( 315408 ) 2025/08/12 03:53:56 0 00 田淵親吾さん(享年96) 今年5月
単独の航空機事故としては世界最悪の520人が亡くなった日航機墜落事故。1985年8月12日、群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落した航空機には田淵陽子さん(当時24)、満さん(19)、純子さん(14)の3姉妹が乗っていた。母の輝子さんは錯乱状態に陥って長年、アルコールに依存するようになり、娘の死を否定することでなんとか命をつないできた。夫の親吾さんは暴れる妻をただ黙って抱きしめ、何があっても守り続けてきた。その親吾さんは今年5月、96歳で亡くなった。
左から田淵陽子さん、純子さん、満さん 事故3日前
葬儀では気丈に振る舞っていた輝子さんだったが、出棺の際に声を上げて泣いた。事故から40年、夫婦は悲しみを抱きながら生きてきた。
田淵輝子さん、親吾さん 2004年
手にもった杖を支えに一歩、また一歩と山道を進む老夫婦がいた。2003年8月12日、田淵親吾さん(当時74)、輝子さん(当時69)夫妻は、日航機墜落事故の現場である群馬県上野村の御巣鷹の尾根に眠る3人の娘の墓標を目指していた。高齢にもかかわらず水を満タンに注いだ2リットルのペットボトル計5本を担いでいた。
輝子さん 2004年
夫妻は登山口を出発してから約2時間後に墓標に到着。事故機の残骸から見つかったフィルムを現像し陶板に加工して墓標に貼り付けた3姉妹の写真(事故3日前)をじっと見詰めた後、ペットポトルの水をかけ始めた。苦労して運んできた水は、炎に包まれて亡くなった娘たちを冷やすためのものだった。
「熱かったね、熱かったからね。姉ちゃん、みっちゃん、純ちゃん熱かったね。ごめんね、ごめんね」
輝子さんは涙を浮かべながら、墓標を優しく撫で、水をかけ続けた。
「この子たち、みんな焼け焦げた状態で見つかったでしょ。生きているうちに火に包まれて苦しい思いをしながら死んでしまったのではないかと、思っちゃうのよ。助けてあげられなかったから、せめて水だけでもかけてあげたいの」
ディズニーランドで陽子さんと純子さん 事故前日
1985年8月12日午後6時56分。そのとき、親吾さん(当時56)は自身が営む大阪市内の町場の石鹸工場で働き、輝子さん(当時51)は旅行から帰宅するはずの娘たちの夕食の準備に追われていた。仲の良い3姉妹で、長女の陽子さん(当時24)は毎年夏のボーナスが出ると妹の満さん(当時19)、純子さん(当時14)を旅行に連れていくしっかり者だった。
タイムカプセルに投函する満さん 事故2日前
当初は群馬県の尾瀬を訪れる旅程だったが、親吾さんが茨城県で開催中のつくば科学万博に行くよう勧めたことで予定を変更。3人は事故機の123便に乗ってしまった。
「わしが余計なことを言わなければ、あの子たちは事故に巻き込まれずに済んだのに。悔やんでも悔やみきれん」。親吾さんは終生、自分を責め続けた。
事故後間もない頃の輝子さん、親吾さん
遺族が事故後に向かったのは墜落現場での捜索ではなく、遺体安置所での身元確認である。乗客乗員524人のうち4人が奇跡的に救助されたが、亡くなった520人の遺体の損傷は激しく、大半が部分遺体だった。
田淵夫妻が初めて遺体の確認のために体育館に入ったのは、事故から3日経過した15日。体育館を出た瞬間、輝子さんは叫び声をあげながら、日航職員におしぼりを投げつけて詰め寄った。
「うちの娘とは違う。あんなの人間の遺体やない。山の木を焼いたんやろ」
3人の遺体の最終確認を終え、大阪の自宅に戻ったのは20日。本当に大変だったのは葬儀が終わった後だった。輝子さんが錯乱状態に陥ったのである。
