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ジャンボ機墜落の”凄惨な現場”で遺体と寝た夜 「職業を間違えた」ーー陸自元幕僚長が語るストレス障害との闘い 日航機墜落40年

TBS NEWS DIG Powered by JNN 8/12(火) 17:03 配信

https://news.yahoo.co.jp/articles/bfa9cc95f6d0c6f7e2698e6e4af6222ed3cda348

 

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岡部俊哉氏(66)は、1985年の日本航空123便墜落事故の現場で自衛隊員として活動した体験を振り返り、その恐ろしさを語った。

事故後、彼は生存者を救出し、また遺体と向き合う厳しい任務に従事する中で、精神的に大きな影響を受けた。

特に、帰宅後に追体験するような症状やフラッシュバックに苦しんだが、周囲には弱さを見せずに過ごした。

彼は後にメンタルヘルスの重要性を理解し、自衛隊内でも改善策が講じられていることを知る。

岡部氏の体験を通じて、事故や精神的苦痛の伝承が重要であると感じている。

事故から40年が経ち、当時の遺族の高齢化も懸念される中、安全に対する認識を新たにする必要があると述べている。

(要約)

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都内でインタビューに応じる岡部氏 

 

「戦場とはこんな場所なんだろう」――。陸上自衛隊元幕僚長の岡部俊哉さん(66)は、当時をこう振り返る。 

 

1985年8月12日、羽田発・大阪行きの日本航空123便が群馬県の御巣鷹の尾根に墜落し520人が犠牲者となった。26歳だった岡部さんは、第一空挺団の小隊長として事故翌日に現場に降り立った。あれから長い年月が経ってもなお、岡部さんの脳裏には「焼け焦げた臭い」が焼き付いているという。当時、凄惨な現場での活動を終えた岡部さんの体には、ある異変が起きていた。 

 

事故直後の上空からの映像 1985年8月 

 

事故翌朝の午前5時、岡部さんはいつもとは違う「命令受領ラッパ」で起床した。災害派遣に関わることだとわかると、すぐに出動準備に取り掛かった。大型ヘリのVー107に乗り込み、午前8時前に離陸。計6機のヘリのうち岡部さんは小隊長として3番機に乗っていた。 

 

午前8時40分、「御巣鷹の尾根」の上空に到着した。ヘリからロープを使い、岡部さんは3番機から最初に降下した。JALのマークが書かれた主翼の近くに降り立ったが、その時に「ぐにゅっ」とした何かを踏んだという。その違和感の正体は人の耳だった。岡部さんはその瞬間「申し訳ありません!」と心の中で謝った。 

 

撮影:陸上自衛隊第一空挺団 

 

山の斜面の木々は倒れ、焼け焦げた臭いがしていた。岡部さんらの任務は地形の偵察と生存者の救出で、捜索を開始したのは午前9時半頃。生存者を見つけるために「動いてください」「声だしてください」などと声かけをしながら捜索したが、目の前に広がるのは「地獄のような世界」だった。手や足の部分遺体が転がり、まともな状態の遺体はひとつもない。焼け焦げて座席と一体化してしまった遺体もあった。 

 

「真っ赤な色をした木を触ってしまい、よく見ると肉片が付着したものでした。木の上には髪の毛がある頭皮や内蔵もぶらさがっていました。とにかく精神的に耐えられる状態ではなく『職業選択を間違えた』と思いました」 

 

生存者の救助活動 

 

そして捜索開始から約1時間が経った午前10時45分頃、無線に「生存者発見」の一報が入った。しかし岡部さんは、現場の状況をみて頭が混乱したという。人間は皆ぼろぼろなのに、なぜ転がっているぬいぐるみは綺麗な状態なのか…。「生存者発見」の一報を最初は全く信じられなかったという岡部さんは「何かの間違いじゃないか」と感じながら、生存者が運ばれてくる集合場所に向かった。子どもを含む生存者の4人は、尾根からワイヤを使ってそれぞれヘリに吊り上げて救助した。全員の救助が完了したのは午後1時半頃だった。 

 

 

墜落現場で活動する自衛隊 

 

その後の岡部さんの任務は墜落現場となった尾根にヘリポートを作ることだった。人や物資の往来を円滑に進めることは自衛隊にとっても急務。ヘリポートは現場の拠点となったため、現場で見つかった遺体は次々と岡部さんがいる場所に運ばれてきたのだ。 

次々と並べられていく遺体…。この夜、岡部さんはやむなく遺体の隣で仮眠をとることになったという。横になることも難しかったそうで、岡部さんは「臭いがすごくて遺体の真横で寝るのは辛かった」と厳しい表情をしながら話してくれた。8月の盆の時期。日中の暑さで遺体の腐敗が進んでいたのだろう。 

 

墜落現場で活動する自衛隊 

 

岡部さんは事故発生から3日後の15日の朝に現場を離れたが、それまでずっと仮眠は遺体の横が定位置だったという。岡部さんは御巣鷹山での任務を振り返る。 

 

「現場に入った直後はショックが大きかったものの、翌日には『大丈夫だ。俺はやっていける』などといった”慣れ”を感じている自分がいました」 

 

当時は感染症の概念も薄かったのか、遺体を素手で触ることにも抵抗はなかったという。しかし任務を終えて、帰宅してから3日ほど経った時、岡部さんの体にある異変が起き始めた。夜になると、御巣鷹山の現場で見たり触ったりした遺体が幽霊のようになって窓の外に並ぶようになった。日中や深夜の訓練では問題ないのに、帰宅して部屋に一人でいると症状が出る。 

 

「とにかく暗い場所が嫌で、トイレ、風呂、台所など全ての部屋の電気を付けていました」 

 

さらに臭いも敏感になっていて、肉も食べられない。一人で寝ようとするとフラッシュバックが起きるため、毎晩のようにウイスキーを飲んで、無理やり寝ていたという。 

 

自衛官時代の岡部氏 

 

しかし岡部さんは当時、こうした異変を周囲に明かせなかった。空挺団の小隊長として、部下の前で弱音を吐くなんてとんでもないことだったからだ。「精神が病んでいる」などと話をしようものなら「病院に行くために空挺団を離れないといけないかもしれない」と考えていて、周囲に対しては「おばけを見た」程度に話すなど、症状をごまかしていた。 

 

一方で、部下のなかには「自宅のアパートでは寝られないので、営内で寝泊まりする」などと、似たような症状を訴える人がいた。しかし、岡部さんは「情けないやつだ」なんて言って笑うだけだった。岡部さんによると、自身のこうした症状は1か月程度で治まった。その後はいつも通りの生活に戻った。 

 

 

御巣鷹山を登山する岡部氏 2020年 

 

メンタルケアについて、岡部さんが自衛隊で真剣に考えて向き合うようになったのは「2003年のイラク派遣の時代だった」と指摘する。その時くらいから「ストレス障害」について教育を受けるようになり、その際に御巣鷹山での任務から帰ってきた時の症状が、教科書で学んだ「急性ストレス障害(ASD)」の症状とほぼ一致していることを知ったという。岡部さんは当時のメンタル状態について「普通の人が起こす当然の反応」と専門家から指摘され、やっと心の中でもやもやしていた感情が消えて、人に体験談を話せるようになった。岡部さんはその後、陸自トップの陸上幕僚長になり、指揮官として大勢の部下を率いることになる。 

 

「たったの2日程度の期間を御巣鷹山で過ごしただけでASDになった自分の弱さが当時は許せなかったが、今では、指揮官としてASDやPTSDを部下に負わせることは絶対にしてはいけないと強く思っています。そういう意味では、今の自衛官にさせられない経験を自分ができた事は良かったと思います」 

 

防衛省では、2000年度に「自衛隊のメンタルヘルスに関する検討会議」が実施された。その後、イラクなどの海外派遣や東日本大震災などの災害派遣を経て、「ストレス障害」への対策が進められてきた。具体的には、メンタルヘルスチェックを実施することで、隊員自らがストレス状態を把握。結果によっては、臨床心理士を利用することもできるようになった。さらに指揮官は、隊員の不調の兆候を把握してケアにあたることが必須となった。ストレス障害について、防衛省内では「強度のストレス下において発生する一般的な症状」として認識されているという。 

