( 306638 )  2025/07/11 06:35:15  
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日産自動車が台湾の鴻海と電気自動車(EV)での協業を検討中で、中国を低価格EVの輸出拠点とする計画もある。

日産は、4380億円の赤字に転落する見通しで、過去の成功からの転換が必要とされている。

エスピノーサ新社長のもと、EV「リーフ」の新モデルを発表したが、開発速度がライバルに遅れを取っている。

過剰なコストカットや、魅力的な新車の不足が指摘され、他社との協業やM&Aを真剣に考える必要性が強調されている。

日産が未来を切り開くには迅速な意思決定と協力が不可欠である。

(要約)

( 306640 )  2025/07/11 06:35:15  
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Photo:NISSAN 

 

 日産自動車が台湾の鴻海(ホンハイ)精密工業と電気自動車(EV)での協業を検討していると報じられた。また、中国を低価格EVの輸出拠点にする想定もあるという。トランプ関税の逆風も吹きすさぶ中、日産の再生に残された道は、他社との協業しかないだろう。問題は、エスピノーサ新体制がそれを決断できるかだ。(多摩大学特別招聘教授 真壁昭夫) 

 

● 2000億円の赤字転落……なぜ日産は苦しいのか 

 

 日産自動車は6月24日、4〜6月期の連結営業損益が約2000億円の赤字に転落する見通しだと株主総会で明らかにした。この赤字幅は、多くの市場関係者の予想を上回る額だ。追加減産によって、同社の主力工場である追浜工場の稼働率は2割程度に落ち込むとの報道もある。かつて、わが国を代表する自動車メーカーだった日産が苦しんでいる。 

 

 振り返ること1966年、日産はわが国のモータリゼーションを牽引した画期的なモデル「サニー」を投入した。車名を一般公募したこと、「頑張って働いてサニーが欲しい」と思うような庶民の手が届く範囲に価格設定したこともあって、大ヒット車種となった。その後も日産は魅力的なクルマを世に送り出してきた。 

 

 高度経済成長の波に乗り、日産は、世界シェアの拡大を目指して積極投資に打って出た。ところが90年初頭にバブルが崩壊すると、国内での販売台数は減り、業況に陰りが見え始める。財務内容も悪化し、有利子負債は急増した。新車開発体制にもマイナス影響を与え、魅力的なクルマを送り出すことが次第に難しくなっていった。 

 

 99年以降の日産は、再起を期したリバイバルプランの効果もあり、一時的に業績は回復した。新モデルの発表も増えた。一方で、カルロス・ゴーン氏の強烈なコストカットによる負の側面もあり、例えばハイブリッド車の開発では後手に回った。ゴーン氏の負の遺産は複雑に絡まり合い、足元の苦境の要因になっている。 

 

 本年4月にエスピノーサ新社長体制が発足してすぐ、日産は電気自動車(EV)「リーフ」の新モデルを発表した。しかし、いかんせんタイミングが遅過ぎる。 

 

 現体制のままでは自動車業界の厳しい競争で生き残ることはかなり難しいだろう。他社との連携やM&Aの選択肢を含めて、本気で次の一手を考えるべき段階に来ている。 

 

 

● 日産の国内販売台数140万台→47万台に激減 

 

 かつて日産は、消費者が欲しいと思うクルマを世に送り出すことで成長してきた。1955年に発表した、小型乗用車の「ダットサンセダン(110 型)」は、日産が戦後初めて新しい設計を行った4人乗りの乗用車だ。マイナーチェンジを施した112 型は、毎日工業デザイン賞を受賞するなど日産が成長する基礎を築いた。 

 

 1960年代、日産はたくさんのヒット作を生んだ。「スカイライン2000GT」や「シルビア」などスポーツセダンは多くの若者の心をつかんだ。「ブルーバード」は66年の第14回東アフリカサファリラリーで優勝を果たした。スカイライン、シルビア、ブルーバードは当時の一般庶民にとっては、やや価格帯が高く羨望(せんぼう)の的だった。 

 

 一方、66年に出したサニーは、先に述べたように庶民も頑張れば手が届く価格で、わが国のマイカー時代の幕開けを支えたクルマだ。高度成長期にサニーは大衆車としての地位を確立し、日産の成長を牽引した。 

 

 日産の転機のひとつは77年ごろ。当時、社長に就任した石原俊氏が「グローバル10」なる経営計画を掲げた。「世界シェア10%」を目指し始めたのである。日米貿易摩擦に対応する狙いもあり、日産は米欧での設備投資を急拡大した。さらに、コアなファンが多かったダットサンブランドを日産に集約した。 

 

