( 306772 ) 2025/07/12 04:03:18 2 00 酒に酔って暴れて、物音に叫んで怯えて―― 元日本兵の父との壮絶な日々 旧日本軍がタブー視した兵士のPTSD #きおくをつなごう #戦争の記憶TBS NEWS DIG Powered by JNN 7/11(金) 18:04 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/f14ab5b96f3dad1dd54a98019bdfd4b7422de3e8 |
( 306773 ) 2025/07/12 04:03:18 1 00 藤岡美千代さん(66)の幼少期の体験は、戦争が影響した父の心の病によって支配されていた。
藤岡さんはPTSDの家族会と出会い、父の過去を理解することで、彼もまた戦争の影響を受けていたのではないかと考えつく。
(要約) | ( 306775 ) 2025/07/12 04:03:18 0 00 右:藤岡美千代さん(当時9) 左:父親
「起立!」酒に酔った元日本兵の父が、兄と私を壁際に立たせる。「これから皆で死のう」そう言って、プロパンガスの栓を開くと「シー」という音と共にガスが出てくる。藤岡美千代さん(66)が5歳ぐらいの時の記憶だ。この「心中ごっこ」が日常的に繰り返されるなど、藤岡さんにとって父親は恐怖の対象でしかなかった。 戦争が人の心を壊すのは今では広く知られているが、日本では長年、本人も家族も問題を直視できずにいた。旧日本軍の極秘資料と兵士の家族の証言からその実態が浮かび上がる。(TBS報道局社会部・松井智史)
ハンカチで包まれた父親の写真
藤岡さんはいまだに父親の写真を直視できない。家にある写真はハンカチで包まれたままだ。父親は20歳で海軍に入り、千島列島の松輪島の航空基地に配属された。そこで、度重なる艦砲射撃にさらされるも生き延び終戦。その後、3年間のシベリア抑留を経て日本に戻った。親戚によると戦地に行く前は「おとなしくて優しい人だった」というが、日本に戻ってからは「人が変わった」という。藤岡さんが父親との壮絶な日々を振り返ってくれたー
私が5歳くらいの時、父はよく夕飯の時に酒に酔ってちゃぶ台をひっくり返して暴れました。その度に私は兄に連れられ外へ飛び出しました。父が寝たのを見計らって家に戻り、床に散らばったおかずやご飯をかき集めて食べました。父が起きるのではないかとビクビクしながら…そんな父でも、当時はトラック運転手の仕事をしていました。
私が7歳ぐらいになると新しい家に引っ越していましたが、父の酒の量はさらに増えていきます。夜になると突然、布団をはぎ、踏みつけたり、柱やふすまに向かって兄と私を放り投げたりしました。いつしか新しい家のふすまや壁はボロボロになりました。私は毎日、寝不足でした。
父の幻覚、幻聴もひどくなっていきます。 「あいつが殺しに来る!」雨が降ると、父は部屋の隅でそう叫びながら、震えて泣いていました。台風やあられで窓ガラスがガタガタと鳴っても「兵隊の足音が聞こえる!」と叫んで怯えていました。その姿を見るのが怖かったです。
私が8歳の頃、泥酔した父が刀で切りつけようとしてきた事がありました。娘ではない何かに向かって刀を振り上げたようでしたが、近所のおじさんが「あんたの子どもだ!自分の子どもに何をする!」と止めてくれました。
父から性虐待を受けたこともあります。太ももに唾をつけられ何かを押し当てられました。それがどんな意味を持つのか、当時は理解していませんでしたが、気持ち悪さは覚えています。父が上に乗っかっているのを母が目撃して、親戚の間で問題になりました。
次第に、父はまったく働かなくなり、両親は離婚。父と離れて暮らすようになります。
そして、9歳の冬、父が死んだことを母から聞かされました。兄と2人で喜び合い何度もバンザイしました。
その後、父のことは忘れることにしました。
20歳になって、親戚との雑談の中で、父は自殺だったとはじめて知ってショックでした。自分に責任があるようにも思えましたし、死んだことを喜んだことへの自責の念にもかられました。そして、自暴自棄に・・・ちょっとした嫌なことでも、「もう死んだ方が楽だ」と思ってしまい、リストカットをするようになりました。
フラッシュバックも起きるようになりました。駅や商店街で暑さ対策用のミストが世に出始めた頃のこと。街中でとつぜん聞こえた「シー」というミストの音で、あの「心中ごっこ」の光景がよみがえってきたのです。プロパンガスの音だ!と恐怖にかられパニックに陥りました。
21歳で結婚、出産しましたが、当時の夫からのDVや娘の育て方への悩みなどから、気づいたらキッチンドランカーになっていました。父のようにはなるまいと思っていたのに。ある時は、娘を突き飛ばしてしまうこともありました。「父と同じようなことをしている」と愕然とし、変わろうと決心するきっかけになりました。
藤岡美千代さん(66)
藤岡さんは長年、口を閉ざしてきた。しかし、2023年から公の場で自身の経験を話すようになった。きっかけは「PTSDの日本兵家族会・寄り添う市民の会」との出会いだった。そこには、藤岡さんと同じように日本兵だった父親との経験でトラウマを抱えた人たちがいた。
第一回千葉証言集会 2024年12月
つらい経験をしてきた人たちの話を聞く中で、藤岡さんは「父もPTSDに苦しんでいたのではないか」と思うようになった。そして、忘れようとしてきた父親のことを「理解したい」と気持ちが変わっていった。
記録とカルテ
藤岡さんが厚生労働省から父親の軍歴を取り寄せると、父親がソ連の捕虜となり、シベリアに3年間抑留されていた記録とカルテが見つかった。 睡眠が不十分、頭痛が続くなどの記述があったが、「よく生きてきたな」と思った。必死に生きてきた当時の様子を知るにつれ、はじめて親子らしい情愛のようなものを感じるようになったという。
上智大学・中村江理准教授
「日本の軍隊は天皇の軍隊で世界最強だから、『心に傷を負った兵士はいない』と、存在そのものを隠蔽していた」。戦争とトラウマの専門家、上智大学・中村江理准教授はこう指摘する。 一方で、軍部は精神疾患にかかった兵士の研究を、千葉県市川市にあった国府台陸軍病院で秘密裏に行っていた。
提供:北海道大学精神医学教室
その様子を撮影した貴重な映像が、北海道大学精神医学教室に保管されている。 体に目立った外傷がないにもかかわらず、手足が震えたり、麻痺したりした兵士の姿が記録されている。現代ならPTSDと診断されるようなケースも多いとみられている。
国府台陸軍病院の病床日誌
また、千葉県・東金市の浅井病院の倉庫には、国府台陸軍病院の精神疾患の兵士約8000人の病床日誌=カルテのコピーが残されている。 多くの兵士が戦地での加害行為から罪の意識にさいなまれ精神に異常をきたしていたことが分かる。中国大陸に出征した兵士のカルテにはこんな記述があった。
『良民六名を殺したることあり、之が夢に出てうなされてならぬ』 『特に幼児をも一緒に殺せしことは自分にも同じ様な子供があったので余計嫌な気がした』
浅井病院 長沼吉宣さん
浅井病院の長沼吉宣さんによると、カルテは終戦後に焼却処分されるはずだったが、将校たちが忍びないとドラム缶に入れて埋めて隠したのだという。
終戦時、海外には約330万人の軍人や軍属がいたが、中には、戦後に重度のアルコール依存になったり、自殺未遂を繰り返したりする人もいた。 そのため、中村准教授は、記録に残されたのは一部だったのではないかと指摘する。 また、心の傷を「恥」とみる雰囲気も、長年、当事者や家族が声をあげにくい状況を作ってきたという。
今年2月、藤岡さんら「PTSDの日本兵家族会・寄り添う市民の会」は厚生労働省の担当者と面会した。国に実態調査を求めるためだ。 3月の有識者会議では、厚生労働省が所管する戦傷病者史料館「しょうけい館」で、国による調査結果を2025年に公開することが決まったが、今回の調査には藤岡さんのような家族は対象に含まれていない。 中村准教授は「戦争トラウマの問題は決して『過去』の問題ではなく、『現在進行形』の問題。元日本兵の家族の証言はこれまでほとんど解明されてこなかった戦争トラウマの長期的影響を知る上で非常に重要だ」と指摘する。 藤岡さんも、調査対象を元日本兵の家族にまで広げてほしいと考えている。それが二度と戦争を起こさないことにつながると考えているからだ。
※この記事は、JNN/TBSとYahoo!ニュースによる戦後80年プロジェクト「
」の共同連携企画です。記事で紹介した「戦争トラウマ」についての情報に心当たりのある方は「戦後80年
#きおくをつなごう
