( 315878 ) 2025/08/13 07:45:13 0 00 自宅で取材に応じる岩本門陀さん96歳(2025年6月取材・撮影 KKT熊本県民テレビ)
「軍艦旗を振りながら爆弾となっていった友の姿を思うと今も涙が出る」。太平洋戦争の最中、敵艦に体当たりする特攻で多くの若き兵が命を落としました。特攻の後方支援を担っていた男性は死んでいく仲間を見送りました。終戦後に戦友の遺品を届けに行くと、男性の目の前で遺族は泣き崩れました。言葉にできないほどつらい体験をし、語るのをためらっていた男性。戦後80年、初めてメディアの取材に応じました。(KKT熊本県民テレビ・内藤有希子)
鹿児島海軍航空隊に入隊した直後の岩本門陀さん(1944年9月撮影)
熊本市北区に住む岩本門陀さん(96)。熊本県人吉市で姉1人弟2人の4人きょうだいの長男として生まれ、幼少期は戦争ごっこや球磨川で泳ぐ毎日を過ごす“わんぱくな少年”でした。男児は全員「将来の夢は兵隊さん」とこたえていた時代、岩本さんも例に漏れず兵隊になることを夢見ていました。
1941年に太平洋戦争が始まって約3年。戦況が厳しくなり、兵力確保の必要性が高まりました。岩本さんは、旧制人吉中学校(現在の熊本県立人吉高校)3年のとき教師から「岩本、お前行かんか」と志願兵になることをすすめられました。
「嬉しかったね。やっぱり一番最初に選ばれたっていうのは。俺が一番目立っていたからかな」
家に帰り、海軍飛行予科練習生(=予科練)に志願したことを家族に伝えると猛反対。「戦争に行って死ぬ必要はない」と止められ、両親はすぐに教師の家へ行き「息子を止めてくれ」と泣いて懇願したといいます。
「親父はずっと『絶対戦争には負ける』と言っていた。でも我々は軍国教育を受けて育ったので、両親を『国賊じゃないか』と子ども心に思いました。親の言うことを聞かずに志願したのです。今になって思えば、最大の親不孝でした」
1944年9月、鹿児島の海軍航空隊に入隊する日、地元の人吉駅に数十人の見送りが集まりました。「出征兵士を送る歌」をみんなで歌い、日の丸の小旗を振りながら送り出してもらいました。まだ子どもだった岩本さんや同級生は、親元を離れるのが寂しく、涙が止まらなかったといいます。
終戦2日前に岩本さんが偵察役として飛び立った海岸(現:福岡県糸島市志摩芥屋)
入隊から約3か月後、約200人の予科練生は福岡市郊外の糸島郡小富士村(現在の福岡県糸島市志摩小富士)の「小富士海軍航空隊」に転属します。身体測定や技能検査を受けた結果、岩本さんは操縦には向いていないと判断されました。代わりに命じられたのは特攻機の最後尾を飛び基地との連絡を取り合う「偵察・通信」の役割です。
「これが運命の分かれ道だった。操縦士なら今頃靖国神社にいます」
モールス信号や手旗信号の訓練を受けた後、岩本さんの所属していた分隊は沖縄へ特攻に向かう「菊水隊」がいる糸島郡芥屋村(現在の福岡県糸島市志摩芥屋)へ応援に行くことになりました。隊員たちは飛行機の手入れや操縦の練習に追われ日中はほとんど顔を合わせなくなり、夜、床についてからおしゃべりをしました。眠れずに夜通し話をする日々が続く中、話題の中心は父母の話やおいしかった食べ物など、故郷への恋しさや帰りたい気持ちだったといいます。「死にたくない」や「寂しい」といった気持ちを表に出すことができない時代で、上官たちの前では話せないことでした。
当時の様子を思い出しながら岩本さんが書いたくじ (画像右)缶詰に入った割り箸くじ(画像左)日の丸印が入っていた
特攻機に乗る人は、搭乗の1~2日前にくじ引きで決まっていました。夕飯が終わると缶詰の空き缶に割り箸を入れ、日の丸印が描かれたくじを引いた人が順番に飛び立つのです。日の丸のくじを手にした人は今でも忘れられないほど悲しい様子だったと話します。
「あの時の心理状態というのはやっぱり行きたくないっていうか実際に死にたくないって。もうはっきり死ぬのは分かってるからね。本当かわいそうだったね。引いた瞬間に顔が真っ青になって…やっぱり子どもでも分かるんだよ。悲壮だった。思い出したくない」
搭乗が決まった戦友が、布団を一日中かぶり「行きたくない」と小声で泣く姿を今も鮮明に覚えているといいます。
「幼少期から『天皇陛下のために』という教育を受けていた絶対服従の時代です。出ていけば必ず死ぬということが決まっていた大人の真似をした子どもです。かわいそうというよりは、憎しみの気持ちが強かった。戦争を始めた大人をこの時ほど憎んだことはありません」
兵隊になることしか選択肢がなかったような時代。自ら志願しても、死を目前にすると「死にたくない」という気持ちになったといいます。しかし、そのような考えを表にすると「非国民」や「国賊」と言われるため、胸の奥にしまっておくことしかできませんでした。岩本さんも操縦士が全員飛び立っていなくなったら、同じように特攻機に乗って戦場に行くことを覚悟していました。
水上偵察機「瑞雲」 サンディエゴ航空宇宙博物館 保管
