( 315875 ) 2025/08/13 07:45:13 2 00 「死にたくない」特攻決まり泣く友、死を見届けた16歳 遺品届けた少年の前で泣き崩れた遺族 #戦争の記憶KKT熊本県民テレビ 8/12(火) 18:02 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/dcdbae6dabbe3a2e0624dcc5b44d48774f9708a1 |
( 315878 ) 2025/08/13 07:45:13 0 00 自宅で取材に応じる岩本門陀さん96歳(2025年6月取材・撮影 KKT熊本県民テレビ)
「軍艦旗を振りながら爆弾となっていった友の姿を思うと今も涙が出る」。太平洋戦争の最中、敵艦に体当たりする特攻で多くの若き兵が命を落としました。特攻の後方支援を担っていた男性は死んでいく仲間を見送りました。終戦後に戦友の遺品を届けに行くと、男性の目の前で遺族は泣き崩れました。言葉にできないほどつらい体験をし、語るのをためらっていた男性。戦後80年、初めてメディアの取材に応じました。(KKT熊本県民テレビ・内藤有希子)
鹿児島海軍航空隊に入隊した直後の岩本門陀さん(1944年9月撮影)
熊本市北区に住む岩本門陀さん(96)。熊本県人吉市で姉1人弟2人の4人きょうだいの長男として生まれ、幼少期は戦争ごっこや球磨川で泳ぐ毎日を過ごす“わんぱくな少年”でした。男児は全員「将来の夢は兵隊さん」とこたえていた時代、岩本さんも例に漏れず兵隊になることを夢見ていました。
1941年に太平洋戦争が始まって約3年。戦況が厳しくなり、兵力確保の必要性が高まりました。岩本さんは、旧制人吉中学校(現在の熊本県立人吉高校)3年のとき教師から「岩本、お前行かんか」と志願兵になることをすすめられました。
「嬉しかったね。やっぱり一番最初に選ばれたっていうのは。俺が一番目立っていたからかな」
家に帰り、海軍飛行予科練習生(=予科練)に志願したことを家族に伝えると猛反対。「戦争に行って死ぬ必要はない」と止められ、両親はすぐに教師の家へ行き「息子を止めてくれ」と泣いて懇願したといいます。
「親父はずっと『絶対戦争には負ける』と言っていた。でも我々は軍国教育を受けて育ったので、両親を『国賊じゃないか』と子ども心に思いました。親の言うことを聞かずに志願したのです。今になって思えば、最大の親不孝でした」
1944年9月、鹿児島の海軍航空隊に入隊する日、地元の人吉駅に数十人の見送りが集まりました。「出征兵士を送る歌」をみんなで歌い、日の丸の小旗を振りながら送り出してもらいました。まだ子どもだった岩本さんや同級生は、親元を離れるのが寂しく、涙が止まらなかったといいます。
終戦2日前に岩本さんが偵察役として飛び立った海岸(現:福岡県糸島市志摩芥屋)
入隊から約3か月後、約200人の予科練生は福岡市郊外の糸島郡小富士村(現在の福岡県糸島市志摩小富士)の「小富士海軍航空隊」に転属します。身体測定や技能検査を受けた結果、岩本さんは操縦には向いていないと判断されました。代わりに命じられたのは特攻機の最後尾を飛び基地との連絡を取り合う「偵察・通信」の役割です。
「これが運命の分かれ道だった。操縦士なら今頃靖国神社にいます」
モールス信号や手旗信号の訓練を受けた後、岩本さんの所属していた分隊は沖縄へ特攻に向かう「菊水隊」がいる糸島郡芥屋村(現在の福岡県糸島市志摩芥屋)へ応援に行くことになりました。隊員たちは飛行機の手入れや操縦の練習に追われ日中はほとんど顔を合わせなくなり、夜、床についてからおしゃべりをしました。眠れずに夜通し話をする日々が続く中、話題の中心は父母の話やおいしかった食べ物など、故郷への恋しさや帰りたい気持ちだったといいます。「死にたくない」や「寂しい」といった気持ちを表に出すことができない時代で、上官たちの前では話せないことでした。
当時の様子を思い出しながら岩本さんが書いたくじ (画像右)缶詰に入った割り箸くじ(画像左)日の丸印が入っていた
特攻機に乗る人は、搭乗の1~2日前にくじ引きで決まっていました。夕飯が終わると缶詰の空き缶に割り箸を入れ、日の丸印が描かれたくじを引いた人が順番に飛び立つのです。日の丸のくじを手にした人は今でも忘れられないほど悲しい様子だったと話します。
「あの時の心理状態というのはやっぱり行きたくないっていうか実際に死にたくないって。もうはっきり死ぬのは分かってるからね。本当かわいそうだったね。引いた瞬間に顔が真っ青になって…やっぱり子どもでも分かるんだよ。悲壮だった。思い出したくない」
搭乗が決まった戦友が、布団を一日中かぶり「行きたくない」と小声で泣く姿を今も鮮明に覚えているといいます。
「幼少期から『天皇陛下のために』という教育を受けていた絶対服従の時代です。出ていけば必ず死ぬということが決まっていた大人の真似をした子どもです。かわいそうというよりは、憎しみの気持ちが強かった。戦争を始めた大人をこの時ほど憎んだことはありません」
兵隊になることしか選択肢がなかったような時代。自ら志願しても、死を目前にすると「死にたくない」という気持ちになったといいます。しかし、そのような考えを表にすると「非国民」や「国賊」と言われるため、胸の奥にしまっておくことしかできませんでした。岩本さんも操縦士が全員飛び立っていなくなったら、同じように特攻機に乗って戦場に行くことを覚悟していました。
水上偵察機「瑞雲」 サンディエゴ航空宇宙博物館 保管
岩本さんたちが乗っていたのは、水上偵察機「瑞雲」。偵察だけでなく、特攻機としての機能も備えた機体です。1945年8月13日、上官から「お前も行ってみるか」といわれ、偵察は死ぬことはないと思い「行かせてください」と軽い気持ちで乗ったといいます。初めて偵察機の後ろに乗せてもらって特攻機から1キロほど離れた最後尾を飛び、沖縄の戦場で死に向かう仲間の後ろ姿を見守ったといいます。
「上から見ると飛行機がマッチ箱みたいで。一気に急降下で突っ込んでいくから、それがうわあああっと大きくなるんですよ。本当に恐ろしかったですね。旗を振って突っ込んでいく特攻隊を1回か2回見て、後はもう見きらなんだと目を背けました」
特攻機を操縦していたのは、予科練で1年から1年半ほど教育を受けた甲種飛行予科練習生や、自身とそう変わらない年齢の先輩兵士で、飛び立った17機は1機も帰って来なかったといいます。
「 上官は『操縦桿(ハンドル)」を踏んで壊せ』って言った。そのまま(爆弾として落ちて)行くから。足で踏んでいても恐怖でどうしても離すって…そのまま身投げするのと一緒ですからね」
岩本さんが偵察機に乗ったのはこの1日きり。80年たった今でも当時の様子を思い出すと、涙がこみ上げるほど、はっきりと今でも脳裏に焼き付いています。
アルバムを見つめ当時を思い出す岩本さん
終戦から数日後、生き残った岩本さんは亡くなった戦友の遺品を整理し、帰る途中で届けなければいけませんでした。「俺たちが死んだらこの荷物を実家に送ってくれ」と戦友たちが毎晩口癖のように繰り返すのに対し「心配すんな、ちゃんと届けてやるよ」とおどけて返していたことが事実になってしまった虚しさと寂しさが込み上げたといいます。
180円の給料と進駐軍が配布していた缶詰とたばこ1個ずつを受け取り、倉庫にあった飛行服や軍服を風呂敷に包み、3人の戦友の遺品を抱えて有佐、千丁(現在の八代市)、松橋(現在の宇城市)の3か所へ遺品を届けました。
人に住所を聞きながら畑やあぜ道を進み、戦友の実家へ向かいました。松橋と千丁では近くの人に遺品を預けましたが、有佐へは自ら遺族を訪ねました。遺族の家に着いて、直立不動で挨拶をし「班長からの指示を受けてお預かりしたものをお返しします」と言い、シャツに包んだ手紙や本をはぎれでまとめた遺品を渡しました。泣き崩れた遺族は「戦死したんですか」と聞き、岩本さんは 「どんなふうに亡くなったのかは知りません」と答えました。
「特攻機に乗っていた人で私が13日に偵察に行った日よりも前に飛んで帰って来ませんでした。上司と部下みたいな関係で、『お前も食べんか』と言ってくれたり一緒にお寺で寝たりしていた。(届けに)行きたくなかったです。言われはしなかったけど『なんであなたは生きて息子は帰って来ないの』と言われそうで、とにかく早く帰りたかった。逃げたかった」
左:旧制人吉中学校18・19回生の戦争証言をまとめた文集 真ん中:動員学徒の碑(熊本県人吉市) 右:小富士海軍航空隊之跡碑(福岡県糸島市)
