( 317140 ) 2025/08/18 06:27:26 2 00 東京から160km! 伊豆諸島「新島」はなぜ“ナンパ島”と呼ばれたのかMerkmal 8/17(日) 20:51 配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/6fdb721ccc7b6e8ad42640c75062deb47f4ac137 |
( 317141 ) 2025/08/18 06:27:26 1 00 新島は、伊豆諸島に位置する東京都の離島で、美しい自然環境と温暖な気候が特徴です。
新島は1960年代から70年代にかけて、特に若者たちの「夢の島」として流行し、夏には多くの観光客が訪れました。
新島の歴史と若者文化の変遷は、地域活性化や若者の価値観の見直しに向けた指針を示していることがわかります。 | ( 317143 ) 2025/08/18 06:27:26 0 00 新島(画像:海上保安庁)
かつて東京の若者が夏の思い出を作るために大勢押し寄せるスポットがふたつあった。山は山梨県の清里、海は東京都の新島だ。廃墟となった建物が残り、今も話題になる清里に比べ、新島は伊豆諸島の離島という立地もあってか、あまり顧みられていない。あのブームは一体何だったのか。改めて振り返ってみよう。
新島は伊豆諸島に属し、東京都新島村の行政区画にある島である。東京から南へ約160km、静岡県下田市からは南東に約36kmの距離に位置する。比較的本州に近いが、豊かな自然環境が保たれている。空気は清浄で、星空や海の美しさは首都圏とは比べ物にならない。気候は年間を通じて温暖であり、冬には「西ん風」と呼ばれる強い西風が吹くことが多い。
新島は約1万7000年前の噴火で形成された火山島だ。最高地点は宮塚山の標高432mである。最新の噴火は886年に起こり、島の南半分の向山を形成した。地震活動も活発で、1991(平成3)年や2000年には群発地震による被害が出たが、インフラは復旧している。島の地質は白く美しい流紋岩が多く、向山で採掘される抗火石は建築や装飾に珍重される。
周辺海域は黒潮の影響を受け、多様な海洋生物が集まる。セミクジラやマッコウクジラ、ザトウクジラ、ウミガメ、イルカなど希少動物が見られ、1989年には国内初のキタゾウアザラシも確認された。かつてはニホンアシカの繁殖地でもあった。
歴史は縄文時代までさかのぼる。江戸時代から明治初期にかけては政治犯の流刑地として使われた。島には独自の方言や伝統儀式、民話や妖怪伝説が根付いている。流人墓地や刑場跡など歴史の痕跡も多い。
交通は東海汽船の大型貨客船や高速ジェット船が東京や熱海と新島を結ぶ。隣接する島々との連絡には村営連絡船が活躍する。空路では新中央航空のドルニエ228型機が調布飛行場と結び、所要時間は約30分だ。
産業は漁業、農業、観光が中心である。漁業ではサバやイセエビ、トビウオなどが水揚げされ、名産のくさやも知られる。農業はアシタバや芋の栽培が盛んで、焼酎やワインなど加工品も生産されている。観光ではサーフィンが盛んで、世界的に有名な羽伏浦海岸ではプロの大会も開かれている。海水浴やキャンプ、無料温泉施設も人気だ。
観光スポットには白ママ断崖、流人墓地、日蓮宗三松山長榮寺、モヤイ像、新島村博物館、新島ガラスアートセンターなどがある。通信環境も整備され、2018年には光ファイバーが開通した。携帯電話はNTTドコモとソフトバンクの利用が中心で、一部山間部ではauが圏外となる。
新島への所要時間(画像:東海汽船)
新島が夏になると若者が集まる島となった歴史は古く、昭和40年代から始まったとされる。発端は定かでないが、広い砂浜にサーファーが集まり、女性誌や若者向け雑誌で紹介されたことで若者がさらに増えた。
新島の繁栄は清里と並び、バブル景気期のものと誤解されがちだが、実際は長期間にわたって続いていた。竹芝桟橋(東京都港区)を8時30分(ジェット船)、23時(大型客船)に出港する東海汽船の船に乗れば、ひと晩で新島に到着する(7月19日~8月24日)。当時は高校生でも努力してお金を貯めれば行ける、いわば“夢の島”だった。
当時の若者にとっての夢は出会いだった。今ではやや懐かしい価値観かもしれないが、繁栄期の新島は
「ナンパ島」
とも呼ばれた。若い男女が恋人探しのために友人と連れ立って訪れる場所だったのだ。
男女が積極的に恋人を求めて行動するスタイルはバブル期にピークを迎えたが、新島はその10年以上前から、恋人を求める若者の聖地だった。
ディスコのイメージ(画像:写真AC)