」サイト内の情報募集フォームにご連絡ください。 また、企画趣旨に賛同いただける方は、身近な人から聞いた戦争に関わる話や写真を「
#きおくをつなごう
」をつけてSNSに投稿をお願いいたします。
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( 306774 ) 2025/07/12 04:03:18 1 00 この一連のコメントは、戦争による心の傷、特にPTSD(心的外傷後ストレス障害)についての深い考察を共有しています。
1. **戦争とPTSD**: 多くのコメントは、戦争に従事した兵士やその家族が抱える精神的な傷について焦点を当てています。
2. **個人的な経験のシェア**: コメントの中には、自身または家族が持つ戦争経験からの影響を述べるものが多く、これが個々のメンタルヘルスの問題に直結することが示されています。
3. **戦争の教育と記憶の重要性**: 多くの人々が、戦争の体験を語り継ぎ、教育することの重要性を唱えています。
4. **社会全体への影響**: 戦争が個人だけでなく社会全体にどのような影響を与えるか、その連鎖的な影響が過去の出来事として整理されることは難しいという視点があり、これは社会全体のストレスや暴力の増加にも関わっているとされています。
5. **戦争への否定的な姿勢**: コメントの多くは、戦争を悪しきものとして捉え、戦争によって引き起こされる被害や苦しみを再認識させるものであり、平和の重要性を訴えています。
(まとめ)これらのコメント群からは、戦争の影響が個人や家族にどれほど深刻かつ長期的なものかが浮き彫りになっており、PTSDや心の傷が世代間で連鎖する現実、戦争体験を共有する重要性、さらには平和の大切さが強調されています。 | ( 306776 ) 2025/07/12 04:03:18 0 00 =+=+=+=+=
ここまで極端でなくとも、星一徹のようなこういうお父さん、昔はいましたよね。 藤岡さんのお父さんのような状況は、当時の日本では理解されず、家族も社会から孤立していたのかもしれません。でも今思えば、戦争が原因でこのようになった人は、意外と多かったのかも。 藤岡さんが長年の苦しみを乗り越えて証言してくださったことで、戦争のリアルが伝わってきます。戦争は終わっても、その傷は家族や次の世代にまで暗い影を落とすことを、改めて痛感します。
▲5365 ▼651
=+=+=+=+=
自分自身が恐ろしい体験をし、PTSDになり、PTSDや心のことについてたくさん勉強しました。 そうする中で、「戦争はPTSDを産むが、PTSDはまた戦争を生む」というある研究者の研究結果に心から納得しました。
私自身、反応が起きてしまうときというのはまるで戦場のような感覚でしたし、そこには必ず被害と加害(過去のものも現在のものも、人へも自分へも、現実的なものも内面的なものも)がありました。
日本で虐待やDVや無差別殺人などが増えているのは、その裏に心の傷があり、それはもしかしたら恐ろしい体験だったはずの戦争からずっと連鎖しているのではと感じていました。 PTSDに限らずです。
もちろん、「心の傷=ダメなこと」ではなく、症状が現れるからこそ助け合い、より豊かになれたケースも多いと思います。 まず暴力や戦争を起こさないことは勿論のこと、トラウマのケア、メンタルケア、とても重要です。
▲181 ▼17
=+=+=+=+=
心の傷など目に見えないものって理解されづらいし、自分でも気づきにくい。気づいた時にはもう後戻り出来なくなっている事も。 身体と同じように人それぞれ心の強さも違う。 想像力のある社会を望みます。 この記事の父親のように心を壊して攻撃的になってしまったら、綺麗事では解決出来ないなと思います。即座に距離をとるべきかと。
▲19 ▼2
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アメリカなんかでは現在進行形で退役軍人のPTSDが問題になってますよね、日本はもう元兵隊さんは本当に極少人数と思いますが、以前は同様に苦しんでいた方やその御家族が沢山居たのだと思います。 何度も戦争し被爆もした日本だからこそ、反戦、平和を大切に、世界にも広めて行かなければならないと思います。 私が子供の頃は神社のお祭りで傷病兵がラッパを吹いて募金をしてたりもしました。 やはり、平和が一番です。
▲2363 ▼72
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また一つイミテーションが剝げ落ちた感じでしょうか。
人の本質は基本変わらない。壮絶な体験をすればPTSDと呼ばれる様な症状は普遍的にある。それらを覆い隠して他人事のように振る舞っても、結局隠しきれるものじゃない。(隠せると思う人は未だ少なくない)
戦争は原則否定される行為だけど、望まぬ戦争はあると思う。それは他国による侵略行為だったり。そういった望まぬ現実を理解する必要があり、自由といった現在の価値観を守る上で戦いを決断しなければならない事はあると思う。 (現ウクライナ戦争など)
望まぬ戦争の中で戦い傷ついた人達を忌避し、その事実・真実から目を逸らす事は戦地で戦った人達や戦時下で苦しんだ全ての国民を愚弄する行為。
戦争(望まぬ)を肯定するにせよ、不都合な真実から目を逸らす様な国であってはならない。その様な国(民族)に未来は無いと思ってる。ただ暴走するだけ。
▲125 ▼127
=+=+=+=+=
モノクロ版二十四の瞳にも出てきます 戦後帰還兵がバスの音に怯えて敵が来たーと叫び、爆弾を抱えて戦車に飛び込むようにバスの前に飛び出す 近所の人が敵は殲滅されました!と同調演技してくれて、さあ家帰ろうと促し、皆さん毎度お騒がせしてすみませんと平謝り 腫れ物扱いや除け者にしなくてあたたかいご近所コミュニティの時代だなぁと思った 戦争を知らない世代だが靖国の母もこれで知ったし批判すると赤狩りが来るし、カラー版とは大分違う味わいがある
▲288 ▼18
=+=+=+=+=
極寒のシベリアに抑留され強制労働につかされ、命からがら 日本に帰ってきた。 よくぞ生きて帰ってきた と 日本で歓迎された…と思いたいが必ずしもそうではない。 ロシア語 を覚えてきた、ソ連の思想に染まってきた、と非難され後ろ指をさされた。 サバイバルを果たしたことは理解されず社会に溶け込むことを拒まれた。 昭和の大 歌手、三波春夫氏もそういう状況に置かれた一人であり、笑顔で歌うことで 日本に順応しようとした。 三波氏がロシア語の歌を歌う 映像が残されているが身につまされる。 戦争の悲劇は生き残った者にもまだ続く。
▲2195 ▼57
=+=+=+=+=
戦地に行ってなくても、東京大空襲経験者だった下町出身の近所のお婆さんは、花火の音が大嫌い、トンカツとか揚げ物の匂いが苦手、水辺に人が沢山いるのも苦手、そして真夏にギラギラ光った銀色の車見ただけで焼夷弾を落としまくったB-29を思い出して、気分が悪くなると言っていた。
昔はあまり意識していなかったけど、一晩で10万人もの命を奪った3月10日東京大空襲経験者ならではのトラウマだったのだと今は認識出来る。
▲1472 ▼31
=+=+=+=+=
戦争は人を変えてしまう。人間と人間が互いに殺し合う戦争が終わったとしてもそこに参加した一人一人の戦争は違う形で続いていき死ぬまで終わらないという所が戦争をしてはならない大きな理由の一つかもしれません。 身体的な傷、精神的な傷、戦場での苦しい経験や記憶、自分だけが生き残ってしまった申し訳なさ等、戦争の呪縛から逃れられないというのは大変苦しいことと思います。
▲731 ▼32
=+=+=+=+=
誰でもそんな辛い経験をしたら同じ様に喜ぶと思います。だから自分をそんなに責めないで欲しいです。私も同じ目に合えば泣いて喜んではしゃぎ回るはずです。あなたも被害者ですがお父様も戦争の被害者なんだと思います。戦地で言えないような辛い経験や、思いをして誰かを絶命させてしまい後悔から幻覚、幻聴がおこる様になり心が壊れて行きお酒に逃げてしまい更に悪化したのかもですね。戦争が悪い訳でお父様は戦争に行く前までの優しい性格だったから実の娘や息子に酷い事をしたと戦争を責めて後悔して自分の命を捨てたのかなと思いました。
▲828 ▼49
=+=+=+=+=
ベトナム戦争後に映画で戦争後遺症が絵が描かれる事が多くなりましたが、 第二次世界大戦はどうだったんだろうとずっと思っていました。 第二次世界大戦後の後遺症もやっと知られるようになりましたが この記事を読んで日本にも存在した証拠が出てきて驚きました。 こういう事も今後語り継がれていく必要があると感じました。