戦後、岩本さんは東京都の書店に就職。その後は熊本市内などで輸入雑貨店やブティックなどを経営しました。同窓会で友人と顔を合わせる中で戦争の記憶を残し、若くして亡くなった友人たちをいつまでも忘れないようにと戦争の記憶を書き留めた文集と慰霊碑、基地があった場所を示す碑を同級生や先輩らの総意で完成させたといいます。
「今生きている友として、一番救われない時代を生きた友を慰め、報われず亡くなってしまったかけがえのない友の霊を少しでも慰める義務が私たちに残っていると思う」
あまりにもつらい記憶で思い出したくなかったと話す岩本さん。当時の話は積極的にしてきませんでした。しかし、予科練の同期もほとんど亡くなり、 戦後80年を迎えて気持ちが変わったといいます。
「時代が変わっているから理解してもらえると思わなかった。10代でお国のために志願するということが今の人には想像できないでしょう。でも、聞かれたから。戦後から80年もたっているのかと思ってね。今言わないと後世に聞かせる人がいないから」
今回の取材を担当したKKT熊本県民テレビ・内藤有希子記者
岩本さんと私は70歳差です。取材の中で当時の気持ちを聞いていると、「あたりまえ」が異なる時代で育ってきたのだと改めて感じました。岩本さんの話を聞きながら私は、数年前に103歳で亡くなった曾祖母のことを思い出しました。爆撃を避けながら側溝をかがんで進み、田んぼの様子を見に行ったという話を私にしてくれたことがありました。今では当時の話をもっと聞いておくべきだったと悔やんでいます。戦後80年を迎え、当時を知る人が少なくなっています。もしみなさんの周りに戦争の話を語ってくれる人がいらっしゃれば、耳を傾けてほしいと思います。私も報道機関、そして若い世代の1人として、戦争の経験を語り継いでいきたいです。
※この記事は熊本県民テレビとYahoo!ニュースの共同連携企画です
KKT熊本県民テレビ・内藤有希子
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( 315877 ) 2025/08/13 07:45:13 1 00 特攻隊や戦争の影響を受けた当時の若者たちの悲劇や苦しみ、また、それを経験した世代からの思いや教訓についてのコメントが多く寄せられています。
1. **特攻隊の犠牲**: 特攻に参加した若者たちが抱えていた恐怖や無念、そしてその背後にある家族への思いを語るコメントが多く、多くの人がその話に心を痛めています。
2. **戦争教育とその影響**: 過去の教育がどのようにして若者を戦争に駆り立てたのか、また、現在の若者たちがその歴史をどう受け止めるべきかという見解が多く見受けられます。
3. **戦争の非人道性**: コメントの中で、戦争はたくさんの命を奪い、悲しみを生むだけであり、決して美化するべきものではないという認識が広がっています。
4. **個人の記憶と未来**: 終戦を迎えた人々の思いを語り、今を生きる私たちがどのように過去を受け止め、未来に生かすかが議論されています。
5. **靖国問題や戦争の記憶**: 靖国神社の参拝に関する意見もあり、戦争の記憶をどのように扱うべきかというリアルな議論が続いています。
全体として、戦争の悲惨さとその影響を忘れずに、教訓として後世に伝える必要性が強調されています。 (まとめ) | ( 315879 ) 2025/08/13 07:45:13 0 00 =+=+=+=+=
特攻機を飛行場から見送ったと いう話は聞いたことがありますが、空から特攻したことを確認する命令があったとは初めて知りました。 仲間が特攻で命を失うのを間近で確認し、帰投後に上官へ報告する任務。そして自分は生き残ってしまった。 終戦後、死んでいった仲間の遺品を家族に手渡して、なぜあなたは帰ってきて、息子は帰って来ないのと言われたら…家族は遺品を持ってきた人が少年であることを、見かけからも分かっていただろうに。それでも聞かずには居られなかった仲間の家族。それを聞かざるを得なかった少年。 想像を絶する苦痛を味わったのですね。
▲2971 ▼213
=+=+=+=+=
特攻に行かれた方、見送られた方の話をお伺いするたびに胸が張り裂ける気持ちになります。ロンドンの戦争博物館でゼロ戦を見ましたが、こんな小さな飛行機で爆弾を抱えて突っ込んでいたと思うと本当に身が震えた覚えがあります。戦争で幸せになった人なんていません。戦争すれば必ず勝つわけでなく、負けることもある。しかも、正義が必ず勝つ訳でない。世代間をこえてどのように伝えていくか大きな課題です。
▲69 ▼2
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読んでいて本当に辛い気持ちになりますね。 15〜17歳なんてみんな遊びたい盛り、恋をしたり勉強したりスポーツしたり、青春を謳歌する年頃の子達が特攻機に乗って戦死してゆく。 我が子がそのような状況下に追いやられたらと思うと胸が詰まります。 このような話は当時はあちこちの基地で起きていたことだろうと思いますが、本当にこんな悲しいことは2度と起こしてはならないと思います。
▲2329 ▼63
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例えばエヴァンゲリオンの碇シンジ君は搭乗時14歳、 ガンダムのアムロレイの搭乗時は15歳、シャアは20歳の時に実戦で戦場にいました。 進撃の巨人の主な登場人物は16歳から20歳くらいで亡くなっています。 戦争で戦う人の年齢のイメージは30代くらいですが、 実際にはアニメのようにまだ少年たちが最前線で戦わされていたのです。 今の若い人は日本を守るために戦うべきだと言う人が多いようです。 戦争をアニメやゲームのファンタジーのように感動的でドラマチックな体験として捉えているかもしれないが、現実は厳しく、汚く、残酷でドラマの主人公のように感動的でもない。 そして人生は再起動がかかりません。 若い人は戦争の体験記をぜひ読んで欲しいと思います。
▲220 ▼48
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過去を振り返ることができてもその時に戻れませんからね、やり直すこともできません。 もしそれができたなら戦争はなんとしても回避したと思う。 できる事はあの戦争を生きた人達の遺したものや結果から教訓を得るしかないと思います。 遊びたい盛りで恋もしたかったであろう年頃に特攻とは、、、あまりにも酷い事ですね。 今を生きる私たちは老若男女、今一度命の尊さを考える機会かと思います。
▲714 ▼31
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親が子供の頃が戦争中だった もう、リアルで戦争を語ることの出来る人達は平均寿命を超えている 今後増える事は当たり前だがない 特攻に行った人の手紙を読んだことがある 男として日本人として、愛する人を愛する日本を文字通り命がけ、で守ろうとした人達。文面に記された両親への思い、自分が親になり子供が死んでいく事を受け入れなければならない時代 死にゆく子供が親に感謝し、先に死ぬことを謝罪する手紙 母の手料理をもう一度と言う手紙 死にゆく子供を守ってやることの出来ない時代、親はどんなに苦しかっただろう。 そんな時代を二度と繰り返してはいけない
▲1185 ▼24
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日本史は、明治維新までと以降の『近現代史』は分けて教育すべきだと思います。高校の日本史教育など、明治維新以降は時間切れとなり、しっかり教育を受けた記憶がありません。80年前には特攻と言う非人道的な戦法により自らの命を犠牲にして国や家族を守ろうとした、私達の祖父母曾祖父母と同じ世代の日本人により私達があることを十分に認識する必要があると思います。
▲803 ▼45
=+=+=+=+=
亡くなった私の祖父が言っていた。 「絶対に戦地に行きたくなかった。機械科に行けば、工場や技術開発の仕事につけるから、一生懸命勉強した。親が作ってくれた握り飯は隠れて食べた。そうしないと、みんなに食べられる。旧制高校から帝大に進学した時に戦争が終わった。勉強は必ず助けてくれる。」 素直な気持ちなのだと思う。
▲833 ▼33
