+=+=
焼夷弾って、ナパーム弾(900-1,300度の増粘剤入り油脂ゼリー)やテルミット焼夷弾(約2,300℃マグネシウム燃焼)だったはずだよ。 単なる火の筒じゃない。 そんなの消える訳ないし、単に「焼夷弾」じゃなく、現実をきちんと伝えるべきじゃないかな。
▲20 ▼2
=+=+=+=+=
コロナ騒動で日本人は戦時中から何も成長していないことが証明されてしまいましたね。データを分析すれば、ただの風邪であることは明らかでしたが、数字が稼げる煽り報道によってパニックになった大衆の前では正論は無力でした。外出自粛やマスク着用といった推奨される行動を取らない人に対する同調圧力は非常に強く、異論を許さない空気が広がっていました。コロナ騒動初期に感染した人の中には追い詰められて自殺した人もいますが、何の反省もせずに「あの時は仕方なかった」で済ませるのでしょう。
▲47 ▼20
=+=+=+=+=
この太平洋戦争は、日本国民全員が洗脳されていた。明治時代の戦争で、ぎりぎり勝ってしまったため、図に乗ってしまったのだろうか?国民をないがしろにするやり方は、今でも同じ。情報を操作して、財政が困難、そして重税に重税を課す。でも、昭和以降の国や政府のやり方は、どんどんえげつなくなってきている。世界大戦の結末を再度確認して、国が間違ったほうに舵を取らせないようにするのも、国民の責任かと思う。
▲11 ▼4
=+=+=+=+=
すでに出ている火は消せなくても、延焼を遅らせる程度のことはし得ただろうと思う。当時の啓発資料にもそのような内容があった。 日本人のことなので同調圧力で不合理な活動を強いられただろうことは想像しやすいし、たぶんあっただろうなとは思うが、それを含め客観的な検証が必要だろう。
▲20 ▼73
=+=+=+=+=
私の祖母一家が東京大空襲で家を失い、千駄ヶ谷の知人宅に避難をしたら再び空襲に見舞われ、下町での空襲で命からがら逃げ延びたので、消火活動などしている場合ではないと逃げていたら「非国民!」と言われたと聞いて衝撃を受けた記憶があります。 その非国民!と言った人ってどうなったの?と聞いたらそんなの知らないわ、だそうです。 祖母が非国民だったおかげで今の私がいます。 おばあちゃんありがとう。
▲15 ▼0
=+=+=+=+=
今なお、このような圧力がある。 企業や学校など、閉鎖的な環境では 特に多い。 戦争は人を歪めてしまう。 理性も良心も奪ってしまう。 だからこそ戦争抑止のための 国防力が必要である。 我が国がウクライナのように 侵略を受けないよう、核武装が 必要です。
▲20 ▼14
=+=+=+=+=
原爆の投下は事前予告があったということを最近になって知りました。日本語で書かれた大量のビラを空から撒いたようですが、拾い読みすることが許されず、同調圧力で逃げることが許されなかった、と。もし、軍や警察主導で避難行動が取れていたらずっと被害を抑えられたのではないかと思ってしまいます。事前予告のことは教科書に一切載っておらず学校で教わらなかったのですが、日本にとって不都合な真実なのでしょうかね。
▲6 ▼0
=+=+=+=+=
歴史は繰り返すもの。 だから気付けるように勉強し忘れない事が必要と思っています。 今の政府や政治家の動き、五輪や万博では引くに引けず強行。既に危ないと思う。 多くの人が思い出すコロナ禍の状況も同じで、マスク警察はまるで自警団の再現。 背景には、妬みが根底にあり、皆同じステレオタイプでなければ気が済まないと思う習性が日本人にはあると思う。
▲25 ▼3
=+=+=+=+=
墨田区本所付近に住んでいた曾祖父母は、関東大震災で焼け出されたときの教訓で「空襲が来たら荷物を持たずに身一つで人の行かない方に逃げる」と決めていて、取り決めもへったくれも関係なく勝手に逃げて、命を拾っています。子供が独立して二人住まい、かつ動く体力があったからでしょうが、近隣の人達と一緒に避難していたら……どうだったんでしょうね。
