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空襲時に火を消すことを義務付けた「防空法」により、空襲を経験した人々が逃げずに火を消そうとしました。

しかし、焼夷弾の火は消しにくく、現代にも通じる「同調圧力」が人々を追い込んだことが明らかになりました。

当時の証言や実験を通して、空襲時の状況が詳しく紹介されました。

(要約)

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戦時中、日本各地で行われた空襲。実は空襲をまえに、あえて“逃げずに”家に残った人たちが数多くいた。人々をそうさせたのは「火を消せ」と国民に強いたある法律だった。しかし「油の火の玉」と当時の人たちが形容する焼夷弾の炎は、そもそも消せるようなものだったのか?当時の焼夷弾の炎を実験で再現した。そして、空襲を経験した人たちの証言を集めると、市民が“逃げなかった”背景には、現代にも通じる“同調圧力”があったことが浮かび上がってきた。 

(TBS報道局社会部 平木場 大器) 

 

東京大空襲で焼けた賛育会病院の旧本館 

 

東京・墨田区の病院。 

去年、初めて撮影された部屋がある。 

 

すすで覆われた壁や天井… 

80年前の東京大空襲で焼かれ、黒焦げのままで遺されていた。 

当時、病院周辺は焼け野原となったが、鉄筋コンクリート造りだった病院は建物が残った。 

焼け焦げた病院の大部分は修復されたが、屋上にあったこの小部屋だけは、当時の状態のままになっていたのだ。 

 

9歳の時に東京大空襲を経験した豊田照夫さん(89) 

 

1945年3月10日の東京大空襲。 

1600トン以上の焼夷弾で街は炎に包まれた。 

一晩でおよそ10万もの命が奪われた。 

 

豊田照夫さん(89)は当時住んでいた墨田区の自宅で東京大空襲を経験した。 

 

空襲時に火に囲まれながら逃げる様子の絵 

 

豊田さんが描いた当時の様子の絵では、建物の窓から火が吹き出している。 

 

●東京大空襲を経験 豊田照夫さん(89) 

「廊下は風と吹雪のように火の粉が来ているんですよ。窓が全部真っ赤なんですよ。外の家が燃えている」 

 

地下室に避難したという豊田さん。 

地下室から見た光景が、今も脳裏に焼き付いて離れない。 

 

「(出入り口に)マンホールみたいに小さい扉があって、それが開いたのを下から見たらキレイなお月さんが、真っ赤なお月さん…」 

「外の家が燃えている。それがその部屋に写って天井も真っ赤に見えた。それがマンホールの穴から月に見えた」 

 

マンホールのような丸い扉の先に見えたのは、燃えさかる周囲の炎を反射した天井だった。それが丸い形に切り取られ、真っ赤な満月のように見えたのだ。 

 

当時9歳だった豊田さんは、当初一人で地下室に避難しなければならなかった。 

母親が家に残ったからだ。 

 

●東京大空襲を経験 豊田照夫さん(89) 

「焼夷弾が落ちたりするとそういうのを消したりする役目があって、働ける人はそういうものをやらないといけない。(火を消しに)行かないよっていうそんなことは、まかり通らない世の中なんですよ」 

 

その後母親は、近所の人に、ただならぬ事態だと声をかけられてやっと、豊田さんのところへ来たという。 

 

●東京大空襲を経験 豊田照夫さん(89) 

「(近所に)関東大震災を経験した人がいたんですよ。その人が『関東大震災よりもひどいから、先に私は避難します』。うちのお袋はそれを聞いて、そんなにひどいんだ 

ったら迎えに行かなきゃってなって私を迎えに来た」 

 

ようやく駆けつけた母親と一緒に逃げるも、火に囲まれてしまった。 

 

 

逃げる途中で水をかぶる様子の絵 

 

●東京大空襲を経験 豊田照夫さん(89) 

「既に火の粉なんかもずっと舞っているから、だから上から(水を)かぶれと言って、うちのおふくろもかぶってましたけど」 

 