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記者さんのもっと聞いておくべきだったという話、私も同じように思うことがあります。大人になって親戚で集まったときに、亡くなった祖父は宮崎で塹壕掘りをしてたらしい、と聞きました。それまで一切聞いたことがなくて、戦争と自分に距離があったのですが、このような話を聞いて戦争が側にあったのだと実感させられました。世界では未だに紛争、戦争が行われ、無力感と苛立ちをニュースに触れる度に感じます。
▲675 ▼23
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私は靖国参拝に賛成の立場です。 もちろん、歴史的経緯やA級戦犯合祀に関しては多くの議論や感情があることも理解していますし、それらを軽視するつもりはありません。 しかし、私にとって靖国参拝は、戦争という過酷な時代に命を落とされた全ての人々への純粋な慰霊であり、感謝と哀悼の気持ちを表す行為です。 他国や他者がどう感じるかにも配慮しつつ、平和への誓いを新たにする場として、この行為の意義は守っていきたいと思います。 最後に、国のため、家族のため、未来のために尊い命を捧げられた方々に、心より追悼の意を表します。
▲76 ▼74
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特攻隊員に「日本を守ってくれてありがとう」という人が多いけどどうしても違和感があるんだよね。自ら進んで国を守るために特攻した隊員に対しては「ありがとう」でいいかもしれないが、死にたくないのにそれ以外の選択肢が無く、泣きながら突っ込んでいった人達は祖国に殺された様なものなのだから、自分だったら「ありがとう」とは言われたくないな。ただそういう人達がいたことを忘れない様にしたいと思う。
▲449 ▼24
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戦争であったり、世界で起きたテロの話とか悲惨な事故の事とか、平気で 「CG?」 とか 「AIでしょw」 とかいうコメントを目にする事が多くなった気がします。まだ小さい子を居る親としてはしっかりと、少しずつ教えていきたいと思います。たしかにキツい写真とかあるけど、たしかな事実。いつか知覧に行って、私自身もあらためて学ぼうと思います。
▲335 ▼9
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貴重な話をしてくれてありがたいです。 教育もそうだし、映画やラジオ、情報誌などによるプロパガンダで私たちの思想は簡単に誘導できる。 当時は戦争に行きたくないと言うだけで非国民とされるような雰囲気だったと他の語り部の方もお話されていました。 まだ少年の年齢で100%死ぬことがわかっていた男の子、その家族を想うと本当に辛い。 無事生還しても精神が保てない状況になると思います。 そのような中、世のために語られた岩本さんは勇敢です。
▲166 ▼2
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鹿児島の知覧に行った事があります、知覧茶と武家屋敷で有名な所ですが、戦時中に陸軍知覧飛行場があり特攻隊の基地でした。そこに知覧特攻平和会館という名の博物館があります。ここには特攻機や特攻隊員の遺品や家族や許嫁に充てた感謝と別れの手紙が展示してあり、20歳前後の若者が死を覚悟し、出撃していった事が読み取れました。他の来館者を見ると、皆さん、静かに手紙を読み、特攻で死んでいった隊員の無念を感じられていたようです。今の日本の平和の礎になった特攻隊の隊員には感謝と合掌しかありません。そのして2度と戦争を起こしてはならないという思いがこみ上げてきました。皆さん、鹿児島に旅行する機会がありましたら、一度、知覧を訪問して知覧特攻平和会館を訪れて見てください。
▲91 ▼6
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大学の教授は若かりし頃、予科練へ行き、あと何日か終戦が遅れれば特攻で死ぬところだったと聞きました。
その後大学へ進学し、教授として長く若者の育成に貢献してくれました。若い私達と話をする事を大事にしてくれ、改めて青春を楽しんでいるような方でした。
当時、時代に翻弄され命を失った方、命を長らえた方、多くの方々の人生が自分の力ではどうしようも出来なかった事は残念でなりません。
戦争のことをほとんど何も語らなかった先生でしたが、私達と楽しそうに過ごす姿に平和を感じました。
▲35 ▼1
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団塊ジュニア世代ですが、小学生の頃のによく戦争について、お祖父さんに聞いてきましょうという宿題が出ていました。
当時はそんなに貴重な話だと思わなかったので、あまり突っ込んだ事を聞かなかった。この歳になって、もっとなんできちんと誠実に向き合って聞かなかったのか、とても悔やんでいます。
父方母方の祖父母は共に戦争を経験していたのに、ろくに話を聞けなかったのは本当に残念な気持ちでいっぱいです。 今残っている当時の貴重な証言をどのように残していくのか、私たちに課せられたとても重要な課題だと思います。
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先日、小6の娘と火垂るの墓を見ました。娘には初めて見せたのですが、最後の方は涙で「もう見れない」と言いました。だけど、最後まで見てごらんと言って結局最後まで見せました。 今の子にしたら想像すら出来ない世界だったようで、こんなに誰も幸せになれないことがあるのかと愕然とした様子でした。 戦争って本当に何の救いもない。ただただ悲しみと憎しみが増えるのだと今一度過去を振り返り、知るべきだと思いました。
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義理の父が恐らくこの方の一期下の学年でした。 その期から広島は空襲が増え、海軍兵学校の場所が九州に移転されたと聞きました。 ひと学年違うだけでその後の人生が大きく変わってしまったことに衝撃を受けました。 義理の父の同期の方たちが作った体験談を読む機会がありましたが、特攻などで死んだ同期もおらず、食事や勉学、運動を空襲のないのどかな環境で学べた当時を懐かしむ投稿がたくさんありました。 同期の方が所用があり江田島に行った時に、いきなり上官に、たるんどる!と鉄拳をくらい驚いたという話がありましたが、明日をもしれぬ毎日を過ごす人間が抱えるストレスもあったのだろうと思いました。 可能性や未来がある若者の未来をつぶすような国にしてはいけないと、この記事を読み改めて思いました。
▲62 ▼1
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10年程前に知覧特攻平和会館に行ってきた。 飛び立った若い乗員たちの遺書や手紙などが展示してあり、当時の関係者の思いを想像すると何とも言えなく苦しくなった。 年齢から言えば、まだ幼いくらいに若いのに大人びた文面でしっかり書かれていた。本当は弱音を吐きたかっただろうに・・ 知覧へ行って来て本当に良かった。 日本人なら一度は知覧を訪れた方が良いかもしれない。 自分の目で見て感じ、考える事は大切です。
▲67 ▼2
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天沼俊先生の空戦コミック『戦空の魂』には、特攻機とともに戦地に向かい戦果報告のため帰還する「戦果確認機」がよく登場しますが、岩本さんの乗られた偵察機はまた異なる任務を担われていたようですね。
終戦2日前の偵察任務後に終戦を迎えられたものの、もし戦争が長引けば間違い無く特攻させられる運命だったと思われます。
特攻隊員とそのご遺族の悲しみ苦しみも計り知れないものがありますけど、戦友の死を見届けその遺志を伝えなければならなかった、岩本さんのご心労も想像を絶するものだったに違いありません。
今はただ辛い当時を語って頂いたことに、ただただ感謝するばかりです。 これからも大変とは存じますが、くれぐれもご自愛の上で後世にご体験談を伝えていって頂きたいです。
▲5 ▼0
