( 315405 ) 2025/08/12 03:53:56 2 00 「いつ帰ってくるんや」日航機墜落で娘3人亡くし錯乱した母、守り続けた父の最期 悲しみを抱きながら生きた遺族の40年TBS NEWS DIG Powered by JNN 8/11(月) 17:01 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/8b0c413ba947106b4210a9e2d59f43897eddbed7 |
( 315408 ) 2025/08/12 03:53:56 0 00 田淵親吾さん(享年96) 今年5月
単独の航空機事故としては世界最悪の520人が亡くなった日航機墜落事故。1985年8月12日、群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落した航空機には田淵陽子さん(当時24)、満さん(19)、純子さん(14)の3姉妹が乗っていた。母の輝子さんは錯乱状態に陥って長年、アルコールに依存するようになり、娘の死を否定することでなんとか命をつないできた。夫の親吾さんは暴れる妻をただ黙って抱きしめ、何があっても守り続けてきた。その親吾さんは今年5月、96歳で亡くなった。
左から田淵陽子さん、純子さん、満さん 事故3日前
葬儀では気丈に振る舞っていた輝子さんだったが、出棺の際に声を上げて泣いた。事故から40年、夫婦は悲しみを抱きながら生きてきた。
田淵輝子さん、親吾さん 2004年
手にもった杖を支えに一歩、また一歩と山道を進む老夫婦がいた。2003年8月12日、田淵親吾さん(当時74)、輝子さん(当時69)夫妻は、日航機墜落事故の現場である群馬県上野村の御巣鷹の尾根に眠る3人の娘の墓標を目指していた。高齢にもかかわらず水を満タンに注いだ2リットルのペットボトル計5本を担いでいた。
輝子さん 2004年
夫妻は登山口を出発してから約2時間後に墓標に到着。事故機の残骸から見つかったフィルムを現像し陶板に加工して墓標に貼り付けた3姉妹の写真(事故3日前)をじっと見詰めた後、ペットポトルの水をかけ始めた。苦労して運んできた水は、炎に包まれて亡くなった娘たちを冷やすためのものだった。
「熱かったね、熱かったからね。姉ちゃん、みっちゃん、純ちゃん熱かったね。ごめんね、ごめんね」
輝子さんは涙を浮かべながら、墓標を優しく撫で、水をかけ続けた。
「この子たち、みんな焼け焦げた状態で見つかったでしょ。生きているうちに火に包まれて苦しい思いをしながら死んでしまったのではないかと、思っちゃうのよ。助けてあげられなかったから、せめて水だけでもかけてあげたいの」
ディズニーランドで陽子さんと純子さん 事故前日
1985年8月12日午後6時56分。そのとき、親吾さん(当時56)は自身が営む大阪市内の町場の石鹸工場で働き、輝子さん(当時51)は旅行から帰宅するはずの娘たちの夕食の準備に追われていた。仲の良い3姉妹で、長女の陽子さん(当時24)は毎年夏のボーナスが出ると妹の満さん(当時19)、純子さん(当時14)を旅行に連れていくしっかり者だった。
タイムカプセルに投函する満さん 事故2日前
当初は群馬県の尾瀬を訪れる旅程だったが、親吾さんが茨城県で開催中のつくば科学万博に行くよう勧めたことで予定を変更。3人は事故機の123便に乗ってしまった。
「わしが余計なことを言わなければ、あの子たちは事故に巻き込まれずに済んだのに。悔やんでも悔やみきれん」。親吾さんは終生、自分を責め続けた。
事故後間もない頃の輝子さん、親吾さん
遺族が事故後に向かったのは墜落現場での捜索ではなく、遺体安置所での身元確認である。乗客乗員524人のうち4人が奇跡的に救助されたが、亡くなった520人の遺体の損傷は激しく、大半が部分遺体だった。
田淵夫妻が初めて遺体の確認のために体育館に入ったのは、事故から3日経過した15日。体育館を出た瞬間、輝子さんは叫び声をあげながら、日航職員におしぼりを投げつけて詰め寄った。
「うちの娘とは違う。あんなの人間の遺体やない。山の木を焼いたんやろ」
3人の遺体の最終確認を終え、大阪の自宅に戻ったのは20日。本当に大変だったのは葬儀が終わった後だった。輝子さんが錯乱状態に陥ったのである。
事故後間もない頃の輝子さん
ほとんどお酒を飲めなかった輝子さんが事故後、アルコールに依存するようになっていく。これまでめったに声を荒げることがなかったが、朝から一日中、仏壇の前に座り込んでは「いつ帰ってくるのや」と怒りをぶつけ、ウイスキーを浴びるように飲んだ。日中でも突然、「今から子どもたちに会ってくる。ぎゃーっ」と叫んで家を出ることもあった。
親吾さんが夜眠りにつくと「なんで私が寝られんのに、あんただけ寝るんよ」と怒鳴って、寝ている親吾さんの顔にウイスキーを浴びせかけたこともあった。そんな輝子さんを親吾さんは黙って抱きしめ落ち着かせるしかなかった。
事故後間もない頃の親吾さん
周囲は輝子さんを病院の精神科で受診させるよう勧めたこともあったが、親吾さんは頑としてそれを受け付けなかった。「輝子が暴れるのは事故のショックからであって、原因ははっきりしている。無理やり精神科に引っ張っていって受診させれば、それを一生恨みに思うやろ。これ以上、そういう心の傷を負わせてはあかんと思ったんや」
輝子さん自身には錯乱状態になっていたころの記憶はほとんどない。だが、このとき親吾さんが守ってくれたことだけははっきりと認識していた。夫の前で口に出すことはなかったが、筆者には感謝を打ち明けてくれたことがある。
「私があまりにも暴れるから、まわりはみんなおびえていたわ。でもあのとき暴れる私を、しんちゃん(親吾さん)はかばってくれたんや」
輝子さん 2015年
輝子さんは3人の娘がいつか必ず帰ってくると信じていた。娘の死を否定することが、唯一の生きる支えだったのである。
しかし、事故から25年が経った2010年、輝子さんの身体に突然、帯状疱疹が出て救急車で運ばれ入院した。「救急車で運ばれるとき娘たちに『お母さん、いつまで待ってるんや。私たちが帰ってくるわけないやろ。ええかげんにせえ』ってどやしつけられたんや。あれは夢やない。確かにあの子たちが囁いたんや」
その出来事をきっかけに、25年間ずっとアルコールを手放せなかった輝子さんが一滴もお酒が飲めなくなってしまった。「それ以来、私はあの子たちをもう待たないって決めたの。それを破ったら、またあの子たちにどやしつけあられるから」
輝子さんには娘が亡くなった事実を受け入れるのに25年の歳月が必要だった。
90歳、最後の慰霊登山 娘に「ごめんね」
2019年8月、90歳になった親吾さんは最後の慰霊登山に挑んでいた。田淵夫妻は毎年8月12日の命日だけでなく、開山の春、閉山の秋の年に3回、御巣鷹の尾根に登ってきたが、輝子さんは大病を患い、前年を最後に登ることを断念している。
新人記者として2003年に田淵夫妻と出会った私(筆者)は、その後の16年間、仕事ではなくプライベートで毎年3回必ず休みをとって夫妻の慰霊登山に同行した。かつてはペットボトルを5,6本担いで山道を進んだ親吾さんは、もはや自力では登ることができない。両手に杖をついてなんとかバランスを保つのがやっとである。ベルトをつかんだ私に持ち上げられるようにして一歩、一歩前へ進み、休息ポイントがある度に涼をとった。
左から西村記者の娘、息子、西村記者、親吾さん
息を切らして娘たちのもとに辿り着いた親吾さんは、両ひざをついて墓標に頭を下げて手を合わせた。そして、一言つぶやいた。「ごめんね」。
最後の登山で手を合わせる親吾さん
「良いお供えができて満足や。ありがとう」。最後の慰霊登山に、親吾さんの涙はなかった。90歳の体力の限界まで御巣鷹の尾根を登り切った男の顔があった。
親吾さん、西村記者 今年2月
今年2月、私は奈良県の介護施設に入所している親吾さん(96)を見舞った。親吾さんの末の弟から「いつ亡くなってもおかしくない状態」と連絡をもらい、面会させてもらったのである。
親吾さんはすでに言葉を発するのが難しい状況だったが、私の手をしっかりと握り返してくれた。親吾さんが山に登れなくなって以降、私は毎年5,6回、御巣鷹の尾根に登って墓標の写真を送り続けている。病床の親吾さんにその写真を見せると、目を見開き食い入るように見つめていた。