 

TBSテレビ 池田祐一朗 

 

事故が起きた1985年は私が生まれた年でもあり、私はリアルタイムで事故を知らない世代である。私のほかにも、この事故を取材する記者の多くが「事故を知らない世代」という印象だ。日本航空でも事故当時を知る現役社員はわずか0.1%で、新入社員などに対する安全研修に力を入れている。事故から40年が経った今年、遺族を取材して感じたことは「遺族の高齢化」だ。ある遺族は「慰霊登山は今年が最後」だと話し、別の遺族は「50年の時は生きているかどうか」と不安をこぼした。事故の記憶の伝承は重要な課題だ。そして事故の記録を残し、「空の安全」を社会に伝え続けていくことはメディアの責務だと考えている。元自衛官の岡部氏のように、長い年月を経てようやく心の整理ができる方もいらっしゃるので、私は記者として、こうした方々の声に引き続き耳を傾けていきたい。 

 

※この記事は、TBSテレビとYahoo!ニュースによる共同連携企画です。 

 

 

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この内容は、日本航空123便の墜落事故に関する多くの人々の反応や体験を示しています。

事故当時の悲惨な状況や、それに対応した自衛隊員や看護師、警察官などの精神的および身体的な負担について詳述されており、またその後のメンタルケアの重要性が強調されています。

 

 

多くの人が、事故の記憶を鮮明に持ち続け、当時の衝撃や、現場で働く人々への尊敬を表明しています。

自衛隊や医療の現場で働く人々が抱えるストレスや心の問題についても触れられており、特に当時はメンタルヘルスのケアが不足していたことが問題視されています。

また、自衛隊員や警察官が遭遇する事故の現場の凄惨さが語られ、それに対する社会の理解が必要であるとの意見が多く見られます。

 

 

過去の経験が現在の職務にどのように活かされ、また現在もその影響を受けているかについても考慮されており、次世代のために過去の教訓をしっかりと伝えることの重要性が示されています。

 

 

(まとめ)日本航空123便墜落事故に関する体験談や意見は、事故の凄惨さ、そこで働いた人々の苦悩、メンタルケアの重要性が中心テーマであり、社会全体での理解と配慮が求められています。

また、事故の記憶を後世に伝えることの重要性も強調されています。

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=+=+=+=+= 

 

上京して社会人最初のお盆休み、当時は未だ未だ薄給だったのでほぼ同期全員は飛行機帰省はせずに陸路だった、大阪に帰省する同期の1人は新幹線や夜行急行で帰省し車内で聴いていたラジオから事故速報で震え上がったと云っていた事を思い出す。 

事故は運なので、どんな時に発生するかは誰も判らない、陸路だって安全とは云えないけど、それでも可能な限り助かるチャンスが有る陸路をこれからも利用すると思う。 

 

▲380 ▼39 

 

=+=+=+=+= 

 

日赤の看護師です。この時のお話は、先輩看護師の手記から拝見させていただいています。当時のご遺体の悲惨さ。私たち日赤看護師は災害救護とご遺体の管理も任務としてありますが、当時は他の組織の看護師たちも参加したが、結局みな帰ってしまったと。残ったのは自分たちだけで、悲惨な状況の中「それでも、ご遺族の方の思い」を考え、部分遺体でも「体」を段ボールで作り、面会時のショックを最小限にしたと。私たちだけではない、自衛隊の方も、相当に辛い思いをされたことでしょう。それだけ悲惨な事故だった。 

 

▲6949 ▼205 

 

=+=+=+=+= 

 

とても凄い精神力かと思います。よく折れなかったなと尊敬します。こうして日本、日本人の為に働いてくださり感謝致します。私みたいに弱い人間には到底無理な事だろうなと思います。 

 

あれから40年。私は当時16歳でよく覚えてます。当時捜索や救助にあたられた皆様は、肉体的にも精神的にも相当なご苦労があっただろうと想像します。このような事故は二度と起きてほしくないと思います。 

 

▲55 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

事故当時、私は小学生でした。当時はよく分かっていなかったけれど、以来、飛行機に乗るのがちょっとイヤになったかも。今でもちょっと抵抗があります。墜落現場は地獄ですよね‥。けれど空挺団の小隊長ですもんね、先頭に立って任務にとりかからないといけませんし、普通なら重圧の中、まともじゃいられない。そんな中で任務遂行された岡部さんはすごいです。 

 

▲2610 ▼84 

 

=+=+=+=+= 

 

小規模ながら、日々の鉄道職員や救急現場で働く人達は同様の光景を目にする事もあるのだと思います。本当に頭が下がる思いです。 

そして500人が密集して亡くなっいる現場というのは、たとえ戦場であっても滅多にないと思います。輸送機の定員はもっと少ないですし、地上戦の場合はもっと広範囲に部隊が分散していると思うので。 

40年前はまだ、ストレス障害をケアする体制は十分でなかったと思いますから、本当に大変だったと思います。 

 

▲1803 ▼31 

 

=+=+=+=+= 

 

御巣鷹山という、軍事ではない大変な修羅場を経験されながら幕僚長になられたことは、尊敬に値します。 

幕僚長でもありながら、ストレス障害や隊員のメンタルケアに目が届くということは、とても重要なことではないでしょうか。 

自衛官のメンタルケアはとても重要な仕事です。 

貴重でヘビーな経験をされた岡部元幕僚長には、陸自に留まらず自衛官全体のメンタルケアに今後も目配せしていただけたらと願います。 

 

▲1591 ▼42 

 

=+=+=+=+= 

 

自衛官は震災などの自然災害に対する救援で出動することが多く、その際、不幸にも被災された方のご遺体を発見することもあります。 

自衛官は戦地に行くだけでなく、このような活動をしていることも知っておく必要があると思います。YouTubeなどを見ると自衛隊の基地や駐屯地の前で自衛隊は要らないなどとシュプレヒコールを上げる人もいますが、こういった活動を自身の危険を顧みずに行なっていることを知っておくことも必要だと思います。 

 

▲1568 ▼44 

 

=+=+=+=+= 

 

事故現場の壮絶さは、小説「沈まぬ太陽」などで描かれてますし、あまりお勧めはしませんが画像検索すれば当時の写真週刊誌が無断で撮影した遺体の写真がいくつも出てきます。 

 

骨だけが衝撃で飛び出して皮だけになってしまった遺体や、炭化して真っ黒になった遺体、切断された腕や足、衝撃で他の人の体の中にめり込んで、くっついてしまった遺体、まして夏場だったために現場はすさまじい異臭でにおいだけで嘔吐してしまう人も少なくなかったそうです。山奥のため飲み水すら確保できなかったともいいます。 

 

自衛官だけでなく救助に当たられた警察消防、消防団の方、検視に当たられた医師、歯科医師の方、看護師の方のストレスは想像もできません。 

 

未だにこの事故のことを面白おかしく陰謀論に結びつける人間の神経を疑います。何のために自衛隊が日航機を撃墜したとか言う話が出てくるのだろうか? 

 

▲1787 ▼164 

 

=+=+=+=+= 

 

東日本大震災に派遣された時に多くの部下が同じような体験をしております。 

その日の業務が終わると車座にさせて今日起こった辛いこと悲しいことを話す機会を毎日作りました。 

高校をでたばかりの若い隊員は津波にのまれた遺体を見ることもできないとよく話しておりました。 

その彼もA幹として現在は小隊長として勤務しております。 

当方もよく「お化けを見た」と話しておりました。 

いまは見ませんが幕僚長も同じだったのですね。 

自衛隊の方々には日々の業務本当にお疲れ様です。 

いまは後方から応援をしております。 

 

▲1076 ▼27 

 

=+=+=+=+= 

 

たしか、某週刊誌が 

事故現場の生々しい写真をそのまま載せて販売し、多くの国民が目にしたと覚えています。 

私はまさにその週刊誌をたまたま購入しましたが、その写真だけは正視出来ませんでした。 

 

手首が木の枝に引っかかっていたり、首から上だけ地面に転がっていたりする写真でした。 

ただ週刊誌の写真を見ただけでも当時の国民は震え上がったのに、現場では果たしてどれほどの衝撃的な広がっていたのでしょうか? 