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私の祖父母も戦時中10代でした。祖母の父は空襲で、電気がついている明るいお店にいたから標的にされ亡くなったと。戦闘機が去ってから父の遺骨を拾いに行ったと泣きながら話してくれました。 祖父からは直接そういった話は聞きませんでしたが、将棋を指すと「兵隊さんよ、ありがとう」と言いながら歩を前進させたり、「欲しがりません、勝つまでは」と教科書で見たそのままの言葉を言い、強い手を打ってきました。それだけ子ども心に強く残っていたのだろうと思います。 幸運にも2人は動員されずに終戦を迎えたそうですが、もし祖父母が数年早く生まれていたら、私は生まれなかったかもしれません。 祖父は存命ならそろそろ100歳を迎えるはずですが、父が縁を切ったためもう会うことはありません。戦争のことを聞いておくべきだったのか、どうなのか、今でも考えてしまいます。
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40年前、小学校低学年の夏休みに父方の実家に帰省した際に何か話の流れで戦争の話になったのを覚えています、祖母や祖父が戦争当時〜終戦後に掛けて食べる物がなく常に空腹でさつまいもを少しずつ食べて生活していたこと、今では食べたくない、当時を思い出すから、、と、、それ以外の事は小学生の自分には言わなくてえぇと言っていたことを思い出しました。今思うと聞いておくべきだったとは思いますが話したくない程の辛い経験をしてきたのだと思うと2度と戦争は繰り返してはいけないと改めて終戦記念日が近づくと毎年思います。
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私の父も海龍と言う人間魚雷の搭乗員でした、本土決戦用の特殊潜航艇だった為 出撃前に終戦を迎え生き延びました、数年前父が他界した後 父の遺品を整理した時に戦時中 父の母 私の祖母宛に書いた遺書が見つかりました その遺書には いたずらをした手が操縦桿を握ります と書かれて居ました その遺書を書いた年齢は16歳位だったと思います 若くして亡くなった方 本当にお気の毒だと思います 絶対に戦争と言う馬鹿な事はして欲しくない そんな気持ちです。
▲32 ▼1
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死にたくないって99%の若者がそうだったはずですよね でも当時の教育や時流の中で生活してきた若者が軍に志願や徴兵されて各地の戦域で戦われ多くの方達が亡くなれれました 今の時代の視点で見ていても私たちには絶対に理解できない事でしょうね 死ぬ確率の高い事を拒否できない、逃げられないなんて今の時代では考えられないよね 80年の平和に感謝しなくてはと思う
▲171 ▼0
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戦果確認の任務ですね 護衛(直援機)を付けられるのであれば、直掩機が戦果確認の任務を兼ねたこともあったようです
戦果確認と聞けば悲壮もないけど、実際には戦果と引き換えに同僚の生命が無くなっていて、それを見届けることも報告するけとも、すごく苦しいことだと思います
なお、戦果確認機も米軍の迎撃から逃れながらのことで、正確な確認は相当難しかったそうです
▲116 ▼9
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今だから言えることなのだけど、岩本さんのご両親はとっても立派な方ですよね。当時、戦争に行くのを猛反対されることはなかなかに難しいことだと思います。息子を止めて欲しいと先生の家にまで行かれたご両親の凄まじい愛を感じました。そして96歳になられた今でも鮮明に残っている辛い記憶、それに蓋をしたくなるほどだということは私たちには到底計り知れないほどのトラウマだと思います。その記憶を思い出させてしまうこと自体本当に避けたいですし、申し訳ない気持ちでいっぱいですが、この先の未来、私たち人間が二度と同じ過ちを繰り返さないよう、岩本さんが伝えてくださったお話を私も将来出来る子供に伝えていきたいと思います。
▲27 ▼1
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軍国教育が当然だった時代。 親の世代は日中・日露と知っていただろうが、アメリカをはじめとした連合側には勝てないとわかっていた。 様々な理由はあるが結果、戦争を起こしてしまう。 軍人は当たり前だが、民間人の犠牲は想像し難い。 若い世代の隊員も生きたかったのではと思う。 いつかまた戦争を起こすかもしれない、中韓と。 でもその時がないことを祈る。 自衛隊員にも民間人にも犠牲を出してはいけない。 それが先の大戦で亡くなった方たちの思いだと信じたい。
▲18 ▼1
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志願兵になることをすすめる教師、その教育 「かわいそうというよりは、憎しみの気持ちが強かった。戦争を始めた大人をこの時ほど憎んだことはありません」という言葉は、無力な個人が国家の大きな流れに翻弄された悲惨さを教えてくれる。 戦争を知る世代が、二度と同じ過ちを繰り返さないという強い気持ちで、平和な社会を築き上げてくれた。
▲44 ▼3
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もう亡くなりましたが父が予科練でした。 少し歳を取りお酒に酔うと当時の話をポツリポツリとしていたけど どれだけ辛かった事か… あまり想像もできなかった。 戦争なんて二度としてはいけないと思う。 もうそろそろ、戦争を知っている人たちの時代が終わろうとしている。 しっかりと語り継ぐ事も必要だと思います。
▲56 ▼2
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私の祖父は当時18歳。共に訓練した仲間の殆どが亡くなり、中には14-15の志願兵も。隊のアルバムに朱色の墨で亡くなった人にバツ印。ほぼ朱色だったのを忘れない。
そんな幼い子供たちの写真をずっと撫でながら涙する祖父。何で来んでもよかったのにわざわざ志願したんや…とずっと言っていた。
生の声を後世に伝えるのは大事。どこまで残せるのかな。
▲24 ▼1
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数年前に亡くなった祖父も同じ熊本県出身で、予科練にいました。あともう少し戦争が長引けば順番が回って飛び立っていたそうなので、もしかしたら、この方と同じ基地にいた可能性が高いかもしれません。戦争の話はほぼ聞いた事がありませんが、豪快で明るい、皆に慕われる祖父でした。
▲10 ▼1
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以前、南方戦線での戦いの映像を見ました。日本兵の頭皮が剥ぎ取られて棒に刺してありました。 アメリカ兵も日本兵もお互い殺し合っているのは10代の子どもたちだと説明がありました。 大人が、戦争教育をして、子どもを洗脳して利用したのです。 戦争に行くよう言った教師にも、重大な責任がある。時代がそうだったから仕方ないでは済まないと思っている。大人として子どもを守れなかったことに怒りを感じる。 この方は、よく生きて来てくださった。話して頂きありがとうございます。 大人として、思いを引き継いで、仕事を通して、子どもたちにいい未来を残していかないといけないと強く思います。
▲7 ▼2
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お辛い過去をよくぞお話してくださいましたね。本当にありがとうございます。戦前の間違った教育により、特攻という事実があったこと、私達のように戦争を知らない世代に知らせてくださることが1番です。若い世代の方が、簡単に核兵器に肯定的な意見を持ってしまうことがないように、これからも出来る限り伝えていただきたいです。そしてそれを私達がしっかり受け止め、次の世代に引き継いでいくことが大事かと思ってます。
▲6 ▼2