▲623 ▼28
=+=+=+=+=
今週の徳島新聞での記事ですね。思わず引きこまれて読みました。添えられた写真には今はカフェを経営されているとあったんですが、その写真の笑顔と記事の内容とのギャップに驚きました。こんな壮絶な経験された方がここまで明るい笑顔になれるなんて、どれだけ強い方なんだろうと。 それと60代とあり、戦争を経験していない世代にもある意味、戦争被害者が存在していて、苦しんでいる方達がいる。個人では解決できない問題だし、これこそ公的な力での支援が必要なんじゃないかと感じました。
▲470 ▼24
=+=+=+=+=
大陸で戦い、終戦前に広島に集められて被爆した父方の祖父も、長いこと酒乱だった。
祖父から戦争の話を聞くことはほとんどなかったが、亡くなる数年前に、ぴったりと酒を飲まなくなり、行軍中のことを話すようになった。
「悪いことをしたやつは、マラリアでみんな死んだ。俺は悪さをしなかったから助かった。」と。密林で食料補給も受けずに行軍するには、現地で略奪なども行ったのだろう。
母方の祖父も夫の祖父も、出征していて、やはり酒乱だったと聞く。当時、命からがら生き延びても心の傷が癒えず、酒に逃げるしかなかったのだろう。
▲441 ▼19
=+=+=+=+=
なんてひどい親御さんだと思う。しかし父もまた社会の犠牲者であった。直視できないほど恐怖を与えられた相手を理解しようとされる尊さに感じ入るものがあります。本人が精一杯頑張って生きても、容量以上の水を注げばこぼれてしまうように、限界を超えた負担がかかれば壊れてしまう。怒りを向けるべき相手はお父様(のみ)ではないのでないか…このことに目を向けられたとき、大きな葛藤(とわずかな救い)を感じられたかもしれません。凄惨なご体験を共有いただいてありがとうございます。時代が違えば我が身であった、こんなことは繰り返してはならない。どう生きるかを迫られる記事でした。
▲390 ▼29
=+=+=+=+=
うちの曾祖父も少なからず戦争のPTSDに悩まされていました。 輜重兵課で当時物資輸送の護衛しており、 特に終戦前は東南アジアを転々としていたらしいですが、昼夜問わず襲撃を受け続けて、銃身が自分に向いているのが見えた時は本当に怖かったと良く話していました。 深酒しないと寝られないと言って死ぬまで飲んだくれで散々祖父や親に迷惑かけていた様ですが、そう言う話を聞くと憎むに憎めないものですよね。 当時はメンタルについての知識が一般的ではなかったですから、こう言った話はいくらでも出てくると思います。
▲227 ▼9
=+=+=+=+=
戦争とはこの方のお父様の様な人々を生み出す。 ハワイホノルルの小高い丘の上にピンク色のホテルと思う建物はトリプラー陸軍病院。20年前だがベトナム戦争でのPTSDを抱えた元兵士が主な患者。いまだにかと思った。温暖な気候で治療を目的としたらしい。なぜピンクかと言うのは病院と空中から悟られない為。日本にはこの様な施設はない。戦争とは無事に帰還してもその後の心の戦争が待っているのだと感じた。本当に家族の不幸はいかばかりか。心の傷は薄れない。
▲309 ▼12
=+=+=+=+=
戦争の記憶の継承は、とても大切です。ところが、昨今、乱立している小政党のほとんどが防衛費の増額を公約の中に取り入れています。彼らは、「記憶の継承」の問題と国防の問題をリンクすることを極度に嫌います。つまり、こうしたスタンスは、「戦争は悲惨だということはわかるが、その記憶が国防の足かせになってはいけない」ということを暗示していると思う。国防は確かに重要な問題であるが、その国防が過去の戦争による惨禍の繰り返しを招いてはならない。私たちは、この点を強く肝に銘じなければなりません。
▲154 ▼60
=+=+=+=+=
よく、戦時下の話を、もういつお迎えが来てもいいと言う様な高齢になって、今まで誰にも語らなかったが、、、というくだりで話し始める老人の映像を見たりする。
おそらくPTSD、トラウマ、何十年経っても記憶にこびり付き、苦しみながらも覆ってきた蓋を開けて、後世に伝えるため話してくれてるんだと思う。
100年近く生きてきている人が、ゆうに半世紀以上昔の事を昨日の様に思い出し、壮絶な体験を涙ながらに語る姿に胸が苦しくなる
▲207 ▼5
=+=+=+=+=
戦地でトラウマになるくらいの過酷な環境の中から生還した父親は、なるべくしてそうなったのだろう。一概に責められないとは思うが、本当なら親が無事還ったなら喜ぶべきところ、寧ろ家族の方も地獄を見たと言っていい。 辛い戦争の2次被害。 父親が亡くなってバンザイしたという気持ちは非難しない。父親なのに父親でない、鬼畜のような存在。それだけの虐待を受けたら私でもそうするだろうと思う。 戦争さえなければ父親もこうはならなかった。戦争に翻弄された罪なき人々が沢山いたことを改めて認識する記事です。
▲134 ▼3
=+=+=+=+=
もしもの時は、正義のために闘う。 最近、そういう感じの人を見たのは、ウクライナの戦争だった。 戦争に行って、人を殺したり、殺されかけたり、残酷なものを目にしたり、味方が信じられなくなったり…。 正義の想いを持っている者は、その想いに比例して、どんな経験も乗り越えられる強い心を持っている、というわけではない。 自分の心の強さや器の大きさは、自分では分からなかったりする。 嫌な経験から、眠れなくなる。悪夢を見るようになる等、トラウマ的な経験をした時に、自分は、その傷を乗り越えられずにいる事に気がつく。 想いが強ければ、トラウマにならないほど心が強いわけではない。 過度のストレスは、その後、普通に生活する事が困難になるほど、自死の道を選んでしまうほど、家族を不幸にするほど、人の人生をめちゃくちゃにする事がある。 だから、戦争だけは絶対にしてはならないと経験者らは語っていたのだと思う。
▲151 ▼12
=+=+=+=+=
藤岡さんも、小さい頃から父親が酒に溺れて暴れたり、性暴力を受けたり、大変過酷な家庭環境だったと思います。しかし、優しかった父親がシベリア抑留を経て人が変わってしまったのは、そこでの過酷な生活が、父親の精神をことごとく蝕んでしまった。つまりは、戦争が家族の絆を破壊に導いた背景として厳然としてあります。戦争が国を疲弊され、家族の仲をも引き裂く要因になる。戦争は家族それぞれの人生をもめちゃくちゃにする悪であり、こうした事が日本で絶対に起きないよう、今の平和を大切にして行くべきたと思います。
▲58 ▼7
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約4年も続いた過酷な太平洋戦争の直後のことなので出兵した兵士も本土で耐え忍んだ国民も全て異常な状態であったことは確かである。 であるから間違っても今のこの平和な状況で法整備も出来ている現在の基準でこの当時のことを断罪することは出来ない。 大事なのはもう二度とこのような戦争にならないように強力な軍事力で脅威を与える隣国とのパワーバランスを保つことで戦争を回避することである。
▲215 ▼69
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軍人だった私の祖父は生きて祖国の土を踏む事はありませんでした。 私の母は祖父の顔を見る事もなく育ちました。 この記事のように生きて帰っても過酷な戦争体験が心を蝕み、それが死ぬまで続いた方がいた事も事実です。 極稀なケースも有りました。 私が小学生の頃に近所の自転車屋の店主は中国大陸で従軍していましたが、自転車の修理の腕を買われて周りの兵士にとても重宝がられたそうです。 その店主の老人は「不謹慎かもしれんが、軍隊生活は楽しかった」と言っていたそうです。 戦地の場所や戦争体験は人それぞれで、戦争への想いもまた人それぞれです。 ただ、はっきり言える事は戦争体験をしない世の中であって欲しいとそう願っております。
▲5 ▼1
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戦争は戦死者だけでなく、このような重篤な病も引き起こす。手足を失う者、視力、聴力を失う者も多い。最近、憲法改正に賛成する勇ましい人が増えている。近く国民投票もあるだろうが、良く考えた方が良い。
▲364 ▼47
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私の祖父は戦後も所属部隊の集まりに参加し続け旗日には必ず国旗を掲げていたので、軍隊での階級や地位、軍隊時代そのものを誇りに思っているようでした。 通信部隊だったそうだけど、死と隣り合わせの過酷な戦闘や捕虜生活を味わわずにすんだ幸運な人だったんだと今改めて実感しました。