▲6 ▼0
=+=+=+=+=
他県ですが、うちの親戚が住んでいた町内はみんな逃げてしまいました。これは責められません。 空襲の翌日は記事のように焼死体や重傷者が目に入るので、見えないようにうつむいて歩いたそうです。原爆や空襲の絵で、人々はうなだれています。悲しいだけではなくて、こんな事情もありました。
▲40 ▼1
=+=+=+=+=
20年前くらいに戦争体験を少し話してくれた人によると 自分は10歳くらいの少年だったけど、落ちてきた焼夷弾を拾って水を貯めてあるバケツのような所に入れてなるべく沢山火を消すようにしたと。しかし結果的に焼け石に水だったんだろうと自分は思いました。 本人は、必死だった。子供でもそんな事をやらなければならなかったんだと言っていたけれど。
▲10 ▼0
=+=+=+=+=
日本人の本質はあまり変わっていない気がします 日中戦争を始めた時も真珠湾攻撃の時も海の向こうの出来事で、内地の日本人はまるで他人事のように勇ましいことばかり言っていたらしい
軍部や政治家だけでなく多くの国民が戦争に突き進むことに賛成または黙認したのが現実 女性は発言権を認められなかった時代でもあった その過ちを繰り返さぬように、男女貧富問わず投票できるように先人が必死の想いで選挙制度を変えたのだ だが現在、国政選挙で棄権者が多く投票率が半分にもならない状況は、再び政権が何をしても賛成または黙認という意思表示になっている いくらネットで愚痴っても政権党が数で押し切りどんな法律でも作れる状況は非常にリスキー 「国民は北中露脅威論で黙り込むだろう」などと思わせてはいけない
▲7 ▼0
=+=+=+=+=
同調圧力、なんだろうか?ちょっと違くない?法律で決まってて、隣組の監視制度や罰則まであったんじゃ、「同調圧力」では済まないと思うけど…
それだけ揃ってても、焼夷弾の消えない炎を目の当たりにした際には「あ、無理だから逃げよう」と考えて逃げ出した人たちも大勢いたってことは、
要は、当時の市政の人たちもただ盲目的に消すと信じてた人しかいなかったなんてことはなくて、そこかしから伝わってくる空襲の実像から(無理なら逃げる…)と腹の中では決めてたんじゃないかな?
当時は今よりずっと情報源は少ない社会だから、ある面で統制されてたように外からは映っていたとしても、情報が限られてるからこそ案外内面的には「自分の目で見て感じたことで判断する」って面も、今の人より強かったんじゃないかな?
情報の洪水に慣らされてる今の人の方が判断は鈍そうに思う。
▲11 ▼12
=+=+=+=+=
記事を読み、当時空襲に遭われた方々の言葉に息を飲む思いがした。 自分も含めて現代の日本人にはリアルに想像出来ない様な惨状だったのだと思います。
当時、日本には木造家屋が多い事を知ったアメリカ軍は焼夷弾を大量に投下して街を焼き払い、おびただしい数の犠牲者が出ました。
戦後の極東軍事裁判にて連合国側は「平和に対する罪」「人道に対する罪」という戦争中には無かった事後法により日本の政治家、軍人を裁こうとしました。
日本側弁護人となったアメリカ陸軍少佐は「戦争中には無かった法にて戦争責任の罪を裁く事は出来ない。 人道に対する罪と言うのなら、原爆投下を命じた者は誰か。その者の名(大統領)をここで述べる事も出来る。無差別爆撃をした国はどこか」 とこの裁判の矛盾を真っ向から追求。
アメリカでは今も立派な弁護士として名を残しています。
▲6 ▼0
=+=+=+=+=
こういう記事を読むと、一般市民はただただ軍部の圧力によって起こされた戦争の被害者だと思われがちだけど、実際は一般市民たちも戦争に、特に日中戦争なんかには「バスに乗り遅れるな」的なスローガンに乗って、それこそ同調圧力的な雰囲気で賛同していたことを忘れてはいけない。
▲10 ▼0
=+=+=+=+=