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この時期になると靖国問題がクローズアップされるけど戦争犯罪人合祀さえ無ければこんな面倒な事にならないのに・・と思う、戦争犯罪というのは戦地で民間人に対する犯罪行為や指導部が黙認する行為もあるだろうが、もう一つ考えなければならないのはインパール作戦のような無責任な計画で自軍の兵員の多大な死傷者を出すような杜撰な計画をした無責任な幹部(極東国際軍事裁判で訴追されていない)の責任追及がされていないなどの矛盾点、むしろ戦争被害者全てが供養されている千鳥ヶ淵に統一してしまえば良いとも思える。
▲109 ▼27
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最近 こんなことを記事にするのか 記事にするほどの内容ではないものをよく見かけたが 今回は読みごたえがあった。 戦争を生き抜いた方々の思い 死にたくもないのに死ななければならなかった方々の思いを伝えていかなければならないと思う。 そして若くして亡くなられた もっと生きたかったのに死ななければならなかった方たちの命の上に私たちが生化されている。 もっと毎日を大事に私たちは生きていかなければならないと思う。
▲29 ▼1
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こんな悲壮で悲惨な話を涙無しには聞くことができませんね。勇んで特攻隊員になったとは言え、目前に迫った自身の死から逃れることは決して許されず、覚悟を決めなければならなかったあまりにも残酷な隊員たちの最後のことを考えると本当に胸が詰まります。日本人は特攻隊員をはじめ戦禍に数多くの若き命が散ったことを決して忘れてはいけないと思います。
▲75 ▼4
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小学生の頃から戦史物を読み漁りました。 親類や教師、近所のおじさん。生き残りから生々しい話を聞けた世代です。 生き残った罪悪感を抱えてる方、自慢げに話をされる方、聞いてもあまり語らない方いろいろでした。
多くの若者が青春を奪われ、大人も人生の良い時を奪われ、命も奪われた。 失われた命の数より悲しむ人はたくさん。
戦争の最もいけない理由がそこにあると思います。
▲22 ▼4
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今後は、国の責任で立志式の時でも良い。子供達の節目の際には、予科練の記念館や戦争で若くして死を覚悟して出兵した同年代の在りし日の姿を必ず学ばせる機会を是非とも作って欲しいです。戦争が同じ年日の人間がどんな学びと心の中の葛藤を持ち、又どれだけ優秀な予科練生の知と生命をムダにしたのかを。あの戦争で、どれだけの日本の優秀な人材を失った!その国の失態を、今後の子供達は知るべき機会をツムな。
▲28 ▼2
=+=+=+=+=
この時期いつも特攻ばかり取り上げられる現状。芸能人も軍人役とかに起用されると、判で押したように知覧に行ったりする。 ビルマやニューギニアで戦った人の多くは、一瞬で死ぬわけではなく長い間飢えや病気で苦しんで亡くなった。亡くなった後も日本に記念館とか建てられて遺影が飾られるわけでもない。良くて現地の名も知れぬ農村の個人宅のような小さな資料館で、誰のものかわからぬ遺品が展示されていたりするだけ。 実際に現地に訪れて以降、この扱いの差に複雑な思いを抱いている。
▲97 ▼6
=+=+=+=+=
以前の朝ドラ、虎に翼で淡谷のり子さんがモデルになってる歌手が特攻兵の前で歌ってた。 聞いてる方もだけど、淡谷さんもどんなに辛かっただろう。
私が子供の頃の淡谷さんは文句言ってるお婆ちゃんのイメージだったけど、戦中の若者を見てきた淡谷さんからしたら今(戦後)の若者は何も考えずにフラフラしているように見えたのだろう。
朝ドラではどうしても戦争を描かなくてはならない場合が多い。 史実だから当たり前なのだが、あの戦争がなければといつも思う。 そして今の平和が束の間の時間だとしても、次の戦争を少しでも未来に追いやらなくてはならないと本心から思う。
▲6 ▼2
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沖縄、知覧、大刀洗、広島、長崎といくつか平和記念資料館を回りましたがどこの兵士たちも普通の日常を生きていた普通の若者達でした。 勉強をしたり恋をしたり親からのお弁当箱を大事に持って出かける私達と変わらない普通の子達で、兵士だからって特別心が強い人たちではなかった。 私は20代ですが周りの友人は戦争を昔の現実味がない歴史の話だと考えている人が多いです。 こういう記事で散っていった人達が自分たちと何一つ変わらない若者達だったと伝えたいです。
▲32 ▼3
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私の父はビルマに乙種合格で戦争に駆り出され、いよいよ行く時に母に挨拶したら「体に気を付けて」と一言下を向いたままだったそうで、親戚も危険な所には行くな、決死隊にはなるなと言われたそうです。終戦の前年にはもう負けるのがわかってたようですがインドに攻め入るため30㎏の荷物を背負い行軍しマラリア、赤痢、コレラが多発し退却となり仲間が倒れても助けることが出来なかったそうです。前からくるタマも怖いが背中に来るタマは方角がわからないぶん怖いそうです、一度手の甲をタマがかすったそうでその時はもうだめだと覚悟したと言ってました。戦争は何としても回避しないといけませんね。
▲13 ▼1
=+=+=+=+=
若者に人気の歌手や俳優、インフルエンサーがインタビューに行ってSNSで発信したらもぅと関心を持つのでは あとは、ARやVRを活用した体験型授業を義務教育で必修とするとか 戦争を風化させない為に、発信の仕方に工夫が必要な気がする
▲4 ▼2
=+=+=+=+=
この話は80年前の出来事だけど、ウクライナやガザの戦場では、今まさに若者たちが同じような死地に立たされています。中東ではお腹に爆弾を巻いて自爆テロを行う兵士もいます。この方達の心情として、お国のために命を捧げたいと思う人はどれ程もいないと思います。皆、死が怖い。だから国家のリーダーたちは、争いゴトをやめないといけない。やめさせる有効な手立ては二つしかない。ムダだと諦めさせるか、自分達が亡ぶと思わせるかです。どちらも相手の方が強くないと抑止できません。例えば、もし、ウクライナが大量の核を保有していたら、ロシアは侵略したでしょうか。もし、イランが核ミサイルを配備していたら、イスラエルは空爆できたでしょうか。これが、圧倒的火力が抑止力として機能するという証明です。日本が再び戦火にまみえない様にするには、防衛強化するしかないのです。余談ですが、ドイツが徴兵制を検討しているようです。
▲9 ▼4
=+=+=+=+=
「戦わずして問題を解決する方法を模索することがいかに大事であるか」ということを、こういう話を聞く度に強く思う。
反撃能力を強化することが国防と考える人も多いが、今世界で起こっている戦争を見れば、強い反撃を与えても相手を止めることはできないどころか、むしろ悪化するというのが現実。
犠牲者を出さないことが第一ならば、戦闘に持ち込まれた時点で外交の失敗。負けも同然だ。それに一度戦闘が起きれば、互いの戦力が多いほど大きな戦闘になり、逆に犠牲者が増えるリスクもにもなると思う。
だからこそ本当の平和を目指すのならば、武力による抑止力に逃げず、対話による外交力の強化に拘るべきだろう。
武力をチラつかせて、相手の危機感を高めれば冷静な判断力を奪い、誤った一手を選択させるリスクも上がる。憲法9条のような戦争を放棄する強い意思は、相手の危機感を緩和させて冷静な外交をもたらすのだから大事にすべきだ。
▲38 ▼24
=+=+=+=+=
昨秋思い立ってレンタカーで太刀洗から知覧、万世、鹿屋の特攻平和祈念館を回りました。いずれも涙なくしては観られませんでした。散華された多くの若人の痛切な思いはもちろんですが、それぞれの銃後の家庭の思いや、機体故障などで帰還したり出撃することなく終戦を迎えた元隊員たちが、戦後一転して軍国主義の走狗として見下され、「特攻くずれ」という蔑称を生んだことなどを知るにつけ、戦争というものが、単に指導者によって導かれるものではなく、大衆の熱狂や無知が生み出すものでもあるという思いを強くしました。
▲52 ▼2
=+=+=+=+=