「40年間、本当に頑張りましたね。僕がこれからも御巣鷹山に登るから安心してくださいね。90歳までは無理かもしれないけど…」
介護施設を出る私に最後まで手を振って見送ってくれた親吾さん。3か月後の5月、3人の娘たちのもとへ旅立った。
輝子さんと西村記者 今年5月
通夜、葬儀の場では、輝子さんは気丈にふるまい、涙を見せることはなかった。通夜の振る舞いでも、「お父さんは私がお見舞いにいっても目を開けてくれんで、本当に意地悪やわ」といつものように冗談めかして愚痴をこぼしていた。
しかし、葬儀後の出棺の際、それまで抑え込んでいた感情があふれ出る。輝子さんは棺に花を供えながら、声を上げて泣いた。親吾さんの額、両頬、あご、唇を愛おしそうに触れて別れを惜しむ。棺の蓋が閉まろうとすると、もう一度、顔を近づけて制止し、ハンカチで声を押し殺して嗚咽した。大粒の涙が頬をつたった。
「ありがとう、またね」。それは輝子さんが日航機墜落事故から40年にわたって生き抜いてきた「戦友」にかけた最後の言葉だった。
TBSテレビ 西村匡史
事故から丸40年の命日に先立つ今月5日、私は親吾さんの末の弟の友一さん(79)夫妻とともに御巣鷹の尾根に登った。長年にわたって親吾さんを献身的に支えてきた友一さんは、兄の思い出の遺品を3人の娘の墓標に供えて手を合わせた。「これで兄貴も喜んでいるよ」
兄の遺品を供えた友一さん 今月5日
私が田淵夫妻と出会った2003年、夫妻は事故後に遺族であることを隠すために引っ越しまでしていて、全ての取材を拒んでいた。だが、プライベートで慰霊登山のお伴をする私に次第に心を開くようになってくれ、最終的には過去が知られるのを覚悟で「筑紫哲也NEWS23」の放送を了承してくれた。
出会ってから22年間、夫妻とは家族ぐるみのお付き合いをさせていただいた。私が結婚の報告をした際には大層、喜んでくれ後日、手紙とお祝いのコーヒーカップセットを送ってくれた。「縁もゆかりもない若いあなたが毎年3回、それも3人分の花束をもって慰霊登山にきてくれることがどれほど嬉しかったことか。せめてもの親の真似事としてプレゼントさせてください」
雨の日も風の日も肌を刺すような暑い日も、夫妻と一緒に登った16年間の慰霊登山。親吾さんとの最後の登山では、その思い出の1つ1つが私の頭をかけめぐり、込み上げある涙を必死に抑えた。夫妻と御巣鷹の尾根を一歩一歩、踏みしめることで、私は「命」の重さを噛みしるようになった。
実の両親がすでに他界している私にとって、夫妻はかけがえのない「お父さん、お母さん」である。通夜に参列した私を輝子さんは喜んで迎え入れてくれ、その晩、私は親吾さんの柩の側で添い寝させてもらった。
私は記者になって22年間、「命」をテーマに取材を続けてきた。その覚悟が定まったのは、田淵夫妻との出会いがあったからである。
「よう頑張っとるなあ」。天国の親吾さんにそう言ってもらえるように、これからも「命」を紡いでいきたいと思っている。
※この記事は、TBS テレビと Yahoo!ニュースによる共同連携企画です
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( 315407 ) 2025/08/12 03:53:56 1 00 この一連のコメントは、日航機の墜落事故に関する記事に対する読者の感想や思いを共有しており、多くの人がこの悲劇に心を痛めていることが分かります。
特に、記者が犠牲者の遺族に寄り添い、生涯忘れがたい経験を共有したことで生まれた絆、またそれによって読者が感じた共感と悲しみが多くのコメントから読み取れます。
あらゆるコメントから感じ取れるのは、昨今の社会の中で命の重さや愛の形を再認識し、また未来に向けて過去の悲劇を忘れずに語り継ぐ必要性を感じているということです。
(まとめ) | ( 315409 ) 2025/08/12 03:53:56 0 00 =+=+=+=+=
このご夫妻のことはこれまでの報道や書籍で存じ上げており、想像を絶するさぞお辛い思いをされただろうと感じておりました。 この記事を読み、取材した記者が本当に心から命のことを考え、それを伝えたいという思いが伝わってきました。慰霊登山にもお子さんを同行させるなど、取材や仕事を超越して取材対象者の想いに寄り添った結果がこういう素晴らしい記事になるのだなと、久々に感じ入りました。 まもなく墜落の日、亡くなられた関係者の皆様のご冥福をお祈りすると共に、ご遺族の皆様のご健勝を祈念申し上げます。また、こういった重大事故を語り継いでいく使命を持った記者の皆さん是非ともこの記事のような真に取材対象者に寄り添った取材を行っていただきたいと思います。
▲11565 ▼273
=+=+=+=+=
あの事故から40年の歳月が流れた実感が湧きません。当時8歳で、何が起きたのか分かりませんでした。翌朝墜落現場からの映像が流れ続けてやっと飛行機が墜落したのだと理解しました。今のようにGPS機能があるわけではないので、現場を特定するのに時間を要しました。事故機には坂本九さんも乗っていて残念ながら亡くなりました。ただ、奇跡的に4名の生存者がいました。原因は人為的ミスとか機体の整備不良とか言われていますが、詳しくは分かりませんでした。亡くなられた520名のご冥福を祈ります。
▲738 ▼34
=+=+=+=+=
田渕さんご夫妻のことがずっと気になっていました。お父様は今年亡くなられたのですね。 記事を読んで涙が溢れました。 3人のお嬢様を一度に失われてさぞかし辛い辛い思いをされて来たと思います。 色々なやっかみを言う人までいてたとか。 それでも長く生きて来られたのはお嬢様の分までと言う思いもあったのかなと思います。 ご冥福をお祈りします。記者の方、本当に素晴らしい方ですね。
▲6920 ▼64
=+=+=+=+=
ニュースやネットの情報でしか事故のことを知らない30代ですが、娘さん3人を一度に亡くしてしまったご夫妻の気持ちを考えると胸が締め付けられ、涙が溢れます。 そのお二人にとってこの記者の方の存在はどれだけ救いになったことでしょう。 そして記者の方もまた早くにご両親を亡くされているとのこと。 きっと双方にとって親のように、子どものようにそれぞれを気にかけ、良い報告には喜び、共に悲しみや命に思いを馳せることで、生きる意味の一つになっていったのかもしれませんね。 とても良い記事を読ませていただきました。
▲1269 ▼13
=+=+=+=+=
テレビ番組でしか見たことがない世代ですが、パイロットの方々が最後まで諦めずなんとか不時着させようとあがいていたレコーダーを聞いて、なんでこの人たちに救いがなかったんだろうとこの世の不条理を感じました。 生き残った方々はなぜ自分たちだけが助かったんだろうと苦しんだだろうし、亡くなった方は恐らく苦しい死に方をしたと思う。もうすぐその日なんですね。亡くなられた方のご冥福をお祈りします。
▲85 ▼4
=+=+=+=+=
若い記者さんが、長きにわたり、取材という枠組みではなく、本当の意味で心に寄り添った結果、私達も被害者の方の思いを知りました。
この事故ははからずも、現代の航空安全の布石となり、今なお皆の心に響いております。
真のジャーナリズムを拝見させていただきました。TBSさんにさ素晴らしい人材がいらっしゃるんですね。
▲1085 ▼12
=+=+=+=+=
泣きました。私にも娘達がいます。つい最近、娘とは部活の合宿行ってた為、数日会うことができませんでした。その数日だけでも寂しかったのに、一気に娘さん全員を亡くすとは想像を絶する絶望感。
我が子は可愛い。本当に可愛い。それは錯乱する。ご主人は責任感を感じながら、奥さんを守り96歳まで生き延びた。精神的になんて強い人だ。ご冥福をお祈り致します。
▲6239 ▼123
=+=+=+=+=
涙なくしては読めませんね。 私は今度38歳になります。 事故のことは知りません、ニュースでとても悲惨なことがあったんだなとは小さい頃から思っていましたが。 出産して親になり、中学生の子を2人育てています。毎日が子供中心の生活です。 記事を読んで、このようなことがあっても自分も夢か現実か分からないような状態がきっと何年も続くと思いました。地獄のようです。 お二人がお子さんの後を追ってもなんら不思議ではない、生きていく方が苦痛だと感じました。 一生懸命生きられました、ゆっくり休んでください。私も頑張ります。