100歳の爺さんが、『仕事から帰る途中に電車の中から近くの空港が空襲にあっているのを見た。ボーボー燃えてたけど、夜だったから綺麗だった。当時はこんな事口が裂けても言えんかったけど、今はいい時代やな。』って、笑って言ってた。
その爺さんも今年で103歳。ひ孫に文句言うくらいまだまだ元気です。
▲30 ▼1
=+=+=+=+=
当時小学5年生だった父は、福井の海岸沿いに住んでいました。 福井大空襲の夜、見たこともない大きな飛行機の大群を見てそりゃ勝てないわと、うちら松の木の根を掘って油にするんだとか言われて毎日掘ってるのに、あんな大きな飛行機が大群でガンガン焼夷弾やら爆弾落として、そう思ったそうです。
▲7 ▼0
=+=+=+=+=
「空襲を受けた場合、実害そのものはたいしたものではない。戦争継続意思の破綻になるのが、もっとも恐ろしい」 日本諸都市への空襲と並べて見ると無知・冷酷に感じるが、1941年当時なら実はそうおかしなことを言っていない。
1941年までの実例としてはスペイン内戦(ゲルニカ)、重慶への渡洋爆撃、バトルオブブリテンなどがある。だいたいどれも爆撃機の性能が貧弱で効果に乏しく、爆撃機の被害ばかりが大きい作戦。 第一なぜこんな無意味な(敵軍にダメージを与えられない)作戦が行われたかというと戦間期の著作「制空」で民間人の被害=降伏が得られると説かれこれが流行したから。 そしてやってみると降伏した実例はなく、しかし航空関係者にとってこの理論は魅力的であり続けた。それが「実害は大したことない(事実)」「戦争継続意志の破綻が恐ろしい(理論への期待・恐怖)」という矛盾したような見解に表れている。
▲0 ▼2
=+=+=+=+=
父も父の兄弟も最後まで東京大空襲を語らなかった。
「その日の東京を知っていそうな人」たとえば 築地の雀荘を経営しているおばあちゃんなどと話すチャンスがあると
東京大空襲のことをさりげなくたずねてみた時期があったけれど 誰も語ってくれなかった。
こちらの意向を納得してもらったうえでないと 気軽には話してもらえそうになかった。
東京は人口が多いし東京出身の舞台俳優やテレビスターたちのなかには 「その日のこと」をメディアでしゃべっている人もいたけれど
彼らも 自分たちが伝えなくては誰も口を開かないという使命感から 話していたのかもしれない、とも思う。 テレビドラマや映画のなかでは東京大空襲を描くこともあるから 放送業界内では「その日の実際の悲劇の内容」は 知識として蓄積されていたのかもしれないしね。
戦争でひどい目にあった土地では人々の口は重く 戦争反対を心に誓っている人が多い。
▲37 ▼3
=+=+=+=+=
ロンドンではナチスの空爆から市民を守る為、「避難用防空壕として地下鉄」を使ったが、日本では「地下鉄駅構内への立ち入り、避難での使用は禁止」とされた。
東京大空襲時、制空権を完全に奪った米軍は「明日、この地域は空襲を行うので、君たち市民は工業地帯から立ち退きなさい」との「空襲警告宣伝ビラ(伝単)」までB29からばらまいて空襲地域を予告。
だが、「逃げるなんてとんでもない。焼夷弾を消せ」と隣組でお互いを監視。 この防空法の為、疎開できず、どれほどの庶民が亡くなった事か。
「逃げる者は非国民」とのかけ声の中、日本人は新型焼夷弾に火消し棒で立ち向かった。
東條首相は「敵機を撃ち落とすのは、兵器ではなく精神力である」とまで、のたまった。
今も「敵基地攻撃能力をシェルターより優先すべきだ!」とのコメント多し。「戦時に見られた攘夷の気持ち」は健在である。
▲7 ▼1
=+=+=+=+=
戦争当事の空襲が激しく成り地方都市にも空襲がありましたが当時の事は親世代からの話しを良く聴きました。当事は隣組制度があり見張り合う制度で怪しい人や行動の人は憲兵隊や特別警察官に報告しないと刑罰に処されました。人が信じられ無い時代です。戦争に成ると人間性は無く成ります。多分今も同じ様に成ります。共産主義国や社会主義国や権力主義国は同じです。