彼らの事を思うと涙が溢れるし、その後のうのうと生き延びた上官や戦犯となった人間に対しては怒りが込み上げる。 そして、選挙がらみで靖国参拝パフォーマンスをしている議員には虫唾が走る。 慰霊すべきはそこだけじゃない。 これからの世代には、騙されない、脅しに屈しない教育をしてほしいし、歴史の授業も年表を覚えさせるのではない、歴史から学び考えるものにしてほしい。
▲7 ▼1
=+=+=+=+=
確かに戦前、男の子の多くが将来軍人として活躍することを希望していたようですが、同じ軍人でも飛行機乗りを志望することには反対する親が多かったようですね。今よりも安全性が疑わしかった当時、飛行機は「いつか墜ちるもの」と考えられていて、親には内緒で願書を出した予科練生も多かったようです。
▲90 ▼7
=+=+=+=+=
胸が締め付けられ息ができなくなるくらいしめつけられます。。特攻隊の若き少年たちの無念の思い、きっときっと家族と幸せに生きたかったはず。。。 戦争で亡くなった人達の為にも、この日本を私たちはその時のままの美しい自然と治安、伝統、できる限りそのまま残しておきたいものです。
▲10 ▼0
=+=+=+=+=
特攻隊員に限らず幸か不幸か生き残り帰還された元兵士の方々は自分だけ生き残ってしまってという罪悪感、戦死した兵士の家族などからの苦言などで心を痛め、病んだという話を聞いてます。今も昔も兵器や戦い方が変わっただけで戦争は無くなりません。哀しいですが現実を受け入れないと仕方ないのかなと。
▲7 ▼2
=+=+=+=+=
当時は当時の時代背景がある。
その前の時代ならば最後は切腹という時代。
現代の感覚ではいずれも悲惨だし、おそらく同じことは起こりません。
ならばこそ、今でもそうした流れが残る現代の体育会系を潰してほしい。 上級生、指導者の言うことが絶対?みたいな文化で、多くの子どもだったり社会人が苦労しています。
戦争の反省があるならば、現代に活かしてほしい。
▲199 ▼43
=+=+=+=+=
私は会った事のない祖父の写真が1枚、実家の仏壇に飾られています。陸軍の軍服を着て軍刀を差した写真です。 戦時中、祖父は満州へ出征し終戦後なんとか復員したものの、家に戻ったわずか数日後に突然家で倒れて亡くなったそうです。今は亡き祖母から私が子供の頃に聞いた話では、祖父は負傷して戻ってきたわけではなく、戦地での極度の疲労が原因で亡くなったのだろうとの事でした。 その祖父の写真を見るたびに、何というか、身が引き締まる様な思いがします。
▲11 ▼0
=+=+=+=+=
80年前なら自分も家族を戦地に送り出していたかもしれない…遠い昔のことと思わず自分だったらと思いながら読みました。親に泣かれ友を戦地へ送り出し自分自身も死が身近にある時代、死ぬことが当たり前と思い込まされる空気、2度と戦争をおこしてはいけないと強く強く思いました。
▲26 ▼2
=+=+=+=+=
鹿児島の知覧特攻平和会館に行き、特攻隊員達の遺影を見たが、10代20代の若者達で、まだ顔には少年のあどけない表情の残る若者も多く、心が痛んだ。 誰が考えたのかは分からないが、特攻という人命を無視した戦法を使ったのは、日本軍だけであり、特攻は作戦には非ずと主張する元兵士の方々の怒りはもっともだと思う。 特攻隊員達の残した手紙(遺書)は、全て逃れられない悲惨な現実を受け入れ、自分の死を覚悟しての内容だった。 今は亡き特攻隊員の方々が、現代を生きる人達に何を伝えたいだろうか?と考えたが、しっかり学び、しっかり働き、人生を大いに楽しめ…と言うのではないだろうかと思った。 日本は戦争の記憶を絶対に風化させてはならない義務があると思う。
▲39 ▼2
=+=+=+=+=
知覧に行って特攻隊の方々の手紙を読むと涙が溢れて止まりません。とても10代とは思えない。親へ宛てた手紙に、お国のために行ってきます、散ってきます、必ず成功させます、必死…と多くの少年たちが書いています。成功する🟰必ず死ぬこと。必死って、頑張る時にしか使ったことがない言葉だったので、これが本来の使い方か…と。それを子供たちが使っているのを見てどれだけ辛かったろうと大きなショックを受けました。
▲10 ▼0
=+=+=+=+=
特攻隊に志願しながら生きながらえた人たちの記憶は、自分たちが「捨て石部隊」として利用されてしまった、という思いでしかない。二度とこんなバカげた作戦に巻き込まれないよう、こうした悲劇の記憶は今後次世代へ適宜に継承されなければならない。「特攻の人たちの犠牲があったからこそ今の日本がある」などといった言葉で特攻の記憶を神格化、あるいは美化しては絶対ならない。あの戦争さえなければ、こんな犠牲を生むことはなかったのだから。
▲116 ▼14
=+=+=+=+=
記事を読んで、胸が痛くなりました。亡き祖父が満州引き上げだと聞いたことがあった。戦争のことを話すことは全くなくて、いつも祖母とニコニコ私の話を聞いてくれる祖父だった。 「ラーゲリより愛を込めて」を観て、こんな大変な思いをしたかもしれない祖父、私には話したくなかったんだろうなと泣いた。 先日、知覧の特攻記念館に行ってきたが、想像していた以上のもの凄い数の若者がお国のためにと、命を失ったことを目の当たりにした。お母さんに宛てた手紙やお世話してた女学生の記録、まだ10代の若者達の悲惨な記録、親はどんな気持ちで送り出したのだろう、先に特攻に行く仲間をどんな気持ちで見届けてたのだろう、泣けて仕方なかった。 絶対に忘れてはならないし、繰り返しちゃいけない。
▲12 ▼0
=+=+=+=+=
貴重な証言を得た取材と思いました。ありがとうございました。 特攻で亡くなった人の遺品を届けた際、 遺族から戦死したのかと問われ、分からないと答えた。 「お前だけなぜ生きて」と言われるのが怖かったから。 そこにグッと来ました。ドラマや映画なら 「立派な最後でした」と言わせる場面でしょうから。 実際に経験したらそんな綺麗事は言えない。 本当の気持ちはそっちなのだなと このおじいさんが80年抱えてきたつらさが伝わってきました。
▲3 ▼1
=+=+=+=+=
特攻隊… これほどに命の尊厳を無視した部隊があっただろうかと見聞きするたびに胸が痛くなります。 それも若き青年や少年です。 今も昔も変わらず未来を担う青年たち。 今は自由で選択肢も自由。 好きに生きることができます。 特攻隊や戦争で戦い亡くなった若者を思えば、 生きること、生きられることが当たり前ではないのだと強く思います。 生きたいことを自身の意思さえ通らず、絶望しながら亡くなって逝った方々。 どんなに辛い時代だったのだろう。 そして、戦争当時、指揮をとっていた上官たちが いかに馬鹿な人達だったのだろうと憎しみさえわきます。 アメリカは当時、日本の特攻のことを「バカ」と呼んでいました。 バカな行為で、クレイジーな選択、戦法。 それを若者にさせた者たちは、智慧もなく、人権さえ考えず行った。 昔の日本の大きな間違い、過去の失敗の悲しい出来事だと強く思っています。
▲5 ▼1
=+=+=+=+=
戦後から現在まで日本ではすでにいろいろな形で戦争をしない、平和な世界を等いろいろな形で反戦教育的なものはなされていて戦後80年の今では賛成の人は極端に少ないと思います。
引き続きこういった教育は必要だとは思いますが、はて、世界を見ると現実は全然違います。この違いはいったい何なんでしょう。 小さな国の諍いならともかく、世界を代表するような国が平気で侵略をし戦争をしています。また小さいけれどそのバックには大きな国がついていて戦争が継続できています。 このギャップは何なんでしょう。ずっと不思議に思っています。
ただ気になるのが、いま突然どこかの大国が日本の一部に軍を派兵し砲弾爆弾などで攻撃されたら、そしてそれが何か月も続いたらいったいどんな対応ができるでしょうか。
平和のすぐ隣に戦争が控えているんじゃないかと常々思っています。
▲7 ▼5
=+=+=+=+=
年端もいかない子達が怯えながら死んでいくだなんて本当に戦争は恐ろしいです。 お国のためと建前ではそう繕っていたかも知れないけれど、本望だと思える若者はいたのだろうか。 40半ばですが、祖父母が生きていれば岩本さんと同い年くらいです。 祖父母には耳にタコができるくらい戦争の話を聞かされ育ちましたが、その話を聞くのが嫌だと思った事は一度もなく、いつもそのリアルな話に聞き入ってました。 私自身戦争を体験していませんが、私の子供達には祖父母の辛く悲しい出来事を(私なりに調べ、地図を見せたりして)正しい情報で教えています。 祖父母に言われた「絶対に繰り返してならない事」をずっと伝え続けます。