▲4038 ▼84
=+=+=+=+=
5年くらい前にこの方が両手に杖を持ってゆっくりと慰霊登山されているのをテレビで見ました。お墓に着いて号泣しながら手を合わされていたのを覚えています。見てる方も泣けてくる程辛かった。 あちらで娘さん達と再会出来たかな。本当にお疲れ様でした。 ご冥福をお祈りします。
▲3728 ▼39
=+=+=+=+=
涙無しには読めない。近しい人を亡くした悲しみは、薄まることはなく、あとからじわじわ来る。葬儀や法事のときは責任感でしゃんとしているように見えるかもしれないが、ふと個人の好きな歌が流れたり思い出がよみがえったりすると悲しみはぶり返す。
お二人の40年間どれだけお辛かったか、どれほどくやんだかと思うと言葉にならない。 奥さまの今後が穏やかな日々であることを願うばかりです。 記者の人間性や想いが伝わる本当に良い記事でした。
▲3006 ▼29
=+=+=+=+=
神様はその人が背負えるだけの荷物を背負わすとか言うが、そんなことはない。あまりにも残酷で重い荷物を背負わせられた人生だったと思う。気が狂いそうになったことも、奥様を道連れに娘達に会いに行こうと考えたこともあったと思う。しかし、一生懸命に与えられた人生を生き抜き、今は、娘さんたちと笑顔で会っていると信じている。
▲2445 ▼27
=+=+=+=+=
こんなご遺族にどんな言葉をかけられるだろう。事故当時でも、その数カ月、数年後でも、娘さんたちの分まで前向きに生きてくださいなんて、とても言えなかったと思う。最愛の娘さんを突然亡くすことが、どれほどつらく苦しいことか、赤の他人の私でも胸がえぐられそうになる。それも3人一度に。 せめて、お父さんの最期に娘さんたちの迎えがあったと思いたい。 そして、残されたお母さんの余生にわずかでも安らぎがあってほしいと心から願います。
▲1718 ▼26
=+=+=+=+=
壮絶な人生だったとお察しします。 一度に娘さんを3人も亡くす苦しさ。 持っていきようのない気持ち。 そりゃ錯乱するとも思います。 娘さんのお告げで取り戻せたってのは本当に良かった。 人間の精神って何かのきっかけが変わるのかもしれないけど、心の痛みは消えない様にも思います。 大往生だとは思いますが、ずっと支えてくれた旦那さんが亡くなるって感慨深いでしょうし。 これは本当に悲惨な事故です。 当時僕は子供で12歳でしたけど、かなりの衝撃を受けました。 こんな事故が無くなる事を祈るばかりです。 旦那さんにはお疲れ様でしたと言いたいです。 安らかに。
▲760 ▼12
=+=+=+=+=
Yahooのニュース記事を読んで初めて涙が出ました。ご夫婦は辛く苦しい運命を背負って生きてこられたと思います。記者としてだけではなく、ご夫婦の辛さや悲しさを一緒に背負って登山されてきたこと、プライベートでの交流がご夫婦にとってはとても嬉しかっただろうなと思いました。残された奥様も心穏やかに過ごせますように。
▲1546 ▼18
=+=+=+=+=
とても胸が締め付けられ涙が止まりません。 520人の犠牲者のうち、仲良し三姉妹のお嬢さん達がいたことを過去に記事で読みました。 ですがお母様がその後にアルコール依存症で錯乱状態になったのは知りませんでした。 どれだけ悔しくて苦しくて辛くて大変な日々を過ごされたことでしょう。 亡くなられたご家族の苦しみや絶望を想像すると言葉にもなりません。 どうか天国でお嬢さまとお父様が再会して温かい日々を送り、お母様を空から見守ってくれることを祈っています。
▲1363 ▼11
=+=+=+=+=
久々に読み応えのある素晴らしい記事でした。 マスコミの方々は叩かれることも多いですがこのように人の心に最後まで寄り添われる方も確かにおられるのですね。 お父様が娘さん達と再会できていますように、娘さんとご主人を亡くされたお母様が命ある限り心安らかに過ごされますことお祈りしております。
▲1281 ▼9
=+=+=+=+=
25年間、娘たちの死を受け入れられなかった母の心。その重さは、外から見れば執着かもしれないが、親にとっては生きる支えそのものだったのだと思う。 「熱かったね」と墓標に水をかけ続ける姿には、時を超えてなお癒えない痛みと、愛情の形があった。 御巣鷹の尾根を一歩一歩登った父の「ごめんね」は、90歳の肉体から絞り出された、人生のすべてを凝縮した言葉だろう。涙ではなく、その背中そのものが、悔いと誇りと愛を物語っている。 あの日の空に消えた命のそばで、長い歳月を越えてなお、深く熱い愛が静かに息づいていたことを、この記事は教えてくれる。
▲1154 ▼13
=+=+=+=+=
初めてYahooニュースを読んで、号泣しました。 娘3人をある日突然失い、お父様は長生きされましたが96歳まで楽しい事が少しでもあったのかと考えると非常に胸が苦しいです。 お母様も心穏やかに生きられますように。 この記者の方、安楽死の記事でもお見かけしたように思います。 誠心誠意、魂を込めての記事だからこそたくさんの方の心に響いていると思います。 これからも頑張って欲しいです。
▲813 ▼8
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一気に可愛い我が子を3人もなくしたら、それは錯乱するよ。どれだけ辛かっただろうか。それに、自分が余計なことを言わなければ事故に巻き込まれることはなかったという、罪悪感。そんなもの本来背負わなくて良いものなのに。 途方もない絶望感に打ちひしがれながら、懸命に生き抜いてきたご夫婦を尊敬します。どうか、こんな悲しい事故が二度と起こらないように、日航機墜落事故を語り継いでいかなければならないと思います。
▲595 ▼6
=+=+=+=+=
生まれて間もない我が子を連れて実家に帰っている時に、このニュースが流れてきました。申し訳ないですが3人ものお子さんをこの事故で亡くされた方がいたことを今日初めて知りました。どんなに辛かったことか、想像を絶します。そこからの人生においてはお二人とも心から笑える日はなかったことでしょう。普通でも暑いさなかの登山はきついのに、最初のうちは重い水を何本も背負って墓標に水をかけ、高齢になってからも可能な限り慰霊のための登山を続けたご夫妻。涙が出ます。頑張って頑張って妻を守りながら生き抜いた親吾さん。本当にお疲れさまでした。ご冥福をお祈り致します。
▲458 ▼7
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この記者の方は以前スイスで安楽死を選択した女性も取材していたと思う。こんなに「命」について伝え続けるという信念を持った記者がいるんですね。これからもぜひ、信念を持ち続けてかっこいい姿を見せてください。
▲504 ▼4
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私は誕生日が8月12日。 当時11歳の誕生日を祝ってもらうため、大好きなご馳走が並べられ、家族で楽しい時間を過ごそうとした矢先、ニュースで「日航ジャンボ機が消息を絶った」と何度も繰り返していました。 誕生日祝いどころではなくなり、家族でずっとニュースを見て、子供心にとんでもない事が起こったと思いました。 何年経っても遺族の悲しみが消える事は無かったと改めて痛感しました。 残された奥様が幸多き余生を過ごされますように。
▲459 ▼4
=+=+=+=+=
涙無くしては読めない愛で溢れる記事ですね。 当時小学生の夏休み、出校日に担任の先生が飛行機が落ちたと、大変な事故が起こったと言っていたのを覚えています。 親になり今後の子供の成長や活躍を楽しみにしていますが、それが一瞬で奪われてしまう喪失感、苦しみは想像もし得ません。 記者さんが寄り添ってくれたこと、どれだけ救われたのでしょうか。 読み終わった後も涙が出ます。 記者さんありがとう。 お父さんもお疲れ様でした。 お母さんはまだ元気で頑張りやー!
