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藤岡美千代さん(66)の幼少期の体験は、戦争が影響した父の心の病によって支配されていた。

父は元日本兵で、酒に酔うと暴力的になり、「心中ごっこ」を提案するなど、藤岡さんと兄にとっては恐怖の存在だった。

父は戦争から帰った後、精神的に変わり、性虐待や暴力を振るうようになり、最終的には離婚に至った。

藤岡さんは父の死を喜んだものの、後に自殺だったと知り、自責の念に苛まれる。

 

 

藤岡さんはPTSDの家族会と出会い、父の過去を理解することで、彼もまた戦争の影響を受けていたのではないかと考えつく。

日本軍の精神的障害の研究は秘密裏に行われていたことが明らかになり、文化的な恥のため多くの家族が声を上げられなかったという。

藤岡さんたちは国に調査を求めており、元日本兵の家族の視点が研究されることを望んでいる。

 

 

(要約)

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右:藤岡美千代さん(当時9) 左:父親 

 

「起立!」酒に酔った元日本兵の父が、兄と私を壁際に立たせる。「これから皆で死のう」そう言って、プロパンガスの栓を開くと「シー」という音と共にガスが出てくる。藤岡美千代さん(66)が5歳ぐらいの時の記憶だ。この「心中ごっこ」が日常的に繰り返されるなど、藤岡さんにとって父親は恐怖の対象でしかなかった。 

戦争が人の心を壊すのは今では広く知られているが、日本では長年、本人も家族も問題を直視できずにいた。旧日本軍の極秘資料と兵士の家族の証言からその実態が浮かび上がる。(TBS報道局社会部・松井智史) 

 

ハンカチで包まれた父親の写真 

 

藤岡さんはいまだに父親の写真を直視できない。家にある写真はハンカチで包まれたままだ。父親は20歳で海軍に入り、千島列島の松輪島の航空基地に配属された。そこで、度重なる艦砲射撃にさらされるも生き延び終戦。その後、3年間のシベリア抑留を経て日本に戻った。親戚によると戦地に行く前は「おとなしくて優しい人だった」というが、日本に戻ってからは「人が変わった」という。藤岡さんが父親との壮絶な日々を振り返ってくれたー 

 

私が5歳くらいの時、父はよく夕飯の時に酒に酔ってちゃぶ台をひっくり返して暴れました。その度に私は兄に連れられ外へ飛び出しました。父が寝たのを見計らって家に戻り、床に散らばったおかずやご飯をかき集めて食べました。父が起きるのではないかとビクビクしながら…そんな父でも、当時はトラック運転手の仕事をしていました。 

 

私が7歳ぐらいになると新しい家に引っ越していましたが、父の酒の量はさらに増えていきます。夜になると突然、布団をはぎ、踏みつけたり、柱やふすまに向かって兄と私を放り投げたりしました。いつしか新しい家のふすまや壁はボロボロになりました。私は毎日、寝不足でした。 

 

父の幻覚、幻聴もひどくなっていきます。 「あいつが殺しに来る!」雨が降ると、父は部屋の隅でそう叫びながら、震えて泣いていました。台風やあられで窓ガラスがガタガタと鳴っても「兵隊の足音が聞こえる!」と叫んで怯えていました。その姿を見るのが怖かったです。  

 

私が8歳の頃、泥酔した父が刀で切りつけようとしてきた事がありました。娘ではない何かに向かって刀を振り上げたようでしたが、近所のおじさんが「あんたの子どもだ!自分の子どもに何をする!」と止めてくれました。 

 

父から性虐待を受けたこともあります。太ももに唾をつけられ何かを押し当てられました。それがどんな意味を持つのか、当時は理解していませんでしたが、気持ち悪さは覚えています。父が上に乗っかっているのを母が目撃して、親戚の間で問題になりました。 

 

 

次第に、父はまったく働かなくなり、両親は離婚。父と離れて暮らすようになります。 

 

そして、9歳の冬、父が死んだことを母から聞かされました。兄と2人で喜び合い何度もバンザイしました。 

 

その後、父のことは忘れることにしました。 

 

20歳になって、親戚との雑談の中で、父は自殺だったとはじめて知ってショックでした。自分に責任があるようにも思えましたし、死んだことを喜んだことへの自責の念にもかられました。そして、自暴自棄に・・・ちょっとした嫌なことでも、「もう死んだ方が楽だ」と思ってしまい、リストカットをするようになりました。 

 

フラッシュバックも起きるようになりました。駅や商店街で暑さ対策用のミストが世に出始めた頃のこと。街中でとつぜん聞こえた「シー」というミストの音で、あの「心中ごっこ」の光景がよみがえってきたのです。プロパンガスの音だ!と恐怖にかられパニックに陥りました。 