▲10 ▼1
=+=+=+=+=
こういう世の中、人をこの様な選択肢に巻き込む様な戦争をさせたのがアメリカ、日本に対してここまでの虐殺や原爆を落としているのがアメリカである。戦争とはこういうものなのかと再認識される。 日本も他国へこのような事をしたかもしれない。 お互いに反省して今後戦争なんて誰も喜ばない事は起こしてはならない。日本国近くの国は日本を集中的に非難するが日本の国民がこのような事があった事に対してなんとも思わないのか?それを理解して非難するのかを教えてほしい
▲2 ▼3
=+=+=+=+=
>空襲を受けた場合、実害そのものはたいしたものではない。戦争継続意思の破綻になるのが、もっとも恐ろしい
>焼夷弾も心掛けと準備次第で容易に火災とならずに消し止め得る
>火の中に市民を突撃させると、そういう性格に末期の方ではなっていった
本気なのかという発言、恐ろしい精神世界ですね。(° ° )
>意識はあるんだろうね。あるんだろうけども、表には出せない。
>みんながお互いを監視し合って
>逃げると殺すぞと(言われて)
>行く手を阻む人たちに向かって、尾股さんの父親が日本刀を振りかざして、何とか逃げた
>命を繋いだのは周りの目を振り切る勇気だった。
同調圧力ですか。今もありますよね。怖いですね。
▲0 ▼1
=+=+=+=+=
現代における日本人の集団主義って、本当に戦中に軍国主義思想の中でガッツリ作られてしまって、戦後の学校教育においても集団主義から脱却出来なかった。もしくはさせなかった。そりゃ90年代くらいまでは皆んな一丸となって仕事頑張って経済大国になったわけだけど、日本は今、衰退してきていますよね?それは日本の集団主義が原因だと思う。同調圧力で出る杭は打ちまくるわ、みんな右向け右で一度はみ出すと戻りにくい社会。もう集団主義っていうのは古いから、学校教育から根本的に変えるべきだと思う。
▲9 ▼0
=+=+=+=+=
現代における同調圧力というものは、戦争における空襲の時のようなはっきりしたものではなく巧妙化している部分があると思います。 そこへ手を貸しているのがTBSをはじめとした大手メディアではないでしょうか。いわゆる偏向報道とは、ステルスマーケティングのようにステルスな同調圧力の醸成だと思います。 外国人犯罪に対する報道であったり、宗教や権力に対する忖度であったりと。
▲70 ▼38
=+=+=+=+=
こういうところが日本の悪いところ。庶民は命より同調、上層部は国民の命よりメンツ。はっきり言って当時の日本は戦争に負けたと言うよりは自滅したというほうが近い。もっと正しい責任感と冷静な決断力があれば、勝てはしなくとも遥かに少ない犠牲で戦争を終わらせられたはずだ。しかもこの悪癖は今もってこの国を疲弊させ続けており、無責任に搾取に狂奔する政権に下は盲目的に従うばかり。せっかくの貴重な証言をまさに今生かせなければ、遠からず悲惨な歴史は繰り返されるだろう。
▲4 ▼1
=+=+=+=+=
同調圧力もあると思うが、何より決定打となっていたのは防空法で消火活動を義務化していたことだと思う。それに加えて今以上に隣近所の繋がりが強かったのでお互いに助け合うという意識が必要以上にあり、逃げることは仲間を見捨てると同義になってしまうにに加えて法律違反という思考があったんじゃないかと俺は推測する。 時代は経ても日本人の考えは変わらない。平成・令和は日本でたまたま戦争が起こらなかっただけで、新型コロナ流行時を思い出しても回覧板で罹患者の名前が回ってきたり、罹患者と家族の名前をビラ刷りして町中にばら撒かれた例もある。更に、他者に対して必要以上に執着した結果、中には暴力事件に発展した例もあった。そうした考えは戦時中のこうした考えと何一つ変わらない。 今の時代、同調圧力に流されやすいのは何も考えない人。なぜその行動なのかを分からないまま動く人であろう。
▲5 ▼0