▲497 ▼10
=+=+=+=+=
私はこの事故の2ヵ月後に生まれたので当時の記憶は一切ありませんが、こちらの記事はとても胸に刺さり2回読み返してしまいました。 親吾さんがあちらの世界で娘さん達と幸せに暮らせている事を願います。 そして長年ご夫婦に寄り添い続け取材を続けた西村記者も本当に凄い方だと思います。
▲415 ▼5
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あの事故が起きた時、私は高校生だった。あれからもう40年か。時の流れは恐ろしい。 3人の娘を事故で全員亡くしたら、錯乱せずアルコールに走らず平静を維持してその後の人生を生きられる人なんて、まずいないだろう。 わたしは娘一人しかいないが、その娘に何かあったら、とうてい正気を保つことなどできないだろうと思う。
▲533 ▼10
=+=+=+=+=
一度に3人もの最愛の娘を亡くすという悲劇。そしてそれに伴う遺された夫婦の苦悩の日々。母親である輝子さんが酒浸りの日々を過ごすのも無理はないだろう。それにしても親吾さんは素晴らしい。輝子さんを精神的に支えるため、自分が気丈にならなければならないという使命があったのだろうが、誰にでも出来ることではない。親吾さんとしても、自分が提案した旅行プランによって娘たちが事故に遭遇する一因を作ってしまったことに対する自責の念と後悔に終生向き合うこととなった。それだけでも重荷であるのに更に妻も支えなければならなかった。そしてそんな人生を全うした。本当に素晴らしい人だと思う。
▲260 ▼4
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素晴らしい記事でした。遺族の方の苦悩がひしひしと伝わり、いつの間にか落涙していました。私が生まれる前のことですが、風化させてはいけない事故ですね。こういったジャーナリズムがまだ日本に残っていることは救いのような気がします。そして、御冥福をお祈りします。
▲346 ▼2
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この時期になると知り合いがこの飛行機に乗る予約してましたが、当時仕事でやらかしてしまい、乗ることが出来ず夜遅く新幹線で自宅へ帰った時、親父さんに「帰って来るなら連絡してこい!」と怒られたそうです。このご両親は辛い40年を過ごしてきており、特に旦那さんは気がおかしくなっている奥さんをしっかり支えて立派な方だったと感じました。今頃天国で娘さん達とこれまで一緒に過ごせなかった分を過ごしていると思います。
▲255 ▼20
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我が子を失うなんて親としたら絶望的だし生きる気力もなくなるくらい辛いことだと思います まして子供3人を1度に失うなんて
奥様を支えながらもご本人もさぞかし苦しかったことでしょうね あちらで娘さんたちに再会できたでしょうか? きっと娘さんたちはお父様の頑張りを誇りに感じてると思います 娘さんたちと一緒にやすらかにお過ごしください そして娘さんたちと一緒に奥様をお見守りください
▲260 ▼4
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私は4年前に23歳になったばかりの長男を亡くしました…自死でした。 生きたくても生きられなかった若者がいる中で自ら生きることを諦めた馬鹿な息子です。 しかし、我が子を失う無念さ、辛さは身をもって知っているつもりです。 今日生きる気力を毎日振り絞って日々を乗り越える感覚です。 これが40年続くとなると果てしなく気が遠くなり、滅入ってしまいます。 3人の娘さんを亡くされたご夫妻が乗り越えて来たご心労ご苦労を想うと涙が出ます。
▲212 ▼7
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日航機墜落事故より前に発生した飛騨川バス転落事故では、家族全員を事故で亡くした中学生がその後自殺して社会問題になった。 娘を3人も亡くした両親の心痛は察するに余りある。 鉄道事故でも福知山事故を含めて大事故が起きているし、日本は何気に事故大国だが、今後大きな航空機事故が起きない様に関係者は安全対策を入念に行う様にして欲しい。 コストカットが遠因でそろそろ大事故が発生しそうな予感がする。
▲193 ▼34
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この記事を見て涙が溢れて来ました。きっと父親は自分がつくばに行くことを勧めたことを一生悔やんで生きてきたでしょう。それでも妻の状態を考えれば、自分が支えて行くしかなかったのでしょう。一度に3人の娘を亡くした悲しみは想像を絶するものだったと思います。私も自分の子どもが突然このようなことになると受け入れることが出来る自信はありません。本当に素敵な夫婦です。そして愛に溢れた家族だったのでしょう。お父様のご冥福を心よりお祈りいたします。そして天国で娘さんたちに会えますように。
▲120 ▼2
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久しぶりに心の揺さぶられる記事に出会いました。このように命に寄り添える素晴らしい記者がが残っている日のジャーナリズムもまだ捨てた物じゃないと思いました。一度に3人の大切な娘さんを失った田淵さんご夫妻の悲しみは想像ができません。私にも娘が一人だけいますが、このような自己で突然失ったら男親でも錯乱してしまうかもしれません。そんな状態になった妻を長年守って亡くなった夫の親吾さんは人一倍愛情深かい優しい夫だったののだろうと想像します。その夫婦に長年寄り添い、見守り続けた西村記者の人となりとジャーナリストとしての心に感服しました。
▲105 ▼2
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お嬢様を3人亡くされたこのご夫婦のことを初めて知り、涙しました。この記者さんとのご縁というか運命の出会いにも。 今頃お父様は天国でお嬢様と抱き合って再会を喜んでおられることでしょうね。 私の4年前に亡くした父の親友が乗っていました。奥様から一報があったとき父は親友宅に車を飛ばして飛んでいき、遺体が確認されたとき現場に行きました。オーダースーツの内側のネームだけが父の親友だという証しで下半身は見つかりませんでした。 葬儀のときに棺が軽い軽いと鳴いていました。あの日のことは小学生だった自分も忘れられません。 搭乗者の皆様の御霊の安らからんことを祈ります。
▲264 ▼6
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記者の卒業年度から見て、私とほぼ同い年かな。 この事故は我々の世代には生まれてはいたがリアルではない。どちらかといえば毎年この時期に特集を組まれる映像としてのイメージが強い。 それでも、御巣鷹に登ってみようと足を運んだのは素晴らしいと思う。報道特集は偏りすぎていて、基本的に嫌いだが、この記事は良かったと思う。 輝子さんが優しい輝子さんに戻って御主人も少し救われたんじゃないかな。今の時代、一人で誰にも知られず生涯を終える人も多い。自分の亡骸に縋って泣いてくれる人がいる。それだけでも救われることなのかもしれないですね。
▲69 ▼3
=+=+=+=+=
お子さんを一気に亡くした方にとって自分たちの気持ちを理解し支えてくれる存在はどんなにか心の支えや励みになったことかと思います。
この記者さんが2人に寄り添って娘さん達のお墓参りも引き継いでくれたことでお父様は安心して旅立つ事ができたと思います。
私の姉も連れ合いを亡くした時、涙をまったく流さず気丈にふるまい続けていましたが、出棺の時にそれまで抑えていた気持ちが溢れ出すように棺にすがって名前を呼びながら号泣しました。その時の様子が思い出されてまた涙しました。
▲80 ▼3
=+=+=+=+=
死んだ方がマシだと思えてしまう事もある。
我が家にも小さい子が1人いるけど 先に行かれたら、1人にさせられないと 私は、後を追うだろう。 いや、希望を失うからなのかもしれない。
生きていれば、救いはある。 そう思いたいが、救いなんてないと思えてしまう事がある。 その絶望を、力強く支えてくれる誰かがいなければ、人1人はとてつもなく弱い。
私も弱く、絶望した時期もあり、早く死にたかった頃もある。 だけど、生きて今があって、助けてくれた仲間に感謝している。
今は、たくさん恩返しするために、なるべく長く、生きていたいと思う。
▲156 ▼9
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初めて飛行機旅行する2日前の事故。空港では色々な人でごっちゃに。飛行機のなかでは、繰り返しあのニュースが流れた。それからコロナ禍まで毎年飛行機に乗ったが、恐ろしい事態には一度もならなかった。皆さんのおかげといってはいけないが、気付かせてくれたからだと思う。未だ忘れていないです。ご冥福をお祈りします。
▲206 ▼10
=+=+=+=+=