想像するだけで身体が震えます。 

 

ご苦労さまでした。そしてありがとうございました。 

あなた方のそうした(誰も積極的にはやりたくない)職務によって、遺族の方々もご家族の災難を認めざるを得ない結果に繋がったのだと思います。 

当時の身につまされる思いを改めて思い出しました。 

 

▲923 ▼22 

 

 

=+=+=+=+= 

 

上野村の国道をドライブしていたとき突然開けて整備された道になるところがあった。御巣鷹が近いんだと思った。陸自の皆さんは大変な仕事を遂行されて本当にお疲れ様です。 

 

▲1083 ▼25 

 

=+=+=+=+= 

 

自衛隊ならそれが仕事だろとかいうコメントあまりに酷いですね。 

ストレス障害を防ぐ方法も、発症してから確実に治す方法もありません。 

書いてないけどイラク派遣だと自衛隊の自殺者は7人だったかな… 

遺族にも連鎖するし、自殺に至らなくてもストレス障害を抱えて生きるのは物凄く苦しいし支える人間もまた苦しみます。 

せめて理解を示すべきだと思います。 

 

▲810 ▼16 

 

=+=+=+=+= 

 

毎年お盆前になると思い出します 

情報が錯綜して、不安な気持ちでテレビを見ていました 

当時、父が東京出張の帰りに乗るのがこの便 

たまたま前日から体調を崩していたので東京出張が延期になり、搭乗していなかったので難を逃れました 

そのせいもあってか、この事故は今でもずっと気になっています 

今と違いメンタルケアもメジャーではなく、苦しまれた方、今でも苦しんでいる方もいらっしゃると思います 

この事故に限らず、災害派遣された方のメンタル面のケアも手厚くなされる事を切に願います 

 

▲479 ▼15 

 

=+=+=+=+= 

 

日航123便墜落事故の現場をリアルに描いた作品がある。戦史を主に劇画で描く小林源文氏の『御巣鷹山の暑い夏』という短編作品だ。マンガでありながらその凄惨さは強く伝わってくる内容だった。 

 

しかし、実際に現場を目にした自衛官たちの精神的負担は、それ以上に計り知れないものだったに違いない。こうした事故が二度と起こらないことを、心から願うばかりだ。 

 

▲368 ▼13 

 

=+=+=+=+= 

 

日航機墜落事故から数カ月たってから親友の警察官にあったら頑丈で体格も良かったのにげっそり痩せていてどうしたんだと心配したら日航機墜落現場に群馬県警機動隊の第一陣として参加したとの事。悲惨な状況で木々に足や腕があったりと後は話さなかったが肉の焦げた匂いが鼻についてそれ以降肉は食べられなくなり食欲も減退して20kg近く痩せたとのことでした。特に第一陣で現場で救助にあたった人達は今まで経験したことの無い状況で大変なおもいをしたようです。二度とこんな悲劇が起こらない様に安全点検の徹底をしていると思いますがこの悲劇を忘れずに語り継いでゆかなければいけない思う。 

 

▲123 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

当時10歳でした。子ども心に中継で見る現場に恐怖を覚えました。 

数年後同級生から聞いた話ですが(同級生のおばあちゃんが飲食店をしていてお客さんに自衛隊の方が多かったのでそこからの話)屈強な訓練をこなす自衛隊員さん達でさえ御巣鷹から帰ってきたあとは肉が食べれなくなった、眠れない…と言われていたとの事。 

消防や警察、自衛隊の方(災害救助や事件、事故の現場に出る方)のメンタルヘルスはとても重要だと思います。 

あの日から40年、当時救助活動に従事された方々に改めて敬意を表したいと思います。 

 

▲202 ▼5 

 

=+=+=+=+= 

 

元自衛官です。岡部さんは函館の第28普通科連隊長でいらした頃に仕事でお姿を拝見したことがあります。確かイラク派遣初期の予備隊長だったような気がします。 

内々の式典か何かで遠くから訓示を聞く程度の関わりでしたが、朗らかでありながら人格者という印象でした。他の連隊長は記憶にないのに岡部さんだけは何故か憶えています。 

あの事故の時は空挺団で、本当に前線で大変な思いをされていたとは…恐れ入りました。 

お辛い体験を話してくださり感謝です。 

 

▲172 ▼7 

 

=+=+=+=+= 

 

当時部活から帰ってきた中2の私は 

なんかテレビが騒がしいなと釘付けになった 

 

医療に携わるものとして 

この救出に関する医療目線の本を図書館で何冊か読んだ 

自衛隊、警察官、医師、歯科医師、看護師 

多くの人がメンタルを傷付けながらも 

小さく砕かれたご遺体のひとつひとつを 

身元を照らし合わせる作業を続けた様子が 

記録されていた 

 

もう2度と事故が起きぬよう 

飛行機はやはり一番安全だと信頼されるよう 

気を引き締めてもらいたい 

 

▲217 ▼11 

 

=+=+=+=+= 

 

今では考えられないが、当時の週刊誌には墜落現場の遺体が多数写った写真が掲載されており、この自衛官の証言通りの惨状が日本中の人たちが目にしていた。枝からぶら下がった腕の写真など非常にショックを受けた。 

職場が自衛官の社会体験を受け入れている関係で自衛官に知り合いが多く、この方のようにこの現場に行かれた元自衛官と飲んだ時にこの現場の話を聞いたが、これが原因で除隊した人や、精神を病んだ隊員がかなりいたと言っていた。その方本人も摂食障害や不眠に一時悩まされたと言っていた。 

飛行機事故は本当に悲惨ですね。二度とこのような悲惨な事故が無いよう、点検整備や搭乗員のメンタルケア、健康管理などしっかりとやってほしいなと思います。 

そして災害現場や悲惨な事故現場に出動する自衛官の待遇改善や心身におけるケアも手厚くやってほしいなと思います。 

 

▲215 ▼4 

 

=+=+=+=+= 

 

石原都知事が東日本大震災の時に派遣されて戻って来た方々に涙ながらに感謝の言葉を伝えていたのを思い出す。 石原都知事には賛否あるだろうが、派遣された方々には本当に頭が下がる想いです。 そして、当時、その映像を見て感謝の言葉を代弁してくれた…と感じました。 医師の方々、看護師の方々、消防士、自衛官、そしてそのような職業につかれてる様々な方々に感謝と尊敬の念を抱いています。 

 

▲118 ▼3 

 

 

=+=+=+=+= 

 

このメンタルヘルスだが、事故事故の遺体を見る機会の多い警察官、救急隊員、消防士のケアは大丈夫だろうか。 

この方の体験の様に「自分が弱いから」と周囲にも打ち明けず1人で抱えて悪化させる可能性もある筈と思う。 

勿論この方同様にすぐに慣れたり忘れられる人も多いだろうが、全員がそうでないと思うと… 

貴重な人材ですから、適切なケアを望みます。 

 

▲116 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

40年という時間が経過した御巣鷹の墜落現場は今は木々が生い茂り、事故現場の痕跡を覆い隠している。が、事故当時散乱した機体の部品は飛散した搭乗客らのご遺体部分など、全て回収し切れたのだろうか? 