=+=+=+=+=
戦前の日本では主権は天皇にあり国民はすべて臣下・臣民の位置づけだった。それでも一部の人間しか「臣」(例えば豊臣秀吉や藤原氏は「臣」)とは呼ばれなかった過去から比べれば庶民は人間扱いされていたはずだったのだが。大正・昭和初期の事を知ると、天皇自身よりも取り巻き連中が好き勝手をやっていた印象がある。天皇は神輿にされていただけ。 ただ、現代日本では天皇と皇族に対して問題意識がなさすぎる。鎌倉幕府の成立以降、天皇が表舞台に出た時期には日本は対外的に侵略的になる。秀吉は関白・太政大臣であり政府のトップは天皇。明治~昭和初期も同じ。天皇の一族の源流は中国・アジア大陸にあったあかしだと思う。 天皇を人間に引きずり下ろし、主権をはく奪し現代日本の基礎をつくったアメリカに対する感謝の念が薄れているのは少し不安。アメリカが変質しかけている今、トランプのやっていることにもっと不信の念を向けても良いと思う。
▲2 ▼1
=+=+=+=+=
ニュースの趣旨とは違うが、アメリカの日本への原爆投下は世界が知るところですが、日本各地を空から、海から爆撃して多くの民間人を殺した事実をアメリカ人はじめ世界の人たちは知っているのでしょうか? そのアメリカが今は貿易関税で世界経済を混乱させている。 アメリカの横暴さは昔も今も変わっていない。
▲12 ▼2
=+=+=+=+=
同調圧力といえば、同じようにコロナワクチンも 総括して欲しいですね。
打つのが当たり前、打たなきゃ非国民くらいの風潮と、 空襲の際の命を張った火消しが当たり前という 当時の空気のどこに違いがあるんでしょうか?
選択の自由を否応なく奪われそうになる という点では変わりないと思います。
▲176 ▼64
=+=+=+=+=
東京ではないですが空襲の回顧録をちょうど読んでいました 各家庭ひとりを残して防空壕へ避難との御触れがあったようです それと焼夷弾・クラスター弾の危険性を自治体は周知させなかったとあります。 理由はやはり消火させるという名目だそうです。
▲6 ▼0
=+=+=+=+=
キャスターの田原総一朗氏も当時空襲を体験しているが 子供世代は大本営発表を一身に浴びているためこの同調圧力の側だったと 当時の意識を振り返っていた 悪名高いインパール作戦も反対する声に”空気”が作用して実行に移されたと言われる いつの世も人を狂気に陥らせるのは”振る舞いが許される空気”という曖昧なものだと思う
▲14 ▼0
=+=+=+=+=
3.11で原発放射線漏れ判明時、直ちに知り合いの外国人が西日本に退避していた。集団ではなく個を重視する人が最終的には生き残るのかな。いい悪いは別として。自分の周りでもあの人は逃げそうだなって人が思い当たるが、その人が人間的に優れて見えるかというと…。生き残るべき人と、生き残る人は全く違うんだろうなぁ。
▲4 ▼1
=+=+=+=+=
敢て批判を恐れずに書けば、戦時下、交戦状態の米軍が、軍事施設ではない市街地に無差別に焼夷弾を落したという状況が前提条件としてあるわけで、隣組が組織されていた市民が消火活動を行ったことは、単なる同調圧力だろうか、それ以前の前提があったように思われる。 まあ、これを同調圧力ととらえるのが現世代の主流の考え方であるとするならば、憲法改正なんてやったとしても日本が戦えるわけはないのだが。
▲4 ▼7
=+=+=+=+=
戦争は80年前かもしれないが、今もウクライナで戦争が起きている。 21世紀だというのに消耗戦だ。
ロシアは日本とウクライナで最後までどちらに侵攻しようか迷っていたとは有名な話だ。戦争は過去の話ではない。今現実に日本に起きうることが。
戦争を避けるには抑止力が重要だ。 ウクライナはブタペスト合意で核を放棄してしまったためにロシアに侵略されてしまった。日本はロシア、中国、北朝鮮と核保有国に囲まれながら未だに核アレルギーを持っている。 日本も核武装するべきではないかな?