岩本さんたちが乗っていたのは、水上偵察機「瑞雲」。偵察だけでなく、特攻機としての機能も備えた機体です。1945年8月13日、上官から「お前も行ってみるか」といわれ、偵察は死ぬことはないと思い「行かせてください」と軽い気持ちで乗ったといいます。初めて偵察機の後ろに乗せてもらって特攻機から1キロほど離れた最後尾を飛び、沖縄の戦場で死に向かう仲間の後ろ姿を見守ったといいます。
「上から見ると飛行機がマッチ箱みたいで。一気に急降下で突っ込んでいくから、それがうわあああっと大きくなるんですよ。本当に恐ろしかったですね。旗を振って突っ込んでいく特攻隊を1回か2回見て、後はもう見きらなんだと目を背けました」
特攻機を操縦していたのは、予科練で1年から1年半ほど教育を受けた甲種飛行予科練習生や、自身とそう変わらない年齢の先輩兵士で、飛び立った17機は1機も帰って来なかったといいます。
「 上官は『操縦桿(ハンドル)」を踏んで壊せ』って言った。そのまま(爆弾として落ちて)行くから。足で踏んでいても恐怖でどうしても離すって…そのまま身投げするのと一緒ですからね」
岩本さんが偵察機に乗ったのはこの1日きり。80年たった今でも当時の様子を思い出すと、涙がこみ上げるほど、はっきりと今でも脳裏に焼き付いています。
アルバムを見つめ当時を思い出す岩本さん
終戦から数日後、生き残った岩本さんは亡くなった戦友の遺品を整理し、帰る途中で届けなければいけませんでした。「俺たちが死んだらこの荷物を実家に送ってくれ」と戦友たちが毎晩口癖のように繰り返すのに対し「心配すんな、ちゃんと届けてやるよ」とおどけて返していたことが事実になってしまった虚しさと寂しさが込み上げたといいます。
180円の給料と進駐軍が配布していた缶詰とたばこ1個ずつを受け取り、倉庫にあった飛行服や軍服を風呂敷に包み、3人の戦友の遺品を抱えて有佐、千丁(現在の八代市)、松橋(現在の宇城市)の3か所へ遺品を届けました。
人に住所を聞きながら畑やあぜ道を進み、戦友の実家へ向かいました。松橋と千丁では近くの人に遺品を預けましたが、有佐へは自ら遺族を訪ねました。遺族の家に着いて、直立不動で挨拶をし「班長からの指示を受けてお預かりしたものをお返しします」と言い、シャツに包んだ手紙や本をはぎれでまとめた遺品を渡しました。泣き崩れた遺族は「戦死したんですか」と聞き、岩本さんは 「どんなふうに亡くなったのかは知りません」と答えました。
「特攻機に乗っていた人で私が13日に偵察に行った日よりも前に飛んで帰って来ませんでした。上司と部下みたいな関係で、『お前も食べんか』と言ってくれたり一緒にお寺で寝たりしていた。(届けに)行きたくなかったです。言われはしなかったけど『なんであなたは生きて息子は帰って来ないの』と言われそうで、とにかく早く帰りたかった。逃げたかった」
左:旧制人吉中学校18・19回生の戦争証言をまとめた文集 真ん中:動員学徒の碑(熊本県人吉市) 右:小富士海軍航空隊之跡碑(福岡県糸島市)
戦後、岩本さんは東京都の書店に就職。その後は熊本市内などで輸入雑貨店やブティックなどを経営しました。同窓会で友人と顔を合わせる中で戦争の記憶を残し、若くして亡くなった友人たちをいつまでも忘れないようにと戦争の記憶を書き留めた文集と慰霊碑、基地があった場所を示す碑を同級生や先輩らの総意で完成させたといいます。
「今生きている友として、一番救われない時代を生きた友を慰め、報われず亡くなってしまったかけがえのない友の霊を少しでも慰める義務が私たちに残っていると思う」
あまりにもつらい記憶で思い出したくなかったと話す岩本さん。当時の話は積極的にしてきませんでした。しかし、予科練の同期もほとんど亡くなり、 戦後80年を迎えて気持ちが変わったといいます。
「時代が変わっているから理解してもらえると思わなかった。10代でお国のために志願するということが今の人には想像できないでしょう。でも、聞かれたから。戦後から80年もたっているのかと思ってね。今言わないと後世に聞かせる人がいないから」
今回の取材を担当したKKT熊本県民テレビ・内藤有希子記者
岩本さんと私は70歳差です。取材の中で当時の気持ちを聞いていると、「あたりまえ」が異なる時代で育ってきたのだと改めて感じました。岩本さんの話を聞きながら私は、数年前に103歳で亡くなった曾祖母のことを思い出しました。爆撃を避けながら側溝をかがんで進み、田んぼの様子を見に行ったという話を私にしてくれたことがありました。今では当時の話をもっと聞いておくべきだったと悔やんでいます。戦後80年を迎え、当時を知る人が少なくなっています。もしみなさんの周りに戦争の話を語ってくれる人がいらっしゃれば、耳を傾けてほしいと思います。私も報道機関、そして若い世代の1人として、戦争の経験を語り継いでいきたいです。
※この記事は熊本県民テレビとYahoo!ニュースの共同連携企画です
KKT熊本県民テレビ・内藤有希子
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