( 309454 ) 2025/07/21 07:15:55 1 00 お布施は本来、仏教において出家者に与えられる食物の寄付を意味しますが、現代では葬儀における現金の贈与が一般的となっています。
お布施が公共や共同体に役立つものに用いられれば、施主には大きな功徳がもたらされる一方で、僧侶が個人的な嗜好品に使えば、その功徳は期待できません。
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( 309456 ) 2025/07/21 07:15:55 0 00 お布施はいったい何に使われているのか(イメージ)
「お気持ちです」。そう僧侶に言われても、いくら包めばいいか戸惑うお布施。不明瞭な会計ながらも、法事を執り行ってくれた僧侶に渡していた人も多いのではないか。だが昨今では、民間業者が僧侶へのお布施も含めたプラン、僧侶を呼ばずに親族だけのお見送りと火葬だけというサービスも登場。お布施の存在感が薄れつつある。
その大きな要因は、葬儀の簡素化・非宗教化だ。鎌倉新書の「お葬式に関する全国調査」(第6回2024年)によると、2015年に3割ほどだった家族葬(通夜・葬儀・告別式があり、参列者を親族血縁・一部の友人のみに限る)が、2024年には5割にまで拡大している。一日葬(告別式のみ)が1割、宗教儀式がなく火葬のみを行う直葬・火葬式も1割弱ある。
仏教学者の清水俊史氏は、「元来、お布施はサービスへの対価ではない。しかし、実際問題として、現代社会におけるお布施は、『サービスへの対価』として払っている側面が色濃く、その存在意義が根底から崩れようとしている」と指摘する。
こうした中で、私たちはお布施をどのように捉えればいいのだろうか。
初期仏教から現代仏教に至るまでのお布施のあり方を再確認し、現代のお布施の意義を改めて問い直した清水氏の著書『お布施のからくり「お気持ち」とはいくらなのか』を一部抜粋して再構成、僧侶のお布施の使い道による功徳の違いについての考察を紹介する。
お布施で渡したお金が、いったい何に使われているのか。多くの施主が気にするところだろう。
古代インド仏教において、お布施といえば「食べ物」の贈与を指すことがほとんどである。すなわち、出家者は毎日午前中に托鉢を行い、生産活動には一切携わらない。施主が食事を与えることが功徳になるのは、托鉢によって得た食物で出家者が命をつなぎ、修行に励むことで“善”を完成させるからである。
初期仏典によれば、悟りを得る前に苦行で生死の境をさまよっていた釈尊にスジャーターが捧げた乳粥こそ、最も大きな果報をもたらすお布施として説かれている。その理由は、この乳粥によって釈尊は命をつなぎ、修行に励むことが可能となり、ついには最高の“善”である悟りを得たからである(『長部』一六経「大般涅槃経」)。
ゆえに、出家者が、お布施を受け取っておきながら修行をサボるどころか、禁欲や自制などの戒すらもろくに保っていないのであれば、せっかくお布施をしてもその果報は小さくなってしまう。
したがって、在家者が誰にお布施をするのか、またお布施が本当に仏道修行に役立っているのかを適切に見極めることは、その果報を実り豊かなものにするうえで重要である。同時に、出家者が戒を守り、出家としての責務を全うすることは、お布施を受けるにふさわしい存在であるためだけでなく、お布施を施した人々に大きな果報を生み出すためにも重要である。お布施には、在家者と出家者の双方が互いに利益をもたらす関係を築くという意義が含まれている。
ところで、貨幣社会が成熟した現代日本においては、お布施と言えば、托鉢で「食事」を与えることではなく、葬式において「現金」を贈与することが一般的である。
「お葬式に関する全国調査」(第5回2022年)によれば、葬儀でのお布施の平均額は22.4万円である。葬儀の拘束時間を2時間ほどと考えれば時給11.2万円の異例の高額であり、その用途について、檀家が関心を持つのは自然なことである。
特に、生産活動から離れた生活を送り、托鉢によって生命を維持し、常に清貧であることを理想とする僧侶が、お布施をもとに贅沢な暮らしを送っているとすれば、それが批判の対象となるのは当然であろう。「坊主丸儲け」という言葉が存在すること自体、こうした疑念が社会に根強く存在していることを物語っている。