 

まだ発見されていない部分遺体が山の何処かに人知れず眠ったままではないかと思うと、心が痛む。 

 

写真週刊誌でモザイクのない焼死体の写真を見たのを今もハッキリ覚えているが、捜索隊の方々には本当に地獄のような風景だったろう。 

 

そんな中で奇跡的に生存者がいたという事実は、本当に奇跡だと思ったものだった。 

 

▲198 ▼11 

 

=+=+=+=+= 

 

事故があったのは知ってましたが、自衛隊員の話で、事故現場とはこういう事なんだとショックを受けるような内容でした。 

大きな災害や事故だけでなく、列車との接触による人身事故等に係わってこられた方たちには本当に頭が下がる思いです。 

訓練を受けた隊員でさえストレス障害を抱えるものなので、凄惨な現場になる戦争は絶対に起こしてはいけないと改めて思います。 

 

▲6 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

当時東京に単身赴任していた父が、隔週でこの便で帰宅していました。 

たまたまお盆で、1日前倒しで帰宅していました。又、兄弟が関東の親戚宅に 万博を見に行くのに宿泊していて、事故翌日 同時刻の便で帰宅の予定であった為、他人事とは思えず、震えながらテレビをみていました。 

何十年経とうと、亡くなられた方のご冥福を祈る気持ちと、現地でお仕事をされた方への尊敬の念は変わりません。 

 

▲70 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

当時私は、長野県の木曽に住んでいって、飲食店で働いていたんですけど、休憩時間に外で話しをしてたら、東の山向こうからドォーンと音がして、地響と共に地面も揺れた気がする。前の年に、木曽で大きな地震があったのでまたかと皆で話しをしていた。仕事終えて家でニュース観て驚いた。同級生に、自衛隊の奴がいて救助行ったって聴いたけど、暫く食事できなかったし夢観たって言ってた。 

 

▲140 ▼14 

 

=+=+=+=+= 

 

520人ですよ⁈本当にに凄惨な事故です、、 

PTSDにならない方がおかしかったでしょうね 

遺族の方も精神的に計り知れない辛い思いをしたと思いますが、自衛官の方々も本当に本当に大変な仕事をされてたんですね、、 

私も当時のニュースを改めて映像で見た時 

お土産なのか某有名なキャラクターの大きなぬいぐるみが比較的キレイに飛行機の残骸の中にあったので不思議な感じがしました。 

関わりが無い自分ですが凄く悔しい感じになります 

 

▲134 ▼3 

 

=+=+=+=+= 

 

この時期に、警察署に勤めていました。各署に本部の機動隊に次ぐと云うか各署の機動隊みたいな感じの人達がいます。第一陣で上野村に出向き帰って来たのが3日後位でした。 

全員が、がっしりとした体形の方々でしたが帰って来た時は、見事にげっそり 面影もない位の状態で帰って来ました。 

飲み水も無く、食べる物もない状態だったそうです。 

全員 しばらくは 現状についての発言は無く言わずもがな悲惨すぎる現場だった事が分かりました。 

 

▲161 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

黒木瞳さんの知人や坂本九さんを含め、多くの犠牲者を出してしまった日航機墜落事故から40年。御遺族の方々の心の傷が癒えることはないのは承知の上、犠牲者の分まで精一杯前向きに生きていくというのが今出来ることではないかと思います。改めまして、日航機墜落事故で犠牲になられたすべての皆様へご冥福をお祈り申し上げます。 

 

▲82 ▼8 

 

=+=+=+=+= 

 

当時の運輸省も事故調査委員会もボイスレコーダーの音声は絶対に出さなかった、証拠資料も早くに破棄しようとした。 国は国民を無視し続け、危機感を覚えた内部の反発者が複数ルートで資料をマスコミに流した、いまボイスレコーダーが聞けるのは人として正しい行動者がいたお陰です。 

 

▲405 ▼41 

 

=+=+=+=+= 

 

私の後輩は陸自で救助活動に入っておりました。墜落位置情報が錯綜する中、明け方にようやく徒歩で到着したとの事。指示されたのが焼け焦げた場所。 

辺り一面の地面は、油と血で、まるでチョコレートを流したかの様相だったようだ。 

衣服を脱いで木に引っ掛けたように、人間の皮膚だけがぶら下がっており、中身は辺り一面に散らばっていたらしい。 

初日は無我夢中で回収作業を行ったら、夜の弁当が焼肉だったようで誰も食べられる状態じゃなかったとの事。 

あの地獄から帰還して、なんとか平静を装っていたようだ。あまりにも辛い事件です。 

 

▲93 ▼3 

 

 

=+=+=+=+= 

 

この事故当時、高校生でした。夜速報からのニュースになり、朝になって現場映像が映され、飛行機の形がなく、残っていた翼にJALと読めるだけでした。 

後になって、生きていた人もいたとか、遺体が気にぶら下がっていたとか、悲惨な状況であった事を知りました。もしこの事故が無かったら生きていた人、家族を失った人達の運命も大きく変えてしまった事を思うと、忘れてはいけないと思います。 

二度とこの様な事が起こってほしくない。亡くなった沢山の方の事を想い、祈りたい。 

 

▲39 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

上司、大幹部がこういうことを経験されて尊いと思います。やみくもに上からどやすのではなく(今ではハラスメントになるのでしょうか)現場を知っている故に共に考えられる上司は部下にとって嬉しいと思います。元陸自の幕僚長とのこと、後に続く方々もこういう思いで事に励んで頂ければ皆が安心できる国作りに繋がると思います。私は対外国の為の自衛隊も必要かとは思いますがそれ以前に事故、及び災害で真っ先に出動して頂けるそういう自衛隊さんであって頂きたいと思います。こういうことにこそ人件費を使って頂きたいと思います。軍事物資を購入するよりも気持ちよく働いて頂ける自衛隊の方、及び逸れますが消防の方々のために 

 

▲25 ▼3 

 

=+=+=+=+= 

 

元警察官の叔父も当時遺体収容に行ったそうです。叔父から直接ではなく、妹である母から聞きました。 

陽気でかなりのお酒好きで、子供の頃お盆やお正月に遊びに行くと豪快に笑って酔っ払っていたのですが、まさかそんな経験したとは想像もつきませんでした。 

その後叔父数々の悲しい現場に遭遇してます。 

それでも最終的には部下に恵まれ、最後までやり遂げました。 

 

▲67 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

東日本大震災の際に行方不明者の捜索に参加しご遺体を発見し回収に当たられた警察官の方々も相当な精神的ご苦労があったと聞いております。 

 

自衛隊も警察も非常時におけるこのような御苦労は本当に頭が下がります。 

 

国民の為に頑張って下さりありがとうございます。 

皆さんは国と国民の誇りです。 

 

▲62 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

想像を絶する凄惨な現場で任務を務められた方々には敬意しかない。 

自分も阪神大震災を経験しているけどあの時は明らかに人が亡くなっている現場が身近にあった。その時の記憶は未だに消えることはない。 

東日本大震災でも自衛隊や消防隊員、警察等他にも尽力された方々にも深い心の傷を負われた方も多いと思う。 

この記事のように事後のケアが重要だろう。 

遺体捜索のような過酷な作業にあっても遺体にしっかり手を合わせる方達の写真を見ると強く心を揺さぶられる。 

感謝の気持ちを持たれる人達も多いと思う。 

 

▲10 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

痛みや辛さは、経験しているといないとでは、理解に雲泥の差が生じますし、経験した人のほうが圧倒的に相手の痛みや辛さに寄り添うことができます。 

岡部俊哉陸上自衛隊元幕僚長は、若い時に辛いご経験をされたとのことですが、 

その経験が人の上に立ったとき、役立ったんだと思います。 

 

▲68 ▼5 

 

=+=+=+=+= 

 

テレビ越しだけど、凄惨さがヒシヒシと伝わってきた事故だった、、、 

逃げようもなく、自分の努力ではどうにもならずに死を待つ状況はさぞかし無念だったと思う。 

 

日航もその他の航空業界に携わる者はその多くの無念を一時たりとも忘れてはならない。 

常に我が事のように思い、ほんの少しのミスも起こさぬという気持ちを持ち続けるべき。 

 