 

21歳で結婚、出産しましたが、当時の夫からのDVや娘の育て方への悩みなどから、気づいたらキッチンドランカーになっていました。父のようにはなるまいと思っていたのに。ある時は、娘を突き飛ばしてしまうこともありました。「父と同じようなことをしている」と愕然とし、変わろうと決心するきっかけになりました。 

 

藤岡美千代さん(66) 

 

藤岡さんは長年、口を閉ざしてきた。しかし、2023年から公の場で自身の経験を話すようになった。きっかけは「PTSDの日本兵家族会・寄り添う市民の会」との出会いだった。そこには、藤岡さんと同じように日本兵だった父親との経験でトラウマを抱えた人たちがいた。 

 

第一回千葉証言集会 2024年12月 

 

つらい経験をしてきた人たちの話を聞く中で、藤岡さんは「父もPTSDに苦しんでいたのではないか」と思うようになった。そして、忘れようとしてきた父親のことを「理解したい」と気持ちが変わっていった。 

 

記録とカルテ 

 

藤岡さんが厚生労働省から父親の軍歴を取り寄せると、父親がソ連の捕虜となり、シベリアに3年間抑留されていた記録とカルテが見つかった。 

睡眠が不十分、頭痛が続くなどの記述があったが、「よく生きてきたな」と思った。必死に生きてきた当時の様子を知るにつれ、はじめて親子らしい情愛のようなものを感じるようになったという。 

 

 

上智大学・中村江理准教授 

 

「日本の軍隊は天皇の軍隊で世界最強だから、『心に傷を負った兵士はいない』と、存在そのものを隠蔽していた」。戦争とトラウマの専門家、上智大学・中村江理准教授はこう指摘する。 

一方で、軍部は精神疾患にかかった兵士の研究を、千葉県市川市にあった国府台陸軍病院で秘密裏に行っていた。 

 

提供:北海道大学精神医学教室 

 

その様子を撮影した貴重な映像が、北海道大学精神医学教室に保管されている。 

体に目立った外傷がないにもかかわらず、手足が震えたり、麻痺したりした兵士の姿が記録されている。現代ならPTSDと診断されるようなケースも多いとみられている。 

 

国府台陸軍病院の病床日誌 

 

また、千葉県・東金市の浅井病院の倉庫には、国府台陸軍病院の精神疾患の兵士約8000人の病床日誌=カルテのコピーが残されている。 

多くの兵士が戦地での加害行為から罪の意識にさいなまれ精神に異常をきたしていたことが分かる。中国大陸に出征した兵士のカルテにはこんな記述があった。 

 

『良民六名を殺したることあり、之が夢に出てうなされてならぬ』 

『特に幼児をも一緒に殺せしことは自分にも同じ様な子供があったので余計嫌な気がした』 

 

浅井病院 長沼吉宣さん 

 

浅井病院の長沼吉宣さんによると、カルテは終戦後に焼却処分されるはずだったが、将校たちが忍びないとドラム缶に入れて埋めて隠したのだという。 

 

終戦時、海外には約330万人の軍人や軍属がいたが、中には、戦後に重度のアルコール依存になったり、自殺未遂を繰り返したりする人もいた。 

そのため、中村准教授は、記録に残されたのは一部だったのではないかと指摘する。 

また、心の傷を「恥」とみる雰囲気も、長年、当事者や家族が声をあげにくい状況を作ってきたという。 

 

今年2月、藤岡さんら「PTSDの日本兵家族会・寄り添う市民の会」は厚生労働省の担当者と面会した。国に実態調査を求めるためだ。 

3月の有識者会議では、厚生労働省が所管する戦傷病者史料館「しょうけい館」で、国による調査結果を2025年に公開することが決まったが、今回の調査には藤岡さんのような家族は対象に含まれていない。 

中村准教授は「戦争トラウマの問題は決して『過去』の問題ではなく、『現在進行形』の問題。元日本兵の家族の証言はこれまでほとんど解明されてこなかった戦争トラウマの長期的影響を知る上で非常に重要だ」と指摘する。 

藤岡さんも、調査対象を元日本兵の家族にまで広げてほしいと考えている。それが二度と戦争を起こさないことにつながると考えているからだ。 

 

※この記事は、JNN/TBSとYahoo!ニュースによる戦後80年プロジェクト「 

 

」の共同連携企画です。記事で紹介した「戦争トラウマ」についての情報に心当たりのある方は「戦後80年 

 

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