年長の頃だったかな。 夕方のニュースでただならぬ空気を感じ、しかも料理番組で見たことのある坂本九さんが乗っていたと知り、子どもながらに怖さとショックを覚えた。
今、私も子を持つ親になりこの記事を読ませてもらったが、涙なしでは読めなかった… 同じ立場なら私も間違いなく錯乱する。 後を追うかもしれない。 生きていく希望がなくなったのだから、それしかないときっと考える。
地獄の日々、奥様をただひたすら抱きしめて守ったご主人がこの世を去り、お一人になられた奥様はさぞかし寂しいのではないか。 どなたか近しい方が側にいらっしゃることを願う。
▲131 ▼1
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まずは西村記者に感謝を申し上げたい気持ちになりました。命の尊さ、西村記者の記事だけでなく、生き様でしっかりと伝わりました。
テレビで見た当時の事故のニュースは、小学生だった私の脳裏に今でも鮮明に焼き付いています。一度に娘さんを3人も亡くしたら、私だったら発狂して生きていられないと思います。旦那さんが支え続けた夫婦の絆、言葉になりません。
遺族の方々も高齢になりますが、慰霊のバトンを受け取る世代が絶えないことを祈ります。
▲71 ▼1
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久々に、心揺さぶられる記事を読んだ。 涙がしばらく止まらなかった。 3人の娘さんを亡くすなんて、とても耐えられない様な経験をされている方に寄り添うって、半端な気持ちでは逆に傷つけてしまう。 記者の方は、若いうちからそれを分かっていて、一生を通じて寄り添うと決めていたのだろう。きっと一生、ご夫妻の代わりにこれからも登山されるだろう。 こんなに信頼できる記者さんと知り合われた事は、ご夫妻にとって、救いの一つだったかもしれない。
▲82 ▼0
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時間をかけて信頼関係を築きあげてきた取材姿勢、素晴らしいと思います。残された奥様がこれからも周囲の方々に支えられ、穏やかな余生を過ごされることを祈ってます。他の記事では取り上げられていますが、本記事ではボーイング社の修理ミスが事故原因であることが触れられていません。他の記事を読めば分かることとは言え、これから事故を直接見聞きした世代が減っていき、ニュースでしか知ることのない世代が増えていきますから、この事故について記事を書く際には、必ずJALのせいではなく、ボーイング社の修理ミスのせいだということを、一言記してほしいと思います。ボーイング社の修理ミスのせいで、機長を含め乗務員の皆さんも恐怖の中で亡くなりました。そのような恐怖のなかでも、最後まで諦めず、乗客を救おうとしていた機長をはじめJALの乗務員たちの勇気についも、これからずっと語り継いでいってほしいと思います。
▲78 ▼7
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この夫婦のお名前などは知らなかったが、「こんなのは娘の姿じゃない!」という言葉は聞いた事がある。 それが、田渕さん夫婦だったんですね。
受け入れられない現実。 自分には子供はいないが、5歳になる姪っ子がいる。 我が子のように可愛がっているから、少しはお気持ちが理解出来ます。
忘れてはいけない記憶と同時に、事故の真相究明にも強い思いがありますね。
▲100 ▼4
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もちろん娘さん3人を亡くしたご夫婦の悲しみは自分には計り知れないほどのことで同じく3人の子供がいるので同時に子供がいなくなることを想像したくないほどのことが起きてしまって運命の怖さだけを知る自分がいます。そして何より記事を読んで沈んだ心が救われたのは新人記者の時代からこのご夫婦と最期の登山までご家族でしかもプライベートで同行して交流されていたことです。なかなか出来ることではないと思う。お子さん3人を亡くされて、お孫さんもいなかったかもしれない。少しでも記者さん家族と触れ合ってこのご夫婦が心許せる交流であって少しでも楽しみがあったのならと思いました。日航機事故の頃、自分は小学生で群馬近くの利根川沿いに住んでいてヘリコプターが飛ぶ音と事故の惨事の映像がお盆休みに流れ胸が苦しかった。西村記者の優しさに自分も救われた。
▲61 ▼4
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私も3姉妹で子供も3人いるのですが、娘さん3人を一度に亡くされるという状況は想像を絶する悲しさ苦しさだったことだろうと、この記事を読みながら涙が溢れ胸が大変痛みました。 その後、ご夫婦とも娘さんたちの分まで頑張って長年生きていかれたのは、本当に心打たれます。
昔 我が家の近所に住んでいたご家族で、遠くへ引っ越して数年後に、息子さん2人を別々の交通事故で相次いで(お兄ちゃんが亡くなってちょうど1年後に弟君も…)亡くされたご夫婦のことがふと思い出されたのですが、その出来事を知った時には、あまりにお気の毒で辛過ぎて、ずっと忘れられないほど胸が詰まる思いだった覚えがあります。
このご夫婦は、その数年後に離婚され、元奥様の方が病気で早くに亡くなられてしまい、それも本当にお気の毒でたまりませんでしたが、田淵さん3姉妹のお父様は、お母様に寄り添われながら守り続けたことには、大変深い感銘を受けました。
▲53 ▼3
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遺族に寄り添った素晴らしい記事でした。涙が止まりません。3人の娘さんをいっぺんに失ってしまったご夫妻の心情を考えるとつらくてつらくて、でも私のそんな想像以上の苦しみだったと思います。そんな中で出会った記者の方とプライベートで共にした慰霊登山。記者のご結婚の際におっしゃったという「親の真似事をさせてほしい」と言葉にいろんな想いを感じて、涙しました。つらい事故や事件のニュースや特集はどうしても凄惨さを伝えるようなものが多いですが、今回のように命の尊さも伝えてくれるものがあると、単なる一時の興味で終わらずに、心に響いて忘れられないものになると思います。
▲44 ▼0
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当時はまだ中学生だったけど、この事故の衝撃はいまだに大きいね。今でもニュースなどで「〜空港を飛び立った旅客機が消息を絶ちました」というアナウンサーの声を聞くと、真っ先に御巣鷹山の事故の第一報を思い出す。 123便はJALだけでなく、日本のすべての航空会社で「欠番」とされているのも、日本人すべてにとってこの事故が特別な記憶となっていることの現れだと思う。
▲54 ▼1
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私にも年頃の二人の娘がおります。
もし、同じことが私に起こったらと思うと、本当にお辛い人生を過ごされたことと胸が締め付けられます。
奥様の心境は痛いほどよく分かりますし、それを庇うお父様もとても立派でした。
そしてそれを16年もの間、支え続けて来られた記者の方との絆に、人間として深く心を打たれます。
お父様、お母様、そして記者の方のかけがえの無い繋がりがせめてもの娘さんたちの不幸から心救われる気持ちです。
命の大切さを私たちも無駄にせず、他人に優しく接してゆくことを忘れずにこれからも生きてゆきたいと思います。
有難うございました。
▲21 ▼0
=+=+=+=+=
母を亡くした祖父母を見てきたので逆縁って本当に身を裂かれるような悲しみと苦しみである事は察するに余りある しかも3人も その中でこの記者の方に出会い心を通わせてきたのは救いだったであろうし、ご結婚の時に親の真似事させて欲しいとご夫妻が仰ったのも本心だったろうと思うし、この方に最期を見送られさぞかし嬉しかったと思う 普段霊とかあの世は信じない私ですが、どうかご夫妻が三姉妹と今は穏やかに楽しく過ごせてるように願っています
▲94 ▼0
=+=+=+=+=
あの日、私は小学生でしたが、テレビを見ていて緊急速報のテロップで日航機123便がレーダーから消えたと流れたのを今でも思い出します。 それからの大変な出来事もはっきり覚えてます。 事故は起こしたくて起こすわけではないけれど、結果は重大なことになります。 日航機にしても福知山線事故にしても大勢の人にとって取り返しのつかないことになります。 日常の仕事としてやっているとつい忘れがちになりますが、自分も人の命を預かっていることを常に忘れず、気を引き締めて取り組もうと思った素晴らしい記事でした。
▲25 ▼0
=+=+=+=+=
中学生の時にこの事故は起きました 今では考えられない雑な整備基準の為 この事故は起きた事を後の情報番組で知り驚きでした こんないい加減な考えによって一体どれだけの人の人生が狂ってしまったのか もう40年も経ったのですね この田淵さん 本当に大変な人生になってしまったのですが最後まで奥様を守り抜いた男らしさ 同じ旦那としても敬服いたします 日航ジャンボ機墜落事故の被害者の方々と共に改めて心からご冥福をお祈りします