▲12 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

この事故があった時は25歳でした。 

とても大変な事故だったのをはっきりと覚えています。 

フライデーだったか何か写真誌に現場の写真が載っていたのも見ました。 

周囲の木々が薙ぎ倒され、飛行機の機体の残骸が散らばる中に、真っ赤で大きな肉の塊が写っていました。 

それが元は人間であった事は容易に想像出来、現場の凄惨さを想像するには充分過ぎる程でした。 

あの時、あの現場にいて、救護活動をした方は勿論、報道に当たった人にも、その心には深く残った物はあるであろうなと思います。 

もし自分がそこにいたなら一生その光景は忘れる事は出来ないでしょう。 

 

▲2 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

アメリカ軍の資料では戦地から帰国後の自殺者は戦死者の4倍とあった 

ストレス障害がいかに深刻な病気なのかが分かる 

私の曽祖父は徴兵で東南アジアに派兵されたが帰国後戦争のことは何も語らず酒を飲んでは暴れていたらしい 

記事を読んでいて曽祖父を思い出しました 

自衛隊だけでなく日本全体でメンタルの不調を弱い人間で片付けるのではなく誰でも罹る可能性がある病気の一種という理解が進んでほしいです 

 

▲88 ▼4 

 

=+=+=+=+= 

 

私も東日本大震災の時に自衛隊の方にお世話になりました 

 たぶん泥や瓦礫などがついていたであろう体をきれいに洗い流してくださり 身につけていた衣服もきれいにしてきちんと畳んでビニール袋に入れて棺の横に置いておいてくださいました 

 施設にずらりと並んだ棺 どれほど心身ともに大変だっただろうと思うと感謝でいっぱいです 

 ありがとうございました 

 

▲55 ▼3 

 

 

=+=+=+=+= 

 

当時小学生でプロ野球をテレビで見ていた時 日航機消息不明のテロップが流れていた記憶があります。 

月日は流れ大学生の時友人のご家族が、御巣鷹山へ救助に登られた話を聞きました。 

「木っ端微塵」とはこのことかもと、その凄惨な現場は一生忘れないと仰っていました。 

報道関係のカメラマンはシャッターを切っては嘔吐されていたほど、その現場凄まじいものだったそうです。 

 

▲93 ▼7 

 

=+=+=+=+= 

 

元陸自の父が災害派遣でこの現場に参加していました。 

元陸幕長がおっしゃるとおり、肉体の一部が散乱している凄惨な現場だったと聞いています。 

 

ただ、幸い父親は、凄惨な物への精神的に耐性があったようで、憐憫することも無く淡々と作業をこなし、腐敗臭が酷くてよく寝れなかった以外、精神的ダメージは無く、帰ってからも日常に生活を送ってました。後年、精神障害が同僚たちにあったかどうか聞きましたが問題なかったそうです。 

 

youtubeで知りましたが。この派遣がきっかけで退職された隊員もいたそうですね。実態がどうだったのか知りたいところです。 

 

▲18 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

遺体の身元確認にあたられた警察官の方が当時を詳細に記した「墜落遺体」という著書があります。 

遺体を収容する体育館で、警察の方々や医療関係者の方々が寝る間も惜しんで遺体の特定や清拭に取り組んでおられた様子が書かれています。 

その中にも、目の前の光景にショックを受ける関係者の様子が度々記されていました。仕事柄、遺体を目にする機会の多い職種の方達でもそうなのですから、自衛隊員の皆さんには相当な衝撃だったと思います。 

 

▲0 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

私の父はある仕事で定年の数年前に現場を退き、管理者となり、無差別殺傷の現場や大規模災害の現場から帰ってきた隊員がPTSDとなったり、または隊員が PTSDとなっていないかヒアリングをしたりすることに、甘過ぎる、俺たちの時代はそんなことにはならなかったとよく口にしていた。 

父も厳しい現場を乗り越えながら私たちの生活を支えていたことに尊敬しかありませんが、このことだけには違和感を感じていた。 

私も業種は違えど、部下のPTSDや被害者のご家族と関わったことによる代理受傷の防止や発生後の措置を管理する立場となり、少し分かった気がします。 

この方のように過去の辛い教訓を次世代が如何に背負い込まず、職務に精励しやすい環境を作るよう努めることができる方…それこそが、何万人もの組織を束ねる器がある方なのでしょう。 

 

▲4 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

うちの両親は九州にいるが、 

東京へ遊びにいくのも必ず、新幹線に乗ると言ってたね。 

それはやはり、この123便の衝撃的な事故で飛行機へ対する安全性に疑問符を持っているから。 

 

それはいくら、2025年になって技術も乗り心地も安全性も格段にレベルが上がったとはいえ、消えることはないそうだ。 

ちょっとした事故は死に繋がるのが、飛行機の未だに消えない恐ろしいところではある。 

世界一安全な乗り物と謳っているが、やはり飛行している際に重大なインシデントが起こったとしても、助けられる仕組みを作っていかないといけないなと思う。 

 

▲60 ▼4 

 

=+=+=+=+= 

 

この事故の事は本当に忘れられないし、歳を重ねれば重ねるほどどんどん悲しみがつのり苦しくなってくる。現場を見ていない全くの部外者ですらこうなのだから、現場で事故処理をしていた自衛隊員の方の精神的負担は筆舌に尽くしがたいものだろう。 

本当にありがとうございます。 

あの時代を生きていた多くの日本人に多大な影響を与えた事故だった。 

 

▲28 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

当時の自衛隊で最も最前線に立つ事を前提として強靭な身体、強靭な精神力を作る為徹底的に鍛え上げられた第一空挺団の小隊長にしてストレス障害に陥るほどの凄惨な現場だったという事だろう。確か遺体安置所確認所として使われた体育館は匂いが取れず結局建て替えられたというし、本当に凄惨な事故だった。ただこういう経験をした人が陸自のトップである幕僚長になれると言うのはいい事なのだろう。旧陸軍では士官学校を恩賜で卒業すればそのまま留学して陸大に進学。卒業後は三宅坂の参謀本部勤務になって一度も最前線を知らないままで軍の指導部に昇進していたのだから。 

 

▲3 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

自分は過去消防職員で救急救命士。 

火災現場では焼死体。電車事故ではバラバラ、凄惨な交通事故現場、孤独死では、ご遺体が腐敗して真っ黒なミイラ化。 

他に硫化水素、一酸化炭素中毒、首吊り、腹切り、飛び降り、溺水…様々な現場に数多く行きました。 

でも一度たりもと「怖い」とか「気持ち悪い」なんて思ったことがなかったし、トラウマにもならなかった。また心霊現象も無かった。それよりも「この人をなんとかしなくては!」と言う気持ちが強かった。 

救命士として、出場する時にディスポガウンを着た瞬間に気持ちのスイッチが切り替わるんです。 

 

▲30 ▼3 

 

=+=+=+=+= 

 

墜落遺体 

 

という本を何十年か前に読みました。 

自衛隊ではなく、地元の警察官の体験を綴ったもので、かなり長期間にわたったものです。 

自衛隊はすぐ撤収するかもしれないけど、確かに地元の警察官は遺体の身元確認までがしごとになるのでかなりの長期間拘束されたようです。 

体育館に遺体を並べて歯形やらなにやらをひたすら撮影し続ける係の人もいたとか。 

 

興味のある方は読んでみてください。 

 

市を覚悟して咄嗟に書いたメモ帳をのみ込んだサラリーマンの手紙とか出てきたと記憶してます。遺体は無残な状態なので、そのメモから身元確認に至ったようです。 

 

▲206 ▼7 

 

=+=+=+=+= 

 

怪我の見た目をリアルに再現した特殊メイク的なものを装着して、その場で応急の治療を施すという陸自の部隊の訓練を、テレビで見たことがある。 

本番でそうした場に直面した時に、ビビったり、パニックにならないようにする為とのこと。 

自衛隊員も含め、酷い事故や暴力の現場に遭遇する機会がほとんど無い日本人には、確かに必要な訓練。 

 