祖母と口喧嘩までもいかない小言を言い合う程度で、子や孫に怒鳴ったり本気で怒ったりすることもない穏やかで包容力のある人でした。
▲4 ▼0
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兵士が戦後、酒に溺れたりした話はよく聞きます。 戦時中は戦闘機パイロットで撃墜王として名を知られた方々の中にも敗戦後は酒に溺れた元兵士の方もいたようです。 私がそうしたことで感じるのは、戦場での記憶、敗戦による精神的なことからメンタルが正常ではなくなってしまうのもあるでしょうが、戦場ではヒロポン(覚醒剤)なども使われていたのも関係しているように思えたりします。
▲2 ▼1
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戦地で戦い、さらに生きて帰れたのが奇跡と思える様なシベリア抑留を生き抜き、よくぞ日本へ戻って来られました。と労いたい所なのに。 PTSDで人しての尊厳も崩壊していく、、日本に戻るまでは、きっと家族に会いたい一心で、家族への想いを心の支えに厳しい環境の中を生き抜いてきただろうに。その家族を傷つけ、亡くなったらバンザイされてしまう様な存在になってしまうなんて。 戦争は人を変えてしまう。戦争の残酷さを改めて思い知りました。戦争を語れる人が高齢化し少なくなる中、勇気を持ってお話し頂けた事とてもありがたく思います。
▲5 ▼2
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私は50代ですが、子供の頃はすでに高度経済成長が始まっており、戦争なんて遠い昔、学校の社会の授業でも、過去の話という感じでした。 でもよく考えたら、私が生まれた時はまだ戦後30年経っていなかった。
私の祖父は2人とも戦争に行き、父方の祖父は戦時中に、母方の祖父は戦後に無事に帰ってこられた。 祖父本人から戦争の話は一度も聞いたことがありませんでした。 きっと、戦争に加担した話を孫にはしたくなかったのだと思います。 理系の有名大学卒の父方の祖父がなぜ戦争途中で帰国できたかといえば、武器を作るためだったようでした。 そんなことも、言いたくなかったのだろうと思います。
母方の親戚で、まさに特攻隊で数日以内に出撃する予定が、終戦になり、少し心を病んでしまった男性がいたそうです。 しばらくは1人にしないよう、家族で見張っていたという話です。
戦争に行き、心に傷を負わなかった人はいないと思います。
▲33 ▼1
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私の亡き父も従軍し、母方の叔父は戦死ししたためか子供の頃から戦争の悲惨さは両親から聞かされて来ました。父は戦地の具体的な話は一切しませんでした。中学の時、同級から自分の父親の中国での戦線で人を殺めたとの話を聞き、すごいショックを受けました。彼は自分の父親を尊敬しており、自分は父親には敵わないと言っておりました。彼はクラスでもトップクラスの秀才だったので尚更ショックでした。 両親は何があっても戦争だけは駄目だと言っておりました。
▲17 ▼2
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大変な経験をされましたね。私の祖父も戦争にいき、背中を撃たれて帰ってきたそうです。背中には銃弾の跡が残っていて、幼かった私は毎日触っていました。とても優しい祖父で家族や周りからも愛されて亡くなりました。そう考えるととても幸せな家庭を作った祖父に感謝しかないです。
▲7 ▼1
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戦争は、勝った国も負けた国もどちらも、心に深い傷を残す。 友人が話してくれた。 沖縄戦を体験したおじいおばあは、戦争を武勇伝のように話せないと言っていた、と。もう忘れたい。次世代に何か残してあげる言葉なんてない、と。 深いトラウマを物がっている。 語れないことが、その証拠。 そんな中、やはり過去の出来事にしてはならないと、語ってくれた戦争体験者の方々にも、敬意を評します。
▲33 ▼1
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出身が長崎だから、子どもの頃は学校で戦争と平和の教育が多かったけど、こういう話は聞いたことがなかったから驚いた。無事生きて日本に戻ってきた兵士はとか、思ったことがなかった。今までと違う方向から見ることができてありがたいと思った。
▲3 ▼0
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戦時中、兵士として戦争体験をすると、終戦後は頑なに何も語らない人と、この記事の方のようにまるで人が変わって、 PTSDに苦しむ人に別れる。 共通するのは、もし戦争さえなかったら、あの時こうした、こんな事しなくて済んだのにという自責の念。
亡くなった母方の祖父は、普段はとても 気の優しい人でよく送り迎えや、竹でおもちゃを作ってくれる穏やかな人だった。 夕方になり、一人晩酌し出すと雰囲気が一変。目つきが鋭くなり、何かわからない言葉をよくぶつぶつと呟いていた。 近所の居酒屋に行けば、年配同士で在軍時代の階級、戦地での昔話で揉め事になり、ある日顔に怪我をして帰ってきて、当時の記憶を喚き散らした。 子供ながら、とても同じ人とは思えず怖かったし悲しかった。 酔っている時は、戦争の話はとにかくタブーだった、
▲9 ▼2
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心を正しく持とうと心がけて生きていても、誰にでも加害者になってしまう可能性があるのだと感じました。 記事のお父さんのような経験をしたら、心が壊れてしまうことも当然ある。もとは優しい人だったとのこと、ふと正気に返る瞬間があったとしたら、その瞬間の絶望はどれほどのものだったのでしょう。壊れた心で自分の子供を傷つける、(それが原因かはわかりませんが)最期は自殺…。辛い話です。
お子さんたちがお父さんの死に際して、「喜んだ」というのは当然だと思います。その後に生まれる自責の気持ち…。
戦争にまつわる漫画で、「過去になんてできない!」という作品があります 題名だけでも心を打たれました。過去になんてできない…という経験をした人が、戦中どれだけいたことか。辛い経験に心が囚われて、子どもにまで引き継がれる…。 戦争が終わったら終わりではない、戦争の苦しみを考えさせられます。
▲31 ▼3
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戦場で戦って兵士、敵を殺害しようがしまいが、暴力振るおうがしまいが、必ず心に大きな負の遺産とし残るのかもせれませんね。今の時代ならPTSD.の一言で診断されるけど、体験は人それぞれでちゃうし、その体験を基準に判断するのは慎重に、お願いします。
▲22 ▼6
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トム・クルーズ主演の映画「7月4日に生まれて」や寺島しのぶ主演の映画「キャタピラー」などはまさに戦争によるPTSDが描かれていますね。 私の両親はともに団塊の世代で、つまりは兵士から復員したばかりで結婚したのが私の祖父母たち。両親の、それぞれが抱える愛着障害を客観的にみると、団塊の世代は親の戦後のPTSDやら諸々の影響受けてしまってるのかもなぁと考えさせられる記事でした。 ただ、毒親育ちや過酷な子ども時代でもそんなこと微塵も感じさせない人もいれば、メンタル病む人もいる。この差が何かは分からないけど、自分の心に真棒みたいなものを持つのは大事というのは分かる。
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つい最近「硫黄島からの手紙」を見た。殺したり自害する場面だらけ。戦争のPTSDが描かれた「ディアハンター」も衝撃だけれど、こういうのを現実に体験したなら、精神がどうにかなってしまわない方が難しいと思う。