事故後間もない頃の輝子さん
ほとんどお酒を飲めなかった輝子さんが事故後、アルコールに依存するようになっていく。これまでめったに声を荒げることがなかったが、朝から一日中、仏壇の前に座り込んでは「いつ帰ってくるのや」と怒りをぶつけ、ウイスキーを浴びるように飲んだ。日中でも突然、「今から子どもたちに会ってくる。ぎゃーっ」と叫んで家を出ることもあった。
親吾さんが夜眠りにつくと「なんで私が寝られんのに、あんただけ寝るんよ」と怒鳴って、寝ている親吾さんの顔にウイスキーを浴びせかけたこともあった。そんな輝子さんを親吾さんは黙って抱きしめ落ち着かせるしかなかった。
事故後間もない頃の親吾さん
周囲は輝子さんを病院の精神科で受診させるよう勧めたこともあったが、親吾さんは頑としてそれを受け付けなかった。「輝子が暴れるのは事故のショックからであって、原因ははっきりしている。無理やり精神科に引っ張っていって受診させれば、それを一生恨みに思うやろ。これ以上、そういう心の傷を負わせてはあかんと思ったんや」
輝子さん自身には錯乱状態になっていたころの記憶はほとんどない。だが、このとき親吾さんが守ってくれたことだけははっきりと認識していた。夫の前で口に出すことはなかったが、筆者には感謝を打ち明けてくれたことがある。
「私があまりにも暴れるから、まわりはみんなおびえていたわ。でもあのとき暴れる私を、しんちゃん(親吾さん)はかばってくれたんや」
輝子さん 2015年
輝子さんは3人の娘がいつか必ず帰ってくると信じていた。娘の死を否定することが、唯一の生きる支えだったのである。
しかし、事故から25年が経った2010年、輝子さんの身体に突然、帯状疱疹が出て救急車で運ばれ入院した。「救急車で運ばれるとき娘たちに『お母さん、いつまで待ってるんや。私たちが帰ってくるわけないやろ。ええかげんにせえ』ってどやしつけられたんや。あれは夢やない。確かにあの子たちが囁いたんや」
その出来事をきっかけに、25年間ずっとアルコールを手放せなかった輝子さんが一滴もお酒が飲めなくなってしまった。「それ以来、私はあの子たちをもう待たないって決めたの。それを破ったら、またあの子たちにどやしつけあられるから」
輝子さんには娘が亡くなった事実を受け入れるのに25年の歳月が必要だった。
90歳、最後の慰霊登山 娘に「ごめんね」
2019年8月、90歳になった親吾さんは最後の慰霊登山に挑んでいた。田淵夫妻は毎年8月12日の命日だけでなく、開山の春、閉山の秋の年に3回、御巣鷹の尾根に登ってきたが、輝子さんは大病を患い、前年を最後に登ることを断念している。
新人記者として2003年に田淵夫妻と出会った私(筆者)は、その後の16年間、仕事ではなくプライベートで毎年3回必ず休みをとって夫妻の慰霊登山に同行した。かつてはペットボトルを5,6本担いで山道を進んだ親吾さんは、もはや自力では登ることができない。両手に杖をついてなんとかバランスを保つのがやっとである。ベルトをつかんだ私に持ち上げられるようにして一歩、一歩前へ進み、休息ポイントがある度に涼をとった。
左から西村記者の娘、息子、西村記者、親吾さん
息を切らして娘たちのもとに辿り着いた親吾さんは、両ひざをついて墓標に頭を下げて手を合わせた。そして、一言つぶやいた。「ごめんね」。
最後の登山で手を合わせる親吾さん
「良いお供えができて満足や。ありがとう」。最後の慰霊登山に、親吾さんの涙はなかった。90歳の体力の限界まで御巣鷹の尾根を登り切った男の顔があった。
親吾さん、西村記者 今年2月