戦後史を見ると、若者が政治に情熱を注いだ学生運動の時代は1970年代初頭で終わった。その後、数年の停滞期を経て1980年代に入り、恋愛が若者にとって最大の関心事となった。
新島のブームを見ると、1970年代中盤にはすでに恋愛を重視する若者が現れていたことがわかる。彼らは竹芝桟橋を出発した時点で盛り上がっていた。
当時の様子は『週刊サンケイ』1977(昭和42)年9月1日号に記録されている。若者が持ち込んだラジカセからは流行歌やロックが大音量で流れていた。船内の騒音は80デシベルを超えた。80デシベルは
・地下鉄や電車の車内 ・ピアノの音
と同程度の大きさである。ポニーテールの若い女性が目立ち、ロマンチックなムードとはかけ離れた賑わいだった。
出会いへの期待感と友人同士の旅行の気楽さ、船での一泊という非日常の興奮が重なり、若者たちは盛り上がっていた。迎える島も単なる鄙びた離島ではなかった。ディスコやビヤガーデンがあり、完全なリゾート地として機能していた。
当時の新島の人口は約2500人(2025年8月時点では2364人)だったが、夏季には10万人の観光客が訪れた。これは夏の短期間に集中したもので、「混雑」という言葉だけでは表現できない賑わいだった。
夜になると若者のテンションはさらに上がり、砂浜では自然発生的に花火が打ち上げられた。観光振興のためではなく、若者たちが勝手に始めたものだった。
砂浜に続く道沿いにはディスコやビヤガーデンに加え、若者向けの店が軒を連ねていた。女性が歩くだけで頻繁に声をかけられる光景は、現代の日本では想像しにくいものだった。
田代まさし『新島の伝説』(画像:エピックレコードジャパン)
1986(昭和61)年にリリースされたシングル『新島の伝説』で、新島の賑わいが再び話題となった。歌ったのは田代まさし。作詞は秋元康、作曲は鈴木雅之という豪華な制作陣が揃った。歌詞は、新島に行けばひと夏のアバンチュールがあり、大人になれるという内容だ。YouTubeでも聞ける。
男女が多く集まるため、出会いのチャンスは豊富だった。インターネットのない時代、口コミや雑誌記事を頼りに若者は想像力を膨らませた。特に高校生は必死にアルバイトに励み、新島を目指した。単なる努力ではなく、親を説得する苦労もあった。
冷静に考えれば、一瞬で恋に落ちる相手と出会うのは難しい。しかし、多くの若者が「もしかしたら」と期待し、必死に挑んだ。現代の冷笑の中でも、かつて熱く燃えた若者たちを誰も笑えない。
新島(画像:写真AC)
かつて新島が若者に人気だった理由は、当時の社会の仕組みや価値観が大きく関わっている。まず、情報技術が十分に発達していなかったことがある。スマートフォンやインターネットがなかったため、情報は口コミや雑誌、口伝えに限られていた。このため、若者の想像力が刺激され、実際よりも魅力的なイメージが広がった。情報があふれる今とは違い、場所の神秘さが人々を引きつけたのだ。
当時の経済は高度成長期の影響を受けており、努力すれば報われるという期待が強かった。高校生でもアルバイトをして新島に行ける「手の届く夢」が存在した。この点は、現在の経済の不安定さや若者の収入減少とは大きく異なる。今は経済的な制約が、若者の自由な移動や旅行への投資を難しくしている。
家族や地域の価値観も異なっていた。かつては親世代も、若者の外出や恋愛に対して比較的寛容だった。そのため、若者は自由に行動し、多様な人間関係を作ることができた。現代は家族構造の変化や都市化の進展で、若者の孤立感が増えている。恋愛や交流の場もオンラインに移り、実際の出会いの場は減っている。ナンパ文化の衰退はその一例である。
交通インフラは発展し、離島へのアクセスはよくなった。しかし、若者の価値観の変化で、多くの人が同じ場所に集まる行動は減っている。多様な余暇の選択肢や消費の変化が、特定の場所に集中する経済効果を小さくしている。このことは地域観光の分散化を促すが、一方で大量集客による経済活性化の持続可能性には疑問も生じている。
これらのことから、新島のかつてのにぎわいは、当時の社会構造や経済状況、価値観、技術環境が重なって起きた現象だとわかる。現代で同じようなブームを作るには、交通や情報インフラだけでなく、若者の経済的安定や自由度、実際の交流の場づくりなど、多くの課題を同時に解決する必要がある。新島の歴史は、社会や経済の変化に対応した地域活性化や若者の価値観の見直しに向けた重要なヒントを与えている。
大島とおる(離島・へき地ライター)