昭和40年代だけれど、おしゃれしたり、家族連れがたくさん行き交う賑やかな通りに、足や手を無くして包帯を巻き、帽子から服までさらしの様な生地の白い服で座っている人をよく見た。前に器を置いてお金を投げ入れて貰っていた。終戦後20年近く経っているのにね。私は子どもだったけれど、そこだけ戦争を見たような気がして怖かった。 この記事の話もその頃だと思う。 殺し合いをして、命や身体を失い、精神をズタズタにして不幸な人を作る戦争が正義ということはあり得ないよ。
▲17 ▼1
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まともな優しい人間が、戦争に駆り出され、ひどい殺し合い、相手を倒せ!!のすさまじい戦場を経験すると、精神崩壊も当たり前かと思います。立派に務めあげたと当時は国から言われたでしょうが、ご本人の健康状態やご家族はとても壮絶な二次被害ですよね。子供がどれだけ怖かったか可哀想なのと、戦争経験が精神を狂わせたんでしょうからお父様も可哀想でならないですね。見た目にわからなくても精神疾患というのは本当に難しいですよね。この記事の方も大変気の毒ですが、元々は優しい心のお父様だったことを誇りに思ってほしいですね。切ない。
▲25 ▼3
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家庭に1人でもいたらその家族も同じように傷つき生きなければならない。そういう人が何万人といて、家庭、学校、社会での暴力や抑圧や依存症などを生んだかもしれない。 孫世代の自分が見聞きし経験してきた昭和、平成には間違いなくその影響があったと思う。 改めて戦争の恐ろしさを痛感した。
▲28 ▼2
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祖父も二十歳くらいから日中戦争に行き、終戦が27歳、それからシベリア抑留3年間でした。一緒に暮らしてて、また私の父親も特に暴力等振るわれたこともなく、祖父は良い父親だったらしいのですが、90歳手前で骨折かなにかで入院中、ストレスで酷い胃潰瘍になって自分で飲食できなくなったときに、突然目をギョロッとさせて「俺を殺すな!捕虜だから!!殺すなー!」と言いながらチューブなどを力尽くで取って暴れてました(そのときは「俺はアメリカ兵!」と名乗っていました)。結局1週間続いて、危ないので拘束されてましたが、あの1週間で祖父が戦時中、抑留中、どんな恐怖の中過ごしていたのかが少しわかった気がして私もやりきれなくなってわんわん泣きました。現実には何年もそんな生活を戦地でしてたのだから、想像以上。だから数年前の「ラーゲリより愛を込めて」の映画を見に行きました。祖父を思い出して号泣しっぱなしでした。
▲58 ▼3
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私の祖父は海軍兵で、乗っていた船がアメリカ軍に攻撃されました。唯一、祖父だけが生き残りましたが片目を失明。帰還したものの結局40代で亡くなりました。祖父は幼かった父を随分虐げた様で、父は「本当の子どもじゃないのかもしれない」と思ったそうです。祖父もまた、戦争によってPTSDに陥っていたのかもしれません。私が生まれるずっと前に亡くなった祖父ですが、話を聞いていると「一目会いたかった」とは到底思えません。戦争は人の心を、家族をバラバラにしてしまう恐ろしいものです。
▲8 ▼0
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ベトナム戦争で狙撃手として参戦した元米兵と話をしたことがあります。彼らは共通した戦争後遺症に悩まされていました。毎晩のように夢の中で自分が撃って命を奪った敵がその時の状態で「よくも撃ったな」と迫ってくるんだそうです。そしてその夢の恐怖に慣れることはなかったと言っていました。10年以上そんな夢を見ていたから、不眠にもなったし、精神的に参ってしまい、アルコールや薬物に溺れた時期もあったとも言っていました。
▲5 ▼0
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「死」を意識する毎日がどれだけ人を狂わすのか、今の人達では到底理解できるものではない。 戦争では人を殺しても殺されても罪には問われず、国のために死んでこいという異常で理不尽な日常が普通の時代。そりゃあ気も触れてしまう…。 いつ戦死するか分からない、いつまで戦地に送られるのかも分からない、死んでいく仲間など地獄のような日々が人間を壊すのでしょう。
▲145 ▼7
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正々堂々やりあうことは、大抵の人は乗り越える。日本人だって2千年以上内戦をやっていたからね。それでも戦争を理解していない人が戦場に行けば、PTSDになる。
捕虜虐殺や民間人虐殺、性的暴行といった非人道的行為は、復員してから心に暗い影を落とすだろうな。
最大のPTSDの原因は目の前の仲間を助けられなかったこと。こればかりは心の整理が大変だ。
▲3 ▼9
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こういった事実を真摯に受け止めて、しっかり実態調査を進めることは然り、人は数十年数百年では進化しないことをしっかり認識して国を運営してもらいたい。明治以来150年を超えているわけですが、いまだに小学校が6年中学校が3年高校が3年と最低義務教育で9年それ以上で、3から7年必要なのだからそういう視点で人間というものをとらえる必要があるのではと思う。
▲138 ▼60
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これはもっと明らかにしていかないといけない問題ですね。 戦争の恐ろしさの一つです。 アメリカの社会問題の一つでベトナム戦争が有りまた。 元兵士がPTSDで社会復帰できなくて苦しむ映画やドラマが有りました。 しかし日本ではそんな話や映画・ドラマは聞いたことが有りません。 でもやっぱり有るんですね。 家族や隣近所では隠していただけだということが分かりました。 社会的な制度としてPTSDの回復を担う組織が必要だと言う事が分かります。
▲27 ▼2
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私は戦後20年後ぐらいの生まれです。今思うと、たった20年後だったのかと思うほど既に全く戦争が行われていた事が想像できないぐらいの世の中になっていました。 時代ってのは、人が図り知れるものではありません。単純に当時の日本や世界を批判することもできないです。ただただ、同じ人間として、世界が平和である事を祈るばかりです。
▲5 ▼0
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うちの父親は16才で終戦だったので兵隊に取られる直前で終戦を迎え、 家は空襲で焼かれたものの命だけは助かり、戦後は平穏な生活を送る事が出来た。しかしながら戦後80年というと大昔のように感じるが、当事者であった人達は自分よりほんの一代前の父親世代の方々で、それを考えるとまったく大昔の話ではなく身近な出来事に感じてしまう。
▲31 ▼1
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恥ずかしながら知らない事実でした。少し考えれば当然ですが、第二次大戦はなんとなく歴史の中の出来事で、感覚として遠いものになっていました。まだまだこんなに苦しんでいる人がいるのだと、改めて戦争の悲惨さを感じました。 世の中にはノーベル平和賞が欲しいなどと公言するリーダーがいますが、現実の苦しさを知らない戯言ですね。どれだけの人が苦しんでいるか、想像力が欠如した人が賞の対象なのではないかとも思えてしまう。 こうした記憶を持つ方が少なくなる中、何が出来るのか考える人もいる、頭が下がります。
▲1 ▼0
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>親戚によると戦地に行く前は「おとなしくて優しい人だった」というが、日本に戻ってからは「人が変わった」という。
これが大正生まれの現実だ。 大正世代は赤紙で戦地に行った人はこういう人が多く、みな若くして亡くなり生き残ってもPTSDを患った人は長生きできなかった。 悲劇を乗り越え穏やかに生き続けた大正世代は優しい人が多く自由で開けっぴろげで長生きした。 私は高度成長時代生まれなので運よく優しい大正世代の人と交流が出来色々学べた。
▲3 ▼0