今年2月、私は奈良県の介護施設に入所している親吾さん(96)を見舞った。親吾さんの末の弟から「いつ亡くなってもおかしくない状態」と連絡をもらい、面会させてもらったのである。
親吾さんはすでに言葉を発するのが難しい状況だったが、私の手をしっかりと握り返してくれた。親吾さんが山に登れなくなって以降、私は毎年5,6回、御巣鷹の尾根に登って墓標の写真を送り続けている。病床の親吾さんにその写真を見せると、目を見開き食い入るように見つめていた。
「40年間、本当に頑張りましたね。僕がこれからも御巣鷹山に登るから安心してくださいね。90歳までは無理かもしれないけど…」
介護施設を出る私に最後まで手を振って見送ってくれた親吾さん。3か月後の5月、3人の娘たちのもとへ旅立った。
輝子さんと西村記者 今年5月
通夜、葬儀の場では、輝子さんは気丈にふるまい、涙を見せることはなかった。通夜の振る舞いでも、「お父さんは私がお見舞いにいっても目を開けてくれんで、本当に意地悪やわ」といつものように冗談めかして愚痴をこぼしていた。
しかし、葬儀後の出棺の際、それまで抑え込んでいた感情があふれ出る。輝子さんは棺に花を供えながら、声を上げて泣いた。親吾さんの額、両頬、あご、唇を愛おしそうに触れて別れを惜しむ。棺の蓋が閉まろうとすると、もう一度、顔を近づけて制止し、ハンカチで声を押し殺して嗚咽した。大粒の涙が頬をつたった。
「ありがとう、またね」。それは輝子さんが日航機墜落事故から40年にわたって生き抜いてきた「戦友」にかけた最後の言葉だった。
TBSテレビ 西村匡史
事故から丸40年の命日に先立つ今月5日、私は親吾さんの末の弟の友一さん(79)夫妻とともに御巣鷹の尾根に登った。長年にわたって親吾さんを献身的に支えてきた友一さんは、兄の思い出の遺品を3人の娘の墓標に供えて手を合わせた。「これで兄貴も喜んでいるよ」
兄の遺品を供えた友一さん 今月5日
私が田淵夫妻と出会った2003年、夫妻は事故後に遺族であることを隠すために引っ越しまでしていて、全ての取材を拒んでいた。だが、プライベートで慰霊登山のお伴をする私に次第に心を開くようになってくれ、最終的には過去が知られるのを覚悟で「筑紫哲也NEWS23」の放送を了承してくれた。
出会ってから22年間、夫妻とは家族ぐるみのお付き合いをさせていただいた。私が結婚の報告をした際には大層、喜んでくれ後日、手紙とお祝いのコーヒーカップセットを送ってくれた。「縁もゆかりもない若いあなたが毎年3回、それも3人分の花束をもって慰霊登山にきてくれることがどれほど嬉しかったことか。せめてもの親の真似事としてプレゼントさせてください」
雨の日も風の日も肌を刺すような暑い日も、夫妻と一緒に登った16年間の慰霊登山。親吾さんとの最後の登山では、その思い出の1つ1つが私の頭をかけめぐり、込み上げある涙を必死に抑えた。夫妻と御巣鷹の尾根を一歩一歩、踏みしめることで、私は「命」の重さを噛みしるようになった。
実の両親がすでに他界している私にとって、夫妻はかけがえのない「お父さん、お母さん」である。通夜に参列した私を輝子さんは喜んで迎え入れてくれ、その晩、私は親吾さんの柩の側で添い寝させてもらった。
私は記者になって22年間、「命」をテーマに取材を続けてきた。その覚悟が定まったのは、田淵夫妻との出会いがあったからである。
「よう頑張っとるなあ」。天国の親吾さんにそう言ってもらえるように、これからも「命」を紡いでいきたいと思っている。
※この記事は、TBS テレビと Yahoo!ニュースによる共同連携企画です
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