( 305883 )  2025/07/09 02:54:38  
00

元舞妓の桐貴清羽さんは、舞妓の状況を「現代の奴隷」と表現し、舞妓の人権侵害について国連に報告書を提出しました。

彼女は中学卒業後に舞妓となり、性的なハラスメントや未成年での過剰な飲酒、休みの少なさなど厳しい環境での生活を強いられていました。

また、混浴や「旦那さん制度」と呼ばれる性行為の強要につながる慣習も続いていることを明らかにしています。

桐貴さんは、舞妓の文化を愛する一方で、舞妓たちの人権が尊重される改変を求め活動しています。

(要約)

( 305885 )  2025/07/09 02:54:38  
00

舞妓が置かれた状況は「現代の奴隷」と話す。桐貴さん提供 

 

 「舞妓が置かれた状況は『現代の奴隷』です」。元舞妓の桐貴清羽(きりたかきよは)(26)さんは今年、有志の弁護士ら6人と「舞妓と接待文化を考えるネットワーク」を立ち上げ、国連の女性差別撤廃委員会に、舞妓の人権侵害に関する報告書を提出した。舞妓文化の裏で、少女たちは何を強いられていたのか――。桐貴さんに聞いた。 

 

――中学を卒業後、地元を離れて京都の花街で舞妓になりました。 

 

 小学生の頃からジュニアアイドルとして活動し、日本舞踊に出会ってから、それが生き甲斐になっていました。それが中学に入った頃、母の知人で花街に通っている人から「舞妓になったらどう?」と勧められたのがきっかけです。本当は高校に進学して、いつかは自分で舞台をプロデュースしたいという夢がありました。でも、当時の私は世間知らずで、母に勧められたこともあり、「母の期待に応えたい」と思い舞妓の道を選びました。 

 

■こらえるしかありませんでした 

 

――舞妓は「置屋」と呼ばれる場所で共同生活を送ります。契約書などは交わさないのですか? 

 

 置屋には、最初に履歴書を渡すだけです。そもそも契約書はなく、置屋の「お母さん」と面接をして、「お小遣いは出るけど、修行だと思って頑張ってね」と言われたぐらいです。 

 

――舞妓になるまで「仕込み」「見習い」の期間があります。桐貴さんが舞妓としてデビューしたのは、中学を卒業した年の2015年11月、16歳でした。舞妓になってどうでしたか。 

 

 一番驚いたのは、お座敷でのセクハラです。胸やお尻を触られたり、着物の隙間に手を入れられることは日常茶飯事。でも、「何があってもお客さんに逆らってはいけない」と教育されてきたので、こらえるしかありませんでした。 

 

――お座敷ではお酒も飲まされるのですか。 

 

 「仕込み」の時から飲まされました。顔見世での紹介の場で「ほら、お前も飲め」と言われました。本当に驚きましたが、ここでも断ることができないので、「おおきに、いただきます」と言って飲むしかありません。舞妓になってからも、毎晩浴びるほどのお酒を飲まされました。慣れないお酒でヘロヘロになり、ずっと吐いている子もいました。 

 

――お客は未成年と知っていて飲ませていた? 

 

 もちろん知っていたはずです。お座敷遊びはお金がかかるので、お客さんは大企業の役員や裁判官、弁護士、大学教授、政治家など、権力を持った立場のある人たちばかりでした。自民党の現職議員もいました。 

 

■月に5万円 

 

――休みや労働時間はどうでしたか? 

 

 舞妓には月2回の休みがありますが、お仕事が入れば休めず、代休も取れなくて1度も休みがない月もありました。労働時間は、どこからどこまでが勤務かわからない状態です。当時、門限が深夜12時だったので、だいたいその時間に置屋に戻ってきます。寝るのは早くて2時か3時。朝も早く、睡眠は長くて5時間程度です。忙しくて何も考える余裕がなく思考停止の状態になり、自分が何者であるのかも分からなくなってしまいました。 

 

――給与は支払われていましたか。 

 

 お給料ではなく「お小遣い」として月に5万円もらっていました。だけど、そこからおしろいなどの日用品や生理用品など身の回りのものを買うと、手元にはほとんど残りません。 

 

――外部に助けを求めたりできなかったのでしょうか。 

 

 中学を出たばかりの15、16歳なので、そういうことはわかりません。そもそも、お客さんとのトラブルを避けるという名目で携帯電話も持たせてもらえなかったので、外部との連絡も簡単には取れません。誰を信用していいかわかりませんでした。 

 

 

――置屋のお母さんや先輩のお姉さんたちは助けてはくれないのでしょうか? 