▲20 ▼2
=+=+=+=+=
コロナが始まって1年ほど経った頃かな?その頃に94で亡くなった母方の祖父が特攻隊だった。奇跡的に飛ぶ前に終戦を迎えたので命は拾ったが、祖父もタイミングがタイミングであれば、この少年(現在ではご高齢だが)や少年の帰らぬ人となった仲間のようになっていたのだろうと思うと、なんとも言葉が出てこない。当時、20歳前後であっただろう祖父自身もこの少年と同じような体験をしただろうなと思われる。祖父からは戦争が始まる前の学生時代の同級生との笑い話や飛行艇に乗っていた話は幾度となく聞いたことはあったけれど、こんな生々しい話は聞いたことがなかった。もっと、祖父から戦争の恐ろしさや無惨さを理解するためにも聞いておけばよかったのかな?と葛藤する気持ちもある。
▲14 ▼1
=+=+=+=+=
戦争の悲惨さや平和の尊さはよく理解しているつもりだが、この手の平和教育がいつも『平和について一人一人考えるのが大切』『語り継ぐのが大事』という曖昧な精神論で終わることに疑問があります。 公教育で政治的なバイアスのかかったことを教えられないのならば、数多ある平和団体のなかに明確な非核化のプロセスやロジックを語れる人はいないのだろうか? 年々平和教育が形骸化し『平和が一番だけど、そうは言っても現実は…』みたいな世論ができつつある。 ここで明確で現実的な平和へのプロセスを示せるかどうかが、大きな歴史の分岐点のように思えます。
▲7 ▼0
=+=+=+=+=
追い込まれた人間が行う体当たり作戦… まさかこれが中東に渡って自爆テロという手段に変わるとは、誰が思っただろう。今でもこの体当たりが作戦手段として存在することが残念だし、平和の遠さを感じる。 今できるのは改憲させずに憲法を守ることで平和へ貢献したい。
▲7 ▼1
=+=+=+=+=
爆弾抱えて敵に突っ込んでいく。 飛行機やモーターボートや改造有人魚雷 最終的には海中に潜水服で潜んで 棒の先に付けた機雷を敵船に近づける特攻までありました。 死にたくないのは 当然の感情だと思います。 我国は 時間が経っても 先人に感謝する文化が根付いているので 語り継いでいくのは よい事だと思います。
趣味で戦史研究していますが 外国の軍隊には もっと悲惨な特攻例があり しかも証拠を残さず 隠蔽されている例もあります。 政権交代や革命で 前政権の所業が公開されて周知される事がある。
平時の気持ちで語れば 戦争とは 恐ろしい行為です。
▲154 ▼12
=+=+=+=+=
本当にお辛い経験だったと思います。思い返して繰り返し人に話すことも厳しい苦行でしょう。でも戦争は絶対に繰り返してはいけないことを戦後世代の私達や更に若い世代に深く強く教え心に刻み付けてくださる為に堪えて話してくださっている貴重なお話なので、しっかり想像し、心で噛み締めさせていただかないと。
▲5 ▼0
=+=+=+=+=
叔父が特攻隊員で、終戦になって行かずに済んだと聞きました。その後警察官、刑事になりました。数十年前に叔父が亡くなりお通夜に母と2人で行った時に子供さん達が、亡くなる直前にうわ言で、仲間達が迎えにきてくれてるとの話を聞きました。 叔父は、やはり特攻隊員だった事を忘れずに生きて来られたんだなと思いました。
▲15 ▼2
=+=+=+=+=
私も元特攻隊の方に話を伺いましたが、この方と全く同じ感じです。教師から予科練に志願するよう勧誘され、喜び勇んで志願したものの、今度は特攻隊へ志願するよう強要され。本音と裏腹に同調圧力で志願せざるを得なかった、特攻で散華した仲間が可哀想だと。 私の祖父も多くを語らず亡くなりましたが、陸の特攻隊員だったかも。死守命令が出て退くに退けず戦車隊に包囲され、同じ隊の人が、爆薬抱えて戦車の下に飛び込む、対戦車自爆特攻して活路を開いたようで。 数年も戦地に居て史上最悪の作戦と名高いインパールも行っているので、衣食住の揃った特攻隊より悲惨かも。戦後も戦友の遺族を遠くの山奥まで訪ね歩いたようですが。
軍隊での公式見解、模範解答は、 御国のために栄えある特攻隊員に選ばれて散華出来るのは、身に余る幸せ…なんでしょうけど。 遺書・遺詠にそう書いてあっても…本心では無い可能性も。真に受けないほうが良いかも。
▲26 ▼1
=+=+=+=+=
日米戦争なんかやったら勝ち目が無いことは、大人たちはみんな薄々分かっていたんでしょうね。 でもそんな事を誰も言い出せないから、お互い空気を読み合いながら万歳万歳になってしまった。 現代を生きる私たちも学校や会社で同じ事をやっているので、悲劇を生むか否かは紙一重の状態で過ごしている事を意識したほうが良いです。
▲12 ▼1
=+=+=+=+=
特攻で亡くなった方々に対しては言葉もない。ただただ冥福を祈るばかりだ。終戦直前、徹底抗戦を叫ぶ陸軍首脳は「日本人男子の半分を特攻に出せば勝てます!」と叫んだそうだ。男子の半分が死んで、仮に勝ったとして何が残るのか。国民を救うのではなく、彼らが信奉し存在を保証してくれた「国體」を守ることが全てだった軍隊の思想を如実に表した言葉だ。特攻死した個人への哀悼と感謝は尽きない。しかしなぜ組織と個人を分離しないのだろう。「戦死したおじいさんが可哀そうだから日本軍を非難するな」。なぜ軍隊の論理に対する反省は個人への冒涜と論理付けるのだろう。それこそが戦後80年、戦争への反省を不可解にうやむやなものとする、強引なレトリックだと思う。国民を抑圧し、騙し、死に至らしめた責任を問われるべき指導者層がこのレトリックで生き残り、戦後を支配した。
▲7 ▼0
=+=+=+=+=
戦争において「戦わない」という選択は自分のみならず家族も不幸にする。 これは大日本帝国に限らず、現在の戦争でも、例えばロシアやウクライナでも同じことが言える。 戦争で死にたい者はほぼおらず、ただみな生きたいと願っている。 しかし国や家族の事を思えば、そう言えないのだ。
日本において第二次世界大戦の記録は、「戦争はいけない」という意思を示しているが、アメリカが起こす戦争は賛成し、他国の被害は見て見ぬ振りをし、核兵器禁止条約を拒否しとダブルフェイスだ。 こうした記事のように「忘れてはいけない」だけで、「では何と戦うのか」は曖昧。 これだけ多くの犠牲を踏み越えて歩いている割には、我々日本人は極めて安楽な道を選択している。
「平和」は「怠惰」とは違う。 もっと過酷な道のはずだ。
▲3 ▼0
=+=+=+=+=
空からの特攻機の確認、今でも言えば16歳の高校一年生か二年生の少年が、飛行機で体当たりをする。 その光景を見届けるのは、普通の精神状態では直視出来ないほど無残であろう。 急降下する前の特攻隊員の表情は、今でも忘れられないと思う。航空機だけの特攻で4000名が命を落としたと言われる。 我々は彼等の御霊に手を合わせるしか出来ない。
▲50 ▼0
=+=+=+=+=
母方の祖父が、特攻隊で、もう少し戦争が長引いたら飛行機に乗っていたというのを、生前に少しだけ話題に触れたことがありました。乗っていたら、その後私の母は生まれていなかった。 父方の祖父もマレーシアで進軍中にマラリアに掛かって、危篤になったとのこと。 身近でこういう話を聞けたのは私の代までで、自分の子供の世代には直接体験を語れない。今になるともどかしいものです。
▲12 ▼1
=+=+=+=+=
色々と先の大戦を正当化する論調もありますがこのような愚かな作戦を命じた一点だけでもあの戦争はすべきではなかった まあするべき戦争があるとは思いませんが 昨今自国ファーストやブロック経済の再来のような事になってきてますが同じ歴史だけは辿らないようにしなければ… 現代に生きる全ての人の義務だと思います
▲13 ▼1
=+=+=+=+=
この季節になると色々な逸話なりが出てくるけれど、 戦後も戦後生まれとしての結局遡る事明治維新は、 何のために強引な武力討伐に始まりそして、 欧米諸国相手に同じように武力行使してのものの見事に アメリカの物量作戦に負けて、多くの人命が失われた。 一般も一般市民でもアメリカ相手では負けると思っているのにな。 日清日露での勝者での慢心の結末の先の戦争だった。
▲30 ▼6
=+=+=+=+=
このような悲惨な戦争体験談を読むと本当に戦争をしてはいけないと思う。しかし「戦争をしない」という意志だけでは戦争を回避することはできない。「戦争をしないためにはどうすればいいのか」を問い考えて実行に移すことが必要だから。なぜなら戦争は自国の意志だけではするかしないかを決めることはできないから。我が国ではそこをすっ飛ばして「戦争をしてはいけない」という意見が主流なのが気になります。
