( 316161 )  2025/08/15 03:19:00  
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アーティストのコムアイさんは、広島で被爆した母方の祖父を持ち、被爆3世としての意識を持ち始めたきっかけは、母をがんで亡くしたことだった。

高校時代には被爆者と共に世界を巡り、初めてその生々しい体験を聞いた。

被爆の影響や核の脅威に対して強い思いを抱き、平和を訴え続ける意欲を示している。

彼女は音楽活動に加え、社会問題に焦点を当てたイベントや執筆活動を行い、次世代に平和の重要性を伝えるプロジェクトを進めていきたいと考えている。

(要約)

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被爆者だった祖父や平和への思いを語るアーテイストのコムアイさん=佐藤俊和撮影 

 

 音楽ユニット「水曜日のカンパネラ」の元ボーカルでアーティストのコムアイさんは、母方の祖父が広島で原爆に遭った被爆3世だ。高校生の時には、被爆者とともに世界各地を巡る船旅に参加したこともあるが、3世との意識はなかった。がんで母親を亡くしたことで、「自分にも被爆の影響があるかもしれない」と感じ始めた。広島、長崎への原爆投下から今夏で80年を迎えた。「核廃絶は絶対に必要」と訴えるコムアイさんに平和への思いを聞いた。 

 

 母方の祖父が、広島の原爆投下後に(2週間以内に爆心地から約2キロの区域内に入る)入市被爆しました。2023年に亡くなるまで、被爆の詳しい話は一切してくれませんでした。手帳(被爆者健康手帳=行政が発行し、医療費の助成を受けられる)も見たことがありません。たまに原爆の話題が家族で出たときも、祖父が病院に行っても手帳を使わないということくらいでした。 

 

幼少期のコムアイさん。被爆者の祖父は被爆の詳しい話を一切してくれなかったという=本人提供 

 

 祖父にとってはつらい記憶の箱を開けたくなかったのでしょうね。話を聞かせてほしい、そうしっかりと伝えておけば良かったと後悔しています。 

 

 祖父の様子を見ていると、被爆証言をされている方はものすごい段階を経て、「ブラックボックス」を開けているのだと思います。自分の人生でトラウマになるようなことを何回も話す経験を私はしたことがありません。想像がつきません。 

 

 私は中学受験を経て、慶応義塾湘南藤沢中等部に進学しました。吹奏楽部に入り、パーカッションを担当していました。中学3年の時、学校の課題で海外の地雷問題を調べた際、社会や世界について興味を持ちました。その頃から東京都の高田馬場駅前などで地雷除去を支援するNGOの募金活動に取り組みました。 

 

 NGOの勉強会では答えがない社会問題をみんなで考えていました。その時間はすごく豊かでしたね。チームで何かに取り組むことの楽しさも知ることができました。 

 

 その頃から原子力発電所に興味が湧くようになりました。放射性物質や原発のリスクについて考えるようになり、その過程で被爆者に原爆の話を聞いた方がいいと思うようになりました。 

 

 

学生時代のコムアイさん。高校2年の頃には世界各地を船で巡り、被爆者から初めて証言を聞いた=本人提供 

 

 高校2年の夏、被爆者とともに船で1か月間、世界各地を巡り、被爆の実相を伝えるNGOの事業に参加しました。大きなホテルが移動しているような船内で、みんなと一緒に生活しました。広島で20歳の時に被爆した男性から、人生で初めて被爆体験を聞きました。 

 

 原爆投下後のひどい光景の中、倒れていた人たちに手を差し伸べて助けようとしたことを振り返り、「この人も救えなかった。あの人も起き上がってくれなかった」と打ち明けてくれました。 

 

 男性はとても明るく、みんなから人気がありました。船の中で昼夜一緒に過ごし、優しいおじいちゃんのように思っていました。その人が「他の誰にも同じ思いをさせたくない。私たちで最後にして」と、つらい経験を語ってくれました。その気持ちを無駄にしたくないと思いました。 

 

 当時の私に被爆3世であるという意識はありませんでした。しかし、19歳の時、被爆2世の母をがんで亡くしました。被爆した当事者でもある祖父のことを考えると、当時は口に出せませんでしたが、自分にも被爆の影響があるかもしれないと感じました。このことがきっかけで被爆3世であることを意識するようになりました。 

 

 母の死を見たことで、自分もいつか死ぬんだということが腑に落ちました。死ぬ時は決められないから、自分が社会の中で何ができるのかを考えてやってみるようになりました。 

 

広島平和記念資料館に展示されている焦げた弁当箱=折免シゲコさん寄贈、広島平和記念資料館所蔵 

 

 大人になり、広島平和記念資料館や長崎原爆資料館に出向きました。小学校の修学旅行で広島の資料館を見学した際、人類がここまで悲惨な目に遭ったということを知り、吐き気がしたことを覚えています。広島の資料館では、「真っ黒に焦げた弁当箱」が印象に残っています。日常のその瞬間に原爆があったということが伝わってきます。 

 

 改めて大人の目線で考えると、こんな経験をしてもなお、世界が核の脅威にさらされていることが悔しくなりました。人間が始めたことだから、終わらせないといけません。核廃絶は絶対に必要です。 

 

 

 直接被爆者の声を聞く機会は少なくなっていますが、みなさんも広島、長崎の資料館に足を運び、被爆の実相を知ってほしいと思います。 

 

 音楽活動にとどまらず、社会問題をテーマにしたイベントを企画したり、執筆活動をしたりしています。アーティスト活動の根底には、被爆のことを見聞きして感じた平和への思いが無意識に反映されています。 

 

 例えば声を使って「ファー」っていうだけでも、この世界が自分の願う方向に進んでほしいという祈りの思いが込められている気がしますね。 

 

 東京にいると日常に忙殺されてなかなか被爆証言を聞く機会がありません。今回のインタビューを通じて、映像などを使い、被爆体験を伝承するプロジェクトを作っていかなければならないと感じました。これからの未来をつくる若者が平和や社会問題について考えるきっかけを持てるよう、発信を続けていきたいです。(野平貴) 

 

◆コムアイ=1992年神奈川県生まれ。2012年に音楽ユニット「水曜日のカンパネラ」のボーカルとしてデビユー。17年には日本武道館での公演も果たした。21年に脱退し、音楽と執筆を中心に活動。23年には南米・ペルーのアマゾンにある村で第1子を出産し、話題を集めた。現在はブラジルと日本の2拠点で生活している。 

 

※この記事は読売新聞とYahoo!ニュースによる共同連携企画です 

 

 

 
 

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