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( 317142 ) 2025/08/18 06:27:26 1 00 新島に関する多様な思い出や体験が語られたコメント欄であり、特に1980年代から1990年代までの若者たちの自由で奔放な旅行体験が多く取り上げられています。
一方で、過去の記憶や冒険に対するノスタルジーと現在の静けさへの寂しさが交錯しており、「昔は良かった」という懐古的な感情が強く表れています。
(まとめ)新島はかつて若者の自由な遊び場であったが、現在の静けさや観光業の衰退に対するノスタルジーが強く、過去の賑わいと今の状況に対する対比がテーマとなっている。 | ( 317144 ) 2025/08/18 06:27:26 0 00 =+=+=+=+=
新島で生まれ育ちました。子供の頃は実家が民宿を営んでおり、多くの観光客で賑わいました。夜も町中は歩けないぐらい発狂する若者でいっぱいでしたね。 島を離れもう何十年と経ち、たまに帰ると夏でも観光客は疎らでひっそりとし、空家も目立ち、あの頃を知ってる者としては寂しいものがありますね。 海や夜空、間々下温泉露天風呂から見る夕陽は年月が経っても変わらず綺麗ですけどね。
▲405 ▼14
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羽伏浦、シークレットポイント、、サーフィンに行きましたが本当に良い波ご来るし景色も綺麗。海ならハワイより断然綺麗です。 ローカルサーファーは夏は街から近い羽伏浦を空けてくれてシークレットでサーフィンしてくれて、逆にマナーの悪いビジターサーファーはやっつけられていました。 三鷹からセスナであっという間ですし今あの頃よりサーフィンが上達したのでこの記事は関係なくまた行きたいといつも思っています。本当に綺麗な島です。海岸にある露天風呂も最高です。
▲57 ▼8
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会社で夏休みに新島に観光に行きたいと話をしたら、年配の経理の女性が新島は「男が男に、女が女になるところよ」って話してくれた。取引先の会社の人(やはり年配者)がその会話を聞いて「俺も新島で男になったんだよね~」って言ってた。昔はみんな新島に行ってたみたい。自分が行った時にはそんなムードは全くなく、ただの静かな観光地になっていた。
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1970年代後半、大学生でサーフィンをやってました。 普段は鵠沼海岸でやってました。 当時の鵠沼海岸は、サーファーもそれほど多くなくいつも自分のペースでやれました。
新島は良い波が来ると聞いていたので、一度はサーフィンをやりに行きたかったが、ナンパ島の評判がすごくて断念しました。
当時、ナンパ島だと喜んで行く人たちは多かったが、それが嫌で行かなかった人もいたのです。
▲33 ▼2
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1984年に市の中学生リーダー研修で新島に行かせて頂きました。 綺麗な海と白い砂浜、砂浜の砂は一粒毎透き通っていて感動したのを覚えています。 当時中学生に配慮されたのか市街地に行く事は許されませんでしたが、それでも素晴らしい体験をさせて頂いた。 是非もう一度行きたい島の1つです。
▲61 ▼2
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世界的に有名なワインの専門家、田崎さんも若い頃には新島のバーでバイトしていてワンナイトな恋に夢中だったとか?当時は高校生や大学生に、誰でもワンナイトな恋に陥いる事が出来ると話題になり、成功例の話題が話題を呼び更に拍車が掛かり男女問わず、島に若者が集まり、また当時は夏季に限り治安を維持する為に大勢の警察官が本土から応援で常駐していて島の海水浴場と山のパトロールが行われる際には若い警官は当然、海水浴場に行きたがりジャンケンで山か浜を決めていたらしい、特に羽伏浦海岸の夜間パトロールは超人気だったとか?その様は民宿を経営するオヤジが「警察官ともあろう人間が、これで良いんかい!」と嘆く程だったとか?そして間も無くサーフィンブームの到来。益々、島は過熱状態。まだ携帯電話もSNSも無かった、そんな時代の話である。
▲47 ▼8