実際問題、丸儲けしている坊主はどれほどいるのだろうか。日本宗教連盟の理事長などの要職を務めている戸松義晴(浄土宗)は、朝日新聞の記者から「坊主丸もうけって本当ですか?」と問われ、「宗教法人の多くは家族経営で規模が小さく、決して裕福ではありません」と前置きしつつも、「ぜいたくな暮らしをしている宗教者は、ごく一部ですが存在します」と答えている(朝日新聞デジタル「宗教は救いになる? それとも坊主丸もうけ? 僧侶が語るその必要性」2024年5月15日)。
このような「贅沢坊主」や「強欲坊主」は、しばしば週刊誌を主戦場としてセンセーショナルに取り上げられる。曹洞宗に属する僧侶の橋本英樹は、次のようにその実態を告発する。
「経営が厳しくなったとはいえ、いまだに儲け重視の僧侶がいることは確か。そういった僧侶が集まれば駐車場はモーターショーのようになり、話題といったらゴルフのことばかり」
高級時計は当たり前。釣り好きが高じて、クルーザーまで所有する強者もいるという。
「寺格(寺の格)が高いと、戒名一つで200万円、葬儀で1000万円くらいはザラ。本来“浄財”というきれいなお金であることを忘れ、高級外車を経費計上する僧侶もいます。先日もウチに相談に来た方に聞いたのですが、ある寺で『お金がないので葬式はやれません。納骨のときのお経だけお願いしたい』と言ったら、僧侶が『ふざけんな、お前!』と品位に欠ける言葉で責め始めたと聞きました」(橋本英樹「葬儀とお墓」『女性自身』2016年10月4日号)
ここまで極端な例はさすがに稀であろうが、檀家のお布施が僧侶個人の物欲に消費されている例が、残念ながら現実に存在する。実際、丸儲けしている僧侶も確かにいるのである。
さて、ここで疑問が生じる。「お布施で渡したお金が、高級腕時計に化けた場合と、本堂再建に使われた場合では、施主の功徳に違いがあるのだろうか」と。
この問題に対して仏教は明確な回答を与えている。当然ながら後者のほうが大きな功徳が期待される。すなわち、僧団に対して園苑や僧院、日常生活品(坐具や枕、敷物など)といった“もの”を布施すれば、いったん布施した“もの”が壊れるなどして失われるまで、布施者は絶えずその功徳を得ることができるというのである(『大毘婆沙論』122巻、『倶舎論』4章とその注釈『称友疏』)。
この萌芽となる記述は初期仏典のうちにも確認される。
【質問者】どの様な者に、昼も夜も常に功徳が増大するのか。どの様な人々が法に住し、戒を具え、天へ行くのか」と。
【釈尊】「園に植え、林に植え、橋を渡し、水場や井戸や住所を与える人々がいる。その彼らには、昼も夜も常に功徳が増大する。彼らは法に住し、戒を具え、天へ行く」と。 (『相応部』1章五品七経)
お布施によって得られた功徳が継続的に増大する“もの”とは、人々や僧団にとって役立つ公共物、あるいは出家修行者が使用する共用財に限られる。したがって、現代において本堂の改修工事や仏具の購入にお布施が使われた場合、その本堂や仏具が壊れるまで、そのお布施による功徳は増大し続けるとされる。一方で、高級スポーツカーや高級腕時計などの嗜好品は公共物や共用財には該当しないため、それらが購入された場合には施主にさらなる功徳は期待できない。
このように、頂いたお布施を個人の嗜好のために使うことは、単に顰蹙を買うだけでなく、仏教教理の観点からも「好ましくない」ことは明白である。したがって、私たちが寺院や僧侶にお布施をする際には、そのお布施が何に使われているのかを注意深く見守る必要があるだろう。
※清水俊史・著『お布施のからくり「お気持ち」とはいくらなのか』(幻冬舎)より部抜粋して再構成
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【プロフィール】 清水俊史(しみず・としふみ)/仏教学者。2013年、佛教大学大学院博士課程修了、博士(文学)。日本学術振興会特別研究員PD、佛教大学総合研究所特別研究員などを務める。著書に『阿毘達磨仏教における業論の研究──説一切有部と上座部を中心に』『上座部仏教における聖典論の研究』『初期仏典の解釈学──パーリ三蔵と上座部註釈家たち』(いずれも大蔵出版)、『ブッダという男──初期仏典を読みとく』(ちくま新書)がある。
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