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岡部俊哉氏(66)は、1985年の日本航空123便墜落事故の現場で自衛隊員として活動した体験を振り返り、その恐ろしさを語った。

事故後、彼は生存者を救出し、また遺体と向き合う厳しい任務に従事する中で、精神的に大きな影響を受けた。

特に、帰宅後に追体験するような症状やフラッシュバックに苦しんだが、周囲には弱さを見せずに過ごした。

彼は後にメンタルヘルスの重要性を理解し、自衛隊内でも改善策が講じられていることを知る。

岡部氏の体験を通じて、事故や精神的苦痛の伝承が重要であると感じている。

事故から40年が経ち、当時の遺族の高齢化も懸念される中、安全に対する認識を新たにする必要があると述べている。

(要約)

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都内でインタビューに応じる岡部氏 

 

「戦場とはこんな場所なんだろう」――。陸上自衛隊元幕僚長の岡部俊哉さん(66)は、当時をこう振り返る。 

 

1985年8月12日、羽田発・大阪行きの日本航空123便が群馬県の御巣鷹の尾根に墜落し520人が犠牲者となった。26歳だった岡部さんは、第一空挺団の小隊長として事故翌日に現場に降り立った。あれから長い年月が経ってもなお、岡部さんの脳裏には「焼け焦げた臭い」が焼き付いているという。当時、凄惨な現場での活動を終えた岡部さんの体には、ある異変が起きていた。 

 

事故直後の上空からの映像 1985年8月 

 

事故翌朝の午前5時、岡部さんはいつもとは違う「命令受領ラッパ」で起床した。災害派遣に関わることだとわかると、すぐに出動準備に取り掛かった。大型ヘリのVー107に乗り込み、午前8時前に離陸。計6機のヘリのうち岡部さんは小隊長として3番機に乗っていた。 

 

午前8時40分、「御巣鷹の尾根」の上空に到着した。ヘリからロープを使い、岡部さんは3番機から最初に降下した。JALのマークが書かれた主翼の近くに降り立ったが、その時に「ぐにゅっ」とした何かを踏んだという。その違和感の正体は人の耳だった。岡部さんはその瞬間「申し訳ありません!」と心の中で謝った。 

 

撮影:陸上自衛隊第一空挺団 

 

山の斜面の木々は倒れ、焼け焦げた臭いがしていた。岡部さんらの任務は地形の偵察と生存者の救出で、捜索を開始したのは午前9時半頃。生存者を見つけるために「動いてください」「声だしてください」などと声かけをしながら捜索したが、目の前に広がるのは「地獄のような世界」だった。手や足の部分遺体が転がり、まともな状態の遺体はひとつもない。焼け焦げて座席と一体化してしまった遺体もあった。 

 

「真っ赤な色をした木を触ってしまい、よく見ると肉片が付着したものでした。木の上には髪の毛がある頭皮や内蔵もぶらさがっていました。とにかく精神的に耐えられる状態ではなく『職業選択を間違えた』と思いました」 

 

生存者の救助活動 

 

そして捜索開始から約1時間が経った午前10時45分頃、無線に「生存者発見」の一報が入った。しかし岡部さんは、現場の状況をみて頭が混乱したという。人間は皆ぼろぼろなのに、なぜ転がっているぬいぐるみは綺麗な状態なのか…。「生存者発見」の一報を最初は全く信じられなかったという岡部さんは「何かの間違いじゃないか」と感じながら、生存者が運ばれてくる集合場所に向かった。子どもを含む生存者の4人は、尾根からワイヤを使ってそれぞれヘリに吊り上げて救助した。全員の救助が完了したのは午後1時半頃だった。 

 

 

墜落現場で活動する自衛隊 

 

その後の岡部さんの任務は墜落現場となった尾根にヘリポートを作ることだった。人や物資の往来を円滑に進めることは自衛隊にとっても急務。ヘリポートは現場の拠点となったため、現場で見つかった遺体は次々と岡部さんがいる場所に運ばれてきたのだ。 

次々と並べられていく遺体…。この夜、岡部さんはやむなく遺体の隣で仮眠をとることになったという。横になることも難しかったそうで、岡部さんは「臭いがすごくて遺体の真横で寝るのは辛かった」と厳しい表情をしながら話してくれた。8月の盆の時期。日中の暑さで遺体の腐敗が進んでいたのだろう。 

 

墜落現場で活動する自衛隊 

 

