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日中戦争において、日本軍は非戦闘員に対する残虐行為を行い、その理由は複雑であった。

戦犯となった旧日本軍の兵士たちの懺悔録からは、社会制度の犠牲者としての側面や、自身の鬱憤を晴らすために暴力に走った一面が伺える。

このような行為に対する統制の欠如は、日本軍の過ちを示している。

南京大虐殺などが起きた背後には、組織としての日本陸軍の体質や兵士教育の問題があったと指摘される。

さらに、歴史的事実の否定は、新たな軍国主義の象徴ともなりうる。

著者は、日本陸軍がなぜ蛮行を犯したのかを徹底的に検証する重要性を訴えている。

(要約)

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写真はイメージ ©アフロ 

 

〈「日本兵は誰もが人間でなくなっていた」日本兵が“意味もなく”中国人を惨殺、虐待、強姦…日本軍が中国で行った“残虐行為”の数々〉 から続く 

 

 日中戦争で、旧日本軍は現地の子どもや女性、高齢者ら非戦闘員にも残虐な行為を行ったとされている。日本兵は、なぜ“蛮行”に走ってしまったのか? 

 

 禁固刑を受けた旧日本軍の軍人を取材したノンフィクション作家・保阪正康さんの著書『 昭和陸軍の研究 上 』(朝日文庫)より、一部を抜粋。旧日本軍の中尉だった鵜野晋太郎の証言を紹介する。(全2回の2回目/ 1回目 から続く) 

 

◆◆◆ 

 

 それぞれが自分の心境を文書に綴ることになり、戦犯たちは懺悔録を書いた。そのなかに、仮名とも漢字ともつかない線を書きつらねている下級兵士がいた。 

 

 政治将校からその意味を問われると、下級兵士はいきなり土下座して、「自分は文字を書けないのだ」といって泣きだした。西日本のある山村で、貧農の家に生まれ、小学校に通うこともできなかったと告白を始めた。 

 

「泣くな。泣いてはだめだ。それはおまえのせいではない。社会制度の犠牲者ということではないか」 

 

 と政治将校から慰められて、その下級兵士は中国での自らの行為の一部始終を告白しはじめた。放火、略奪、強姦、それこそ数えきれないほどの蛮行を重ねていた。次から次に告白はつづいた。 

 

 傍らで聞いていた戦犯たちは、しだいに生気を失い、うつむいたままだった。 

 

「私は国を恨んでいたのです。私は家の働き手でしたが、私が徴兵されたために家族はどうすることもできませんでした。私が徴兵されてまもなく、妹は女郎に売られて家をでていったそうです」 

 

 この告白を聞きながら、鵜野は日本軍の蛮行のなかに、日本で下積み生活を余儀なくされていた者が、その憂さ晴らしに、何の統制もなく好き勝手をしたという一面があることを知った。それを将校がまったく制止しなかったところに、日本軍の過ちがあることもわかった。むしろ日本軍はそれを放置しながら、「聖戦」を説きつづけたのである。 

 

 中国側は1100人余の大半を起訴猶予にして日本に帰国させた。昭和30年から31年にかけてである。 

 

 

「中国戦線での蛮行はいくつかあったが、組織だって行われるようになったのは、あの南京大虐殺からです。捕虜を片っぱしから殺す、強姦、放火、略奪、それを日本陸軍のシステムとして行っている。あれはもう論外です。 

 

 私は、たしかに戦犯として裁判を受けたし、それに値することを行った。その私からみても、あの南京大虐殺は私も当時くわしく聞いていますが、あまりにもひどすぎる。あれがなかったことだとか、そんなにひどいことをしたわけではないという言い方は、基本的に少しもあの時代と精神構造が変わっていないということだ。 

 

 あのとき、南京大虐殺は中国を殲滅したという大ニュースにすりかわっていたわけで、私も胸をおどらせました。あの虐殺を認めたくないといわんばかりの政治家や学者の発言など、日本陸軍の実態を検証していないがための不勉強にすぎない」 

 

 銀座の奥まったレストランで、鵜野は長い話を終えると、そう述懐した。 

 