▲29 ▼4 

 

 

=+=+=+=+= 

 

小学校でしたが後輩ご家族親子4人事故でお亡くなりになりました。なのでこの事故は決して他人事と思わず毎年8月12日を迎えております。 

事故の報道時TVとラジオを付けて終夜見続けたのを覚えてます。すべてが想像を絶する出来事だったと伺ってます。山の捜索はかなり苦労されたことでしょう!遺体安置の体育館は暑さも重なり相当異臭が発生したとか。 

後輩のご家族はすぐに身元が確認され、新学期は追悼集会を兼ねた始業式になったと新聞記事にも書かれてました。 

昨年もお正月に羽田でJAL機と海保機の接触事故がありましたが、悲惨な事故が二度と繰り返されないように。自衛隊はじめ関係機関の皆さんは願っているはずです。 

 

▲26 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

この事故で向田邦子さんも坂本九ちゃんも亡くなられました。 

第1報では信じられなかったけど、現場は凄惨な状態だったでしょうね。 

自衛隊員は訓練で鍛えられてるけど、それでも感情のある普通の人間。 

そこら中に体が散らばっている中では、仮眠も食事も思うようにはいかなかったでしょうね。 

災害は無くなりはしないけど、戦争は無くすことが出来る(理屈では)。 

自衛隊の人達が精神を病むことなく仕事を遂行できる日常であってほしいですね。 

 

▲30 ▼32 

 

=+=+=+=+= 

 

飛行機事故だもの、遺体の損傷も激しいよね…と思いながら『墜落遺体』という手記を読みました。怖いもの見たさで手に取ったので想像の数十倍の衝撃でした。単なる四肢欠損ではないご遺体の状況に胸が苦しくなると同時に、検死に立ち会われた医療関係者のかたのご遺体との向き合い方尊さに涙が込み上げてきました。 

 

▲28 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

東日本大震災の時や、その他の震災もそうですが 

私たち一般人の想像を絶する任務に就かれていて 

自衛隊の方々には、本当にただただ感謝の一言です。 

こういう現場でのASDやPTSDは本当に心配です。 

 

「たったの2日程度の期間を御巣鷹山で過ごしただけでASDになった自分の弱さが当時は許せなかった」とありますが 

そんなことはありません。 

自衛隊の方々も訓練受けているとはいえ人間なのです。 

それが普通の感情です。 

本当に毎日私達の暮らしを守ってくださり、ありがとうございます!! 

 

▲46 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

自衛隊の方には感謝してもしきれません。知人に自衛隊員がいます。1月1日、能登半島地震の時に招集の連絡があり、すぐに駐屯地に自腹で切符を取り戻って行きました。交通費はてっきり自衛隊が負担していると思っていました。食事は数年前に自衛隊の食事の貧しさが話題になり良くなったと聞きます。トイレットペーパも自腹で調達していたことが話題になり改善されたみたいです。災害の最前線で頑張っておられる方に対し、日本人はもっと感謝しても良いのではないでしょうか。政治家の人たち、お供の人たちを引き連れての被災地視察ではなく、被災地に泊まり込みで仕事をしていただきたいです。 

 

▲50 ▼6 

 

=+=+=+=+= 

 

兄が自衛隊でこの現場で作業をしていましたが、性格が変わって帰ってきました。 

40年経ちますが、この現場の話は一切語った事がない 

両親も仕事の関係上、事故の連絡と同時に現場に行き小学生だった私は1人で留守番。 

あまりの怖さでNHKのニュースを付けっぱなしにしていました。 

現場付近で銃声と速報が入ったり、子供心に家族が帰ってこないのでは?と恐怖で一杯でした。 

この年、長野市内で大きな地滑りがあったり、デルタ航空機の墜落とか大きな事が多い夏休みだった記憶がある。 

 

▲67 ▼5 

 

=+=+=+=+= 

 

戦後、大規模災害や事故で出動する自衛隊が積極的に評価されるようになったのが阪神淡路大震災以降。それ以前は現場で献身的活動をしても、その活動に注目して積極的に報じられることはなかった。この事故での自衛隊の活動も、その苦労の割に賛辞や慰労の言葉が掛けられることは少ないと思う。 

 

▲23 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

実家が埼玉の北に位置しています。 

あの日は忘れられません。 

お盆の買い出しに母や姉と出かけ、西の空の夕焼けを信号待ちの車の中から見ると、今だ見たことのない、血のように真っ赤な空で、なんか気持ち悪いねと言い、帰ると父が、日航機がこの辺りで消えたらしいと。 

それからは一晩中テレビを見て 

その後御巣鷹山での墜落がわかりました。 

埼玉県の北の地域では火葬場が全て使用され、通常の使用がなかなか出来ないそんな状況でした。 

近くだったのでしばらく重苦しい雰囲気だったのを思い出すとともにご冥福をお祈りします。 

あと、事故の後、ボーイング社に原因究明を求めるも、難しかったと聞きました。 

レーガン、中曽根政権で強く言わなかったとか。 

 

▲22 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

私の父は機動隊として初日に現場に入ったので詳しい話を聞かされた。 

 

現場は遺体と残骸と荷物で地獄絵図。まだ燃えている場所もあった。 

 

上を見上げると木に長い髪の毛がついた頭皮が風でなびいていた。 

歴戦の警察官たちもゾッとする光景。 

 

急場面を転んで転がり落ちて首に巻きついたのは人の腸。 

草木を掴むと泥と肉が混じったペーストが手にこびり付く。 

苔のマットを踏んですっ転んだ。そのマットはよく見ると泥まみれの短髪の頭皮だった。 

 

えぐられた茶色い地面を掘ると埋まっていた幼児の頭が出てくる。子供の遺体を見るたびに泣いていた。 

 

軍手は人の体液で真っ赤に染まり、髪の毛が絡まる。 

 

自衛隊と違いテントも缶詰もないから遺体の横で合羽に包まり寝ようとするが眠れない。雨が降って着ても合羽を身体に巻いて寝るしかない。 

 

帰ったあともテレビで現場を見るたびに自分があの現場にいたという現実感がなかったという。 

 

▲7 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

国鉄時代に起きた三河島事故では、頭部を強打した電車の運転手が、対向の電車を抑止せず被害を大きくしたと罪を問われた。東京湾で日航機を逆噴射させて墜落させた機長は、統合失調症と正しく診断されていなかったためと広く知られている。御巣鷹山関係者のPTSD対策も含め、このような大事故が起きないと、従来の常識に囚われて、医学の知見が生かされにくいというのは、何とも残念なことだ。 

 

▲121 ▼22 

 

 

=+=+=+=+= 

 

現場に行った人のメンタルはずっと気になっていたが、やはり心に傷を負う方が多かったのですね。 

遺体確認に立ち会った日航社員の方の話を聞く機会があって、想像を絶する状況だったと。その方は年齢を重ねて不安定な面が出てきたようで、割と若いうちに亡くなりました。 

もしかしたら現場に行ったことが根底にあるんじゃないかと、今も思ってます。 

 

▲2 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

自衛隊員の苦労やストレスは大変な事だったと思います。 

常日頃から訓練等の賜物だと思います。 

しかしながらこの間の宮古島での活動家が自衛隊員の休憩中に妨害した上で暴言を吐かれたと宣う始末、自衛隊員の方々の心中を察します。 

報道の自由や表現の自由とか言う前に相手の気持ちを考えるべきだと思います。 

 

▲94 ▼9 

 

=+=+=+=+= 

 

70年代後半に 

ジャンクという映画がありました。 

航空機墜落現場のシーンがあって路上にまるで落とし物のように内臓や肉片が散乱していました。 

今では倫理上上映できない類の映画でした。 

この映画、観ているうちに死体に慣れてるんですね。 

怖いもの見たさで見てしまうと意外と怖くない。 

1種の感覚麻痺でした。 

 

同時期にグレートハンティングという映画があってひとつのブームになりました。 

サファリで人がライオンに食われるシーンの一部がcmでも流ていました。 

 