豊田さんと母親は近くの公園に避難し、生き延びることができた。 

しかし、街には恐ろしい光景が広がっていた。 

 

●東京大空襲を経験 豊田照夫さん(89) 

「道路の真ん中で、自動車が逆さまになってひっくり返ってる。路地のところで人がハイハイする人形のような格好で炭になっている。上着なんか全部燃えちゃってなくなって、炭になるというのは異様なもので」 

 

防空法を広めるためのポスター 

 

火を消さなければならないことは、実は「防空法」という法律で決まっていた。 

防空法を広めるためのポスターには威勢の良い言葉が躍る。 

「必勝を期して戦(たたか)へ」。 

「焼夷弾の防火は最初の30秒が最も大切」 

防空法では、逃げることが禁じられ、消火活動が義務づけられていたうえ、罰則まであったのだ。 

 

防空法に詳しい早稲田大学法学学術院・水島朝穂名誉教授 

 

専門家は防空法が作られた目的は「市民を戦争に参加させるため」だと語る。 

 

●早稲田大学 水島朝穂名誉教授 

「市民がどこにいても焼夷弾から逃げないで、そこにとどまって火を消すことが前線における兵士たちの戦いと同じなんだと。火の中に市民を突撃させると、そういう性格に末期の方ではなっていったように思います」 

 

陸軍の幹部は国会でこう述べている。 

 

●佐藤賢了陸軍省軍務局軍務課長(1941年11月の衆議院の防空法改正委員会での発言) 

「空襲を受けた場合、実害そのものはたいしたものではない。戦争継続意思の破綻になるのが、もっとも恐ろしい」 

 

また、焼夷弾の炎は「簡単に消せる」と盛んに伝えられた。 

国が各家庭に配布した、空襲への備えなどが記載された冊子にはこう書かれている。 

 

●時局防空必携 

「焼夷弾も心掛けと準備次第で容易に火災とならずに消し止め得る」 

 

竹と縄で作られた火たたき棒で消火を試みるも消えず 

 

焼夷弾の中にはゼリー状のガソリンが入れられていて、 

火がつくとガソリンが飛び散り、家の壁や柱にへばりついて燃え続けるようになっていた。 

 

これに対して、当時は焼夷弾の火は、バケツの水、竹や縄でできた火たたき棒などで消せるとされていた。 

 

当時の消し方で、“焼夷弾の火”は消せるのか?専門家監修のもと、実験を行った。 

木の板に布をまきつけてガソリンを染み込ませ、焼夷弾の中身が床などにへばりついた状況を再現。 

 

点火すると瞬く間に激しく燃え上がった火。 

 

資料を元に作った火たたき棒を水につけ、叩いたり、こすったり。 

3分以上、巻きつけた布がちぎれるほど繰り返すも、火を完全に消し切ることはできなかった。 

 

 

バケツの水でも消火を試みるが消えず 

 

続いて、バケツの水をかけてみるが、計8回かけても消えなかった。 

 

●火災に詳しい 東京理科大・松山賢教授 

「ガソリン自体が水を弾いてしまうことが起こりますので、水をかけて消火するというのは、消せる状態には程遠いんじゃないかなと。(ガソリンを)固めたことによって、なかなか消えにくいというところにプラスされて、継続的な燃焼が起こり得る」 

 

水に浸っても燃え続ける火 

 

ゼリー状のガソリンに見立てた布は、水に浸ってもなお燃え続けていた。 

 

●実験を監修 東京理科大・桑名一徳教授 

「ガソリンは蒸発した気体に火がつくことで燃えるんですけども、その蒸気が色々なところにありますから、火を完全に消すことができれば消える。しかし、火が少しでも残っているとそこから蒸気に燃え移って燃え続けますので、いつまで経っても火を消すことができない」 

 

実際に焼夷弾の火を消そうとした、小林暢夫さん(94)。 

”油の火の玉”をまえに、「何をしても消えなかった」と証言した。 

 