日本は法律ですらない閣議決定に過ぎない非核三原則は放棄して核武装を勧めるべきだと思う。米国は核共有について再三日本に要請を行ってきた。安倍総理は暗殺直前に核共有議論を本格化させようとしていたが残念ながら暗殺されてしまった。
米軍は日本に核攻撃があった場合にはグアムに撤退するだろう。 日本を守れるには日本人しかいない。
▲42 ▼36
=+=+=+=+=
有事の同調圧力は現代でも全く同じでしょ。
阪神淡路の火災でも、東北大震災の津波や火災でもあったし、コロナの20年、21年時の「県を跨ぐな、店を開くな」の時もヤバかったじゃん。もう忘れたの?
災害のほうは同調圧力に巻き込まれた人は死んでるし、検証できないからはっきりとわからないだけで有事になれば日本の国民性はただの凶気だよ。
だからこそこれから来る南海トラフの対策は富裕層ほど「自宅避難」が前提になる。有事のクソな流れは容易に想像できるからね。
もちろん美談もあるがそれゆえに本当にひどい部分は語られないどころか正に「死人に口なし」だからね。
▲15 ▼3
=+=+=+=+=
政治が愚かだと国民を虐げることになるのは、世界史をみても自明の理なんですが、この近代史をみても為政者がいかに愚かな独断と偏見をもった補佐官達からの意見を鵜呑みにしてきたのですよね。 今の世界をみても、日本の政治をみても、愛国という意味合いを履き違えている気がしてならないのですがね! 戦後という言葉が語り継がれる事を祈るだけしか庶民はできません。 しかしながら、選挙権という権利を与えられていますから、これを全国民が行使しないと愚かな政を容認することになりますよね!
▲7 ▼0
=+=+=+=+=
本丸に通告しても国民に通達されぬ事を知っていて、アメリカは沖縄でも空襲でも事前にビラを撒いていた。軍は回収を命じ、信じるなと威圧したと本で読んだ。焼夷弾の恐ろしさは熱もあるが、地帯が一瞬で火の海になるため、周囲の酸素が急激に奪われて、窒息するらしい。火の手から隠れても呼吸出来ずに死んでしまう。恐ろしい。
▲0 ▼0
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防空法の理論で言えば、燃えている焼夷弾は手袋で掴んで外へ投げよ!なんてあり得ない事も普通に指南されていた。 原爆対策では、昭和20年8月9日付けで、軍服程度の衣服を着用していれば火傷の心配はない。防空頭巾および手袋を着用しておれば手や足を完全に火傷から保護することが出来る、新型爆弾もさほど怖れることはない。と言い切っている。 原爆の被害状況は、よく知られているかと思いますが、当時は完全に嘘をついて被害状況の隠蔽をしていますね。 隣組は、住民通しに相互監視をさせて、憲兵等の負担を減らし、住民をコントロールしやすいと言う軍部の利点があります。現代でも、日本でも隣組に似たような組織が沢山あります。相互監視する事で治安を維持する事や、統制を図る目的に有効な手段なので、指示者が悪く無ければ良いと思う。 軍部は戦争で勝つ事が目標なので、末端の事迄考え無いでしょう。戦争中のロシア軍が良い例かと思います。
▲0 ▼0
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同調圧力も勿論だが、それが正しいと本気で信じて誇りをもって亡くなった方も多かったですよね。 お国のために命を落とした人に申し訳なくて多くを語らなかった方が、今だからこそ言えることもあると思うんです。どんどん聞いて本にまとめてほしい。可能な限り原文のままで。
▲6 ▼1
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地方在住者です 「隣組」は名前を変えて、今でも残っています。
自治会組織の同調圧力も強い。幾つも「役」があって、次々に回ってきます。神社の役とか交通安全協会の役とかは疑問です。神社なら氏子がやればいいし、安協は有志のボランティアでしょう? 物言えば唇寒し、です。建設的な提言しても、陰でボロクソに言われ、挨拶もしてもらえなくなります。 誰か独裁者がいるワケではなく、「みんな一緒」じゃなきゃ許さないのでしょう。お互いに監視、牽制し合って、最悪の場合、みんなで滅ぶのですね。
▲18 ▼1