▲73 ▼65
=+=+=+=+=
日本国がこうして存続し人々が平和に暮らせているのもこういった歴史を乗り越えてきたという事をマスコミはもっと日本国民、世界にもっと周知させて戦争は絶対に起こしてはならないと言う事と、戦争から得るものは無く失うもの、悲しみしかないと言う事をもっと広く報道してもらいたいと思う。
▲9 ▼0
=+=+=+=+=
本音と建前を使い分ける事が日本文化、さらに奥ゆかしさだとされ、美化さえされ続けてきた。勿論今もその風潮は払拭されていやしない。しかし、愛国心として命をかけることの価値を持つよう否応なく強いられた事実は、将来を期待されている年代にはかなり厳しい現実だったに違いないと察する。多感で、これからどんな大人になりたいか、そして職業は...と、人並みな青春を謳歌することさえ許されず、どんなに生きづらかっただろうと思うと、戦争が憎くて仕方がない。
▲14 ▼1
=+=+=+=+=
辛いのに話をしてくださったのは、2度とこのようなことを起こしたくないという思いからでしょう。子どもたちが軍国教育の中で、誰もが兵隊に憧れて、戦わない人は非国民だと思わさせられていた。当時も親御さんたちは分かっていたのに、純粋な子どもたちが信じてしまっていたという話が苦しい。軍国教育こそ本当に悪です。 私たちはこのようなことを繰り返さないように今のうちに戦前の日本の過ちについて学び、当時を知る方の話に真摯に耳を傾けたいと思います。
▲3 ▼1
=+=+=+=+=
大人が始めた戦争でこんなにも若く尊い命が奪われて、その上で今の日本がある事を多くの政治家たちは忘れてしまっていますよね。 未だに敗戦国日本は静かなる戦争の真っ只中にいることに憤りを感じています。 そこに加担して、日本国民を苦しめることしかしない政治家たちが許せない。 このままでは日本が他国に本当に乗っ取られてしまいます(涙) 今の日本を未来の日本を絶対に守りたい、そのために選挙に行って、日本を一緒に守っていただけると信じられる政党を選びました。 80年前に戦って下さった方々に顔向けできるような日本にするためには政治に無関心では居られないです。
▲11 ▼5
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時代の波に飲まれて、一番大事な命まで差し出すように教育される。怖いなあと思います。これは単に昔の話ではなく、これからも何らかの戦争に巻き込まれれば、また起こり得る話だと思います。日本人は、その教訓をよく理解し、日本が戦争に巻き込まれないように、よくよく注意しないといけないと思います。集団的自衛権が国会で可決されてしまっていますが、大きな懸念材料だと思います。
▲11 ▼1
=+=+=+=+=
だんだん戦争に対する関心が薄れてくるのは仕方ないこと… ただ、戦争があった事実は残ってるからこれをCGとかAIとかで片づけるのは間違えてる。 後世に残さないといけない、そのためにもジブリの火垂るの墓はこの時期に毎年やってほしい
▲5 ▼1
=+=+=+=+=
神風特別攻撃隊の存在は政府や軍によって 当時積極的に国民に知らされていた
特攻隊の戦果は「必沈」「轟沈」といった勇ましい言葉と共に 新聞やニュース映画で大々的に報道され「軍神」として称賛された 戦局が悪化する中で国民の士気を高めるため プロパガンダの一環もあったと思われる
1944年10月20日創設とされているが 翌日10月21日には初出撃 終戦までの約10ヶ月間にも渡り 主にフィリピン沖や沖縄戦で大規模な作戦を実行 玉音放送後も出撃命令が下され 出撃したまま帰還しなかった隊員もいたとされている
本心からの勇ましい志願ももちろんあったであろう中 同調圧力もあっただろうし半ば強制的な空気もあっただろう 残された遺書には勇ましい言葉と共に葛藤や無念さも残されている 国民に伝えられたのはあくまで 「国のために潔く散った英雄」という美化された側面のみだった
▲13 ▼1
=+=+=+=+=
戦争を題材としたドラマや映画は沢山ありますね。 その中では美化されている隊員や兵士。 どの映像でもお国の為に命をささげると言うセリフが有りますが、果たして本当にそう思っていた人はどのくらいいる事か。 戦争当時の雰囲気で、そう言わざるを得ないと言う雰囲気に押されて言っていたような気がします。 なくなってしまった高齢者と話をする機会が何度も有りましたが、どの方も冗談じゃない、死にたい人が居ると思うか?との返答が多かった。 断る事がどんな事になるのか、断る事が出来ない。 だから仕方なくとか諦めと言うキーワードが沢山ありました。 何だか戦争中は海外の敵と戦う為に、当時の政府は日本国民を犠牲にしたと言う感じ。 今の政府は当時のその感覚のままでいるような気がする。 今は命を差し出せとは言わないけど、国民に対して政府のやり方と考えを押し付ける。 日本の政治って進歩がないですね。
▲24 ▼5
=+=+=+=+=
特攻隊に関して、 もう一つ忘れてはならない事は、 特攻隊を計画し指揮した指揮官達のほとんどが、 戦後も生き残って天寿を全うしてるってことです。 若者たちに愛国心を説き、祖国のために殉じる事の美しさを訴えた者たちのほとんどが、 自分達は生き残る事を選んだ。 中には「自分達は死ぬ側では無かったから」と、 戦後に述べた人もいました。
愛国心は確かに美しい。 しかし故郷を愛する気持ちは、わざわざ説かれなくても、誰もが自然に持つ心境のはす。 他人にそれを強く求める者が、 本当に愛国心の持ち主であるのか、 それとも他人の愛国心を利用しようとしてるだけの輩か、 歴史を教訓とするならば、 注意する必要があるということです。
▲6 ▼0
=+=+=+=+=
この記事、今の授業、教科書で先生に教えて頂きたいと思います。抑止力の核武装を訴える人が増えています。核武装と言いますが何万発も世界にあります。核は世界を滅ぼします。とても抑止力にはなりません。その前に冷静に政治は外交と国益を考えていかなければなりません。もちろん、国民も安易に交戦を選択してはなりません。
▲173 ▼54
=+=+=+=+=
「当たり前」の価値観が現在とは全く違うあの時代。あの時はそれが普通、当たり前だった事が、今は当たり前じゃないし普通でもなく、非常識とさえ言える。
でも「お国の為に」と命を捧げてくださった方々が沢山おられる。だが、記事中にあるように、必ず死ぬのが分かってて、喜んで行く人なんて居ないよね。気丈に振る舞ったとしても。
この世界から争いが無くなる事は無いかもしれないが、それでも無くなる事を祈りたい、願いたい。お花畑だなんだと言われようとも。
▲13 ▼3
=+=+=+=+=
何よりも、この人達を殺したのが私達だと言うことを忘れてはならない。軍部がどうのではない、当時の政府首脳を選んだのは当時の国民であり、戦争を推進し、勝利に喜んでいたのは私達で、当時の新聞も報道も戦争を止められなかった。だからあの時の戦争の責任は特定の誰かではなくあの時の全員で、その血を私達は受け継いでいる。そして次がいつか起ころうとした時、今度こそ私達は止められるのか。この人達に許されることは永久に無いだろうけれど、せめてそれが私たちにできる償いだろう。
▲2 ▼6
=+=+=+=+=
特攻隊で散華された方々への感謝は忘れてはいけないです。 ただ、こんな作戦が実行された経緯や、部下に後で自分も行くと命じておいて生きながらえた外道な指揮官を実名で追及してもいい時期だと思います。
▲13 ▼4
=+=+=+=+=
旧制中学から予科練への希望を募るって、NHKドラマの「15歳の志願兵」(旧制愛知一中で予科練志望者を募った顛末をモチーフにしたもの)で描かれていた時期と同じなんだろうな。
当時は義務教育は小学校。旧制中学卒というと今だと高卒というより、大卒くらいな感じになるのかね。大人と言えば大人。とは言え親からすればまだ子供だからな。
旧制中に子供を送れるような家っていうとそれなりに金持ちで知識階級だったろうからな、アメリカと戦争して勝てるわけないって分かっていたろうが、それだけに子供の命をささげることは空しくかつ悲しくてしょうがなかったろう。
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