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明治維新以降、日本は日清、日露、第一次世界大戦、第二次世界大戦と約20年毎に戦争に明け暮れました。それは大国の支配を受け、植民地として搾取されないため、国民が命をかけて戦った事で、時の誰か個人に責任があったわけではないと思います。結果として、日本は独立国家として誇らしい歴史を持つ国であり、戦争で亡くなった人達は兵も庶民も英雄だと思います。
▲11 ▼8
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これは極端な例ではないし、まして星一徹などと比べるレベルの話ではないです。 普通の人が戦場に行き、やらなければやられてしまう、そういう尋常じゃない場に置かれ、目の前で敵が銃を自分に向けてきたら、どうしますか?人を殺したことなんかないごく普通の人が、本当に、自分の手で人を殺す。上官の命令は絶対だから、丸腰の女、子どもに銃を向ける。 こんな狂ったところで絶えず死の恐怖に震え、自分には何の恨みもない、或いは罪のない人たちを殺し続けないと生きて帰れない、 そんな究極の場に長く置かれたら、誰だっておかしくなると思います。
▲79 ▼2
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20世紀中頃にはPTSDがまだ精神的な疾患として認知されておらず、常に死と隣り合わせの他とは比較しようも無い大きなストレスに晒される戦場ですらそれは例外ではありませんでした。
本来不要な筈の電気ショックの様に的外れな「治療」が横行し、酷い場合は症状が治まらず戦線復帰を拒否した兵士を単なる卑怯者扱いで見せしめの様に処刑した実例もあった等、 国家の様に巨大な存在が弱い個人に理不尽を押し付けた事によって生じたこの様な歪みが、終戦後も日本に留まらず世界中で起きていただろう事は想像に難くありません。
湾岸戦争にイラク戦争と近年でも兵士・民間人を問わず戦場を体験した者が精神的な後遺症に苛まれる例は数え切れない程に報告されています。 どれだけ時代が変わろうと、戦争が人にもたらす負の遺産の重さはずっと変わりません。
▲8 ▼0
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アラフィフですが、私の祖父もシベリア抑留を経験しており生前話を聞く事ができました。 立ち小便をすれば凍り、戦車に手を着けばくっついてしまう、皆栄養失調で幻覚を見たり、赤痢で亡くなる仲間を運ぶ際、自分もこうなるのか?と思ったと言ってました。 日本に帰ってきても日本人が白人に見えたり数ヶ月幻覚は治らなかったと言ってました。 私のわかる範囲では話をする時いつもドモリが強かった印象があり、今思えばそういう影響だったんだと思いますが、本当に過酷で残酷な経験をしたのだと、祖父の話聞いている時、話をするべきか?のような雰囲気で口ごもる所が私をそう思わせました。
▲5 ▼1
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亡くなった祖父も海軍として戦争に行ったそうです。祖父は無事でしたが、隣の船が撃沈されたそうです。 祖父はただ運が良かった。 亡くなるまでアメリカが嫌いで、ディズニーとかも「アメリカに金をやる必要はない」と言ってました。 ありがたい事に帰還後は恵まれた人生で、人生を全う出来ました。 誰かの犠牲の元に成り立つ幸せかもしれません。 それは孫である私も、皆さんもそうですね。
▲26 ▼4
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敵に追い詰められて死の恐怖に怯える、 自分の手で敵の命を奪ってしまう、 どちらも普通の神経では耐え難い事と思います。 戦争に行く前は優しい方だったと聞かされると益々辛くなります。 戦争は敵だけでなく自国民を殺す行為だという事を忘れてはいけないですね。
▲29 ▼3
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戦時中の戦地や国内でのことは、現代でも色んな媒体(記事や作品)でたくさん語り継がれているけれど。それに比べ、帰還した旧日本兵の人たちの戦後生活についてのことは、取り上げられる機会が少ないように感じる。 帰還後も理性を保った人たち(小説家や各著名人や語り部の人たち)の話が中心となり、心を壊した人たちのことが忘れ去られてしまうのは、戦争の実像を遠ざけてしまうと思う。 昔の作品だと、彼らの存在が身近だったぶんそういう描写もあるが。 PTSDについての認識が広まった現代だからこそ、こういうことをもっと取り上げていく必要がある。
▲33 ▼2
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アメリカのベトコン帰りでPTSDを抱えた元兵士が、スーパーの駐車場でパニック発作が起き、銃を持っていないのに銃を構えるポーズのまま警戒態勢に入り、5〜6時間位家族や職員達が呼びかけても身体を揺さぶったりしても微動だにせず、結局本職の軍人に警戒態勢を解くように指示を出されてその場で崩れ落ちる…みたいな動画を観たことあるが、戦争体験というのはここまで人をおかしくさせることが出来るのかと恐怖した想いがある。
▲2 ▼0
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戦争において徴兵されて国民の義務であった兵役を全うしただけで 一兵士に何ら責任もありません むしろ国に仕えた元兵士に対して心のケアを果たさない 東條英機と昭和天皇に責任があります。 名目上といっても日本軍の最高司令官なのだから 軍務に就きなさいという命令に従った結果、 精神疾患を負った元兵士のケアを行う義務があります。
元兵士たちは日本を守るために死んででも仕えたのだから 天皇や日本政府は彼らの忠誠に応える義務があります
▲16 ▼1
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戦争以前はごく普通の生活をしていたのに、戦場に一歩足を踏み入れたら相手を殺さなければならない。 特に罪も無い子供にまで刃を向けたんだったら、その断末魔がその人に生涯付き纏い精神を病むのが分かる気がする。それは家族にも危害が加わり連鎖を生ずる。 今こうしてエアコンの効いた部屋で食事も出来、風呂にも入れ、眠る布団もある。極々普通な日常が奪われる戦争なんて、世界から無くなれば良いのに。
▲16 ▼0
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昭和期に社会党の国会議員・野溝勝、戸叶里子という人物がいた。
1955年、超党派の訪ソ議員団が結成され、社会党左派議員だけはハバロフスク収容所の訪問を許された。抑留者は劣悪な収容所の実態とそれを記した手紙を議員団に託したが、野溝ら社会党議員はそれを握り潰し、収容所は「人道的な施設」だと発言した。
その虚偽は、抑留者の帰国後に明らかとなったが、野溝らは「反省する」の一言で済ませた。この出来事は戦争の一部として記憶していいと思う。
▲3 ▼0
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結局、全て戦争が悪いのだ。殺人鬼以外は誰も人を殺したくなんか無いし、殺されたくも無い。それを強制的にやらされるのだから、精神がおかしくなる人がいても不思議では無い。特に普段から優しい人はそんな状況に耐えられないだろう。戦争さえ無ければきっと優しい父親で全く違った人生だったに違いない。恐らく世界中で同じような事例があるはずなので、やはり戦争だけは絶対やってはいけないと訴え続けるしか無いのだと思う。
▲0 ▼0
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当時は、近代化で科学技術だけが一人歩きして、今までの戦争よりも、複雑で過酷なものになったのに対して、 精神医学、心理学的な概念はまだ、日本では遅れていた。 心も脳という一つの臓器の様なものから出来ていて、人間には気合いとか根性だけではどうにもならない時がある、と言う概念がなかった。
日本の歴史だけを見ても、戦前戦後を生きた人達が、1番厳しい時代を生きた人達だと思う。。
▲0 ▼0