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大学生の頃、新島の旅館で住み込みのアルバイトしてました。 あの頃の新島は島中がお祭り騒ぎで、寝る間もなく遊んでました。 バイトの休みの日は神津島まで出掛けたり。 良い思い出です。
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懐かしいな20代新島仲間がいて毎年 民宿でごろ寝して サーフィンに行くメンバーとシュノーケリングと別れ 夕方 レンタルバイクや民宿の軽トラでサーフィンスポットや泳ぎの仲間乗せてみんなで新島温泉につかりに行く 民宿のおばさんに採って来たトコブシやシッタカ貝を渡して晩御飯に出て貰った 夏の楽しみだった その仲間の1人は今 新島に住んでるそうだ
ものすごいゆうだちに今更 もうビショビショだからと歩いて帰った民宿の窓から やっぱり毎年夏バイトに来てるサーファーのお兄ちゃんが指さして笑い転げて、お互いに笑う 雨の臭い 海の青さ 民宿のおじさんおばさんと冗談を言って笑いまるでしんせきの様に接して貰った 就職を境になかなか集まる事が無くなりその仲間の恋人とも別れて遠い場所になってしまった とても思い出深い島 また いつか新島温泉今はパルテノン温泉となってる様子 そこで夕陽を見たいと思っていたりする
▲6 ▼5
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「ビートたけしのオールナイトニッポン」でも現地からの放送がありました(もちろん録音ですが)。「風紀が乱れてるから、たけしさんと軍団の力で明るく笑いのある所だとアピールしてくれって言われたけど、ダンカンの奴が港でいきなりナンパしてんだもん。本当にやになっちゃうよな。気まずくて気まずくて」と言っていましたね
▲43 ▼2
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80年代の17、18の頃民宿でバイトした。 お盆時期の夜のメインストリートは今では考えられない位、竹下通り位人で溢れかえってた。朝ご飯の仕事して、サーフして、夜ご飯の仕事して、女の子と遊ぶ毎日でパンツ履く暇なかった。それからもよく行ってたけど、10年前位に民宿のおばちゃんが亡くなっちゃってからは行ってないな。ナバーナ、ラボーテ、白砂、がんばるじゃん、日本橋、宮塚山とか懐かしいな。
▲15 ▼6
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新島は私の大学時代の思い出の島。今でも仲の良い仲間5人とナンパに行った。風景とか美味しいものは目的ではない。夜は昼間ナンパした女の子たちと飲んで花火してぶっ飛んだ。夜中は台風が来てて外出禁止だったが、勢いで外出したら柳の木の下に流刑の幽霊も全員で見て、ダッシュで逃げた。今ではスタンドバイミーのようで、私の最高の思い出です。清里も清泉寮とか行ったなぁ。
▲63 ▼19
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当時の新島は知らないのですが、ここ5年ほどで3回訪れました。
珊瑚礁などから形成される白い砂浜、伊豆大島や三宅島とも全然違う絶景の島。 美しさでは、沖縄にも引けを取りません。
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昨冬長野県の上山田温泉に行ったんですが、今では空き店舗ばかりの温泉街も、40年くらい前は行き交う人の肩がぶつかるほどの混み具合だったそうです。 この記事の話がざっくり50年前。上山田温泉のピークが40年前とすると、大体団塊世代ちょっと後の、まだまだ2~30代が多かった時代ですね。 まぁ、技術進化や価値観の変化なんて論じるまでもなく、往時の姿を取り戻すことは無いでしょう。インバウンドで観光公害作るのが関の山ですね。
▲4 ▼0
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今から45年ほど前、20歳の夏1か月民宿でバイトしてました。朝は港までお客さんのお迎え夕方は夕飯の支度、それ以外はほぼフリーで昼間はサーフィン、夜はナンパと楽しかった時代でした。知り合った多くの女性、今どうしてるかな?みんな良いおばあちゃんだろうな!ボクも孫3人のジジイです。
▲52 ▼8
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新島・式根島あたりは今最高の穴場だけどな。 閑散というよりのどか。 海なんかプライベートビーチ状態。 それでいて島ののどかさを感じられて海は沖縄並に美しい。 しかも東京から近くて安い。