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どっちみち逃げ場なんてないから その場にいることが被害者数を増やさないことになったし 防空壕を作って隠れるのが1番効率だった。
あと、焼夷弾のガソリンが点火したものに水なんて効かない そんなことはわかっているが まずそれ以前に防空壕に隠れることだったはず。
アメリカ軍は、まず爆撃する予定の地域の周囲に爆弾を落とし、 その内側に住んでいる人たちの逃げ道をなくしておいてから絨毯爆撃を行った。 それによって何万人死者が出るかまで最初から予定してた。 つまり、逃げようと考えることが無駄だったのだ。
日本の軍人は敵の目的をわかっていて的確に指示したと思う。
▲5 ▼15
=+=+=+=+=
コロナの初期の頃を思い出すと同調圧力の怖さがよく分かる、それでも戦争とは比べものにならないだろうけど みんなが「我慢、自粛」と言って、他人の行動を縛ろうとしていた 次の戦争がないことを祈るけど、また同じことを繰り返しそう
▲36 ▼4
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うちの亡くなった父も、神戸の大空襲に遭った。 当時中学生で、ちょうど火垂るの墓の主人公と同じぐらい。 子どもだったので、逃げるなという同調圧力はなく、おばあさんを背負って、燃える町をひたすら逃げ惑ったと聞いた。 学徒動員先でも、たまに米軍の戦闘機が飛んできて気まぐれに機銃掃射をして、同級生が真後ろで撃たれて亡くなったり、休暇で三宮周辺を歩いているときにも機銃を撃ってきて、下水道に逃げ込んだりしたらしい。
戦争前に親は亡くなってて、おばあさんを遠い親戚の家に預けた後は孤児のようになり、食糧事情も悪く、いつもお腹を壊していて、戦後は馬の餌を盗って食べて命をつないだと言っていた。 とうとう結核になって、にっちもさっちもいかなくなった時に、伯母さんが探し当ててくれて、お金を出してくれて病院に入れてくれて助かった、と言ってた。 だから、火垂るの墓は思い出すので、見たくない、とよく言ってた。
▲11 ▼0
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私の母が空襲を体験しているが、親戚のおじさんがやってきて、強制的に逃がしてくれたので助かったそうです(後で家に戻ると、焼けていたそうです)。普段は、借金つくったりしてどうしようもない人だったらしいですが、そういう人だから、同調圧力から自由だったのでしょう。
▲6 ▼0
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こちらの記事を読まれている多くの方 先人たちの苦労があって、今があることに感謝しております
ただ、隣人や集落、町内での人付き合いが薄れている現代でも、 ネットでの繋がりがあるのか、同調圧力は変わっておりませんね
全く無意味どころか、体に時限爆弾を埋め込むワクチン接種で垣間見ました
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Youtubeを見ていると、空襲や焼夷弾は大したことない、消火できるし、恐るるに足らないっていう啓蒙ソングが出てきます。また、隣組や町内の言動や行動を互いに監視し、憲兵や組長や国防婦人会に密告する相互監視システムがあったそうです。しかし、300~500機のB29から投下された焼夷弾に対抗できるものはないです。戦争指導者は逃げるくせに小国民には持ち場を離れない教育や命令をしました。多くの犠牲者が出たのはそのせいです。日本も将来的に国家総動員法みたいなものが出てこないように十分、政治を監視していく必要があります。
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この記事を読んで今の官僚政治も同じだなって思いました。 とにかく税金を納めろ、納めろって、生活が苦しくて子ども食堂があちこちにできている状態を全く意識もせずに税金を取ることだけに奔走して国民に納税を強いている。 これって命の緊急差は違うけど戦前戦中とよく似ていませんか?
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