▲94 ▼8
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飛行機に異変が生じてその時までおよそ1時間。その間中の乗客はどんな思いだっただろう。 動悸、息切れ、めまいー、とても冷静でいられるわけもなく、周囲や同行者に対して励まし合うなんて自分にはできるわけがないと思う。ましてやその状況下で遺書を書くなんてとても発想も実行もできない。 あの時そんな恐怖と闘った皆さんに心から祈りたいです。 当時よりも安全性も向上した今でこそレジャーなどで気軽に飛行機に乗って、窓から地上を眺める度に良い景色だな、と呑気に考えるだけだけど、この季節この話題が出る度に考え込んでしまいます。 特にボイスレコーダーを使用した再現CGは本当にショッキングだけど、ぜひ事故を知らない若い皆さんにも見てもらいたいですね。
▲31 ▼0
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素晴らしい記事です。涙が溢れました。 娘さんを3人を一度に亡くされてどれほど辛かったか、想像を絶する苦しさですね。簡単な言葉では言えませんが、天国で安らかに休まれてください。
それに長年向き合い、伝え、慰霊登山を共にしてきた記者がいることが夫妻にとってどれほど支えだったでしょう。 素晴らしい方もいるんだなと感銘を受けました。
▲41 ▼2
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「あの時、あの機にさえ乗らなければ」第三者の自分ですらこの記事を拝見しながらこう思ったのだから、ご夫妻の無念さたるやいかばかりだっただろう。一度に三人の娘さんたちを失くされたのだから、錯乱するなと言うのが酷だ。ご夫妻は記者との交流を経て息子のように親近感を抱くようになったのだろうが、それが何とも切ない。改めてこの事故で亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。
▲61 ▼0
=+=+=+=+=
このご夫婦と、事故に合われた3人の娘さんの話は以前、日航機墜落事故の書籍で読み知りました。忘れられない内容でした。長女のお姉さんが毎年妹さん達を連れて旅行に行くほど仲の良い三姉妹だったのですよね。当初の旅程を変更したのは、尾瀬はいつでも行けるけど科学万博は今年だけだから、せっかくの経験のためにそっちへ行った方が良いというお父さんの思いやりからだったと記憶してます。その結果、事故機に乗ることになったことはお父さんには悔やみきれない苦悩だったと思います。そのお父さんも亡くなられ、時の流れを感じます。今は娘さんたちと一緒にどうか安らかにと祈る気持ちです。
▲21 ▼1
=+=+=+=+=
子供を亡くすのは想像を絶する苦しみ、凄まじい喪失感が襲ってくるはずです。これに耐えられる人間はまず居ないでしょう。気が狂い、精神は崩壊するのは当然です。因みに私は私にも可愛い子供達がいます。何も無くても毎日子供達が無事帰ってくるか心配で仕方がないです。万が一事件、事故に巻き込まれたらどうしようと。仕事中も突然不安が押し寄せてくる事があります。学校に着いているか今どこにいるか頻繁にGPSで確認しています。私の部署では子供が居る職員は私しか居ないので子供関連の事ではなかなか理解されない事が多いです。
▲18 ▼7
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素晴らしい記事と記者さん。 田淵ご夫妻にはどれだけの葛藤があったかと思うと、胸が締め付けられる思いで読ませていただきました。 遺体安置所で娘さんを見たときに、人間ではなく木を焼いたと言っておしぼりを投げた輝子さん、想像を絶する辛さだったと思います。 娘さんからええ加減にせえと囁きがあって待つのをやめたのも、ご本人が自ら受け入れるまでじっと待ち続けた親吾さんの支えがあったからかなと思いました。
▲40 ▼0
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山崎豊子さんの沈まぬ太陽も読みました。 で、当時(小学校1年生当時)同じクラスだった女の子のお父さんが、この日航機に搭乗していて亡くなったというのが、幼い自分に相当衝撃的でした。 今回の記事にあるような別のドラマが20年以上も紡がれていたのを拝見し、胸が苦しくなりました。 改めまして、お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りします。
▲18 ▼0
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事故当時私は14歳だったので、この三姉妹の三女さんと同じ年です。その自分が50代半ばになったことを考えると、ある日突然お嬢さまたちと会えなくなったご両親が、本当に長い苦しい月日を過ごされてきたんだと、胸が締め付けられるような思いでこの記事を読みました。お嬢さまたちの死を受け入れるのに25年間もの時間を必要としたこと、想像を絶するものです。 私にも娘がいて、ちょうど当時の自分と同じ14歳。先週飛行機で夏季研修に出かけましたが、今まで自分が乗る時は何も気にしたことなかったのに、娘が事故なく無事に帰ってくるか不安になることがありました。 このような悲しい事故を教訓に、航空会社や整備会社など、様々な方が尽力してくださっているおかげで、元気に帰ってきたことに感謝しなければならないとつくづく思い知らされました。
▲106 ▼4
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日航ジャンボが御巣鷹山に落ちたあの日、私は中学2年生で、友達とお祭りに行くため浴衣を着て、友達の家の前で友達を待っていました。普段聞こえない『ゴーッ』という音。何の音?と、不気味に思ったことを覚えています。 家に帰ってから、事故であったことを知りました。 奇跡的に助かった、同い年の女の子が、看護師国家試験で、同じ年に合格したことも覚えています。ヘリコプターで吊り上げられた彼女。忘れられませんでした。 それだけの縁ですが、あの事故の記事は目に触れれば読むようにし、長い年月が経ち、この記事を読みました。 親にもなりましたし、大病も患いました。むげに3人もの娘さんと引き裂かれたお父さんとお母さんの痛み。私も親ですからその思いが少しはわかります。田渕さんに寄り添った記者さん。あなたがいてくれた事が、田渕さんの救いになったことは確かです。人としてお礼を言いたい。ありがとうございます。
▲100 ▼4
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まずはこの記者さんは素晴らしい!です。ご遺族と終始一緒に生き続けて見守り続けて出来上がったこの記事こそ記者魂というものを感じます。 翻って相対的に見れば1985年8月12日日本航空123便墜落夕方524人の乗客・乗員を乗せて で終わってしまう記事。まず生存された4名の方々、それぞれが記事として報道されました。亡くなられた520名は数ですれば多くの方、しかし、一人一人に人生がありました。ドラマがありました。芸能人の方は数か月前に録音された曲が遺作となりその後、合唱曲としても歌い継がれています。また会社の要人の方、その後、てんやわんやのことでしたでしょう。また無名の多くの方にもそれぞれの未来がありました。夢もありました。それが一瞬で形もない姿になってしまった、 またこの記事の方、96歳、太平洋戦争をご存じのお歳の方なのですね、人が生きるということはと何度も振り返られたことでしょう
▲46 ▼4
=+=+=+=+=
今までで一番苦しい記事でした。 40年も経って、この事故の記事で泣くとは思わなかった。
お写真を見て このお父さんが発狂するくらいに泣けたことがあったのだろうかと ふと思った。 奥様を支えることで乗り越えられた部分もあったのかな。 毎年会う息子のような記者さんの存在が このご夫婦の心を救ったんだと思う。
うまく言い表せないけど、良い記事をありがとうございました。
▲58 ▼2
=+=+=+=+=
記事を読んで嗚咽が止まりません。愛娘を同時に全員亡くすなんて、正常でいられるわけがありません。何の罪もないのに不幸のどん底に突き落とされ、それでも懸命に夫婦で支え合って生きてこられたことにその生き様に、胸を打たれ、ただ祈るような気持ちになります。二度と人災が理由の事故を起こしてはならないという人類全体の教訓にしたいです。すばらしい記事を、ありがとうございます。ご夫婦に寄り添われ、人間味のある素晴らしい記者さんだと感服しました。
▲71 ▼2
=+=+=+=+=
殊更に感動を促す記事でもなく、それでもご遺族が生きてこられた現実と事実を記したいとする記者の思いが伝わります お子さん2人を連れた慰霊登山の写真でも、何気にハンディーファンをお父さんに向けて涼を取らせている その自然な振る舞いが、記者が長年ご遺族に気持ちを寄せてきた証ですね
またこれからも心の通った取材と記事を期待します!