記事の中の説明なんですが、なんか情景がリアルに想像できます。 

でも誰かがやらないといけない仕事を自衛隊はやってくれます。 

 

▲18 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

当時自分も自衛官でした。あの日の夕方駆け足を終えて富士山方向を仰いだ時ジャンボジェットが富士山を越えて行くのが見えました。18時20分頃でした。あのジャンボが事故機との確証はありません。 

待機命令は出ましたが出動はありませんでした。 

心よりご冥福をお祈りいたします。 

 

▲6 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

当時高校生でした。 

翌日はとてもよく晴れていたことを覚えています。 

 

テレビで酸素マスクの降りた写真を何度も見ました。 

ダッチロールという言葉も何度も聞きました。 

 

新聞で事故当時はまだ他に生存者がいたらしいという 

記事を目にして心を痛めました。 

 

道も無い山の中の現場で自衛隊の方は、 

大変苦労されたと思います。 

 

▲162 ▼3 

 

=+=+=+=+= 

 

そして事故の記録を残し、「空の安全」を社会に伝え続けていくことはメディアの責務だと考えている。 

 

と本当に思うならこのコメントを読んで欲しい 

 

ある時私が入院した時 

同室に自衛官を退官された方が一緒でした 

まさに、この記事にある御巣鷹山での任務に当たったという方でした 

 

ここに出てきた幕僚長はなんとかメンタルを持ち直せたようですが 

同室になったこの方は、膠原病を発症したそうです 

 

ある夜ガタガタガタと壮絶な音がして目を覚ましました 

この元自衛官の方が痙攣を起こしていました 

ナースコールを押し看護師さん二人で対応していました 

身長190cm体重100kgはこえるようなガッチリした方でした 

翌日、話を聞くと痙攣のことは覚えてなくて御巣鷹山で任務についたことその後おかしくなり退官させられたこと。手当もろくになかったことを聞きました。 

今の方も大事ですがそう感じられるでしょうか 

 

▲11 ▼3 

 

=+=+=+=+= 

 

40年ですかほぼほぼ入社してから定年ですね、私が21の時、新潟の海に行き民宿の夕飯時に高校野球のニュースとかを観ていた時でした、今でも鮮明に記憶しています、40年たった今でも犠牲になった方々の無念はいかばかりかと思う所です、そして思う事はいつになったら真実が語られるのかと思う次第です。 

 

▲22 ▼7 

 

=+=+=+=+= 

 

先の大戦で精神疾患を患った帰還兵が多かった事が公けにされたのを知った。 

軍は1人もいないと言っていたと。 

日本人はどうしても心の弱さを出さない。 

 

心理学、カウンセリングを学ぶと初期の段階でしっかり治療、カウンセリングで心の奥の恐怖や孤独など出さないとそれこそ病気になる。 

 

アメリカでは少し悩みがあっても、頑張り過ぎてもカウンセリング。 

日本もしっかりケアできる世の中になるといい。 

 

▲2 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

よく自衛隊を軍隊として否定して、日本は災害に対処する部隊を設置すればいいという人がいますが、災害のみならず凄惨な事故で目も背けたくなるようなご遺体に接するのはそのような部隊では無理で対応できるように訓練させるのは酷だし理由がありません。機動力も大幅に減らされるでしょうし、武器を持たない組織ならテロリストに奪われて軍事転用されるような装備を持たせないかもしれません。やはりこういう場面ではあらゆる意味での極限状態を乗り越えられるようにする大義があるのは軍事に関わる人以外にありません。この事故に災害部隊のような人が関わったら現場に辿りつくのも大変だし、無惨な遺体に精神的に耐えられなかったでしょう。自衛隊のかたがたには職務とはいえ、いつも頭が下がります。 

 

▲55 ▼9 

 

=+=+=+=+= 

 

この凄惨な状況の原因の一つに挙げられるのが座席の二点式シートベルトだと何かの本で読んだ。 

あの高度からの落下や墜落の激しいGで人間の身体はひとたまりもない。 

かなりの方が腹部で真っ二つになってしまったらしい。 

墜落直後の尾根の状況は当時流行りだった写真週刊誌がすっぱ抜いた物もあった、翌年の某アイドルの投身もそうだが、今ではNGの現場を見て頭が真っ白になった記憶がある。 

 

▲15 ▼0 

 

 

=+=+=+=+= 

 

当時を体験した自衛官の方はほとんど退官されているだろうな。 

墜落事故、地下鉄サリン事件の任務に従事した特防の隊員(職種は特防(化学科)だが施設隊員でもある珍しい人)の2曹さんと一緒に仕事し当時の話を聴けた。 

まず墜落位置の割り出し、これは先発偵察によってわかった次に手作業で救助できるか否かこれが大変難しく重機をもってやらないと出来ない現場判断だがその重機を現場に持っていくのに道がない、、 

まず山の持ち主、行政等への連絡、これがかなりの部分で時間が掛かったそうです。 

木も土地も財産とすれば木を切り倒し山を削るのに補償問題、責任問題。いまより自衛隊を見る目が厳しく差別的な時代です。 

先にやれるだけやろうと先発隊が通った道を隊員が進もうとすると崖あり谷あり、道に迷ったり怪我をする隊員がでたそうでやはり山を拓くしかないと、灯りも頼りなく発発(発電機)をギリギリ運べるとこまでほぼ人力で行いそこを拠点 

 

▲0 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

自衛隊の方々には感謝しかありません。 

いつもありがとうございます。 

 

自分は当時小学生高学年で、テレビの報道で画面が御名前を映し続けキャスターが淡々と一人ひとり読み上げていたのを覚えています。 

 

これだけの大事故でも4人の方が助かりました。助かる可能性があるんです。 

なのにその後自分自身旅客機に数回乗りましたが、乗客保護の面で改善が全くない。シートベルトは2点式のままだし、緊急時用のヘルメットも無い。 

救命胴衣や酸素マスクなんかより、シートベルトを4点式にしてヘルメットを装備した方が生存率は上がるのではないだろうか。 

 

そういう意見をよく耳にする。 

 

▲2 ▼5 

 

=+=+=+=+= 

 

決して風化させてはいけないと思うし二度と起きてはならない事故でした。東日本大震災などの災害時にも尽力される自衛隊の方々は本当に凄いと思うし目の当たりに変わり果てた遺体を見る経験など出来ないですし想像すら出来ず単にトラウマになるなどと単純な表現にすら値しない事なのでしょう。本当に本当にご苦労さまでした。そしてありがとうございました。 

 

▲8 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

もう40年になるんですね。事故があった1985年8月12日の午後7時ごろ、当時、京都の大学に通っていた彼女(=妻)が、翌13日に大阪からJAL便で故郷の沖縄に帰省する準備を楽しそうにしていたのですが、そこに事故のニュースが入ってきて、急に「飛行機に乗るのが怖い」と言い出して、結局キャンセルしたことがありました。以来、事故がトラウマになったのか、結婚して子供が生まれるまで、飛行機には乗れませんでした。 

 

512名、そしてまだ出生前の1名の方々のご冥福をお祈り致します。 

 

▲138 ▼7 

 

=+=+=+=+= 

 

当時はカウンセリングやPTSDなんて言葉すら一般的ではなかった。男は涙を見せるな!強くなければならないと学校で教育されていた。自衛官や被害者家族も大変だったと思います。 

 

生存者の川上さんの弟さんも両親を亡くされ、カウンセリングという言葉すら一般的で亡かった時代で心理的なケアがされずに、一時不登校になったと聞きました。 

 

JALも政府も賠償金だけでなく、臨床心理士を全国から集め、被害者家族や自衛官、警察官の心のケアに努めて欲しかったです。 

 