 しかしグローバル10戦略は、さほど成果を上げられなかった。海外では商習慣の違いなどもあり販売は苦戦。一方、国内では85年ごろからバブル景気が過熱していった。85年に104万台だった日産の国内販売台数は、90年に140万台に増加。国内がバブル経済で好調だった分、海外投資が過剰なことの深刻さに気付くのが遅れたともいえるだろう。 

 

 90年代初頭にバブルが崩壊すると、日産の業績は急速に悪化。97年度までは政府の景気対策の効果もあって国内販売台数は100万台を維持したものの、98年以降は右肩下がりで推移し、2024年は47万台に落ち込んでいる。 

 

 

● 「買いたい新車がない」という厳しい発言も 

 

 今日の日産の苦境は、1970年代後半以降の戦略の失敗と、バブル崩壊後の改革の遅れにあるといえるだろう。 

 

 99年にゴーン氏が日産リバイバルプランに着手し、国内では当時主力だった村山工場を閉鎖するなど厳しいコストカットを実行した。一方で、中国やロシアなどの新興国市場への進出は加速。ダットサンブランドのピックアップトラックなどを販売した。 

 

 しかし、思うような成果は上がらなかった。一時、ミニバンの「エルグランド」やSUVの「エクストレイル」といった新モデルも海外に投入したが、好調は長くは続かなかった。 

 

 日産は、60年からバブル崩壊前までの成功体験から抜け出せなかったのかもしれない。「技術の日産」といわれ、既存ブランドで収益は獲得できるとのおごりもあっただろう。そうした過信、プライドが組織全体に浸透し過ぎたといえるのではないか。それは、日産が米国市場で人気のハイブリッド車を投入できなかった一因ともみられる。 

 

 他方、2010年に日産はEVのリーフの量産モデルを投入。世界的なEVシフトの先駆けとなった。しかし、あっという間に米テスラ、中国のBYDやウーリン、ジーリーなどにEV市場で追い越されてしまった。自動車業界では、「ソフトウエア・デファインド・ビークル」(SDV)開発の競争合戦にシフトし、IT先端企業も参戦することで競争は過熱するようになった。 

 

 もし、初期段階で日産がEV充電の国際規格を主導していたら、状況は違ったかもしれない。そのチャレンジはあったのかもしれないが、結果的に日産はEVで世界をリードする存在にはなっていない。 

 

 エスピノーサ体制発足のタイミングで、日産はリーフを8年ぶりに、エルグランドを15年ぶりに全面刷新するという。さらに、新車開発期間を30カ月に短縮する方針だ。しかしそれでも、開発スピードはライバルに見劣りするかもしれない。定時株主総会では、株主から「買いたい新車がない」という厳しい発言も出ている。 

 

 

● 日産が生き残るのに必要な他社との協業 

 

 莫大な費用を必要とするEV、SDV開発に伴い、自動車業界は大変革期にある。トヨタ自動車は、トラックやバスなど商用車事業から距離を取り、乗用車の全方位戦略をより拡充する方針にかじを切った。半導体企業のエヌビディア、スタートアップのウェイモ(Googleの親会社であるAlphabet傘下の自動運転技術開発企業)などIT先端企業とのアライアンス体制を整備し、自前主義からの脱却に急いでいる。 

 

 中国ではBYDや上海汽車が、国産半導体を100%搭載したクルマの量産化を急いでいる。今後、自動車とIT先端分野の結び付きはますます強くなるだろう。IT系企業が新車を開発し、台湾の鴻海精密工業などが主導して、自動車メーカーがEVやSDVの製造を受注する水平分業も増えるはずだ。 

 

 米国では、トランプ関税の影響で自動車と部品のコストが上昇するとみられ、自動車メーカーの業績は悪化するだろう。国境あるいは業界をまたいだ自動車メーカーの再編、自動車メーカーとソフトウエア開発企業の提携が増えれば、新車開発の期間はより短くなるはずだ。そうなると日産を取り巻く環境はこれまで以上に厳しくなる。 

 

 日産が本当に単独、自力で生き残れるかは、不安な点が多い。翻ってエスピノーサ氏は24年前に日産に入社し、組織や自動車業界を熟知した人物だ。経営者の重要な役割のひとつに、多様な利害を調整して、企業を長生きさせることが挙げられる。日産は現状のままでは、国内外7工場、2万人の削減だけでなく、追加リストラに陥る公算は大きい。 

 

 今、エスピノーサ氏に求められることのひとつは、他社との協業ないしM&Aを真剣に検討することだろう。日産に必要なのは、売れるクルマを世に出すことに他ならない。それに必要な意思決定が遅れると、日産は一段と苦しくなり、再建はさらに難しくなる。エスピノーサ氏の英断に期待したい。 

 

真壁昭夫 

 

 

 
 

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