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1964年、東京オリンピックで女子バレーボールに金メダルを獲得させた大松監督は、戦争中、第31師団下で中隊長(部下200人余)としてインパール作戦に従軍。「白骨街道」とも呼ばれる悲惨な戦場からの数少ない生還者の1人でもある。これら経験が、大松の性格を大きく変えさせたと言われる。戦争経験を語る事なくこの世を去った。
▲8 ▼0
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その人がPTSDであったことと、子供に性的虐待をすることはまた別の話ですね。それはその人の元々の人格の問題です。身内にPTSD患者がいますが、フラッシュバックや悪夢で苦しむこと、解離性障害などが後遺症であって、強い怯えや社会回避はあっても、他人に加害をしてしまうなんて病気ではない。世界中に膨大なPTSD患者がいるますが、加害する患者なんておそろしく稀です。日本では無知な弁護士が加害者の責任回避にPTSDを使おうとしていましたが、こういった誤った関連付けから妙な流れが生まれませんように。
▲4 ▼1
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「戦争の傷」と言えば、攻撃を受けた者の傷が目立つが、命を奪った事により生じた罪悪感で誰にも語ることのできない罪悪をひた隠して家族との日常のギャップに苦しんだ復員兵や、終戦後も心だけを戦場に置いてきた人、そうした家族や恋人のPTSDによって狂わされた者もいて、負の連鎖に今も苦しめられている人達がいるとすれば、戦争というのは終わりがないのかもしれない 当時は診断も治療もなく、生き延びたはずが自らの命を自ら奪う これほどまで人の心は戦争を拒むのに戦争は無くならない こうした地獄のような後遺症とその連鎖を我々は知らなければいけないのだと思う
▲10 ▼1
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人間同士が、殺し合う戦争 まさに、狂気です。普通の精神状態ではなくなってます。 終戦になり、帰還したとしても、極限状況から戻るのは難しい。だから、ふうてんの寅さんがいたのです。 私が幼き頃は、周りは瘋癲の寅さんだらけでした。国からお金は貰えて、生活はできてましたけど、何屋さん? っていうおじさまがたくさんいました。 そういうおじさまから、お菓子やおごずかい貰えて喜んでいた子ども時代でした。
▲12 ▼0
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誰が好んで 人を殺すでしょうか
お国の為と洗脳されて殺戮していたとしても その時、目に映った光景や 手の感触、耳に残った声や音 それらすべてが一生消え去ることはないに違いない
その苦しみは本当につらかったでしょう 苦しくても耐えなくてはと思えば思うほど 精神を病むのも当然の結果だったと思う
戦争なんて してはいけない
今も、戦争の真っ只中にいる人々のもとに 一刻も早く平和が訪れてくれますように願うばかりです
▲18 ▼2
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アメリカで問題になっているけど、日本の場合は実際にまともに戦闘できていたのはごく一部で、トラウマになるほどの戦闘を繰り返せるほど弾薬や物資があったわけでもなかったと思う。むしろ、戦いよりも飢えやマラリア、仲間が死んでいくのを見ながら何もできない状況の方が、よほどトラウマになってそう。
▲25 ▼9
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戦後あたりの親父はうるさかったとよくききますがそりゃ生きるか死ぬかの世界で生き延びてきた人達だから今とは比較できないと思います。今は甘やかされて育つ子供が多いから多少は厳しく育てなければなりません。昔はほとんどが親父と仲良くなんて考えられない時代だからね。親父は厳しく目の上のたんこぶというか、それに打ち勝つためにがんばれた所もあります。そういう時代の親父や男達からしたら今の男は頼りないし優しすぎると思われるだろうけど、そこまでの世界で生きてきてないんだから仕方ないと思うし、逆に女性が昔よりのびのび生きれてよかったんじゃないのかと思うけどね。
▲16 ▼4
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戦後に書かれた随筆「堕落論」には、「戦争が終わり人間に戻ったという」一節がある。戦中は軍に従属する身であり、自分の理性より上官の命令が優先され、残酷な行為であっても軍の大義だと言い聞かせ、鬼畜に落ちた善人も多かったでしょう。戦争が終わり本来の自分に戻っても、過去の記憶が消えるはずもなく酒に溺れたり、トラウマとなって心身を壊し暴力的な行為をする人も少なくなかったはず。個々の行為を非難するのは簡単だけど、悲劇を生み出した背景を知ることも必要。
▲11 ▼3
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戦争に行く多くの人、つまり兵は職業軍人じゃなくて普通の市井の人たちだからね。普段は農作業したり、役場や商店に勤めたり、都会じゃホワイトカラーだったりと殺し殺されるような環境とは無縁の人たちばかりだから耐えられないだろう。職業軍人だって実戦経験がなければ相当なショックだと思うよ。
▲37 ▼2
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戦争の犠牲者は一般人だけではありません。 この記事を読んで分かる通り、兵士たちも犠牲者なのです。 戦争を始めたのは軍上層部。 この結末の責任は誰が取るのでしょうか? 当たり前ですが、二度と戦争をしてはいけない。強く思う次第です。
▲6 ▼1
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お父さんは紛れもない被害者です 戦争だからでは済まされない 私は祖父母を戦争で亡くし、会ったことはありませんが、まだ40代ですよ ちゃんと戦争の影響を受ける被害者の一人です かなり昔のことだと思いますが、まだまだ影は残されてます 悲劇を繰り返さないことだけが、たった一つの道標ですね 戦争の悲劇は、誰を責めることもできない悲劇ですから
▲5 ▼1
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兵士のPTSDはだいぶ前から話題になってるが、むしろ戦争体験した一般の人々のPTSDを調査すべきだと思う。原爆被爆者の体験談は色々調査されているだろうが、それ以外の空襲とかその他の被害によりPTSDを負っている人も多いだろうに。そうした事柄は国による戦災補償の問題などと相まってスルーされているね。また、戦後復興の時期、そんな終わったことにくよくよするんじゃないと言った日本的精神論によってうやむやにされていったと思う。
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お父さんが悪いのではない。 人格をも破壊する戦争が悪いのです。 私は幼い頃からずっと父に「戦争だけはダメだ」と言われ続けてきました。 現在の日本人は実体験として戦争を知らない世代がほとんどです。 今の生活、家族、親兄弟、友人のことを思うなら、平和の大切さをいま一度真剣に考えるべきだと思います。
▲3 ▼1
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私の母方の祖父も戦争で精神を病んでしまったらしい。 これを読んで、本当にそういうこともあるんだなと、その話は本当だったのかもしれないと思った。 というのも私の父も母と結婚するときに義理父に会ったことなく、その時はすでに入院していたらしい。 父は「戦争でおかしくなった」と聞かされて、それ以上突っ込めなかったので、本当に戦争が原因の精神病なのか、実は知的障害なのではないか?などと有耶無耶だったらしい。 なので私も真相を知らない。
そして私が、母方の祖父は生きていたという事実を知ったのは、祖父が亡くなってからである。 私が高校生の時だった。 精神科に長期入院していたらしい。 戦争から帰って来てからずっとと思うと、半世紀は入院していたのではないだろうか…
人生戦争に潰されて、何を思って生きてきたんだろう。 この体に半世紀幽閉されていた祖父の血が混じっていると思うと不思議である。