 南京大虐殺があったとかなかったとか、そういう論よりも、なぜ日本軍はあれほどの蛮行に走ったのか、それを解明するために日本陸軍の体質、組織原理、そして兵士教育などが徹底的に検証されなければならない。そのために自分は恥を忍んでこうして語っている、と鵜野はいうのであった。 

 

 私の手元にいま、2つの資料がある。 

 

 1つは、1990年11月19日号の『人民日報(海外版)』である。1989年秋に石原慎太郎代議士(当時)が南京大虐殺を否定的に語った発言に怒りを示した「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」の張益錦館長の原稿が載っている。ここで張は、歴史的事実を曲解させることを許さないといって、当時の様子を記述している。 

 

 さらに、1984年に調査したところでは、このときまだ1756人の生き証人がいて、彼らからその目撃談を聞くことができたといっている。この紀念館には、日本人の若い世代も訪れ、当時のすさまじい蛮行に改めて驚いているといったエピソードが紹介されている。 

 

 もう1つの資料は、台湾の中央研究院の李恩涵研究員(カリフォルニア大学歴史学博士)の石原発言への抗議を認(したた)めた文書だ。具体的に石原発言には根拠がないことを指摘している。 

 

 そのうえで、殺害した兵士、市民の数、そしてそれらの行為を正当化しようと試みる論はいっさい許されないといい、「このような正義感を欠いた行動は、世界中の中華民族を激怒させるとともに、彼ら新軍国主義者と徹底的にわたりあうことを決意させるものである」と書いている。この原稿は日本で自由に発表していいというのであった。 

 

 

 この南京大虐殺については、私は、昭和陸軍の病理的体質という視点から徹底的に検証を加えなければならないと思う。南京大虐殺があったか否かという問題ではなく、昭和陸軍はなぜ、あのような蛮行を働いたのかという視点である。南京の紀念館の張館長の発言、さらには李研究員のリポートなどはその際の資料にはなり得る。 

 

 瀋陽の軍事法廷で最高刑の禁固20年の刑を受けたのは、陸軍中将の鈴木啓久であった。 

 

 陸軍士官学校を卒業したこの高級軍人は、関東軍第2独立守備隊独立守備歩兵第12大隊長(大佐)、第15師団第67連隊長(大佐)、第27歩兵団長兼唐山地区防衛司令官(少将)、独立歩兵第4旅団長(少将)、第117師団長(中将)など一貫して戦線を回り、“野戦の将軍”として昭和陸軍の栄達の道を歩みつづけた。 

 

 昭和陸軍の軍規粛正にはもっとも責任を負わねばならない軍人であった。しかし、昭和陸軍がこうした国際法に無知な将官に支えられていたところに問題があった。 

 

 特別軍事法廷の判決文は、鈴木に対して次のように決めつけている。 

 

「中国にたいする侵略戦争を遂行し、国際法の規範と人道主義の原則を踏みにじり、その配下の部隊を指揮命令して、無住地帯をつくり、わが国の都市や農村を破壊し、わが平和的住民を追いたて、惨殺、虐待し、わが国人民の財産を略奪、破壊し、毒ガスを放ち、わが平和的住民を軍事的強制労働に徴用し、部下が婦人を強姦するのを放任するという罪を犯している」 

 

 この判決を鈴木は甘んじて受けると申し出ている。  

 

 昭和36年(1961年)、鈴木は刑期の途中で日本への帰国が許された。「一度は死んだ身、自分は日中の橋渡し役になる」と漏らしていたが、まもなく体が弱まり病死している。平成3年当時、8人のうち6人は死亡、第731細菌部隊の1人は戸籍も名前も変えてひっそりと生きている。鵜野もその1人と会うことはない。 

 

 撫順戦犯管理所の看守、政治将校、看護婦が、かつての戦犯たちの招待で、ときおり日本を訪れる。しかし彼らは、かつての蛮行は決して口にしない。戦犯たちもそのことにはふれない。 

 

 だが旧日本軍の老いた元兵士たちは、なぜ私たちはあのような時代に生きなければならなかったのかと、「昭和陸軍という残酷な組織」への恨みごとをつぶやきながら涙を流すのである。 

 

保阪 正康/Webオリジナル(外部転載) 

 

 

 
 

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