 

 最初は優しかったお母さんやお姉さんたちも、私が舞妓になるとがらりと変わりました。弱音を吐けば「根性がない」と叱られ、何をやっても怒られる毎日でした。次第に私自身が悪いんだと思い込むようになり、自分を責め続けるうちに、やがて吃音になりました。 

 

――16年7月に舞妓を辞めました。理由は? 

 

 決定的だったのは「お風呂入り」、つまり混浴です。お客さんと一緒に温泉地などに旅行に行って、タオル一枚巻いてお風呂に入りお客さんの体を洗わされるのです。話には聞いていましたが、冗談だと思っていました。 

 

■「お風呂に一緒に入ろう」 

 

――「お風呂入り」は実質的な「性接待」だと思います。実際にあったのですか? 

 

 ありました。舞妓にデビューして4カ月くらいたった頃です。お客さんから「旅行に行くよ」と誘われ、先輩のお姉さんたちと温泉に行きました。そこで、露天風呂付きの豪華なお部屋に通されると、お客さんが「お風呂に一緒に入ろう」と言ってきました。 

 

 私はどうしても嫌でした。すると一緒に行ったお姉さんが優しい方で、酔ったふりをして騒ぎを起こしてくれたお陰で、なんとかその場は回避できました。けれど、その後も「お風呂入り」の話は続き、次も同じようにうまく逃げられるとは限りません。これ以上、舞妓を続けるのは無理だと悟りました。 

 

――お風呂入りで性被害に遭った舞妓さんもいたのでしょうか。 

 

 はい。混浴で性被害を受け、妊娠し、堕胎させられた舞妓もいます。その人は精神を壊して入退院を繰り返し、今もトラウマに苦しんでいます。 

 

――他にも、古い慣習がありますか。 

 

 中でも、性行為の強要に繋がっているのが「旦那さん制度」です。私は舞妓を続けるのはもう無理だと思い、置屋のお母さんに「辞めたい」と伝えると、違約金として3千万円を請求されました。とても払えないと言うと、代わりに提示されたのが「旦那さん制度」でした。「パトロン」という名目でお客が置屋にお金を払い、身請けされる仕組みです。金額はピンキリで、300万~6千万円ほどで身請けされると聞きました。 

 

――それは「人身売買」で、児童買春・児童ポルノ禁止法違反(児童買春)では。 

 

 そうです。私には3人の旦那さん候補がいたそうですが、その一人が3千万円という支度金を提示していたと聞いています。また、別の候補の一人からは「僕は処女じゃないと嫌なんだ。旦那さんになったら一緒に旅行しようよ」と言われ、ゾッとしました。 

 

■「現代の奴隷」 

 

――どうやって辞めることができたのですか? 

 

 辞めさせられるように仕向けました。反抗的な態度を取って、「こんな子はここに置いておけない」って思われるようにしました。最後は、置屋のお母さんに向かって怒鳴りました。それは絶対にしてはいけない行為だったので、それでようやく辞められました。 

 

――未成年に対する深夜労働や性的接待、さらには人身売買のような実態は、国際的には「奴隷労働」に該当します。 

 

 私は、舞妓が置かれた状況は「現代の奴隷」だと感じています。舞妓はただかわいいだけの「人形」で、人権もなく、人間として扱われてないと思いました。 

 

――現在もそうした慣習は残っているのですか? 

 

 京都には祇園や先斗町など5つの花街がありますが、そのうち3つの花街で「お風呂入り」は継続されていると聞いています。門限は、今は夜の10時に短縮され未成年の飲酒は減っていますが、深夜の接待や飲酒もあります。「旦那さん制度」も続いているといいます。 

 

 

――今年、弁護士らと「舞妓と接待文化を考えるネットワーク」を立ち上げました。 

 

 有志の弁護士たちが集まってくださり、今年の1月には国連の女性差別撤廃委員会に、舞妓の人権侵害に関する報告書を提出しました。花街の閉鎖的な体質が変わり、未来の舞妓さんたちの人権が尊重され、安心して芸に打ち込める環境が整うことにつながればと願っています。 

 

――顔を出して告発することは、非常に勇気のいることだと思います。実際、SNSでは誹謗中傷や殺害予告も受けたと聞きます。それでも声を上げるのはなぜですか。 

 

 私は京都の街を愛していますし、舞妓は京都の花街を支える大事な文化の一つだと思っています。だからこそ、日本舞踊や三味線などお座敷文化が長く続いてほしいと心から願っています。けれど、その文化を守るには、舞妓たちが一人の人間として尊重され、性的接待や人身売買のような構造がなくならなければいけません。後輩たちの未来のためにも、私はこれからも声を上げ続けます。 

 

(AERA編集部・野村昌二) 

 

野村昌二 

 

 

 
 

IMAGE