▲34 ▼0
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新島ね…30年前に友達と行きました…島の連中の圧力が凄い… 特に若い男達には… サーフィンでも訪れるならローカル地元民の許可なしで入るな?みたいな… 結局5対20人くらいでケンカになって気づいたら島の病院にいましたね… 帰る船乗り場まで確認しに来てたのを覚えてる… その時代は新島や白浜他街が活気付いてた… 今は輩ばかり…海は綺麗だけどね
▲1 ▼1
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あの頃の伊豆諸島は、サブカル雑誌でも盛んに一夏のアバンチュールを謳ってたから、高校生にとっては一生懸命アルバイト、お小遣い貯めて仲間と目指しましたね。で、財力は無く酒も飲めない俺達は夜花火で盛り上がってる中に繰り出して可愛い女の子達をキョロキョロしてたら、横から、ねぇねぇ、君達、僕達早稲田の学生なんだけどさ、と大学生が声を掛けかっさらっていくのを呆然と見送ってた記憶がありますな(笑)
▲2 ▼0
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この記事より少しあとの時代だが、新島ではなく神津島へ遊びに行って、沢山いい思いをした。 当時は普通にナンパ待ちの女の子グループと、声を掛ける男のグループで思惑が一致していた。 海の岩陰で始めるやつもいて、今思うとかなり自由にやっていた。
▲7 ▼0
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神津島には行っことあります。民宿のおじさんにナンパされたらここに連れてきなさい。その人の夕食も作るからと言われた。そんなことはしなかったけど旅行会社の料金設定がえらく安いのはそれでなんだね
▲7 ▼0
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ナンパ島、これ年配の人しか知らないよ。2〜3年前に行ったらすごく景色がキレイで温泉もあってよかった。波が高いから海水浴にはちょっと怖いかも。サーフィン向けだね
▲0 ▼0
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平成元年のJKでした。セブンティーンというファッション雑誌で新島特集があり、ナンパ島とも書いてあったような。。 船旅で夜は海岸で花火とか楽しそうなので行ってみたかったけど、 箱入り娘でしたので、親から全力阻止され夢で終わりました。
▲12 ▼2
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行きの船の中からナンパ合戦は始まってましたね。最盛期には地元青年団の夜廻りなどとトラブルもありそのうちに伊豆諸島の地震や大島の噴火で衰退していったと記憶しています。
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1982年の明星か平凡だったかで新島に行った男性の一言インタビューで『どう見ても野郎(男)のほうが多かった』って書いてあったのを思い出しました。 私ですか?私は地方のイナカモノだったので、遠くの方では賑やかななんだなぁ…と(笑)
▲32 ▼1
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今の若い子には島に行ったら何か楽しい事があるからバイト頑張って行ってみようなんて、あの頃のようなバイタリティーはないんだろうな
▲9 ▼0
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この記事中で、絶対に書くべきことで抜け落ちてる部分がある。 それは、新島•神津•式根へ夏休みに行く連中は不良ばかりだったということ。 ナンパ以外で、ケンカなども多々あった。 そして20歳すぎたら恥ずかしくて行けない。
▲92 ▼27
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新島に清里か 楽しかったなー 思い出は墓場まで持っていきますがね
▲39 ▼7
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今やナンパってしないのですか?相席部屋みたいな居酒屋はあるけど、もう流行らないの?