岡部さんは事故発生から3日後の15日の朝に現場を離れたが、それまでずっと仮眠は遺体の横が定位置だったという。岡部さんは御巣鷹山での任務を振り返る。 

 

「現場に入った直後はショックが大きかったものの、翌日には『大丈夫だ。俺はやっていける』などといった”慣れ”を感じている自分がいました」 

 

当時は感染症の概念も薄かったのか、遺体を素手で触ることにも抵抗はなかったという。しかし任務を終えて、帰宅してから3日ほど経った時、岡部さんの体にある異変が起き始めた。夜になると、御巣鷹山の現場で見たり触ったりした遺体が幽霊のようになって窓の外に並ぶようになった。日中や深夜の訓練では問題ないのに、帰宅して部屋に一人でいると症状が出る。 

 

「とにかく暗い場所が嫌で、トイレ、風呂、台所など全ての部屋の電気を付けていました」 

 

さらに臭いも敏感になっていて、肉も食べられない。一人で寝ようとするとフラッシュバックが起きるため、毎晩のようにウイスキーを飲んで、無理やり寝ていたという。 

 

自衛官時代の岡部氏 

 

しかし岡部さんは当時、こうした異変を周囲に明かせなかった。空挺団の小隊長として、部下の前で弱音を吐くなんてとんでもないことだったからだ。「精神が病んでいる」などと話をしようものなら「病院に行くために空挺団を離れないといけないかもしれない」と考えていて、周囲に対しては「おばけを見た」程度に話すなど、症状をごまかしていた。 

 

一方で、部下のなかには「自宅のアパートでは寝られないので、営内で寝泊まりする」などと、似たような症状を訴える人がいた。しかし、岡部さんは「情けないやつだ」なんて言って笑うだけだった。岡部さんによると、自身のこうした症状は1か月程度で治まった。その後はいつも通りの生活に戻った。 

 

 

御巣鷹山を登山する岡部氏 2020年 

 

メンタルケアについて、岡部さんが自衛隊で真剣に考えて向き合うようになったのは「2003年のイラク派遣の時代だった」と指摘する。その時くらいから「ストレス障害」について教育を受けるようになり、その際に御巣鷹山での任務から帰ってきた時の症状が、教科書で学んだ「急性ストレス障害(ASD)」の症状とほぼ一致していることを知ったという。岡部さんは当時のメンタル状態について「普通の人が起こす当然の反応」と専門家から指摘され、やっと心の中でもやもやしていた感情が消えて、人に体験談を話せるようになった。岡部さんはその後、陸自トップの陸上幕僚長になり、指揮官として大勢の部下を率いることになる。 

 

「たったの2日程度の期間を御巣鷹山で過ごしただけでASDになった自分の弱さが当時は許せなかったが、今では、指揮官としてASDやPTSDを部下に負わせることは絶対にしてはいけないと強く思っています。そういう意味では、今の自衛官にさせられない経験を自分ができた事は良かったと思います」 

 

防衛省では、2000年度に「自衛隊のメンタルヘルスに関する検討会議」が実施された。その後、イラクなどの海外派遣や東日本大震災などの災害派遣を経て、「ストレス障害」への対策が進められてきた。具体的には、メンタルヘルスチェックを実施することで、隊員自らがストレス状態を把握。結果によっては、臨床心理士を利用することもできるようになった。さらに指揮官は、隊員の不調の兆候を把握してケアにあたることが必須となった。ストレス障害について、防衛省内では「強度のストレス下において発生する一般的な症状」として認識されているという。 

 

TBSテレビ 池田祐一朗 

 

事故が起きた1985年は私が生まれた年でもあり、私はリアルタイムで事故を知らない世代である。私のほかにも、この事故を取材する記者の多くが「事故を知らない世代」という印象だ。日本航空でも事故当時を知る現役社員はわずか0.1%で、新入社員などに対する安全研修に力を入れている。事故から40年が経った今年、遺族を取材して感じたことは「遺族の高齢化」だ。ある遺族は「慰霊登山は今年が最後」だと話し、別の遺族は「50年の時は生きているかどうか」と不安をこぼした。事故の記憶の伝承は重要な課題だ。そして事故の記録を残し、「空の安全」を社会に伝え続けていくことはメディアの責務だと考えている。元自衛官の岡部氏のように、長い年月を経てようやく心の整理ができる方もいらっしゃるので、私は記者として、こうした方々の声に引き続き耳を傾けていきたい。 

 

※この記事は、TBSテレビとYahoo!ニュースによる共同連携企画です。 

 

 

 
 

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