▲82 ▼1
=+=+=+=+=
西村さん
感動的な記事を有難う御座います。恥ずかしながら、、初めてご夫妻の長年の苦闘、そして貴殿の献身的なサポートについて知りました。 私自身、改めて自分の命の尊さ、有り難さを噛み締めている次第です。
これからも人々や読者に寄り添う温かい記者としてご活躍くださいね。
本当に素晴らしい記事を有難うございました!
▲112 ▼2
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私も 最近 最愛の人だった 大切な友人を突然死でなくしました。 この世に彼がいないことが 未だに信じられずそして、その空虚感に苛まれています。最愛の人を突然なくすということは本当に本当に辛いものです。これから生きていく人生の中に彼がいないことは私にとっては とても辛いことです。 でもこういうことが起こるのが人生なのですよね。耐えて行かなくてはなりません。
▲19 ▼1
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この事故が起きた時私はまだ一歳で記憶はないですが両親にこの事故のことを聞いて育ちましたし、毎年この時期になるとこのニュースを聞かない日はなくあまりにも悲惨な事故だけに亡くなった人達と遺族の無念を想うと言葉になりません この娘さん達やご両親の姿を報道で見ていましたがお父様が亡くなられたんですね 自分の一言で予定を変えられて事故の便に乗せてしまったことをずっと後悔していたお父様の気持ちを思うとやりきれません ちょうどお盆の時期でなければ、事故が夕方ではなく、昼間だったら、こんなに多くの人が犠牲になることはなく、事故現場もすぐに特定されて多くの人が助かっていたのではないか、たらればの話ですがそう思わずにはいられません 今私は息子がいて母になりましたがもし息子がこんな悲惨な事故に巻き込まれて最後の顔さえ見れなかったらなんて想像を絶します また明日あの日を迎えますが心の中で静かに祈りを捧げたいです
▲12 ▼4
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就職して2年目の夏でした。8月末に北海道の出張があるかもと不安になったのを覚えています。 犠牲者の方のご冥福を祈ったのと、職業人として共に過ごした40年でした。自分にとっても大変な時間でしたが、関係者の方々も長い時間苦しみ続けたのですね。 戦後生まれの自分には忘れられない事故です。ご冥福をお祈りします。
▲14 ▼0
=+=+=+=+=
Yahooの記事で久しぶりに良い記事でした 実際に取られた行動も書かれた内容もとても深く、読み手のこちらに響くものでした
ご両親様のお気持ちを想うとなんと辛い40年だったのかと、40年経った今でも読んで涙が出ました お父様もお母様も苦しみに耐えた40年だったのだと存じます そして記者の方も何年も、そしてお子さんを携えての登山に頭が下がります、ありがとうございました 辛い出会いではあったでしょうが、良き巡り合わせにこちらからも感謝したいです
お一人残されたお母様が人生を健康に全うされます様に そしてお嬢様御三方とお父様があちらで念願の再会を果たされていますよう心からお祈り致します
40年という長い歳月にも負けず当時の状況やまたご心境が鮮明に蘇る様な記事を書いて下さってありがとうございました
▲13 ▼3
=+=+=+=+=
この事故の犠牲者の方と言う共通点しかないのだけれど当時読んでいたふぁんろーどというアニメや特撮なんかのごった煮の様な商業誌が有ってそこに毎回緻密な点描画を投稿する女性の方がいた。読者からは歩く点描画と親しみを込めて呼ばれていた。あの夏北海道から東京の出版社へ見学に行った帰りの便がたまたまこの飛行機で若い命が散ってしまった。ご存命なら更に腕に磨きをかけプロになっていただろうか。彼女の絵が好きで毎回楽しみにしていただけに今でもこの事件の記事を読む度にあの頃を思い出す。
▲17 ▼1
=+=+=+=+=
私が大学の時に、アルバイトでお金を貯めて友達と飛行機で旅行に行きました。 その旅行から帰って一週間後にこの事故が起こったので、鮮明に覚えています。 ちょうど私と同じくらいの歳のお嬢さん達。 ご両親の気持ちを思うと胸が締め付けられます。 お父様は天国でお嬢さん達と40年ぶりの再会されたでしょうね。立派なお父様を娘さん達も誇りに思ったはず。 どうかみなさんでお母様を見守ってあげてください。
▲21 ▼0
=+=+=+=+=
一度だけ、追悼慰霊式に参列した。
慰霊の園まで、バスに乗り換えて向かった。 式が終わり、夜中、山道から都内に戻ってくる間、 色々な感情が騒がしかった。
40年って、そう考えると確かにそうなんだろうけど、 ちぃっともそこまで遠い時間という意識は無い。 つまり、少なくとも自分にとっては、それだけ強い 記憶として残っている出来事なのだと思う。
▲8 ▼0
=+=+=+=+=
16年間も仕事としてではなくプライベートで年に3回、御巣鷹の山にご夫婦と登り続けた記者さんは本当に立派です。 ご夫婦が心を開いたのは記者さんだからこそだったのでしょう。 残された奥さまの事もよろしくお願いします。 亡くなられた3人の娘さんと、ご主人のご冥福をお祈り申し上げます。
▲73 ▼3
=+=+=+=+=
16年間も寄り添った記者は人として尊敬します。 もし私も夫妻と同じ状況だったら気が狂うと思います。
私の知人に元自衛官で御巣鷹山に救助に行った方がいます。 その方は自衛官で1番辛かったと言ってました。 焼けた人の匂い、人の肉片だらけの中で屈強な自衛官も吐きながら救助活動をしてたそうです。
食事もノドを通さず気が狂いそうな状況の中で肉片を集めたそうです。 自衛官を辞めた後も何度も夢にでてツラくて涙を流す日が続いてると言ってました。
家族を亡くした人だけでなく消防士や警察官、自衛官も同じように苦しんでいると思います。
▲53 ▼2
=+=+=+=+=
この記事を読むまではこのような記者さんがいらっしゃるとは知りませんでした。
多くの人が報道に対して不信感を持っていますが、この方はご遺族の心に寄り添って、ご遺族の気持ちを伝える事により、家族の大切さ、命の大切さを改めて世に思い起こさせる素晴らしいお仕事をされていると感じました。 家族で過ごす何気ない日常がいかに大切か、時間がいかに大切か、大切な人への接し方を学ぶ事が出来るのではないでしょうか。
▲1 ▼0
=+=+=+=+=
40年間、本当に頑張りましたね。僕がこれからも御巣鷹山に登るから安心してくださいね。90歳までは無理かもしれないけど…」
親吾さんにとってこの言葉はとても心強く、嬉しかったと思います。自分の心残りを託せる人がいるということは。 取材対象者と記者という関係を超越した もはや、親子のような関係だったんでしょうね。
辛く悲しい現実はありますが、とても心打たれる記事でした。
▲2 ▼0
=+=+=+=+=
本当に辛いですよね… 今朝父が読んだ新聞では、9歳の男の子が高校野球が大好きで1人で飛行機に乗って、亡くなったと聞きました。父が1人で怖かっただろうな。かわいそうだったよなと…想像しただけで、涙が出ます。ニュースを知っただけで、こんなに悲しいのですから、ご家族の皆様の気持ちをお察しすることは決して不可能ですが、亡くなられた皆様のご冥福をお祈りしております。 決して忘れてはいけない、そして2度と起こしてはならない事故だと思います。
▲69 ▼1
=+=+=+=+=