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67歳の方のお父上というと私の父と同年代かと推察します。私の父は、大正15年生まれで戦時中は、兵役免除されていた学徒であり、それこそ終戦の年に学徒出陣で徴兵された年齢でしたよ。つまり昭和20年に20歳であったのが私の父でした。つまり、戦時中、戦争の真っ只中にいなかったと推測します。たしかに動員即特攻隊とかあったのでしょうがね。しかし学徒以外は、早くから徴兵されたでしょうね。しかし、10歳代ですよ。16.17、18歳とかですかね。まだまだ情勢、状況を把握できないでしょうね。それよりも戦後に常識の価値が180度変わりましたね。WGIPのためです。日本人にとり信じていたものが180度変わりましたね。これは、生き方に効きますよ。ちなみに筆者の67歳の方は、昭和32.33年頃の生まれですね。戦後12〜3年経った時期ですよ。高度成長期が始まる前です。たぶん別の何かが父上には、あったのでしょうね。
▲10 ▼10
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私の考えでは、戦後日本で最も忘れられている、最も辛い思いをした人は、息子を戦争で亡くした母親達だと思います。今どきは何か事件があったりすると「心のケア」が叫ばれますが、当時の母親を支える社会ではもちろんなかったし、今もない。 「幼いほどに若く可愛い息子が殴られ、飢え、ジャングルで死んだ」母親は耐えられません。
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戦争から帰還しても立派に社会で活躍し、会社を興したり人の役に立つ人は大勢います。一方で家庭内暴力や性暴力に走る人もいますが、それは元々の素質の問題だと思います。何でも戦争のせいにするのは違うのではないでしょうか。現代でもお酒や薬物に溺れて道を誤る人はいます。まずはこの方の心のケアが必要だと思いますが、戦争のせいにして報じるのは間違いだと思います。
▲9 ▼38
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どんなに側から見れば立派な人や明るい人でも、闇を抱えて生きている。闇に怯えないで生き残って行く為には、恥を恥として受け止めなければならない。 他界した父も戦中、戦後の先輩方から、虐待を受けて来た人で毎日のようにテーブルをひっくり返していた。まともな人は存在しないということを幼心から学び続け、私は今を生き残っています。誰でも闇に心が支配されないようにコントロールして生きているのが現実です…。
▲3 ▼0
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昭和17年生まれの母は八人の兄弟姉妹の末っ子で、「仏」と言われるほど優しい人だ。だが、「一番上の兄」と言うときは、必ず2番目の兄を指している。長兄は、母より20才ほど上で、戦争に行ったが、復員後、ことあるごとにめちゃくちゃに母を殴ったのだという。母は「お母さん(私の祖母)は『あの子は戦争に行くまではあんな子やなかったのに』と言ってよう泣いてた」と言う。長兄が死んだときは本当にうれしかったのだそうだ。今もまだ、長兄はいなかったことにしていて、少しも許していない。 私にとって、戦争とはこういうことだ。
▲60 ▼2
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戦争で心が傷ついた人たちが育てた子どもの多くが今60、70代。その人たちも、自分がされたのと同じようなことを子どもにやってしまって、今の40、50代の中にも心に傷を負っている人が多くいると思う。
でも4、50代の孫世代やその子どものひ孫世代の傷はどんどん浅くなっていると思う。
せっかく傷が癒えて来ているのだから、もう2度と戦争はしないでいい。
▲5 ▼1
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PTSD……昔 ベトナム戦争の頃にアメリカの帰還兵の多くがPTSDで苦しんだそうです 日常生活が送れず社会復帰が出来ない人達で当時社会問題になりました けれどそれ以前のあの大戦での日本兵だった方々も苦しんでおられたのですね 今回初めて知りました 本人だけでなく周りの人間も被害を受ける
戦争は恐ろしい 戦争はやってはいけない 戦争で戦わない老人女性子供が被害を受けるけれどいちばん傷つくのは兵士なのですね 戦争は恐ろしい 戦争はやってはいけない
こちらが始めなくても巻きこまれることもあります いつまで平和な日本でいられるか
地球上から未来永劫 戦争が無くなればいいと切に願います
▲3 ▼3
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戦争・シベリア抑留による極度のストレス・重労働でまともな脳細胞が全滅してしまったのでは? 戦前・戦後は異常に虐待の話題が多いけど、脳細胞と関係がありそう。 研究が進んで、こうした虐待被害ができるだけ減ることを願っています。
▲2 ▼0
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こういった悲惨な出来事、日々は本当に気の毒だと思う。それと同時に国や故郷、家族の為に勇敢に戦った人やそれによって守られた人々の話が一切表に出ないのは如何なものかとも。
戦争が悲惨な出来事を数多く産むのは分かる。 ただ、それが戦争の100%なのか?
昨今の報道は大切なものを守る為に勇敢に 散っていった英霊と遺族が不憫でならない。
▲5 ▼4
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うちの祖母は生きていたら91歳だけど、「子どもの頃、兄姉らは戦争や病気で亡くなり、戦後は生きるためにヤミ米を服の下に隠して死体の山を走り抜けた」と泣きながら、子どもだったわたしに話していました。他にもいろいろ。祖母は、すぐに激昂し、人に対して、ありえないほどの人格否定的なことを言ったりするので、友だちはいませんでした。祖父とも面前DVを繰り返して、数々の酷い虐待を私の親にしました。私の親は精神疾患です。そして、私の親も私にひどい虐待をしました。 祖母は複雑性PTSDだったのだと思います。大人になって学ぶ中でわかりました。 祖母はとても愛情深い人で私は大好きでした。 現代の虐待全てが戦争の爪痕とは言えませんが、この記事を読んで、うちだけじゃ無いないんだと納得しました。
▲12 ▼0
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令和の今になって、漸く本当のこと、帰還兵の実態が明らかになるのは意義深い。 誰も、真実を語ろうとしない、世間体の悪いことはひた隠しにして、盛ったり、吹いたり、都合の良い事ばかり並べたてて、大本営委発表に沿って、如何に自分が、親兄弟が、先祖が素晴らしかったかとプロパガンダに協力するような出征兵士の家族ばかりだったのが、令和になって、やっと変わり始めた。 小野田さんや横井さんが帰還した時も、英雄の凱旋のような扱いで、軍部に都合の悪いことは隠蔽されたままだったような覚えがある。 世界一好戦的なアメリカ軍やロシア軍のPTSD患者はどれほどだろうか?
▲18 ▼1
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「父の幻覚、幻聴もひどくなっていきます」の部分から、戦時中の日本兵に投与されたヒロポン、覚せい剤の後遺症も考えられるのではないでしょうか? トラウマに加えて薬物後遺症の症状を自己治療・緩和するためにアルコール多飲・依存に陥ってしまった。 本人もご家族も大変苦しまれた事と思います。 このような事実を発信して頂く事は、現在~将来の国防・安全保障を考える上でも非常に重要な観点になると思います。
▲4 ▼1
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ブラジル移住者です。戦後移住者の方々で満州から引き揚げにシベリア抑留者のかたや特攻隊の生き残りの方々がいました。話を聞いていましたが、今となってはもっとしっかりお話を聞いていればと後悔しています。餓島と呼ばれたガダルカナル島の生き残り方はよく話をして頂き戦記ものの本を貸してもらい読ませてもらいました。以前はブラジル戦友会があったことを知っている日本人はいないと思います。
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