▲12 ▼6
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今だとナンパは迷惑行為扱いですね
▲47 ▼0
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新島神津島、ちょっと式根島、あの頃は楽しかった
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いまの清里はソーラーパネルだらけです 泣
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懐かしい
▲10 ▼2
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85年の夏、学校の旅行で式根島行ったの思い出した、そこで自分と友人2組のカップルが出来まして自分は彼女と住んでる場所も横浜と茅ヶ崎で遠く無かったので3年程お付き合いしましたね。 民宿のバイト兄さん達はや〇放題みたいでしたよ。それ目的かって感じでした。
▲40 ▼3
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性に奔放な時代でしたね(特に女性)人を喰った様な真赤な口紅を塗りたくり ソバージュやワンレンの髪を振り乱し踊り狂ってた湾岸ディスコ…非常階段の 踊り場で愛を交わし、またフロアで他の男と踊り狂う。 場所が海岸に変わっただけ。砂浜ではあちこちで愛を語り奔放に盛り狂う。
「新島の伝説」はそんな世界観を歌っていた。 「僕に似ているKODOMOがいなけりゃいいけど」…風刺でもありコミック。
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この当時は、ある意味無法地帯だったな。朝砂浜に行けば、ビキニの水着が脱ぎ捨てられていたよ。それも一つや二つで無かったな。懐かしい。還暦越えより
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当時私達3人は民宿でアルバイトしていましたが夏の間は特に忙しく合間をぬってナンパしてサーファーでも何でも無いのに陽に焼けてるだけで地元の若者と勘違いされモテまくりヤリまくりの島でしたなぁ 同じイイ想いした御同輩多かった筈ですよ
▲93 ▼11
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男性だけでなく女性も目的のためだけに集まりやすかったのでしょう。表向きの理由で裏の理由も堂々とできるのでね。
▲24 ▼1
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昔は女性のほうもノリノリで、一晩いくらとか損得無しで欲のままに遊ぶ人も多かったと聞いております。
▲8 ▼0
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ワクチンない時代に若者がヤリまくって、子宮頚がんになった女性の割合まで調べて欲しかった。こんなコタツ記事、ある年齢以上なら誰でも知ってる。
▲0 ▼7
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今の少子化の答えは新島にあると思います 要は性欲が今の若者とは比べられないほどあったと言う事ですね
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単なる誰とでもやれる島と言う若い頃の印象
▲11 ▼0
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日本人のそっち方面は異常過ぎますね
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東京都とは思えない。足の形が(^∀^)
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女がすぐいたせてくれるからでしょ、
▲0 ▼0
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わざわざ遠島までナンパ? 女日照りなんですね ご苦労様です!
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