子供を事故で自分より早く亡くすのは、心が張り裂けそうなほど辛いと思う。それも三人も一度になんて、頑張れとも言えないですね。ただ抱きしめていたご主人の深い愛情を感じました。 50代ですが、当時の墜落事故のニュースは、まだ覚えています。連日テレビで放送されていて、その悲惨な光景は子供ながらに悲しみを感じました。こんな辛い出来事は、二度と起きて欲しくないです。
▲52 ▼2
=+=+=+=+=
この記者さん、なかなか出来る事ではありませんね。読み進むうちに涙を堪えるのが大変でした。仕事を超えた関係を作られたからこそ田淵夫妻からの信頼も厚かったのだろうと思います。亡くなる直前のご主人の病床の写真は老衰で亡くなる方特有の大往生を迎える前の姿を絵に描いたような穏やかな表情ですね。やっと娘さん達の旅行がどうだったのか、ゆっくり話を聞かせてもらっているんじゃないでしょうか。
▲65 ▼1
=+=+=+=+=
私はこの年に生まれています。
我が子の死を受け入れるのに25年かかったというお母さんの苦しみ、お母さんを支えてきたお父さんの苦しみは想像してもしきれません。
お母さんに「もう私たちを待たないで」と言われた娘さんも、亡くなってなお苦しんでいたんだなと思います。
二度とこのような悲しい事故が起きない事を願っています。
▲12 ▼0
=+=+=+=+=
素晴らしい記事で、読み進めて没頭し涙が出ました。
同じ三人の子を持つ親として、一度に全員を亡くす悲しみ、想像に余りあるものがあります。ご本人たちはもちろんのこと、つらい目にあった方と寄り添うことすら強い苦痛を伴うものかと思います。目を背けても、逃げても良かっただろうに、人として正面から向き合い続けた記者さんの心に感動しました。
あの世で父娘が出会えていることを願ってやみません。
▲25 ▼0
=+=+=+=+=
1人でも辛いのに3人の娘さんを1日で亡くしてしまったご両親の絶望は想像を絶する。 ましてや つくば万博 を勧めてしまったお父さんの自責の念は、他人の私が想像するのも憚られる。 錯乱状態となってしまった奥様から逃げる事もなく、ただ真正面から抱きしめて守り通したご主人は、とても強い人でしたね。 明日で日航機の墜落事故から40年、96歳で旅立たれたご主人の人生の大半が、3人の娘さんへの自責の念とそのご供養に費やされたのだと思うと涙が、涙が止まりません。
▲37 ▼1
=+=+=+=+=
この時期はつくば万博の開催中だったからまさか当時分割民営化になってない郵便局は2001年1月1日に新世紀初日に配達する思い出のお手紙が日本航空ジャンボ機墜落事故であの世にいかざる得なかった犠牲者からのお手紙が届くのはある意味悲しい結果だ。ご冥福を申し上げます。
▲6 ▼0
=+=+=+=+=
我が子を1人でも失くす事は耐え難いのに、3人の娘さんを亡くされたご夫妻を思うと言葉がありません。そんなお2人の人生の伴走者として記者がいて下さった事は、とても心強かったと思います。ありがとうございました。お父様は、多分死ぬ迄ご自分を責め続けていらしたと思います。自分が旅の変更を勧めなければ事故死はなかったと、ずっと自責の念が消えなかった事でしょう。奥様は、言葉にはせずとも、旅の変更を勧めた夫への不満や非難の気持ちもあり、娘さん達を亡くされた喪失感、悲しみ、辛さに加えて、苛立ちを抑えきれないのもありアルコールに溺れてしまったのではないでしょうか。ご夫妻の強い絆と、かなりご高齢になられてからも重いペットボトル5本を持参しての供養登山。同行した記者。泣きながら読ませて頂きました。今は壮絶な思いから解き放たれてあの世で娘さん達と笑顔で談笑しながら、奥様を空から4人で見守っていらっしゃると思います。
▲15 ▼1
=+=+=+=+=
40年が経ち、リアルタイムでこの事件の事を知らない方の方が多数だからこそ指摘します。
・墜落場所は直後から上野村周辺の地元民、自治体から国や警察に連絡が行ったのに翌日の9時過ぎまで「場所がわからない」と報道
・墜落前のJAL機を地上から見た目撃者「大きな飛行機を2つの小さな飛行機が追っている」
・横田基地に不時着許可あり、途中までJAL機は向かっていたのにそこから旋回、山の方向へ向かった
・米軍海兵隊が墜落直後に緊急でヘリと飛ばして墜落場所を確認、救援活動をしようと上空で降下できる状態まで準備できたのに「日本側が到着するから救援しないで」と止められた(米国側の公式文書で記録あり)
・垂直尾翼の残骸は相模湾160m下という浅海なのに今も放置
・修理不全が事故原因としてるのに、処分された修理関連のJAL職員、ボーイング職員皆無 寧ろ出世してる方が多数
これは事故ではなく事件
▲12 ▼10
=+=+=+=+=
事故の当事者ではない我々は被害者にお悔やみの言葉をかけることはあっても、心の底では事故なのだから仕方ない宿命だったと思っているフシがあると思う。ただこういう話を見聞きするたび「仕方がないこと」では絶対にないんだという思いを強くします。航空機開発者には絶対に整備不良やミスでは墜落しない機体を開発して欲しい。
▲9 ▼0
=+=+=+=+=
せめてもの親の真似事としてプレゼントさせてください
この一文にこの記事のすべてを表してるように思えて一気に涙があふれてきた。
ご夫婦の娘さんたちへの思い、この記者さんに対する思い。 本当は娘さんたちの晴れ姿を見たかっただろうし、それを見れなかった悔しさももちろんあったと思う。それは出来なかったけどずっとご夫婦に寄り添ってくれて一緒に娘さんたちに会いに来てくれた記者さんへの思い。 娘さんたちには出来なかったけど記者さんの結婚で親としての結婚のお祝いをさせてくれたのはご夫婦と記者さんを結び付けた娘さんたちだと思う。
お父様、どうか安らかに娘さんたちと一緒にお過ごしください。
▲38 ▼1
=+=+=+=+=
記者の方の書籍も関連書籍も中学生の時から毎年読んでおります。親にこんな事故があった、と言われた訳ではなく本棚にいつも数冊御巣鷹山事故の本があり自主的に読んでおりました。
三姉妹のお話も存じておりたまたまこの方は寄り添い遺族の方のことを考えられる方だった、でもそんな人ばかりではありませんでした。子供のいない私でも自分の娘が1人どころか3人も自分達の原因でない事故で突然亡くなるという痛ましい事故、想像も付かないほどのやるせなさと苦しみだっただろうなと思います。
起こってしまったことは変えられませんが、毎年同じ時期にニュースに取り上げて忘れずに次の世代に伝えることが重要だと思います。 両親は今でもとんでもないことになったというのを覚えており教えてくれます。本当に忘れちゃいけない事故です…
▲43 ▼3
=+=+=+=+=
ここ近日、戦争のニュースで長崎、広島などの悲惨で悲しい写真や体験した高齢の方の話を聞いて胸が苦しくなりました。 そして、九州地方の大雨の甚大被害。 また、明日で墜落から40年が来るんだと思うと何だかやりきれない複雑な想いがします。40年前はOLで、8月12日は2日後にハワイへ行く準備でワクワクしていましたが飛行機が行方不明と聞いて眠れない夜を過ごした事を思い出しました。
▲7 ▼0
=+=+=+=+=
ボーイングの修理ミスによる事故は減らせても、それ以上にリチウムイオン電池という危険要素が大きくなっています。遠くない将来、この事故を上回る規模のことが起こらないよう、きちんとした対応策をお願いしたいです。
▲2 ▼0
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