当時のバケツリレーのやり方を記者に教える小林さん 

 

●空襲で消火活動を経験 小林暢夫さん(94) 

「バケツリレーをして水をかけて、火たたき棒で消す。でも消えない。油脂焼夷弾だから。防空演習をやっていたのとは全く違う。油の火の玉だから。古い木造家屋の塀なんかに当たると、すぐにバンって燃え出す」「本当に怖さだね。何やったって消えないんだから」 

 

隣組の集合写真 

 

消えない炎。 

それでも人々が火を消そうとした理由を、小林さんが語ってくれた。 

 

●空襲で消火活動を経験 小林暢夫さん(94) 

「何事か危険な状態になれば、自分で真っ先に逃げようというそういう意識はあるんだろうね。あるんだろうけども、表には出せない。隣組は。みんなで共同体だから。それは戦争中、特にそうさせられたわけだ」 

 

「隣組」。お互いを助け合う地域の組織で、配給や防空訓練などの役割があった。 

しかし、その助け合いの結びつきが、逆に“同調圧力”を生んだと専門家は見ている。 

 

当時のバケツリレーの様子 

 

●早稲田大学 水島朝穂名誉教授 

「法律がただ禁止しているだけじゃない。隣組とか自治会とか生活圏における社会的な圧力、これが構造的に働いて人々はいわば“逃げなかった”」 

 

 

そして、もし現代に「防空法」のようなものがあったら―。 

「隣組」の役割が、現代では「SNS」に置き換わって、市民たちが空気に流されて行動してしまうのではないかと指摘する。 

 

●早稲田大学 水島朝穂名誉教授 

「SNSが当時あったら、うちのお父さん一生懸命火を消しているのに『あの家のお父さん子供を連れて逃げてるよ』というのを動画で撮って晒したらどういうことになります?大変なことでしょう。(当時は)SNSというツールがなかっただけで、もし今同じような仕組みができて、国家が『市民はそこに留まって協力しないと駄目だぞ』みたいなことを、仮にやったとしたら。みんながお互いを監視し合って『あの家逃げたぞ』とやって晒したりすることが起きたら。同じような機能を果たすんじゃないでしょうか」 

 

“同調圧力”が漂う状況のなかで、 

人々は逃げられなかったのではなく、逃げなかったのだ。 

 

八王子空襲で家族全員で逃げた尾股重利さん 

 

しかし、終戦間際には、防空法や同調圧力に抗う人もいた。 

終戦の2週間前。450人が亡くなった八王子空襲。 

 

尾股重利さん(2015年の取材時84)は、空襲が始まると家族全員で避難を始めた。 

八王子市内が焼夷弾の炎に包まれる中、市外へと繋がる橋を渡ろうとした。 

 

●尾股重利さん(取材時84) 

「浅川橋を渡ろうとしたら群衆がいっぱい集まっちゃって、行けなくなっちゃって。『みんな逃げるな、火を消せ』って言うんですよ。でもね、あれ火なんか消せる状態じゃないです。バケツで消えるような火なんかじゃないですよ。皆さん右往左往どっち行くか、逃げると殺すぞと(言われて)舞い上がっていた」 

  

「火を消せ」と行く手を阻む人たちに向かって、尾股さんの父親が日本刀を振りかざして、何とか逃げたという。 

 

●尾股重利さん(取材時84) 

「科学的な炎だから水ぐらいで消えるものじゃないですよ。それで油を含んで噴出すんだからもうたまったもんじゃない。非現実的な話。命を生きながらえる方が大切だと思った。火を消すより。わが命を守るのが第一だと思いましたね」 

 

命を繋いだのは周りの目を振り切る勇気だった。 

 

※この記事は、JNN/TBSとYahoo!ニュースによる戦後80年プロジェクト「 

 

」の共同連携企画です。記事で紹介した防空法や東京大空襲についての情報を募集しています。心当たりのある方は「戦後80年 

 

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