▲2 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

職場の上司で2年ほど前に定年を迎えられて退職されましたが元自衛隊の方で空挺部隊かレンジャーだったか忘れましたがこの現場に行ったと一度だけ話してくれました。 

もう地獄だったと、その時は今でもたまに夢に見たり臭いを思い出すと行ってました。 

それ以来は殆どその時の話をする事はありませんでした。周りが聞いても話したくなさそうな感じでしたので余程の惨状だったのだと思います。 

 

▲24 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

実際には戦場ではないが、戦闘機が撃ち落とされた状態と同じと言ってもいいでしょうね。 

救助活動した人達は一生忘れられないほどのトラウマになってしまったんでしょう。 

と言っても誰かがやらなければいけない仕事をしている人達には尊敬や感謝しかありませんね。 

 

▲14 ▼5 

 

=+=+=+=+= 

 

イラク派遣の時だったか、帰国した隊員の目が据わっていて、とてもではないが任務に就かせられない状態だったと聞かされたことがある。後にクールダウン期間的に、暫くクウェート辺りで待機する期間が設けられた様だけど。 

 

サマワの6次派遣隊に知り合いがいたけど、当人曰く宿営地に迫撃砲弾撃ち込まれるやら何やらで、日の丸つけた帰国便を見たときは、なぜか涙か止まらなかったと。その後も、暫くは神経が昂ってる感じだった。 

 

▲8 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

確か尻もちを着いて隔壁を修理後の飛行だったようだ。 

上空を尾翼かが操作不能で方向が利かず蛇行飛行の末悲惨な事故となった。 

ずーっとTVを見ていたら生存者がバートルで吊り上げられたのを見て嬉しい涙を流した。 

救助された少女は、後に看護師になられた話しを聞きうれしく思いました。 

 

▲17 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

事故からすぐに道なき山を登った赤旗系のカメラマンがとった事故現場の写真をまとめた本が限定で発売されたことがある。その本を見たことがあるが、とてもとても人におすすめできるものではない。鉄の板のようなもので切断された顔や頭が並ぶ、立木にささったままで焼かれたご遺体… 写真を見ただけでもすごい現場だったことがわかるが、その場で救出作業をした人たちのたいへんさはとてつもないものだっただろう。乗客をはじめとする多くの人の人生に大きな影響をあたえてしまった事故。もう絶対に繰り返してはいけないが、今年も航空機事故はおきている… 

 

▲34 ▼2 

 

 

=+=+=+=+= 

 

当時、高校生で一晩中寝れずテレビのまえにいた。 

夜でなければ生存者の方がもっといたはずと認識していたが、悲惨なほど、バラバラになられていたのを40年経過して知る。 

後から、修理についての話が出ていて。 

直したという個所がご丁寧な程、塗り直されていたとも知りやり切れない。 

こんな事故の現場の中で過ごすのも苦しく辛いの当然ですよ。 

戦争の空襲や原爆投下された中に生き延びた方も本当に地獄を見たのと同様ですよね。 

 

▲29 ▼2 

 

=+=+=+=+= 

 

私の叔父が自衛隊員をしてましたが叔父の同期がこの墜落事故の救助に出動した経験があります。墜落現場は本当に地獄絵図の様であちこちに残骸があり航空燃料の燃えた臭いと人の焼け焦げた臭いが混じり捜索作業中に何回も嗚咽しながら作業していたそうです、休憩や食事の時も食べたり飲んだりしても戻してしまい大変だったと言ってました。救助活動中に着ていた服には腐敗臭や航空燃料の臭いが染み付き洗っても取れなくて救助活動終了後に交換してもらうこととなりその本人も不眠症や食欲不振が続き最終的には自衛隊を辞めてしまいました。今で言うPTSDになっていたのだろうと思います。 

 

▲17 ▼0 

 

=+=+=+=+= 

 

当時がどんな時代だったか知らないが、昭和60年(?)に起きた事故。 

当然ながら平成以降生まれの人は知らないワケだが、忘れてはならない事故。 

継承は必須。 

何でもそうだが、『経験者は語る』とは言うもので、出来るだけ経験者の話を拡散させる必要がある。 

『失敗は成功のもと』とも言うもんで、ここから得た教訓も数多くあるだろう。 

 

▲16 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

再発防止のためにも事故の悲惨さを伝える事は大切だ。でもご遺体の損傷を細かに描写したり、「遺体の真横で寝るのは辛かった」等の言葉はご遺族にとってもまた辛いと思う。ジャーナリズムとの狭間ではあるが、事故や事件の被害者は望んでそうなった訳ではないので、少し配慮を願いたい。 

 

▲13 ▼21 

 

=+=+=+=+= 

 

この人は元幕僚長。定年は60歳。 

防大出て、習志野の空挺団に入隊したはずです。 

日航機墜落現場で活躍した自衛官は大変でした。数多くの書籍を調べるとわかります。 

実は航空自衛隊のレーダーサイトも、123便を追跡してました。「何で羽田を離れるのだ。おかしな飛行をしいるな。」と、疑問を持って、レーダーで追跡したのです。 

あと、事故の翌日、生存者の一人だった中2の少女を、隊員が抱き抱えて、ロープでヘリに上げる場面は、スクープにもなりました。 

退官したのが、20年3月31日。それまで、陸はもちろん、海、空の自衛官の活躍を知っています。数多くの災害派遣、また、地下鉄サリン事件でも、仲間が活躍しました。そして、定年目前の、ダイヤモンドプリンス号の派遣。 

その時は幕僚長だった為、色々指示はしていたはずです。 

岡部氏のご苦労に、感謝します。 

 

▲64 ▼1 

 

=+=+=+=+= 

 

事故は月曜日で、関口宏のクイズ100人に聞きましたを見ていた時のニュース速報で知りました。夜が更けてから、自衛隊員が射殺されたとNHKが報じ、いったい何が起こっているんだ、とかなり混乱しました。とどめは、地元ローカル局が鶴瓶さんの『突然ガバチョ』という番組を再放送していたんですが、ゲストがたまたま坂本九さんでした。頻繁に『これは再放送です』というテロップが流れていて…。不安になり一睡もできず、NHKがひたすら搭乗者のお名前を読み上げるのを聞いていました。現場で救助や検視にあたられた方々のご心労は想像を絶するものだと思います。 

 

▲15 ▼4 

 

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この元幕僚長さんが見たという光景、私の記憶違いでなければ、写真誌に載ったと思う。私が覚えているのは、衝突時の衝撃で骨が先に飛んでいって、後に残った肉片と座席、みたいなものだった。 

毎年この時期になると、フライトレコーダーの音声とシミュレーターをあわせた動画を視て、尽力された方々と亡くなられた方々に想いを馳せる時間を取っています。 

 

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武勇伝には事欠かない、80年代の屈強な空挺団の隊員の話ですからね。銃撃や爆撃による損傷と、墜落時の想像を絶するGが齎す衝撃による損傷は違うのでしょう。戦争ばかりしてる友軍の情報を活かして、万一の場合の自衛隊員の心ケアに万全の備えをしておくべきでしょう。 

 

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仕事で県外に行くことが多かった父ですが、いつも新幹線移動。飛行機はどうしても怖かった…と退職後に教えてくれました。 

この事故を当時リアルタイムで見聞きされた方たちの中には、父のようにあまりのショックにその後飛行機に乗れなくなった方も多かったと思います。当時医師が足りず、歯医者や獣医など医と付く職業の方なら皆駆り出されたとされた程の凄惨な現場。 

自衛隊の方のみならず、警察、消防、医療従事者の方たちの心痛は計り知れなかったと思います。そして何よりご遺族の方の慟哭。 

おそらくですが、何に置いてもご遺族の方たちの苦しみを間近に見ることの心痛もとても大きかったのでは、と思います。 

 

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この事故後に出版された「墜落遺体」という本を読みました。遺体安置所での検死の様子などが書かれています。まさに地獄とはこの事かと思うほど悲惨な様子に読んでいて涙が出ました。汗が噴き出る真夏の体育館で一刻も早くご家族の元へ帰らせてあげたいという医療従事者の方々の死闘に頭が下がりました。 

 

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