( 284564 )  2025/04/20 07:04:12  
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経済アナリストの森永卓郎氏が亡くなり、息子の康平が彼の残した問題を受け継いでいる。

記事では、政府がマクロとミクロの視点を混同している問題について取り上げられており、「マクロ」の視点では弱者を守り、企業や個人の「ミクロ」の視点では効率を追求すべきだとしている。

しかし、日本の政治家はこの違いを理解できていないと指摘されており、政策決定に成功した企業経営者がマクロ経済政策に関与していることが問題視されている。

(要約)

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Photo by gettyimages 

 

今年1月28日、経済アナリストの森永卓郎氏が死去した。原発不明がんと闘いながらも、亡くなる直前までメディアに出演し続け、世界経済の行方に多くの警鐘を鳴らしてきた。 

 

「AIバブルは崩壊する…」「日経平均はこれから大暴落する…」 

 

彼がこう語った背景には一体何があるのか。そして残された私たちは、この先行き不透明な社会をどう乗り越えていくべきなのか。 

 

「闘う経済評論家」として世の中の歪に注目する息子の康平が、父・卓郎の「最後の問題提起」を真っ向から受け止め、私たちのこれからの人生に必要な「解」を紡いでいくーー。 

 

『この国でそれでも生きていく人たちへ』より一部抜粋・再編集してお届けする。 

 

『この国でそれでも生きていく人たちへ』連載第61回 

 

なぜ政府はそうした基本的な考え方から間違ってしまうのか。その一つの理由として、「マクロとミクロの混同」を指摘しておきたい。 

 

財政政策や金融政策を論じる際には、「できる限り多くの国民を救おう」とか、「社会的弱者に福祉を提供しよう」といった国全体を俯瞰した「マクロ」の視点が必要になってくる。 

 

一方、「ミクロ」の議論はまた別だ。業績不振に苦しむ企業が社員をリストラしたり、不採算事業から撤退する、というのはミクロなら正しい。 

 

国家における「マクロ」の政策論では弱者を救う方策を考えるべきだが、企業や個人といった「ミクロ」の世界では資金力や物量の制約の下で、無駄を削減したり、競争を肯定したりするほうがうまくいくわけだ。 

 

日本ではマクロとミクロが混同されがちだ。「マクロ」を担う政治家や官僚たちほど「弱肉強食」を肯定する一方、本来「ミクロ」の企業経営者が、競争を避けぬるま湯の労働環境を維持している。 

 

ミクロでは合理性を追求するが、マクロでは弱者にセーフティネットを提供する。と、こうした社会ならみな安心して競争できるので、経済全体も順調に成長していくだろう。 

 

 

ただ、なぜか日本の政治家はマクロとミクロを混同してしまう。いい例が、ビジネスにおいて成功した企業経営者たちを政府の有識者会議に呼び、マクロ経済政策を議論させていることだ。 

 

もちろん、国全体の経済政策を運営する上で、経営者の知見やアイディアも傾聴すべきだが、彼らはあくまで「ミクロ」の世界における成功者だ。本来、マクロ政策を論じるには不適任だろう。時としてミクロの観点からは正解の行動が、マクロの観点からは不正解になるなど、逆転現象が起きることがある。これを「合成の誤謬」と呼ぶ。 

 

政策決定の場に企業経営者を呼べば、「自分の会社がもっと儲かる」という視点が政策に入り込んでしまう。また、「本来、社会の公平性を保つためにやるべき政策」を、「コストがかかる」「効率が悪い」などと言ってやめてしまうことも起きる。日本の政策決定はこんなにも歪んでいるということだ。 

 

森永 卓郎、森永 康平 

 

 

 
 

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